第二〇章 最後の訪問者――一六八四年
小説の原理から言えば、私はいま、本書の第一楽章のやや長すぎる第七章の「クレモナのアントニウス.ストラディヴァリウス・一六八一年に製作」と名づけた第一節で一部触
れた件について、すべてを包み隠さずにはっきりと語るべきかもしれない。読者のみなさんがあの日曜日のこと、騎士トスカーノがアントニオ・ストラディヴァリ親方の手にな
る出来たばかりのバイオリンを買った日、そしてジャコモ小父さんが幼いアレッサンドロのために欝蒼と茂ったシダに取りまかれた東屋(あずまや)の壁やテーブルの上に、木炭とチョークで天使や悪魔を描いていたこと、カテリーナのために髄のつまった骨を台所からくすねてきたことなどをまだ覚えておれれるよう期待するのは、作者として少し無理な注文だろうか?
たぶん、みなさん方はジャコモが、祭日用の黒い服を着て、象牙の握りのついた黒檀のステッキをもって玄関の石段の上に現われた父親のシニョーレ・アレッサンドロに、髄の入った骨にありついてカテリーナとともに張出し窓のところで舌鼓を打っている現場を見とがめられたこともお忘れではないだろう。
もしかしてお忘れならば、どうか、あの節を開いてもう一度読み直していただきたい。わたしはこの小さな場面を思い浮かべるとき、ひどく心を打たれるのだ。私はこのような狡滑な方法で、読者のみなさんにも、これほどまでに私の気に入ったエピソードを二度も読まざるをえないようにしたいのだ。
みなさん方も、あのとき以来、当時のクレモナで起こったいろいろな事件について多くの認識を得られたことと思う。そしていま、それをたぶん別の目でご覧になっていることだろう。
私はアントニオ.ストラディヴァリの旅修業の年月と、この章の話とのあいだに起こった事件を再構築することは、みなさん方におまかせしよう。結局のところ、読者もまた作家の仕事に参加しなければならないのだ! だから、私はその期間をあなたがたの想像力にゆだねることにしたい。
いま私は何年間かを飛び越える。そしてたとえ過去にたいするコメントのなかでその何年間かのことについて触れたとしても、すべては完結し、不変のものであると読者に強いるのは間違いであるという前提に立って話を進めたい。
私が、ほんの簡単ななぐり書きを、それどころかある部分を省略してみなさん方の前に提出したのは、あなた方にもこの物語の進行にたいして十分な思索の余地があるように、そして、誰もが、たとえば、こういうふうでもよかったのではないかと発言できるようにまったく意図的にしたことである。
しかし、それにもかかわらず、私は時間や時代に一定のマイル・ストーンを置いている。それは、これらの時代区分によって一応は物語の統一性を保つようにしたいからである。だから、私はいま、アントニオ・ストラディヴァリの師匠ニコロ・アマーティの死のことについて書かなければならない。それはニハ八四年の春のことだった。それはまたあらゆる意味で音楽を愛する一般市民を最高の悲しみに追いやった出来事だった。
私はささやかながら、できるかぎりあなた方の心の目の前にニコロ・アマーティ親方という人物を生き生きと蘇らせようと努力してきた。そして少なくともみなさん方の何人かはたとえ一瞬でも彼の黒い目の知的に輝く視線をそれとも、彼が仕事場から大きな庭
へ、ちょこちょこと活気ある足どりで急いでいく姿や、ブドウ棚やその陰にある石のテーブルのまわりを歩きまわり、庭のなかを通り、苦労しながらブドウ園のなかを登っていったり、馬小屋のなかをのぞき込み、見習いの頭にげんこつをくらわせ、職人の背中をたたき、バイオリンに弦を張り、この年月のあいだにいつしか銀色の髪がふえた愛妻ルクレジア・パリアーリの髪をなでるそんな姿を目の当たりに思い浮かべ、彼の暖かい声を聞くことができることを期待する。
要するに、私は永遠の大シンフォニーから彼の生涯の高貴なメロディーを抜き出してバイオリンの独奏という形で演奏したいのだ。そして彼の生きている姿を目にしてきたあなた方には、ごく自然な結末として、彼の最後の、秘密の訪問者のことも期待しておられるだろうと私は思っている。
なぜなら、結局のところニコロ・アマーティ親方は八十八歳になっていたのだからだ。しかし、ちょっとのあいだ、この秘密の最後の訪問者のところにとどまってみよう。つまり、私がまるで生きているかのようにその訪問者のことをみなさんに紹介できなかったらどうしよう?たとえば生のアンチテーゼとしてではなく、彼の直接的な発展としてそれをとらえたらどうなるか?そうしたら彼にかんして何を見ることができるだろうか?
つまるところ私はまだ彼の最援の訪問者を知らないのだ。そうなると彼がニコロ・アマーティを訪問したとき、私は彼をどう描き出せばいいのだろう?
最後の訪問者死(神)――それは、たぶん、上から長くたれた黒い長衣をつけた幽霊だ。雄鶏の羽根の飾りをつけた放浪者の帽子を耳のへんまで深くかぶり、ただ肩にかついだ長柄の鎌だけが、広い空間の上方に光を放っている。もしかしたら、それは道化の衣装をつけた骸骨だ。その裸の頭蓋骨の上には小さなシルクハット、片側にはご愛嬬に孔雀の羽根を縫いつけている。もしかしたら、それは黙示録の騎士かもしれないし、もしかしたら黒い雲を引きずった無限かもしれない。
あるいは、もしかして、それは無数の怪物の住む海の底かもしれないし、祝福すべき蹟いかもしれない。二つの同じ生は存在しないが、それと同様に、二つの同じ死も存在しない。たしかに誰もが死神を見るとか、見ないとかいうのは、それを信じるか信じないかによる。
ラジオについてあれこれと考えることはできる――しかし死神について考えることはできない。ラジオは人間が発明したものだが、死神は人間がただ発見しただけだ。
存在しないものを作り出すことはできる。たとえ存在していようと存在していまいと、死神を作り出すことはできない。だがそれでも、私たちは全生涯を通じて死について考える。たとえ死神が端的に存在していようと、あるいは存在していないとにかかわらず、私たちは想像のなかで、あるいは思索や予感のなかで死神を創造したがっている。
私たちは死神にかんする行進曲を作曲することができるし、戯曲や詩を書くこともできる。そのくせ、私たちは死神について知っているわけでもなけれぱ、決して見ることもできない。そして私たちがすでに死神を見てしまい、死を体験したとしても、私たちはその死(神)について報告することはできない。
私たちは神を見る。空気のなかに、雲のなかにハープのグリッサンドやパイプ・オルガンの轟音の形で神の声を聞く。神の愛撫も、梶棒の一撃も感じる。朝のそよ風になびき、午後の太陽に緑色に照り映える草の茎、それも神だ。私はそれを確信する。
しかし、干上がり、霜に打たれ、しおれ、色あせ、腐りかけた草の茎は? それは死神か? じゃ、冷たくなり、青ざめた娘の体は? 腹を切り裂かれた猫の死体は? 稲妻の一撃に打ち砕かれた樹木は? いや、それだって神だ。しかもそれだって生だ。
だが、もしそれが死(神)でなければ、私たちは長い一生のあいだ、どうしてこんなに
も死を恐れるのだろう? また、なぜ、あらゆる哲学は死へ帰結するのか? また、なぜ
人間は、古代的すばらしい叙事詩のなかで六歩格で、現代のロマンではシュールレアリスティックな文章で死について書くのだろう?
ニコロ・アマーティを訪れたのは誰だったのか? それが問題だ。
私は銃剣突撃のときに、ドスを手にした酒場での喧嘩で、強風に翻弄される小舟のなかで、手術台のうえで死神と顔つき合わせたことが何度もある。しかし死神はスペイン風邪で高熟にあるときでさえ、私に向かって顔をゆがめて苦笑しただけだったし、蛇のように曲がりくねった山の小道で、シッシッと声を発しただけだった。また、ひげ剃りの錆びた刃に乗って、切除された腫瘍のなかにも忍び込んで、私にそっと近づいてきた。
私はもうずいぶん長いあいだ死とこのようなゲームを戦わせてきた。私は多くの人生を生きてきた。だから私もまた死神を避けうる可能性をもっていたことになる。
私は自分の作品(ロマン)のなかで、ミスター・ジャック・オールドキャッスル老シェークスピアは彼にファルスタッフという名前を与えたがのように酒場の一室で死んでいるのだ。つまり、同じ酒場の部屋のなかで、最初のファウストについての最初のドラマの作者クリストファー・マーローとして死んでいる。
私はまたヒマラヤの山麓の民族の大きな揺藍のなかでも死んでいる。そして揺藍が棺に変わったとき、その朝、みんなは私をシャーンドル・クレーレシ.チョマと呼んでいた。
私はピラミッドの何千年もの影のなかで、さらに後代のプトレマイオスとして、またクレオパトラとして死んでいる。
私は頭の上までかぶせられたシーザーの長衣とともにフォーラムで短剣で二十三回も刺されて血にまみれたこともある。私はある熱病のなかの夢で見たように、アメリカの艦隊の砲撃のにあった軍艦のキャビンのなかで日本の大名として溺れ死んだ。
私はブロードウユーのアスファルトのうえでリンチを受けた黒人のボクシング・チャンピオンのように倒れたこともある。
新しい理念の曙光のときに、フェニキアの射手たちがその弓矢で木にしばりつけた私をローマの百人隊長セバスチアンとして射た。そして私はスパイの嫌疑をかけられたジャヴァの踊子として、ヴィンツヱンネス要塞のなかで銃殺隊の一斉射撃のあと雪の積もった穴のなかに倒れた。彼女の死体はパイロットのいない飛行機が太陽へ運んでいった。
そしてまた私は、冬宮の前でデカブリストとともに絞首刑にされた高貴な心の持主コノヴァロフのことを思い出すだけで十分だろう(本書第七章第一〇節)。
そしていま、骨の手をしたバイオリニストが部屋の隅から私のほうへ近づいてきている。名匠アマーティの最もすぐれた名作を弾いている。そのメロディーがどんなだか、ちょっとだけ耳を傾けていただきたい……。
母親の乳の香り、揺籠のゆれがこの演奏のなかにある。工房のなかの木、地塗りの塗料、ニスの鼻をつく匂い。午援の日に照らされた円形劇場の絵、古いトラッツォ鐘楼の鐘の響き、鳩の羽ばたきの音、山からおりてきた羊飼い女の顔、赤ん坊たちの一言葉にならない声、大きな庭のなかの虫たちの羽のうなり。それにブドウ棚の下のワイン・グラスの素晴らしい光も、正確な位置におかれた魂柱、優雅なf字孔の曲線、上晶な指板頭部の渦巻き、ベアトリーチェの髪の亜麻色の束の金色の輝き、モンティヴェルディとボッティチェリの『春』(プリマヴェラ)、ロンバルディ平原の色のやわらかく波、老年の喜びにみちた秋の光の洪水、そしてそこに吹くそよ風のやさしいささやき。一つだけぬれて輝いている窓、すべてをふくみ込んだおとぎ話、星の頭飾りのあるビロードのようにやわらかい夜……、そのすべてを、骨の手が演奏している。
しかし、みなさん方がそれを恐れることはない。だって、ほら、こうゆうのが最後の訪問者なのだから。
しかし、このメロディーをこんなふうに聞いたのは私だけということもありうる。そしてある人にとってはまったく違ったように聞こえたかもしれない。そして、そのメロディーが最後の訪問者のバイオリンの演奏について何かをつぶやき語ったかどうかは計り知ることのできない問題である。
だから、まさにそれゆえに死について語るべきではないのである。なぜなら私たちは他人の生命を生きることはできるが、各人は自分が自分の死によって死ななければならないのだ。そして八十八歳のバイオリン製作者がこの死という「秘密の訪問者」を受け入れたとき、たぶん彼は、私がいま述べたようなことを何ひとつ聞かなかったかもしれない。
もしかしたら、この両者はまったく別の問題について語り合ったかもしれない。そして
私が確信できることは、二人がバイオリンの声をとおして語ったということである。それにしても、彼としては八十八歳でも不満だったかもしれない。おそらく、彼だからこそ不満だったとも言えるのだ。
彼はもっと完壁なバイオリンを作りたかった。死の床にありながら、彼は新しい形を思いついたのだ。表裏の板の形、表板の厚さ、f字孔の両端の丸、ネックの取りつけと、頭
部の渦巻きのこまかな変更。
しかし、いまとなっては、もはや木を切ることも、それを実行することもできず、また最愛の弟子アントニオ・ストラディヴァリに伝えることもできなかった。そのアントニオはベッドの頭のところに息子や孫たちに混じって立っていた。
しかし、ニコロ・アマーティはその変更のあとに生まれてくる新しい音を聞いていた。物質のないバイオリンの天の調べを聞いていた。すると、いら立ってきた。なぜなら彼は物質を非常に愛していたからだ。彼はいら立ってきた。なぜならわが息子ジロラモは彼が全生涯にわたって物質とのあいだに取り組んできたこの愛の闘争を受け継ぐことができないからだ。
そして彼はいら立った。なぜならベアトリーチェがアントニオの妻にならなかったから、そして彼に孫を産んでくれなかったから……。その子供はアマーティ家とストラディヴァリ家の血を混合することによって、本当の意味でのバイオリンの結晶となりえただろうに。そうして彼はいら立った。なぜなら彼はまだ秋の夕暮れどきにブドウ棚の下で兄のアントニオとワインを飲みたかったからだ。その兄は六年前に彼を裏切って、先に行ってしまったのだ。そしていまはどこか未知の世界で弟を待っていることだろう。
彼はもしかしたら非物質的ハーモニーしか存在しないかもしれない未知の国を前にしてふるえているのかもしれない。そして物質の不協和音を断念しなければならないことが、彼をひどく苦しめているのだろう。たぶん、すでに雲のなかから未知の視線が彼に向けられているのかもしれない。だが、その雲は高いところにあるのではなく、大地の胎内にあるのだ。
また、もしかしたら離別のこの恐ろしい瞬問に宇宙の音楽がこのうえもない完壁さをもって聞こえてきたかもしれない。そして見習い時代にギーギーと弾いていた彼の最初のみじめなバイオリンを一生懸命に思い出そうとしていただろう。なぜなら、この宇宙の音楽はこれらの初期の作品とくらべてどんなだったか、確かめたい思いに駆られたからだ。
ある種の「無」、味もなければ、匂いも、色もない。もし新しいはじまりが、血にぬれた人間のはじまり、痙攣のなかでの誕生、幸福にみちた苦痛のはじまり、痛々しい出産、流れる汗でないとしたら、そのなかには創造の至福の苦悩とそれを培う聖なる火はない。そうなるとこの八十八年という年月はいったい何だったのかということになる。それは葦の葉の上に止まった大きな目のトンボのようにはかない一瞬にすぎなかったのか。
そして心臓をも刺し貫くことのできるドスというのは、春になって母なる大地の地殻を突き破って伸びてくる単なる草の茎のようなもの、また棟の冠は、すでに彼が亡くなったあとに、春に山の斜面で歌をうたいながら子供たちが編むタンポポの花輪なのか。
地獄の苦しみというのは、ポー川が流れ続け、トラッツォ鐘楼の鐘が鳴り続け、かの団子鼻のジャコモ・ストラディヴァリが二千年の歳月をへたローマの円形劇場の廃嘘のなかでペトラルカのソネットを吟じ続け、近くの通りでは子供たちが跳ねまわる。だが老アマーティはすでにその情景をふたたび見ることはないという事実にある。
人間はこの事実とどう折り合いをつけることができるのだろうか?
「いや、できはしない!」
私はこの言葉をあえて千回でもくり返そう。どんな司教も哲学者も嘘をついている。あらゆるバイオリンも嘘をついている。最高に美しいのは生だ。生きること、生きること、生きること……。生きること。汝、目に見えぬ訪問者よ、ここから立ち去ってくれ!
ニコロ・アマーティ親方の口は言葉もなく大きく開いたままだ。血管の浮き出したこめかみに冷たい汗が吹き出している。彼の手は掛布の上を弱々しくまさぐっている。さらに訪問者に頼んでいる。そしてその手からバイオリンを奪い取ろうとする。
「ほら、わたしは病人じゃない。わたしは何ともない。第一、あんたにはわたしを連れ去る権利などないんだ。そのバイオリンを寄越せって。その正確なコピーを作ってやろう。どうかあと一丁だけバイオリンを作らせてくれ。そんなものを作るのにそんなに時間は取らせはしない。ただ、もう一丁だけ。たったのもう一年だけ。一年の四季春、夏、秋、
冬と最後の別れのあいさつをするために。わたしにはその四季と話すことがたくさん
あるのだ。どうか、頼む、死神のミストル。あんたが強力で、無慈悲な親方だということはわかっている。だが、待て、わたしには、どうも……、いいか、あんたが神ではないような気がするのだが?」
彼は恐怖のなかで叫ぼうとした。しかし彼の喉からは何の声も出なかった。顔だけが永遠の苦悩、認識の恐ろしい苦悩にゆがんだだけだった。そしてその瞬間、あるみじめな、無言の叫びのゆえに硬直した。みんなは、彼の心臓が最後の動悸を打ったのだと感じた。
ボナヴェントゥーラ神父は彼の目に触れ、その勤勉だった手を胸の上に組ませた。
「天にまします、われらが主よ、汝の名の祝福されませんことを……」
全員が祈った。ただアントニオだけは別だった。なぜなら、ここではある種の偽善がおこなわれているように感じたからだ。そして未知の訪問者を真正面から見つめた。アントニオはこの訪問者の責任を問いたかった。なぜなら訪問者はアントニオの存在を認め、その瞬間、出ていこうとしているのを見たからだ。
ほかの人びとは祈っていた、ただアントニオだけが空しさのなかにどっぷりと浸っていた。ニコロ・アマーティの慈愛にみちた顔……、その顔はいま絶望にゆがんでいる。それじゃ、ここに横たわっているのはあの目に見えぬ彫刻家の手によるものなのか?
「我らが主、死神よ、汝はたしかにわれわれのなかにある。わたしに答えてくれ!」
誰もが忘れていた音楽時計は十五分を四回知らせてから、ミニアチュアの鐘のかわいらしい鈴の音によって三時間を知らせた。祈りを捧げる人びとは動き、波打っていた。ジロラモは時計の音楽を止めるめに、時計のほうに向かったが、そこに達するよりも早く、時計はスカルラッティの当時流行のメヌェツトを演奏しはじめた。
時計のなかから羊飼いや羊飼いの女が現われて、雪花石膏の柱のまわりをまわりをゆっくりとまわりはじめた。しかし、ボナヴェントゥーラ神父はジロラモの服のすそをっかんだ。
「止めないでおこう、時間も音楽も。父上のためにも止めないほうがよかろう」
誰もが勲い気持ちで、そこから流れ出してきているのが悲痛な音楽ででもあるかのように音楽機械のメヌェットを聞いていた。みんなは花飾りをっけたクリノリンのスカートに麦わら帽子をかぶった羊飼い女と膝までのズボンに、花をつけた長い曲がった杖をもっている羊飼いを見ていた。
アントニオだけが遠くの山の尾根を見つめていたそして飾りたてられた棺の荷台を見た。山の尾根の上にはヤコプ.スタイネルの死体をそして棺の荷台の上には彼の父親アレッサンドロが横たわっていた。このようにしてついに異なった二つの顔が最援の訪問者を受け入れたのである。
熊公のスタイネルについては去年の秋、彼の最後のバイオリンをクレモナにもってきたチロルのキリスト像の彫刻師がアントニオに語ってくれた。山人は語った。
「わたしはあの男を岩場の谷底で見つけたんです。あお向けになって倒れていました。片方の足を曲げ、もう一方の足は長くのばして、両腕を大きく開いて、こぶしをにぎりしめていました。彼の体の下には水が流れていて、その上に横たわっていたので、小さな水の流れの向きをその死体が変えていました。
わたしは彼にまだ息があるかどうかを確かめようとして体をもち上げましたが、その体じゅうに黒い虫がはいまわっていました。わたしは虫どもを払いのけて下の村まで運びました。わたしは彼の死体をクロッツ親方のところに運びました。不幸な運命が彼から奪い取ったことをわたしらは知っていました。
永遠に山のなかを歩きまわり、斧で木をたたいていました。たったの一本だって切り倒したことはないのです。しょっちゅう、わたしどものほうへも足を向けたことがありますが、みんな遠くから彼を避けました。あの男がこわかったのです。うわさでは最後に七丁のバイオリンを作ったそうです。それも何年かまえのことです。
彼の息子が七人の選帝侯の館にそのバイオリンを届けたのです。そして、父の言いつけだからといって、バイオリンの代金を受け取ろうとしなかったそうです。彼はそれを選帝侯に贈呈することを望んでいたのです。そのころ、すでに、頭がおかしくなっていたんです。家族はいまひどい窮乏生活をしいられています。奥さんのアンナさんはそのバイオリンをこのクレモナで売るようにわたしに頼んだのです。もし司教が買ってくれなかったら、わたしはこれをフィレンツェのメディチ家へもち込もうと思っています。
ほれ、これはあの男の最高のバイオリンです。わたしはこれに見合うだけの金を受け取らなければなりません」
こうしてアントニオも彼を見ていた。水の流れのなかに倒れている。その水が彼を水びたしにしている。彼の破れた服の裂け目に黒い虫がはいまわっている。やがてアントニオはジャコモ兄が、ストラディヴァリの古い家の大きな食堂のなかで父を棺台の上に寝かせている様子を眼前に思い浮かべていた。
父はあそこに生前と同じく静かに、威厳をもって横たわっている。彼の顔は苦みをふくんだ搬一本変わってはいなかった。だがそれでも彼が眠っているのではないこと、どこか遠くの推量しがたい未知の土地へと向かっていることは、見る者の誰にも理解できた。
父はこのように棺のなかにあっても威厳があったそれはいかなる人間にも疑念をいだく余地を与えないものだった。彼はたっぷりと化粧粉をふりかけた大きな白い長かつらをかぶって横たわっていたが、その顔は彫刻家がオークの木に彫ったかのようだった。
黒いフロック・コートの三番目のボタン穴には白いカーネーションがさしてある。黒いチョッキの胸元のカットのところにはヴェネチア風レースがほどこされている。膝下までの黒いズボンには白いソックスが続き、靴には重量感のある精巧な銀細工の留め金が鈍い光を放ち、彼の横には象牙の握りの、愛用の黒いステッキも置かれていた。
棺のまわりはいたるところレースの花輪でかざられ、胸の上の手には絹の三角帽がそえられていて、まるで聖セバスチアン通りへ散歩か、「金の輪」酒場ヘワインを二、三杯飲みに出かけようとでもしているかのように見える。
また棺の周囲には布地商同業者組合の記章をつけた六人の若者が名誉ある護衛の役として立っていた。そしてジャコモといえば、そこらあたりをよろよろと歩きまわり、わけのわからない言葉を発していた。
ここ、ニコロ親方のベッドのそばでは、未知の訪問者がまたもや異なる顔をして来ていた。アントニオは空しく問い続けたその訪問者は答えなかった。そのときジャコモはそっと部屋からしのび出した。彼がバイオリンをもってもどってくるまで、誰も彼のことには気づかなかった。
ジャコモは恥じらいぎみに、胸の上に置かれた手の下にそのバイオリンをやさしくさし込んだ……。バイオリンの渦巻きがニコロ親方の顎に蝕れた。
「これは親方の最褒のバイオリンだった」
ジャコモはみんなに言った。みんなは何かを期待していた。バイオリンが鳴りだしはしないかと、少なくとも弦が一本切れはしないと、ニコロ・アマーティが顔をなでるかしないかと……。しかし、そのいずれも起こらなかった。ただ、ボナヴェントゥーラ神父だけが語っていた。
「さて、ニコロ親方はここに横たわっておる。しかし彼がどこへ出ていったか、わしらは誰も知らん。誰かの手がその魂(柱)を奪ったバイオリンがあるだけじゃ。たぶん、あの
骸骨の顔をした卑しきものが、たぶん、木食い虫が、がつがつと食ったのだろう。そのなかで歳月が時を刻む。そして、わしら、地上的な者の目に見えるのは彼が脳溢血で倒れたということだけじゃ。わしは天国や、蘇生については一切口にするのはやめよう。わしは何も言わん。彼はどこか未知の工房に出かけた。そして何か未知の材料で新しいバイオリンを作っておる。たぶん次の八十八年の歳月ののちにも、またもやそこから別の地にさまよい出ることだろう。そしてやがて彼の旅のおわりには輝かしい玉座の前で立ちどまり、彼の最も完壁なバイオリンを取り出して、天国の『春』を演奏することじゃろ
するとそのとき、雲の平原や雲の山の頂には天国の花々が花ひらくにちがいない。それは信じられんことに聞こえるかもしれんが、きっとそうなる。ユキノシタ、スミレ、水仙ヒヤシンス、パンジー、バラ、それに、ヒナゲシ、ブルーベル、ハウチワマメじゃ。そしてニコロがバイオリンを弾くにつれて、玉座や矢車草のまわりも空色に変わっていく。
ユキノシタの花弁の一枚一枚が天使の羽となり、ヒナゲシは地上的生命の赤い喜びと血の結婚を宣言する。やがてヒヤシンスは、カーテンの陰から初恋の男をのぞき見る窓辺の娘たちのことを話す。バラは、幸せな刈り入れなど信じられないというように、春の朝、庭のバラの花を切る陽気な老人たちのうわさ話をする。ハウチワマメは鳥の足跡について語り、ブルーベルは春の夕暮れの厳かな静けさのなかで晩祷の鐘をうち鳴らす。
このすべてがニコロのバイオリンからわき出し、そのすべてが鳴り、色あざやかに、香るのじゃ。そして彼は輝く玉座に憩っておる」
ボナヴェントゥーラ神父はそう言って、このかけがえのないニコロ・アマーティという大世界を抱擁しながら、その手をさすり、白い巻き毛をなでおろしながら、彼に呼びかけたのだった。
「ありがとう、兄弟。汝は我が創造せしすべてをもたらせり」