(23) 燃えるバスティーユ  一九一五年


 批評家の意見によると、私は小説『マタ・ハリ』のなかで戦時中(第一次世界大戦)の
パリをかなりリアリステックに描き出すことに成功したそうである    人間がすべてを体
験して、それを書くとしても、それができるのは一度だけだという視点に立てば、今ここで戦争を描くという同じ試みをくり返すつもりはない。今の私がそれをするためには、たぶん、その時代環境にたいするイメージが欠けているといえよう。
 たとえ読者のみなさんが上記のロマンを読まれようとも、現在のところは、私は一人のズアーヴ人伍長と一人のドイツ人少佐のことについてだけ語りたい。ただ、この二人が出会うには少佐のほうに動機がない。
 私たちの善良なる友アリー・イブン・ゾグルが結核治療のために、おなじみのストラディヴァリとともに、すでにクルト・フォン・ティーッセンが出来の悪い義足の歩行訓練をしていたシャリテの病院ではなく、パリのほかの病院に収容されたというのも、それだって同じく偶然であることに変わりはない。
 それにしても偶然とはなんと興味ぶかいことだろう!
 クルトは小柄なゾエに助けられながら病棟の廊下で最初の歩行訓練をしながら、たとえ
ば、まさに、その結核病棟の前を通りすぎるかもしれない    そのとき、突然、一つの病
室からバイオリンの音が聞こえてくる。クルトは、当然、その音を知っている。やがて彼は自分のバイオリンをズアーヴから買いもどすことになる。
 たしかに人生はときどきこのようなおとぎ話的な偶然の糸を撚りあわせることがある。しかし私のロマンではけっしてそんなことはしない。読者はそんなものにたいしては、豚の鳴き声をまねする競技で、長い衣装の下に本物の豚を隠して競技に加わるローマの競技者にたいするように、軽蔑的な嘲笑を向けるだろうし、もしクルトがパリの真ん中で自分のバイオリンと出会うとしたら、同様の豚の鳴き声になってしまうだろう。
 実際にはそんなふうにはならなかった。だから私は落ち着いて本物の豚の手にゆだねる
ことができる    それのほうが模倣者よりもうまく鳴けるだろう。
 現実には次のようになった。
 ズアーヴ人は名も知らない野戦病院  本当は結核病棟に転用された学校  に収容さ
れた。ここには最も重傷の患者が植民地徴用の兵士であるとないとにかかわらず、例外なしに収容されていた。
 そこには靴のように黒いフランス領コンゴの黒人も、アフリカ原住民もアラブ人との混血も、北アフリカの黒人も、ヨルダン側西岸のベドウィーン人、アンナム人、それにインド・シナの住民たちもいた。彼らの咳は、荒い息や血痰のなかにおぼれようとしているかのようなすさまじい野獣の遠吠えのように響いた。
 この異邦人たちのようにすさまじい咳をすることができるのはゴリラだけだろう。死の宣告、黄熱病がヨーロッパ人を襲ったように、結核菌が彼らの肺を襲ったのだ。これは勝ち目のない戦い、それは細菌の抵抗不能な決定的総攻撃だった。
 医者はこの絶望的な戦いを見たとき、彼らを船に満載して死ぬために祖国へ送り返していた。今は夏の熱気が彼らを助けにきたかのように、空の上で異国の太陽が彼らをあざむこうとしているかのようであった。
 向こうの校庭では水着を着た患者たちがデッキチェアーの上に横たわり、またテラスでは目を閉じて椰子か砂漠を夢想している者がいる。そして彼らの黒い肌をした病んだ体は隅々まで天から降ってくる太陽の光線にさらされていた。
 尼僧たちは黒白のフクロウのように彼らのあいだを歩きまわり、その落ち着きという臘のバリアーの向こうから死にゆく男性たちを注視している。アリー・イブン・ゾグルはバイオリンで単調なモロッコの小歌のメロディーを星に向かってかき鳴らしていた。
 アルジェリアで勤務したことのある軍医中尉だけはこれらの単調な歌を好んでいた。このズアーヴ人にうたうことを禁じなかったのは、たぶんそのせいだろう。そうでなくても、彼はほかの者にたいするよりも熱心に治療にはげんでいた。それはこの患者をもはや手のほどこしようのないものとは見ていなかったからだろう。
 あるとき彼はズアーヴ人のバイオリンをつぶさに検分したことがあった。それは夜勤のとき、疲れて、ちょっとした気紛れからだった。そのバイオリンの美しさは電球の光のなかでさえも光り輝いていた。
 医者は手にもって長いこと表からも裏から眺めてから、ラモーのガヴォットを弾きはじめた。ズアーヴも尼僧たちも無味乾燥な診察室のなかが何となく変ったような感じを受けた。やがて医者は喉頭鏡を額につけてバイオリンの内部を照らした。鏡にははっきりと証票が映った。それはかつてジャコモ小父さんが羊歯の生い茂った四阿で念入りに記したものだった。
「おい、伍長、このバイオリンを売ってくれないか?」
「アリー、感謝します。アリー、このバイオリン、先生にプレゼントします」
「感謝はうるわしいことだが、君からただで受けとるわけにはいかないよ。このバイオリンは、君、三万フランの値打ちがある。私はフレデリック・ド・サント・ブーヴだ。フレデリック・ド・サント・ブーヴは結核にかかった気の毒なズアーヴ人伍長をペテンにかけることなど絶対にしない」
 ズアーヴ人は無言のまま駆けだしていった。なんのために、どこに行ったのか誰にもわからなかった。三分もしないうちに診察室のドア口にふたたび現われた。彼の胸は激しく呼吸にふくらみ、咳をくり返していた。脇の下にはバイオリンのケースをかかえている。ここではじめて、本物の偶然が起こった。
 ズアーヴ人はケースを開け、蓋についているポケットから汚れた羊皮紙を引っぱり出し、ひっくり返して、目を通した。そして最後に人差し指の太い爪先で羊皮紙のある一点を指し示した。
「ほら、ここです!」
 彼は勝ち誇ったようにしわがれた胸声で叫んだ。
 フレデリックは彼の手から羊皮紙を取り、ランプの下で長いあいだその紙に目を通していた。
「コンパラウィット・ガストン・ド・サント−ブーヴ、アンノ・ドミニー・一七八九」
 フレデリックはその名前について、その年代について夢想した。たぶんこのバイオリンf字孔から革命歌がどのように吸い込まれていったかに耳をかたむけ、ガストンが彼の家系のどの枝に属していたのかを考えていたかもしれない。あるいは、この単純なズアーヴ人の頭のなかに、どうしてこの名前がこびりついていたのかをいぶかっていたかもしれない。
 それにしても、そんな習慣はもっていなかったのに、いったいどうして彼の前で二度も自分の名前を口にしたのだろうか?
「運命の軌道は人間には予想もつかないものだ……ということだな」
 彼は口ごもり、やがてズアーヴ人に言った。
「このバイオリンを三万フランで買うことにしよう。君の病気は重い。だからその金で治療をしたまえ。君がここから出られるように、明日、わたしが手配しよう。そうしたら、わたしが君に教える、あるところへ行くんだな。君がよくなるまでには、この戦争もおわるだろう。そうなれば家にも帰れる。君はたくさんの勲章をもっているのを見た。それは
つまり君が勇敢な男だという証拠だ。さあ、今はベッドへ前進だ。そのバイオリンもケー
スもベッドの下にしまっておきたまえ」

 このころシャルテの私たちの友人クルトにうれしいことが起こった。ゾエがクルトに、次の傷病兵の輸送列車で彼が交換されるだろうということを、涙ながらに語ったのである。「だから泣くのかい、かわいい子ちゃん?」
「まだ聞きたい?」
「ぼくはなんにも聞きたかない。ぼくは君と一緒でなければここから動かないよ」
「あたしはフランスの女よ。武器をもたない敵を愛することはできる。でも、その敵と一緒に敵国に行くことはできない。むしろ死んだほうがいいわ」
「死ぬことなんかないよ、ゾエ。ぼくは戦争がおわるまで君と一緒にここにとどまる。家
には急ぐ用事などなにもない。パリ、パリ  ぼくはここが好きだ……。要するに、その
問題はぼくがなんとか片付ける。ぼくはここにとどまるよ、かわいい子ちゃん」
 クルトは捕虜交換列車の席を一人の近衛連隊の盲目の大尉にゆずった。破裂弾の多数の小破片が彼の視力を奪ったのだ。黒メガネをかけた大男はぞっとするほど傷ついた顔を涙でぬらした。クルトの寛大なる善意がそれほどまでに彼を感動させたのだ。
 彼は直接お礼を言うために、クルトの部屋まで車椅子で運んでもらった。盲人は気をつけの姿勢を取り、かかとを打ち合わせ、自己紹介をした。クルトは彼をおどろいて見あげた。盲人の黒いメガネが天にまで届くかに思われたからだ。
 だが、そのメガネが越えることのできない境界を思い出させる。見えざる者の世界と見える者の世界とをはっきりと区切っている。暗黒の太陽の体系と光の太陽の体系とを……。 クルトは得体の知れないものに手を与えるかのように、こわごわと握手の手を差し出した。
「君に喜んでもらえて、ぼくはとてもうれしいよ、戦友。ぼくはむしろそうしたかったん
だ。で……、君を失望させたくはないんだが    これは寛大な犠牲的精神でもなんでもな
いことを言っておかなくてはならない。それにははっきりした理由があるんだ  まあ、
そこには女がからんでいる。ヘヘヘ。ま、犯罪の裏に女ありってとこだ」
 黒メガネの巨人はほほ笑んだ。それは黒メガネのしたの傷だらけの顔の苦い苦い微笑だった。しかし同時にそれは悟りの境地にたっした、哲学的、ブッダの微笑でもあった。
 クルトは彼をもっと見たかったのかもしれない。
「まあ、かけたまえ、戦友。すぐに椅子をもってくる」
 巨人はおぼつかなげな手を自分の前方にさし出して無限の闇をまさぐった。クルトはこの手の動きを二人のあいだに境界を形作るものとはっきり認識した。彼は右手で左の脇の下に松葉杖をあてがい、白い椅子のほうへ不器用によろめくように進んで、その椅子を大尉のほうへ押しやり、あやふやにまさぐる手を取って椅子の背に置いてやった。
「いやあ、ありがとう」
 大尉は礼を言って、椅子の背をつかむと、その椅子を一本の足で立てて回した。それから馬にまたがるようにしてすわった。
 クルトはその様子を痛々しそうに見ていた。そして部屋のなかに二人だけであることを喜んだ。クルトにはそれが白馬のカリカチュアのように見え、騎手の手に手綱さえも見えるような気がした。
「あんたは手と足を片方ずつないんだと聞きましたよ。正直のところ、ぼくはそっちのほうがつらいと思うな」
 クルトはおどろいて巨人を凝視しながら、わが耳を疑った。なんだと、おれがこの男より多くのものを失ったというのはどうゆうことだ? だって、やつは光と同時に、一つの世界全部を失ったんじゃないのか!
「人間ていうのは、しょせん死にだってなれるものさ、戦友。いいかい、ぼくはね、君の
ほうがもっと多くのものを失ったのかと思っていたよ    だが、それにしても……」
「そうだね、もし、誰かがぼくにレボルヴァーを置いていてくれたら、ぼくはその夜のうちに頭に一発ぶちこんでいただろうな。ぼくにとってこんな夜が永遠に続くのだということが、はっきりわかったときには、冷たい汗がどっと吹き出したものだった。ぼくはもう絶対に自分の馬も、犬も、妻も見ることができない。だから……」
 今は、もうクルトはほほ笑んでいた。いったいこの男は何を失ったというんだ? 馬、犬、その後にやっと妻だ。それにしても彼らを軽くたたいたり、なでたり、抱くことだってできるじゃないか。黒い無のなかで彼らの形がつくられ、彼らの毛や皮膚や髪を感じることができる。肩や、ぬれた犬の鼻の頭、固く張ったまるい乳房、ほてった局部。
 それにしても、おれが盲目になったらどんなことが起こるのだろう? 誰がおれに太陽や月や星をもってきてくれるのだ? 虹、空の光、雲、山の尾根は? 色や線は? 音や影のふるえ、水、ガラス、宝石のきらめきは? 炎のゆらめきは? 稲妻のジグザグの閃光は? もし、そんなことになったら、おれ自身でさえ百回も、千回も死んでいただろう。
 大尉は続けた。
「やがて、それでもおれは五体満足に生き残ったじゃないかという、あきらめと、悟りにたっしたよ。ぼくは体をのばしたり、関節をぽきぽき鳴らしたり、筋肉をのばしたりした。すべてはそれぞれの場所にあった。それどころか頭のほうも正常だ。ぼくは鼓動を感じ、女が欲しくなった。ぼくは目や髪、あるいは肌の色はどうでもよかった。肉のしまった、熱い体がほしかった。しかし、まだぼくの馬にさわっていない。家ではぼくの犬が跳びついてくるだろう。母はぼくの頭をなでてくれるだろう。それだって生きる価値はある。家や農園にかんするかぎり、誰かに管理してもらうという必要はない。自分で歩いていけるし、自分で馬にも乗っていける。ぼくはもうそんなことをみんな十分考えた。妹が時勢におくれないように新聞を読んでくれるだろう。どうです、ぼくの言うことに間違っていますか?」
 大尉はクルトのほうに向きなおった。その瞬間、ティーッセンは大尉の黒メガネが回答を迫るように自分の目に向かってまっすぐ飛んできたかのような感じを覚えた。
「みんなまったく君の言う通りだよ、戦友。ぼくたちに残ったものがほんの少しであったとしても、それで満足しろと、神から授かったものなんだからな。ぼくだって、失った片手、片足の代償として何かを受けとったんだ。その何かのおかげで、ぼくは嵐のなかのタンポポの冠毛のように、ここまで吹きとばされてきたんだから。同じことさ、花粉は遠くにある花の雌しべに実をつけさせる。プラタナスの実は葉とともに大地の体内に飛び込んでいく。さあて、戦友、ぼくたちは二人の人間が語り合うことのできることはすべて語り合った。そして、この戦争のなかですべてを納得して敵地で別れを告げよう。ぼくたちはすでに平和条約に署名した。じゃ、お元気で。君は準備をしなくちゃ」
 盲目の巨人は起立した。唇は何か言いたげにふるえていた。おぼつかない手で彼はシャツのポケットをまさぐり名刺入れを取り出して、名刺を一枚、抜き出した。
「すみませんが、ここにわたしの正確な住所が書いてあります。あなたが国にもどられた
ら  わたしとしては、いちばんはやい機会であることを期待していますが  わたしを
訪ねていただきたい。そしてわたしの領地にできるだけ長く滞在してほしい。ぼくたちには語り合うことがもっとあるし、また……、友人になることもできると思う。わたしはあなたにお会いできる名誉を得て、非常にうれしい、少佐殿」
 クルトは受け取った名刺を見ていた。

   侯爵 ハインリッヒ・フォン・シュヴァルツェンベルク大尉
   帝国陸軍重騎兵連隊第二中隊・中隊長
   ホーエンシュヴァンガウ、シュウァーベン

 この名刺を見たとき、クルトはあの羊皮紙の名簿を心のなかに思い浮かべていた。
「コンパラウィット・フュルスト・ヨーゼフ・フォン・ウント・ツー・シュヴァルツェンベルク、一七〇〇年」
「これは奇遇だ」
 クルトは大尉に言った。
「ぼくは一丁のストラディヴァリをもっていた  ぼくの手と足を奪った榴弾がそいつま
で破壊した。そのバイオリンと一緒に数百年のあいだ一枚の羊皮紙も漂泊していたが、ついにモーベージュの要塞で名誉の戦死をとげた。その羊皮紙にはそれまでのバイオリンの所有者の名前がすべて記されてあった。そのなかにジョゼフ・シュヴァルツェンベルクの名前もあったんだ。ぼくの知るかぎりでは、その人物はベネチアの総督だった。その後、クレモナの総督にもなった。ひょっとしたら、この人物は君の一族のオーストリア家系の一人じゃないのかい?」
「いや、そうじゃなくて、同じ家系だよ。しかもぼくはその直系の子孫だ。スペインの継承戦争でぼくの先祖は城を一つ占領した。ぼくの家族の遺産のなかにアマーティが一丁ある。現在のところは、ぼくのものだ。よかったら、そのストラディヴァリのかわりに、君に進呈してもいい。ぼくはどっちみち弾けないんだから。単なるある種の家族の形見のようなものさ。ぼくのところを訪ねてくれたとき、ぼくのその先祖についていろんなことを話してあげるよ。実際、かなり興味ある人物だった」
「そして、ぼくにかんするかぎり、ぼくが長いあいだバイオリンのケースのなかに、その人物が記したものを大事にしまっていたということのほうがさらに興味深い。ぼくはしば
しばその文字を眺めたもんだ  まるで、カササギの足跡みたいに見えた    そして彼が
本当にその字のなかで生き返ったように思ったものさ。しかし、今は、もう一度    ごき
げんよう」
 クルトは盲目の大尉を抱いた。そして大尉はその抱擁にたいして心をこめて抱きかえした。それから彼をドアのところへ導いた。そこには看護士がすでにもどかしそうに待っていた。彼は心のなかで何度も大男のきたねえドイツ野郎と大尉に悪口をあびせていたにち
がいない。そしてクルトはなくなったストラディヴァリのことを痛々しい気持ちで思い出
していた。それは今、彼自身の手のように失われてしまったのだ。
 どっちみち弾こうたって、おれには弾けはしないのだ。せぜいボロンとはじくだけだ。でも、それにしても……、あのバイオリンはおれに忠実ではなかった。それに所有者の名簿までだめにしてしまった。
 おれはあいつをもってくるべきではなかったんだ。彼はベッドの端にすわって思いをめぐらせていた。いったい、こんなばかな話、誰か聞いたことでもあるというのか? こん
な軽率な行為    高価で、それどころかすぐれた出来栄えのバイオリンを、そうとも、す
ぐれた出来栄えだとも、そんなバイオリンを戦場にまでもってくるなんて! おれのやりそうなことだ! 手のつけられないおれのボヘミアン根性だ。まともな人間にはとても考えられないことだ」
 そのころすぐれた出来栄えのストラディヴァリはすでにフレデリック・サント−ブーブの父の手のなかにあった。
「三万フランか、そんな額、この楽器にしてみればものの数でもない」
「お父さん、ちょっと少なすぎましたか?」
「まあそうだろうな、その汚らしいズアーヴにもう一万フランつかませてもよかったかな。お前としては誠実にやったつもりだったんだろうが、ちょっと見誤ったな、フレデリック
    それはお前のせいでもなんでもない。それはわが家の遺伝だ。
 で、そのガストンだが、お前に興味があるかどうかは知らんが、フィリップ小父さんの
曾祖父にあたる人だ。シベリアで亡くなった    その人の奥さんはロシア人だった。フィ
リップ小父さんのお祖父さんは、その女性とフランスにもどってきた。もし、お前が知りたいなら、その物語全部をだな、詳細に、たっぷり聞くことができるぞ。だがそのまえに、あらかじめ警告をしておくが、それはもう文字通り言葉と山のような記録との大洪水をあびることになるぞ」
 ストラディヴァリは聞き耳を立てた。バイオリンがガストンのことを覚えていて、彼を待っていたということは、まったくたしかである。バイオリンは大文字のCをつけたこの人物の運命が、自分をたくましいコノヴァロフ氏のもとに残していったあと、どうなったのかを知りたがっていたことだろう。
 私たちも知っているとおり、このバイオリンと本当にともに生活をした持主は多くない。しかし、ガストンのためにはその小さなトウヒの魂柱は本当に心をはずませたのである。
彼がイヴァノヴォ村の牧師館でかわいい娘のためにバイオリンを弾き、バイオリンもまた
ガストンへの愛を、かの大家ヘンリク・ウィエニャウスキでさえもごくまれにしか出しえ
なかったほどの  そしてゴッビの弟子のウィシュニョウスキ的ご主人様にたいしては絶
対にないことだが    すばらしい声でガストンへの愛を告白したのだ。
 ストラディヴァリはフレデリックと称する父子が非常に気に入った。たぶんそれはガストンの親戚であること、また、たぶん自分に価値にたいして支払われた金が植民地の病気の兵士を健康にしたからかもしれない。
 たとえば、ウィシュニョウスキだったらあわれなアラブ人が息を引き取るまで、鼻をぴくぴくさせながら待ち構えているだろう。もしかしたら死期を早めるのに手をかしたかもしれない。そのあとで、バイオリンを奪っていっただろう。
 そしてこの二人の医師は、植民地勤務の時代につちかった確固たる信念が、当時、身近に接した連中と同じ茶色の肌をしたみじめなズアーヴ野郎にも同情を示すことができたのだ。なぜなら老フレデリックも軍医としてシディ・ベル・アベスからカンボジアにいたるまでの植民地の駐屯地で勤務し、息子と同様に豊かな結婚をしたことは、すぐにも納得することができる。
 そのことが、こんなにも容易にリヨン信託銀行の最寄りの支店から三万フランもの金を引き出すことができた理由である。
 だからバイオリンはほほ笑んでいた。ほら、見てごらん、カルマニョラがなんとうまく
いったことか、豊かな市民がいまや資産家になっている  。ヘヘ「踊ろうよ、カルマニ
ョールを。響けよ、大砲の音」だ、それとも、あのころはどうだったかな。
「ごらん、ジジ、ぼくは君がびっくりするようなものをもっているんだよ」
 ジジは若いフレデリックの妻で、サン・アントワーヌの麦芽工場の所有者の一人娘である。彼女は下手なバイオリニストの手つきでストラディヴァリを取り上げ、ひどい音でドヴォルザークの「ユモレスク」を弾きはじめた。
「本当に、すごいバイオリンだわ。一番いい製品の一つじゃないかしら」
「でも、ジジ、これはね、製品なんてものじゃないんだよ。ストラディヴァリの時代には楽器はまだ大量生産されてはいなかった……ということはともかくとして、つまりね、手作りされていたんだ。それとも、むしろ創造されていたと言ったほうがいいかな。そうな
んだよ、創造されていた  これこそまさにぴったりの表現だ」
「それで、どういう意味、フレデリック?」
「つまり、このバイオリンはね、何と言うか、そのう……、つまり、自分の手で作ったということだ、あの大ストラディヴァリがだよ」
「まあ、なんてこと、あたし気が遠くなりそう。あなた何て言ったの、本物のストラディヴァリ……? 冗談言わないでよ。じゃないと、あたし本当に気絶しちゃうわよ……」
 ジジは小さな叫び声をあげた。それは以前、あるイギリスの海軍将校とデートしたとき、完全にカモフラージュされた一時間貸しの連れ込みホテルの前で一時間前にあげた叫び声とまったく同じだった。
「君は聞いたら笑うだろうよ  これがたったの三万だったなんて」
「ドルで?」
「とんでもない! フランでだよ! ごくごく安い通貨の、みじめなフランでね!」
「おお、神さま! なんてばかなことなんでしょう! あたしのフレデリックがこんなにこすっからい商人になれるなんて、あたしの心に誓って……!」
 ジジはあのイギリス人の抱擁を思い出していた    それは奇妙な、外国人の愛だった。
フレデリックは黒いひげをひねりあげてから、やがて何となく遠の昔に忘れ去った、耳慣れない歌を弾きはじめた。いかなる納得のいく論理的関連性はなかった。
「ダンソン・ラ・カルマニョル、ヴィヴ・ル・ソン……」
「その歌はなんなの? ずいぶん古いんじゃない? でも、かわいらしい歌だわ!」
 ジジはダイアモンドの飾りのついた金のシガレット・ケースを取り出して、金のライターでタバコに火をつけた。
 炎は一瞬、シガレット・ケースの内部を照らした。それをバイオリンだけが見た。バイオリンだけが燃えるパリ・バスティーユ監獄のミニアチュアをそこに認めたのだった。





 
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