第十九章 「ハチドリ」酒場の腹 ―― 一九一五
ゴッビは誰かに鼻をはじかれたような気がして目を覚ました。これこそ、彼がしばしば
くり返し見る不愉快な夢だった。彼はパジャマを着てどこかの町の通りの大勢の野次馬のまわりを走っている。そして彼はどこに住んでいるのかわからない。
パジャマは短くて汚れていて、恥ずかしさで体じゅうに冷や汗がたれている。彼は追い払われたシェパードみたいに壁にそって逃げている。人差し指や人の顔の茂みが彼に向かってくる。そして最後に自分がどこに住んでいるのか意識しはじめてくる。連れ込み宿の門が彼を招いてでもいるかのようにゆれている。それは彼のパジャマのように小さく、汚らしかったが、それでも、ほっとして門のなかに飛び込んでいった。
一気に中二階まで駆けあがり、最後には風船のように階段の上を飛んでいった。そして百十七号室のドアに鼻をぶっつけた。その鼻への打撃それが鼻をはじかれたという意識だった。
彼は声を出してあくびをし、目を開けた。赤毛の女がチンチラの毛皮のコートを着て長ソファーのそばに立っている。その背後にはすばらしい色彩の背景があった。ペスタロッチ・ストラッセの雪をかぶった屋根屋根は窓の真珠の輝きのなかに、レースのカーテンを通して反射していた。
一っの屋根の上の赤い煙突は冬の昼下がりの空に煙を吹き、煙はやわらかなオパールのような筋となって、淡いエメラルドの雲にたっし、平行して走る電話線はきらきらと光に映えながら、まるで天の織物の縦糸のようにも見えた。 女は冬の午後に顔を向けてほほ笑んでいた。
「熊さんはいっまで寝てるおつもり?もうひとっクルミちゃんがほしいの? そら、あ
げるわよ!」
彼女のしなやかな指が力いっぱいゴッビの鼻をはじいた。それから彼がうめき声をあげるまで耳をひねった。
「わかった、わかった! わかったって言ったじゃないか。このサディストのめす犬め!」
「あんたの鈍った神経にはこれくらいのことは必要なのよ、わかってるの? もし、あん
たが若くて、強かったら、当然、あたしが脱ぐだけで十分なはずよ・・・・・・。それとも、あんたの背筋をあたしの指先でなでおろすかするだけで・・・・・・ただし、あっちのほうの背筋をね・・・・・・」
「おれには、いっも不思議でしようがないんだが、どうして若い、強いやっを探さんのかね。どうしておれがいっもいっも君の相手をしなきゃならんのだ、どうしていつもいつも、よりによってこのおれを苦しめなければならんのかね、淫乱の女神、君は・・・・・・」
「あたし、また、あんたをぶたなきゃならないのかしらね? 腹ばいにおなりなさい、ナ
マケモノちゃん。あんたがこれを待ちこがれていることはわかってるんだから。さあ、掛布をしたにやるのよ・・・・・・」
黒い手袋をした手のなかで、ゴッビの背中を打つ馬の鞭が風を切って鳴った。それから毛皮のコートを脱ぎすて、頭を通して真珠色のドレスを脱ぎ、さらに、もう一度太ももにひと鞭を加えて、彼の上に倒れ、手袋のまま、鞭を手にしたまま体をゆだねた。
ゴッビは野生のおす豚のようにぜーぜーと荒い息を吐き、おす牛のように鼻を鳴らしてうめいた――やがて部屋のなかは、壁のいたるところに掛けられた作曲家のポートレートや虎の毛皮やS字矛に取りかこまれたなかで、ガラスのような静寂にみたされた。
「どうなの、獣ちゃん、あんたはこんなのを望んでいたんでしょ。あんたにはあたしが必要なのよ」女は大きく息をしていた。
「そんなものなら十マルクでどこででも手に入る。タウェンツィーン・ストラッセでもクルフユールステンダンムでも。そんなことくらいでおれに自慢するのはやめてくれ。おれはクルト・フォン・ティーッセンじゃない。おれは君がこの世でかけがいのない女だなんて、そんなこと、思ってやしない。たかだか十マルクか、五マルクか、ハハハ」
「当然じゃない。だから、あんたいつも、あたしにまるで野獣みたいに襲いかかってくるのよ。いやらしい、汚らしいジューよ、あんたは。あたしにだってわからない、なんであんたなんかとこんなこと……、うじむしのユダヤ人!」
ゴッビは笑った。
「そんなことで、おれにちったあこたえるとでも思っているのか? 鞭はもう使わないの
か? ヘヘ、じゃ、どうしてこんな老いぼれて、よれよれの、くさい匂いのする、汚らし
いユダヤ人のところへ通ってくるんだ?」
「おぼえておいで! あたし、あんたがあたしの愛人だって主人に言うわよ。そしたらバ
ルトリー二の店であんたは犬みたいに撃ち殺されるわよ。あの人だって、老いぼれにはちがいないわ。でも、嫉妬に狂ったら、何をやりだすかわからないんですからね」
「ただし、おれを撃ち殺すってのはどうかな。しかもバルトリー二の店で、そんなことは実際、できはしない!」
「なぜよ?」
「なぜなら、昨日、店を閉めたからさ。どっちにしろ、閉店時間の関係でもうやっていけなかったのさで、爺さんは自分のマカロー二の国へ逃げかえったよ。おれは、今後イタリアとは少々厄介なことになるんじゃないかという気がする」
「厄介って、どんな?」
「ちょっとばかり……、イタリアが三国同盟から身を引こうとしている。わが国を側面から攻撃する気だという話だ少なくとも、そんなことが言われている」
「悪いけど、あたしには興味ないわ」
「おれだってさ」
「でも、うちの馬鹿亭主にあんたを撃ち殺させるまえに、どっちに転ぷかくらいは聞いておいたほうがよさそうね」
「おれは予想屋のセンスはまったくない」
「あたしも同じよ。何かほかのことしましょう。とにかく服を着なさい。アルハンブラ劇場へ行きましょう」
「気でも狂ったのかい、日曜日の午後だぜ?」
「そうよ。普通の公演じゃなくて、芸人たちの練習よ。そりゃ、もうおかしくって、あんた、おなかが痛くなるわよ!」
「どうして、おれが腹痛をおこさなきゃならないんだい? おれをここのままそっとしと
いてくれないか。おれは、家にいるのが一番いいんだ」
「もう、たくさんよ!さあ、着替えして。わかった? 着替えをするのよ!」
黒い手袋のなかで鞭が鳴った。ゴッビはだらしなく笑いながら、シャワーをあびて、服を着ながら、パジャマ姿で走りまわった夢の話をした。そして音楽室からグァダニー二製作のバイオリンをもってきて『ラ・フォリア』の断片を弾きながら、パンなしでぺーストをほおばり、雑然と積み上げた楽譜の塊のなかから折れた葉巻をさがしだした。タバコの巻紙で葉巻の破れをふさいでから火をつけ、窓を開けたそしてやがて出ていった。
女は家の門のところで言った。
「もし、あんたがその毛皮のコートにちゃんとした襟布をつけていると思っているんだとしたら、あんたは思い違いのなかに生きているのよ。その理由は少し汚れているし、それにもうしみになっているわよ」
「そうかい、じゃ、見た目に少しキズがなきにしもあらずという襟をっけた人間と歩くのが、もしかして恥ずかしいというんなら、高価なチンチラさん、悪魔と一緒に地獄へでも行きあがれだ。たとえおれがどんな襟をっけていようが、おれはゴッビ・エーベルハルトだ。いまは、とりあえず友人の哲学者を訪問しよう。きみだって、お愛想に少しばかり微笑を浮かべることくらいできないわけではあるまい?」
彼は通り抜けのアーチの道に入り、金色の縁取りをした小さな皿のなかの黒いポタンを押した。それから階段のほうへ進み、すでにドアが開くのを聞くと、四階までのそのそと上がっていった。
「ハロー、ぼくだ、エーベルハルトだ。ハロー! そう、ぼくだ、リスベット。お父さん
に下に来るように言ってくれないか。お父さんを、ちょっと、そこいらまで連れ出したいんだ。すぐに、来るように。じゃ、あとで!」
門のところまでもどってくると、赤毛の女は消えていた。
勝手にしあがれだ。あいつめ、怒ったな。あんなことはもううんざりだ。あの手の女どもは汚らしい情熱の下水口だ。気違い女め! あんな女は若者にも害毒をおよぼす。クル
トのことを口にするにしても、まるでガキあっかいだ。それに、あいっは、目下のところ、ふん、まあ、死の戦場だ・・・・・・、たしかに、あの下種女は男を一瞬のことにしろ若返らせることができる。あの女の手にかかればオスなんて楽器みたいなもんだ。たしかに・・・・・・、声にならないモノローグがここまで来たとき、階段の上のほうで、グレーネンが彼を迎えにおりてくる重い足音を聞こえた。
「やあ、先生、戦争なき時代からの古き戦友! 今日、君のところは子供の日じゃないか
と心配していたんだが君がひまなので安心した。君をすごいところへ案内しようと思ってね、『アルハンブラ』だ。芸人たちが稽古をしている。公開の総稽古だ。いいアイディアだと思わないかい? それに、もう一人、あの苦虫屋のヴラックも誘おうと思うんだがね、われらがスピノザ信者にもせめて一生に一度くらいは、腹をかかえて笑ってもらいたいからね」
「おい、頼むから、ぼくのジョークを横取りしないでくれよ。ぼくだって、彼がスピノザ像なんてのに夢中になっているときに、同じようなことを言ったんだぜ」
「オー.ケイ。行こう。せいぜい笑いを爆発させるんだな」
「だけどな、芸人たちの稽古で、そんなにおもしろいことをするかどうか疑問だな。どっちにしろ、ぼくには未知の世界だ。それを知らないからって、恥でもあるまい。ま、結局のところ、ぼくたちはお上品なサロン哲学者じゃないからな、ヘヘヘ」
二人は快楽主義者気取りに一頭立ての馬車に乗り込み、ゴッビが葉巻を歯に挟んだまま叫んだ。
「おい、君、アルハンブラだ!」
ボックス・オフィス、楽屋、客席。舞台上ではネットの上方で、真っ赤な衣装をっけ
た二人のスマートな若者と、銀の星を縫いっけた空色のタイツ姿の痩せぎすの周辺地区の娘のアクロバット師が空中を飛び交っている。彼らのテストはうまくゆき、審査員は彼らを仲間の一員に採用した。
ゴッビの隣に水兵の縞のシャツを着たボクサーがすわっていた。グレーネンの隣にはプロ・レスラー、平服を着たカウボーイや、すりがいたし、その後ろの席にはウェスト地区の商売女が二人いた。彼らは演目の一つ一つに大声でけちをつけていた。
「あの娘はもっと空中でテストしなきゃだめだ」とボクサーが言った。「あの娘の体から星がみんなおっこちるまで、振りまわしてやればいいんだ」
レスラー (後列の女たちのほうを向き) どう思うね、あの新入りの子猫は、淑女方?
第一の女おだまり、ルダ。
マネージャー (一列前の席で) 静かにしろ! リハーサルの邪魔だ!
声 (甲高く叫ぶ) 結構なリハーサルだよ! あそこで飛んでいた女を知ってるぞ、モ
アビットで柵のそばをウォークなさっているころからな。
ボクサー しーっ、次の演目だ。
審査員長 (舞台の上で) 音楽道化師ディック・アンド・ケネディー!
大勢の声 おれたちは聞かんぞ! さあ、みんな声をあげろ!
兵士 けしからん! イギリス人の名前じゃないか!
大勢の声 神よ、イギリスに死刑を!
マネージャー 静かに!
ディック (白いオランダ式のすその締まった半ズボン、オウムのグリーン色の寸づま
りのチョッキに、たくさんのブリキ片のひらひらを縫いっけている。頭にはオウムの羽根をっけたシルクハット) アウウウウ! (舞台の上ですべって尻もちをっく。そして膝を動かすたびに、ズボンのなかに入れてあるゴム人形がピューピューと鳴る) オー、オー、エー、ウフ。(ハーモニカとアコーデオンを交互に、突然、演奏をはじめる) ホホホー。
ケネディー (チェックのリボンのっいた赤いスコットランド風ベレー、黒いフロック
コート、テニス・ズボンに部屋履き) ハー、へー、ハロー! (長机を引っ張る。机の上には楽器と二組の長いニッケルメッキをした梯子がのっている)
マネージャー こいつはいけるぞ!
ボクサー へん!
ディック・アンド・ケネディー (気違いじみたテンポで机の上と下とで、尻もちをつ
いたまま滑る、梯子にのってバランスを取り、あらゆる種類の楽器を演奏する。お互いにビンタをくらわし、わめき合う)
観客 (拍手をし、喚声をあげる) ブラヴォー!
第一の女 こんな男なら、あたし尊敬しちゃう。
第二の女 契約するわよ。そしたら、あたしたちなんか見向きもしないわ。
レスラー そんなに悲観するな。やつらがふり向いたらどうする。おまえにあのうちの一人を連れてきてやったら、何かくれるか? 普通の服を着せるともっといい男だぜ。
第一の女 一カ月問、「蜂鳥」(ハチドリ)レストランで、あんたの昼食代もつわ。
ゴッビ あんたの商売はそれで成り立つのか?
レスラー 彼女はあんたにも前払いしやすぜ。鞭をもった娘っこでさあ、失礼ながら、士官さん方はあの手がお好きのようですからな。前線のほうでも、あの女たちのぶんくらい、まだ残ってまさあね。
ゴッビ そいっは悪くないね。舞台のあとはどこに押しかけるのかね、子供たち?
第二の女 「ハチドリ」にいらっしゃい、ハンサムな芸術家先生。
審査員長 次の演目は「アヘンの夢」。演じまするはディーア・ドックス。
舞台の上は闇の支配となった。スポットライトが点灯して、舞台上のあちこちを探し
まわる。やがてライトはディーア・ドックスをっかまえる。それは郊外地区出のやせ細っ
ニン「ノ
た妖精だったが、空中サーカスの女芸人に似ていなくもない。
膝のつけ根のあたりに白い三角形、胸にも二個の三角形が、たぶん紐で結びつけてある
のだろう。ディーア・ドックスの体はどんなふうにでもくねり、スポットニフィトの明り
ともつれ合った。
客席は沈黙したその当時、本当にヌードで踊っていたのはアドレー・ヴィラー二だ
けで、ダンカンは薄いヴェールをまとっていた。だから、このリボンのっいた三角形は衣
装としてはかなり大胆なものだった。
ディーア.ドックスは体を波打たせる。腰の三角形をとめた紐がどこかで切れる誰
かが奇声を発した。シーツと制止する声と笑いと……。ディーアはベリー・ダンスの古典
的動きを試みたが、彼女の腹はゆれるのではなく、ただ上下にぴょこんぴょこんと跳ねる
だけで、三角形は横にずれていた。
突然、スポットの明りの輪から飛び出し、今度は、エロチックな動きをしながらふたた
び明りのなかに現われてきた。それは暗闇のなかで見たら、まさに、そのものずばり、目
下進行中と思わせるような動きだった。
ボクサーお1っと!なんだ、
ツト、フエイド・アウトだ!
こりゃ?みんな、
恥ずかしくないのか?そのスポ
ディーアは舞台の上をはいまわった。観客はわめいた。ディーアはこれを成功だと理解
して、性的興奮の発作のなかで規則的に身を波打たせていた。
舞台の上に色の薄い鼻ひげの部長巡査が登場し、法律の名においてディーアの波打ちと
アヘンの夢の続演を禁じた。観客の一部は賛成し、他の一部は抗議した。びんたが飛び、
数秒間のあいだにアヘン賛成派と慎重派が形成された。
「そのハチドリ酒場というのはどこだ?」
このすごい混乱のなかで、ゴッビは周辺地区の天使ミチにたずねた。
「あたしたちと一緒に来ればいいのよ、どうせ、みんな行くんだから。もし迷子になった
ら、場所はモアビット区よ。エールガーストラッセ、一〇五番地。とにかく、いらっしゃ
い」
部長巡査が客席のなかから客を追い出しているあいだに、ゴッビは唖然としているグレ
ーネンの腕をつかんで外に突き出し、もう一度、きちんとくり返した。
「エールガーストラッセ、一〇五番地、工ールガーストラッセ、一〇五番地。ぼくは自分
では住所が覚えられないんだ。地名も番号も何でもすぐに忘れてしまう。工ールガースト
ラッセ、一〇五。じゃあ、とにかく行こう!」
彼の大きな背中に群衆がぶっっかってきた。出口のところでタクシーをっかまえ、運転
手の耳に怒鳴った。
「エールガーストラッセ、一五、『オウムだ』」
「『ハチドリ』だよ」グレーネンが言った。「『ハチドリ』だ。それに一五じゃなくて、
五五だ」
長いあいだ探しまわったあげくに確認できたのは、番地は一〇五で、店の名は本当に
「ハチドリ」で「オウム」ではなかったということだった。それまでには「コッカトゥー」
という名前まで思い出したが、あまり畏くは続かなかった。レストランの前にきたとき、
番号も鳥の種類もすべてが解決したからだ。
小縞麗なビアー・カウンターのある店のなかに足を踏み入れた瞬間、通人の目には、こ
の店が郊外の労働者向けのありふれた安酒場ナイフで切り裂けそうなくらいタバコの
煙が濃く立ち込め、ビールと貧困の臭気が充満した部屋をそなえた酒場でないことは
すぐにわかった。
むしろ店は静かな小市民の行きっけのレストランのなかにいるような感じさえした。テ
ーブルには防水のクロスが掛けられている仕切られた小部屋のなかには赤い花のっい
たナプキンが色彩をそえている。
ビア・カウンターの部屋では盲目のアコーデオン弾きが演奏し、数人の軍人と、労働者
と思われる老人がたちがいたが、ビールのグラスを前にして、もの静かに語りあっていた。
仕切り小部屋のなかでは三人の女性と役所の職員を思わせる白髪まじりの男性が飲んでい
たし、部屋のすみのほうでは、ずんぐりした鼻メガネの男が赤ワィンをすすっていた。
ゴッビとグレーネンが入ってきたとき、二人に気をとめるものはいなかった。毛皮のコ
・や「・らいほ・つ
ートとソプト・ハットを脱いだが、二人の風来坊は、まったく、自分の芸術家きどりの長
いうしろ髪までも一緒に脱いでしまいたそうに見えた。しかし、そうはいかなかった
ただ暖炉のそばに、ゆったりと腰をおろした。
ゴッビは口ひげをひねり上げ、グレーネンはひねり下ろした。ビールを注文して、やや
失望したかのように、沈黙していた。
「どうも、ここは例の研究にはあまり役にたたんな」
長い沈黙のあとで、哲学者が言った。
「これじゃ、ごく普通の市民酒場じゃないか。こんなことのために、あんなに長いことさ
まよう必要はなかったな。こんなものならウンテン・デン・リンデンでもよかった」
「待てって、どうもくさい。周辺郊外地区の酒場は全然こんなもんじゃない。臭気ふんぶ
んだし、なかじゃ大騒動だ、そこじゃ椅子がこわれたり、ドスがきらめいたりだ」
「そっちに行ったほうがよさそうだぜ。そのほうが、おれにとって何かの役にたつ!」
グレーネンは溜め息をっいた。
「こんな場所で、勉強になるのは……。行こう、そこへ……!」
「待てって、テオ!おれにはどうもここが臭うんだ。うさんくさいという点じゃ、危険
千万なアパッチの穴ぐらよりは、こっちのほうがはるかに上だ。おれたちはタクシーで来
た。タクシーはおれたちがっかまえたのが一台だけだった。ほかの連中はフランドル通り
のどこかだ……、要するに、やっらはまだ来る途中なんだ。ミチとあの水兵野郎と…・・一、
まあ、じきにはっきりする。言っとくけど、おれたちが来たこの場所に間違いない。ちょ
っと、あの店の亭主を見ろよ」
それは顔に傷跡のある、猫背で長身の男だった。片方の目はゴム紐をっけた黒い楕円形
の布でおおわれており、もう一方の目でビール・カウンターの仕切りのドアごしに横目づ
かいに彼らのほうをうかがっていた。
「たぶん、あいつはおれたちのことを私服の刑事だと思っているんだよ。いまじゃもう私
服刑事だってジゴットやニック・ヴィンターのように山高帽をかぶったり、すごい鼻ひげ
をはやして、太いステッキなんかもって歩きゃしない。彼らは芸術家や哲学者の仮面をつ
けてやってくることもできる。または、言うならば国家経済学者に化けることだってでき
る。そしてそのすべてをあの彼の横目づかいの目つきに見ることができる」
「たぶん、本当かもしれん。まあ、葉巻でも吹かして、とりあえず、待つことにするか」
二人はこうして優雅に葉巻をくゆらして時をすごしていた。最後にはとうとう待つこと
にもいらいらしはじめた。それというのも、本来待っているものが、まったく現われてこ
なかったからだ。やっとどこからかミチが現われた。彼女は生まれてこのかた一度も会っ
たことがないような顔をした。
しかし彼らのそばを通りすぎようとするとき、彼女のあとにっいて来るように目配せし
て、壁紙をはった小さなドアから出ていった。彼女がそのドアを開けたとき、一瞬、食器
の打ちあう騒音がもれてきた。
ゴッビは新しい客が来るまで待って、服に気をっけるようにとグレーネンにささやいて
から、誰にも気づかれることなく、しのび出た。そのときドア枠にいやというほど頭をぶ
っつけた。そこは蒸気のたちこめたごく普通のレストランのキッチンであることがわかっ
たが、ちょうどそのとき、聞き慣れた笑い声がゴッビの注意を引きっけた。
「かなり、おでこをなでられたわね!」
ゴッビはわが目を疑った。赤毛の女が皿洗い女のそばに立っている。しかも着ている真
珠色の服は、ペスタロツチストラツセで、今日の午後、脱いだのと同じ物だった。
「なに、ぽかんとしているの?いらっしゃい、あんたは来るべき所に来たのよ」
驚いたゴッビはほとんど喜びを隠すこともできなかった。しかし、何やらわけのわから
ない声を発してから、さも自慢げに言った。
「どうだい、ぼくは決して君を見捨てたりしないぞ!ハハハ。五場からなる『赤毛のフ
ァントム』、主役を演じまするは、かの……」
アーモンド形をした目から発した稲妻がゴッビの唇の上でその女性の名前を打ち砕いた。
唇の真っ赤な筋が二重の線となり、唇は波打ち、歯の白いエナメル質が、強烈な、血に飢
えた残酷さを見せて輝いていた。
やがて唇の波は微笑に変わり、ふくらんだ鼻孔がぴくぴくとふるえ、蛇のような眉の曲
線がヘルメットに似た縁なし帽の下の端にまでのびた。ゴッビはそのすべてをキッチンの
ガス灯のまぶしいほどの明りのなかではっきりと見て、この女を渇望し、しめつけるよう
なふるえる声で言った。
「君、おふざけは止めだ。おれはクルトじゃない。それを忘れないでくれ。ここじゃだめ
だ……、さあ、家に行こう」
「気でも狂ったの、熊ちゃん?あんたは汚らしい、年寄りの熊公よ、ハハハッ。あたし
といらっしゃい、熊のお爺さん。たっぷり飲みましょう、おいでなさいって、あたしのお
うちへ。主人はパリよ。だから、安心していらっしゃい」
彼女は子供のもののような小さな黒い手袋をしたがっちりした手で彼の腕をつかんで、
廊下を通って何やら地下室のなかに連れていった。黒人のウェイターが彼らのためにドア
を開ける。二人はさらに別の回転ドアを通り抜けていった。
赤毛の女の話ではそこは「ハチドリ」の腹のなかだということだった。
「ビアー・カウンターはくちばし、仕切りの小部屋は首、キッチンは喉、廊下は食道、だ
から、ここはおなかよそしてあたしは心臓。どう、わかった?」
「ははあ、そいつはすばらしい!君はつまり、ハチドリの心臓というわけか!そ
いつはいいや!ここからクルトに手紙を書こう、軍事郵便局二二六号、昔のシラノと同
様に、アラスのどこかに寝ているだろう。君が『ハチドリの心臓』と署名するんだ。それ
で君だということがわかるだろう……。しかし、それはまったくナンセンスだ……。それ
にしても、ここは悪くない。それにあの連中はなんだ……!まったく夢のなかみたいな
奇妙な連中だ。生活の底の水族館だL
「そうよ、ゴッビ。あたしはお酒をのむときはグラスの底まで飲みたいわ。あたしは何で
も底にある一滴までほしいのシャンパンだって、男だって、快楽だって、コメディー
だって……。あたしが理解できたでしょう、どう?いま、あなたの友人の哲学者を呼び
にいってくるわ。彼はちょうど喉のところにいるのよ。あたしがもう楽しみにしているの
をわかってくれるわ」
彼女は消えた。ゴツビはアブサンを注文した。
「まだ、ずっと本物のパリものです」
メフィストのような顔をしたウェイターが、サーカスの狂言回しよろしく赤い燕尾服を
さっとひるがえして去っていった。
「あら、あんた、もうここにいるの、素敵な芸術家のおじさま?」ミチはほほ笑み、ゴッ
ビの膝に腰かけた。「あたしたち、みんな、着いたわよ」
本当に、みんな来ていた。ミチの相棒のボクサー、レスラー、芸人たちのマネージャー。
ディック・アンド・ケネディー、空中サーカスの芸人、それどころかアヘンの夢のディー
ア・ドックスまでが顔じゅうしわだらけの得体のしれない男みたいな女と一緒に来ていた。
そこには新兵や将校の軍服を着た軍人もいた。専門家ならそれらの軍服を見て、ありと
あらゆる違いをたとえば肩章の色とは異なる色の軍帽の筋を見て見分けるだろう。
ボクサーのほかにさらに三人の水兵がいた。エレガントな毛皮のコートを着た女が数人、
もちろん彼女らはけっして水兵たちにお似合いではない。けばけばしい色の服を着た街娼
と一つテーブルに未成年の幼い娘が二人すわっていた。
ゴッビは、この集団の全員がお互いに顔見知りであり、この部屋にはカーテンで仕切ら
れた溜まり場といった具合に出たり入ったりする。ほんの短いあいだ隣のテーブルにすわ
り、どこかへ移動するときは二言…言、言葉をかけるために立ち止まる。すべての者があ
ちらこちらに動きまわるが、この溜まり場だけは誰ものぞきこまない。
一っの部屋から鈍い、静かなピアノの音が聞こえてきた。さらに遠いもう一っの部屋か
らはダンス音楽アルゼンチン・タンゴとワン・ステップだ。
「おい、ミチ、君はぼくをここへ連れてきた女性を知っているかい?」
「知らないわけないでしょう」
そしてミチは彼女の名前をまで言った。・
ゴッビは驚いて目をむいた。赤毛の女のような女が二重生活を営んでいるということは、
聞いたことがある。小説のなかでも、そんな二重生活をおくる人間について読んだことも
ある。しかし、正直のところ、そのような生活をまさに彼女がいとなんでいるというのは
へきれき
まさに晴天の露震だった。
「いい、あの人はね上流社会の裕福な奥さんなのよ。でも、あたしたちが必要なの。それ
にウエスト地区にある豪邸からあたしたちのところに通う人はあの人だけじゃないのよ、
言っときますえどね。それにそんなこと、格別、変なことでもないわあたしたちはあ
んな宮殿みたいな家に行きたいわ。そしてあの人たちにはここがお気に入り。おんただっ
てきっと、まだ見たことのない風景が見たいとあこがれるでしょう、どう、違う?たと・
えば北極とか……。そこじゃ、エスキモーたちが北極の光のなかで北極熊に長いナイフを
突き刺しているのよ。するとその北極熊の白い毛皮の上に血が飛び散る。雪のなかにヒナ
ゲシが咲いたみたい」
「雪のなかのヒナゲシ?君はどうやってそれを見ることができるんだ?」
「あたしだって、学校に通っていたことあるのよ。そのときパノラマ写真で見たのよ。そ
こには大きなきいろい北極光があった。先生はそれが何だか説明したわ。そして言ったの、
毛皮をきて、大きなナイフを手にしている茶色の原住民がエスキモーだって」
「そうだよ、ミチ。それはエスキモーだ。君もこのアブサンを飲みなさい」
「あたし、キュラソーのほうがいい。オランダの水兵さんたちが飲んでるわよ。その人た
ちったら、小さな頭と長い柄のついたマホガニー製のパイプをもっていた。スマトラのこ
とをすごく美しく話してくれた。そこでは冬はないんだって」
「そうだよ、ミチ、スマトラでは冬は全然ないんだ」
グレーネンが赤毛の女と一緒にやってきた。■d
!
「君たち、できたら別の仕切りにすわってくれないか」じ
グレーネンはむっとして、先まで進んだ女たちは笑っていた。
「ミチ、教えてくれ、ここのまわりにいる連中はいったい何なんだい?」
「あんたの友だちがここにすわるの、どうしていやなの?あの人、怒らせることないじ
ゃないどっちにしろ、あたしはあんたに話してあげるわよ」
「これのほうがいいんだ。ほら、あの痩せた、のっぼは誰なんだい?」
L?ルい`n
「あんた、まるで刑事みたいな聞き方ね。あの人は雄鶏マックスよ。雄鶏に闘い方教える
の。そしてすごく高く売りっけるのよ。やっぱり女ももっている。郊外地区の未成年の娘
なんだけど、悪党のじじいたちにどっかの柵のかげで処女を奪われたのね。あんた、そん
なの好き?マックスに口きいてあげるわよL
「あいつには何も言うな。おれはそんなの、好きじゃない。君のほうがいい。しかし、君
はあの連中についてみんな話してくれなくちゃ」
「みんなだって?ハハハ、どうしてあの連中のことをみんな知ってるのよ?千万分の
一だって知りゃしないわ。たとえば、あたしのこと、誰か、全部知ってるかしら?それ
とも、あんたのこと?ね、違う?」
ゴッビは娘の目の奥底をのぞき込むようにじっと見っめた。すでに三杯目のアブサンを
注文していた。そして坂道の上に立ったような気分を覚えていた。まず最初にそこからす
べり降り、やがて倒れ、最後には猛スピードで突進していくだろう。この気分はゴッビ幸
福感で満たした。
ここの場所とくらべれば、バルトリー二の店は小市民的な安酒場であり、気違いどもの
監獄だという感じがしたそれにたいして、ここはすべてが水銀のように不安定にゆれ
動いている。
まばたき一つするだけで、人間は落下したり上昇したりすることができる。娘たちの口
からは宇宙の光が放射し、水兵たちは彼女らに異国の港での愛のらんちき騒ぎについて講
釈している。いらくさの茂みのなかを裸の体がちらちらと駆け抜ける。家畜の囲いの柵の
そばの堆肥置き場やごみ捨て場の上方を楽園の烏たちが飛んでいる。下の方からはパイロ
ットたちが飛び立とうとしている。
マルヌ川の戦場ではパリのアブサンが勝利を得ようと突進してくる。ここでは出来そこ
ないのイカルスのように空中サーカスの芸人たちがサーカスの円形の広場のなかに墜落し
て、血にぬれた真っ赤なぼろ布に変っている。
ここでは仕切り小部屋の汚れを隠すカヴァーに誰もさわらない。これがハチドリの腹の
なかだ。そして彼女、彼女はもちろんハチドリの心臓だ。ここからクルトに手紙を書くべ
きかもしれない。
ところで、私はこの章ではこれまでゴッビのことにっいてずっと語ってきた。読者のみ
なさんはむしろハチドリの「腹のなか」に現われるなど、普通ならとても考えられない哲
学者が、いままさに半分に仕切られた小部屋のなかでハチドリの「心臓」と向かい合って
すわっているという事実にもっと興味をそそられたとしても不思議ではないだろう。
テオドール・グレーネンは黙っていた。この女こそ、ウィシュニョウスキやヴラックが
クルトニァィーツセンやゴッビ、その他などと語り合っていた例の赤毛の女だなと、漢然
とながら当りをつけた。
彼女は世の中のことはなんでもっているくせに、そのような気配などおくびにも出さず、
しかも妙に謎をめいたところをもっている。だから、グレーネンとしては、余計なことた
ずねなどして噺笑を招くよりは、だんまりを決め込むにしくはないとの結論にたっしたの
。こつこo
+ハ4ハ
そんなわけで彼はすわったまま、年をとった禿の野雁のように辛抱づよく待っていた。
そのうち地獄の使いみたいな顔をしたサーカスの燕尾服の男に紅茶を注文した。
「あなた、いま、どうやら怒っていらっしゃるみたいね。だってゴッビさんは自分だけあ
の娘と一緒にいたいみたいだから。あなたはゴッビさんとは、わたしよりずっと以前から
お知り合いなんでしょう?それなのに、あなたはゴッビさんのことがまだ理解できない
みたいですね。あの人にとって、あんな街の娘がすごく貴重なことなのね。それでいて大
勢の似たような娘とかんばしからぬ風評をたてられることはしょっちゅうなのよ。その説
明は簡単だわゴッビは男のヒステリーなのよ。あの赤ん坊の熊ちゃんのことをあまり
まじめに考えちゃ損するわよ」
グレーネンの表情は生気を取りもどした。彼は頭のてっぺんの円形の禿を取り巻くよう
に生えている長い絹のような髪をかき上げて、ユダヤ人特有の鉤鼻にかけた鼻メガネをか
けなおし、葉巻に火をつけ、紅茶をすすり、目の下に大きなくぼみが出来るほど、ほほ笑
んだ。
「いやあ、奥さん、これは傑作だ赤ん坊の熊ちゃんですか!あなたは分析をより完
壁に表現することがおできにならないようですな。彼は赤ん坊の熊ちゃんであると同時に、
本物のヒステリーなのです。わたしは……まあ、彼のことを怒ってはいません……とくに、
こんなような場合には……」
ここで彼は何かが喉に引っかかったみたいにつばを飲み込んだ。それから、やっとのこ
とで、さびっいた鍵穴から若者っぽい態勲な言葉がもれ出てきた。
「とくに、こんな場合、ハッ、フム、ウッフン、つまりこのように魅力的な同席者を、わ
たくしのもとに置いていってくれた場合には……です」
すり切れた手回しオルガンがきしむようなこんな歯の浮きそうな、陳腐な世辞を聞いた
ら、普通の女なら吹き出すところだろうが、この女は反対にいたく感動し、ほとんど目に
涙を浮かべんばかりだった。
亨「
読者のみなさん方は、これは性格的に首尾一貫性がない、それどころか小説作法上の矛
サ!卜
盾だと考えられるかもしれない。しかし私は、彼女は感動したと主張したい。そして願わ
くば、そのことを信じていただきたものである。
要するの、この女もっとも狡猪な雄どもを手玉に取り、戦時下のベルリンの暗黒街
においてさえ、最高に幻想的な夜の影にとりまかれている女が、金縁の鼻メガネの奥
で近視の目をパチクリさせているサロン哲学者の子供っぽい茶色の瞳をいま突然のぞき込
み、愛をもって彼を見っめ、真の愛情をもってそのはげっっある頭を、頬のコミカルなえ
くぼを、たれ下がった鼻ひげを、下唇の下のひげを見つめ、無意識にやや奥に引き気味の、
二重顎を眺め、黒いチュールの蝶ネクタイ、絹の縁どりをした少しくたびれたビロードの
ジャケット、ぴくりとも動かない指輪をはめた手、本にうずもれ、かびの匂いのしみ込ん
だ本の虫、そして因果律の最後の鎖をまさぐり、身をふるわせながら「われわれは、目下、
言及しがたきところにある」と絶望的につぶやいている夢想家の全体像に見とれていた。
彼女はためっすがめっして、ポクサーやひも、盗人やっっもたせ、ホモや淫乱な娼婦な
どよりは、この哲学者のほうがおもしろそうだし、不作法だが、魅惑的だなと判定をくだ
つむ
した。彼の顔はなんとなくコミカルだし、思想という衣装のまだ紡がれてもいない繊維の
塊のような感じである。
いま、この現実ばなれをしたフクロウの仮面をはぎ、これまでのところは十巻からなる
膨大な著作の原始林のなかでホーホーと鳴いているにすぎないフクロウの服を脱がして裸
にしてみたくなった。
あるいは、彼の本を焼いてしまい、その灰をかきまわし、この高尚な精神の持主を金縁
の鼻メガネをかけた裸の姿にして、いらくさの茎で鞭打ち、黒い手袋をした手でなでてや
るか、涙を注いでやるかしたらどうだろうと、いたくいたずら心をそそのかされた。
もし彼女自身がこのことを自分では意識しなかったとしても、私にはそのことを保証で
きる。なぜなら、私は彼女を知っているし、彼女を愛していたし、彼女のことでしばしば
心をわずらわせたことがあるからだ。
グレーネンはそのあいだに自分の紅茶を飲み干し、ふるえる手でカップを置いた。たぶ
ん彼はレンヘンのフランネルのスラックスのことか、リスベットの厚地のウールのストッ
キングのことを考えていたのだろう。なぜなら彼は非常に憂欝そうな顔をしていたからだ。
そしてテーブルの下で丸い膝が小刻みにふるえるのがズボンを通して見えるのにばっの悪
さを覚えて、年がいもなく、少年のように顔を赤らめた。
「そのお茶はすごく勲かったんじゃありませんの?」
女は笑わなかった。ただ、じっと彼を見っめ、さらにいっそう彼のほうに身を寄せてき
た。彼女はこの人物に膝を押しっけたかった。彼女の遊びはいっもとは違っていた。いま
彼女もまたこの遊びの渦のなかにどっぷりひたっていた。
「あたし、あなたをおもしろい場所にご案内いたしましたのかしら、どうお?」
「私たちをここへ案内してくださったのは、あなただったのですか、奥さん?正直のと
ころ、どうやってここに来たのか自分でもわからないのです。なにかの風の吹きまわしで、
ゴッビがわたしをここに連れてきたと思っていました」
「そして、そのゴッビさんをここへ吹きよせたのも、わたくしですわその嵐というの
はわたしだったのです。わたしたち一緒に「アルハンブラ」へ出かけましたのよ。そした
ら、あの人はあなたに声をかけるためにペスタロッチストラッセに
彼は大きな身振りをまじえて、これまでの自分の三つの冒険乞食への変装について、
アフリカ学術探検のかわりにマルセイユの娼家への滞在、ミッテンヴァルトのバイオリン
製作者の工房への潜伏について語りはじめた。
彼はそれらの話を、さも冒険の大ジャングルのなかから、偶然手に触れた花を摘んでさ
eやかな花束に仕上げたにすぎないかのように話したが、赤毛の女はそれらの三っのっっ
ましやかな冒険が、無味乾燥なこの人物の生活のなかの体験のすべてであることを見抜い
」いた。そしてこの上もない哀れさをこの男にたいして感じた。
「ゴッビさんはあなたの人形のことを話してくれたことがありますけど、むしろ、そちら
〃ことを話してくださいません?」
グレーネンは頭のてっぺんまで赤くなった。それは彼の心臓にハンマーの一撃をくちっ
1』かのようだった。
「まあ、いずれそのうちに、その機会がありましたら、そしてぼくたち……、別の機会に
鳳くたちがまたお会いしたとき、そのときに人形たちについてはお話しすることにしまし
{う。それとも……むしろぼくの家においでください。そうするとその人形たちをご覧に
はることもできます。ある瞬間にはわたし自身よりも、もっと多くのことを、その時代全
伜にわたって語ることができますよ。もちろん、その瞬間を人間は待ち構えていなければ
はりませんけどね。いまは……むしろ、奥さん、あなたがその人形たちのことについて、
」こでぼくに話してください。あの連中について……L
「あの連中のことにっいて話すことはできません。彼らと話すべきです。ほんの瞬間のう
っに、そのことをわからせてくれますわよ、まるで……人形みたいに簡潔に……。でも、
〈間はその瞬間を待ち構えていなければなりません……。そうしたら……」
カーテンを押し分けてカジミェシュ・ウィシュニョウスキが通りすぎた。軍服にはパィ
ーツトの記章をっけていた。肩章にはニクローム・メッキをした小さな飛行機がっいてお
ソ、右腕にはFの文字があった。目には片メガネをかけている。グレーネンは舞台衣装の
{うなけばけばしい服を着た彼をかろうじて認めることができた。
「あたし、あの方とバルトリー二の店でもうお会いしたような気がするわ」女が言った。
「汚いシャツに、ぼさぼさの頭をして、片メガネはなかったけど」
「そうです。あそこに毎日のように行っていました。ゴッビの弟子です。ご存じじゃあり
ませんか?」
「ぼんやり、思い出したわ。たしかポーランド人の名前でしたね。まあ、この戦争ったら
リんなの髪をきれいにするのね!そうじゃありません?」
カジミェシュはもどってきて、グレーネンを見っめた。あまりの驚きにモノクルはいま
-)、Dつ,'')二-'),・、⊥'っ^』ら-ノ7-斤ゴ}己-≠ヨ十““「』ノ7、'・キ“ヒトっ^』」k.フ、⊥'日■、冬百只』ド一'),r(“\
た。
「なんだい、君がここにいるとは。君をみていると、ぼくたちはオペレッタのなかの人物
になったような気がして、お互いに聞いてまわりたいくらいだよ、え、カシミエシュ君」
ウィシュニョウスキは軍人らしく靴のかかとをかちっと合わせて、深々と上体をかがめ、
彼のほうにさしのべ・の黒い手袋の隙間にキスをした。それからグレーネンに
あいさっした。
「もし、お許し願えますならぱ、ほんの数分間、あなた方の仲問に入れていただいて、こ
こにすわってもよろしいでしょうか……、それほど長くはおじゃまいたしません……。い
ずれにしろ夜明けまでには、テンペルホーフ飛行場に行かなければなりませんのでそ
れと、小部屋の一つにわたしは先生を見かけました。そしてもう一つにはあなた方です。
そんなこと、わたしは思ってもみませんでしたよ…」
「ちょっとしゃべりすぎよ、お若い軍人さん」赤毛の女がぶしっけにさえぎった。「ここ
はまったくいいところよ。別に恥じる必要はないわここに一度でも来た人は、きっと
常連になるわ、本当よ。誰があなたをここに連れてきたの?あなたが雄鶏のマックスと
だべっていたの知ってるわ。誰か女の子がほしいんじゃないの、ちがう?」
「そのことでなら雄鶏のマックスを会う必要はありません。ここで自分で見つけることが
できます」
みんなは黙った。カジミエシュは出て行きたかったが、それでもとどまった。まるで錨
をおろしたかのようであった。実をと言うと、彼には、ここにいるものは誰もが錨につな
がれているように、また、誰もが水藻のいっぱいに生えた沼地に足を取られているように
思われた。そしていま、みんなが濁った水のなかの錨の鎖の端でゆらゆらゆれているのだ、
右に左にゆれながら、前のほうに動こうとしている。
彼は解放されたかった。彼はヴエルモットを注文し、それから飛行について話していた.
彼の言葉から空に飛び立った人間の最初の輸郭がぼんやりと浮かびあがってきた。
「そう、飛ぶんです。それは言うに言われぬ幸福感ですよ、ヘヘヘ。ぼくは以前にも飛ん
でいたのです。バイオリンに乗って。バイオリンに乗っても人間には羽が生えます。早い
パッセージのときにも人間は飛びますが、すぐに落ちます。トレモロやトリルのときには
飛び上がり、はばたきます。それがまさにその通りなのかどうか、ぼくにもわかりません^
宇宙的空間!
そして、いま、ぼくは本当の空間を航行しています。急降下します。そして鳥のように
上方へ駆けあがります。ときには上空でバイオリンの音を聞きます。それから、ぼくの機
械の鳥がぼくの下の方の雲に投げかける影に注目します。すべては変化します。かつてぼ
くは天の奇跡のような雲のうつろいやすい表情を何度となく見ていました。いま、ぼくは
それよりももっと高いところに到達し、雲を眼下に親密な気持ちをもって見下ろし、その
雲の背中に影を落とすのです。
ぼくは町々がいかに上のほうに飛びあがろうとしているかを見ながら微笑するだけです。
ぼくの下の雲の海の底に町々は縮こまっていました。そしてそれらがごく普通の地図にな
るのです。空を飛んだことのない人は地面にはりっけられたアメiバです。すべてを側面
からしか知りません。飛んだことのある人は物事の真の表情を認識します。
地平線は無限となり、平野はゆがみ、画法幾何学で見るように渦を巻きます。星々は平
野とともに動き、その兄弟となります。宇宙は人間を理解し、速度と蝶々のはばたきとい
うある種の宇宙の光を解放します。
先生、明日の朝、ぼくと一緒にテンペルホーフヘいらっしゃい、ぼくと一緒に飛べます
よ。ご自分のすべての著作を否定されますよ。ほんの一時間のうちにすべてが変わります
よ。ぼくはもうバイオリンを弾けません。完全に忘れてしまいましたL
彼らは飲んだ。ヴェルモット、アブサン、キュラソー、そのあとリューデスハイム・ワ
イン、それからヘンケル.トロッケン。彼らは最初の飛行のために準備をした。朝、テン
ペルホーフ飛行場の格納庫へ、やがて上空へ。ゴッビも興奮した。そうとも、飛ぶんだ、
飛ぶんだ!
そして夜明けが来たとき、彼らはぼんやりした頭でよろめきながら家へたどりっき、気
を失ってベッドのなかに倒れ込んだ。
カジミェシュは十日間の外出禁止の処分をくらった。