(16) 楽しい夜のコンサートとマントヴァでの悲しい出会い

一九一四年、一六六八年 ―― 一六七一年     


 カシミェシュ・ウィシュニョウスキがどのようにして哲学者テオドール・グレーネンの 住居を訪ねることになったかについては、私にもはっきりしたことはわからない。はじめ て彼をグレーネンのもとに伴ったのは、たぶん、彫刻家のヴラックだったのかもしれない。 しかし、また、われらがゴッビだということも、まったくないとは言いきれない。
 だが、いずれにもせよ、洋梨の頭をした予言者はカジミェシュを信頼し、自分の主著『哲学原論』における思想の展開を順序だてて講義した。そしてカジミェシュがグレーネンの重要な弟子として認められるようになったとき、グレーネンはニコチン抜きの、なんの味も香りもない特製の葉巻でもてなし、レンヘンにはブリュームヘン・コーヒーを出すように命じた。
 それだけではない。これまでのところゴッビでさえまったく知らない、謎につつまれた ミッテンヴァルト地方へのグレーネンの旅行にっいても、カシミェシュには語った。話がそこにまでおよんだのは、カシミェシュが古いバイオリンの秘密について語りはじめたとき、古いバイオリンには、たいがい何らかの秘密がこめられていると言われているが、哲学者グレーネン先生のご意見ではどうかとたずねたことがきっかけだった。
「ぼくには先生が、いったいいつバイオリンにかんする研究をされたのかは存じませんが」とカジミェシュはやや高慢に言った。「きっとバイオリンの神秘性については、なまじの専門家よりは多くのことをご存じでしょう。大部分の人が二つの問題について言います――木の質とニスについてです。木材については、ストラジバリの時代にはまだ原始林が残っていたこと、そして古い木の樹液はまだ純粋で、年輪にしてもが新しい木材の場合よりも十分に成熟していたと言われています。
 現代ではすでに原始林はありません。バイオリン製作者は古い木や壊れた館の梁や昔か ら残っていた説教壇や使い古された家具などを探しています。とくに珍重されるのは、で きればの話ですが、ベッドに使用された木材です。
 ヤコプ・スタイネルでさえ、記録によれば、最も有名な楽器としては七丁――いわゆる 『エレクトール・ガイゲン』というものですが――完成していますが、それはある破壊さ れた祭壇から作ったものだそうです。ですから、スタイネルでさえすでに古い材料の木には苦労していたのです。
 話では、彼は適当な幹を切り出すことができないかぎり、一日じゅう深い山のなかを探しまわったそうです。また嵐で吹き倒された木や、雷に引き裂かれた木さえも――そのようにして何十年も死んだまま地面に横たわっていた木をです――じっくり調べたそうです。
 このことは確かです。かつて羊飼いであり、きこりでもあったこの山人はほかの誰よりも木については詳しかったということです。でも、彼のことについて、私たちが何を知っているというのです?」
「そうだよ、君、全体としては何も知らない! どこかのユダヤ人が彼からすべてのもの を奪い、ブリクセン (ブレッサノーネ) のエズイット派が彼を捕らえて投獄し、道徳的に 彼を抹殺した。そのため、彼はその後、発狂した。わかるのはそれだけだ。それからニスのほうはどうした?」
「ガスパロ・ダ・サロー、アマーティ家、そのほかブレッシア、クレモナ、チロルもふく めて、彼らはまだ現代の化学的知識を駆使することはできませんでした。彼らの道具も原始的であり、ノミやヤスリ、荒っぽい砥石などを使って仕事をしていました――現代のバイオリン製作者たちはすごく小さなカンナも使っています。彼らには化学の知識こそありませんでしたが、自然からの授かりものを最大限に利用する才覚はありました。いったいどうして、今日、誰もストラジバリの金茶色、スタイネルの赤黄色、アマーティのタバコの黄土色、グァルネリのチョコレート色と肉桂色が出せないのでしょう? これらの有名なイタリアのニス、この秘密はスタイネルにさえも明かされなかったのです!
 ところが、どこかの化学企業は何百という種類の色調に微妙な差のある塗料やニスの色の一覧表を提供しています。それでも、あの色のなかには何かちがったものが隠されているのです。そのことについて、先生、ぜひお答えください」  グレーネンは白いものがさらに増えてきて、さらにまばらになってきた芸術家的後髪を なでおろし、やや伸びすぎた口ひげの端をひねりながら、何かっぶやいた。
 彼自身の哲学的著作のなかでなら、このとき、彼は「目下のところ、その問題について、 われわれは言及するところにいない」と言ったことだろう。つまり、この言葉は論理が形 而上学の限界に突き当たったときは、いつも使用される常套句である。 しかしカジミェシュにたいしては、彼のミッテンヴァルトの旅にっいて、山の巨人につ いて、人間の運命について、孤独と深山の奥に降り注ぐ星々について、キリスト像を彫る 人びとについて、そのほかアントニオのチロル放浪に同伴するまでは、私たちでさえおど ろかずにはいられないようなことについて語ったのだった。
 しかし、とりあえずは、グレーネンが木やニスについて否定し、時代精神としての人間 の運命の総括を述べたというところまでにとどめておこう。
 最後に彼は「天才は天使、鳥、あるいは蝶……に似て、時代を越えて飛翔する。だから まさにこの方法によってロンバルディア平野から、チロルの山から、バイオリン製作者の 時代精神も飛び立ったのだ」と言うのである。
 私たちはグレiネンの説が正しいかどうか見てみよう。一つだけたしかなことは、つま り、彼の旅、かの地の工房に入りびたっていたことについて、おおいに美化してカジミエ シュに語ったということ。それともう一つ、その話のおわりに、質問を提示したということである。
「はたして、われわれは他人の肉体のなかに生きることが可能であろうか? いったいど のようにして、われわれはジャコモ・ストラジヴァリの言葉を聞くことができるのか? その内容はもしかしてすべて彼の弟アントニオのバイオリンのなかで響いているのだろう か? ジャコモがあとに残したものは、黄色く変色した出生証明書に記された名前だけ、生年月日だけなのか? アントニオが生まれた春の朝、彼が弟に話しかけた言葉を聞くこ とができるだろうか?」
 さてと――私ならグレーネンに「そうとも、その言葉を聞くことができる」と答える。 私たちはインドの苦行僧になることだってできる。彼らは一日に二時間か三時問、エクス タシー状態に入ることができ、その状態のなかでジャコモの言葉や、アントニオの最初の バイオリンの音を聞くことさえできるのだ。
 それはいつであれ、神秘主義の感応を通して作用する。しかし現代ということになると どうだろう?いま、ここで私の頭上には部屋の天井があり、その上には屋根裏部屋と屋根があり、その屋根の上にはアンテナがある。
 この鉄片はウエストミンスターの大時計が時を打つのを強いる。モスクワのイヴァン大 帝の鐘の響きが私の部屋にはいり込んでくる。もしそうだとすると、このような鉄片と私 の心との違いは何なのだろう? 私の魂のアンテナはどうして何百年かの空間をとおして ジャコモの声をとらえることができないのだろう? アントニオの最初のバイオリンの産 声を? ピェトロ・グァルネリがアントニオから横取りしたベアトリーチヱのキスや大乳 のバルバラの手慣れた抱擁を? 
 テオドール・グレーネンよ、 聞け!そして、おまえもだ、カジみエシュ.ウィシュニ ョウスキ、ジャコモはいま弟のアントニオと古い様式の家の庭のなかのローマ風東屋のそ ばを散歩している、そして弟に言っている。 「おまえは苦しんでいるな、アントニオ。この一週間、ずっとおまえを気をつけて見てい た。おまえは悩んでいる」
 私は彼の声をはっきり聞くことができる。それにアントニオの沈黙までもが聞きとれる。 そしてまたジャコモだ。
「おまえがみんなおれに話してくれたら……、もしかしたら助けてやれるかもしれん……、 おれだってそんなものをくぐり抜けてきたんだよ……だが、だれもおれを助けてくれなか った……、だから、どこかへ放浪するのだ……どこか、気が違った者たちの島へ……。お れに言ってごらん、アントニオ、どうしてそんなに苦しんでいるんだい?」
 アントニオは今度も答えなかったけれども、しかし私には、彼の息と小さな咳ばらいの 声がが聞こえてくる。ダヴェントラからきた布告者のようだ。たしかにサン.セバスチァ ン通りは、私がちょうどいまアンテナとしての役割をはたしているアラト市<訳注・ルーマニアの西端、ハンガリーとの国境近くの市、この作者はハンガリー人である>のドヴォーオヴァ通りのすぐ近くだ。そうとも、グレーネン君、ペスタロッチストラッセにだってすぐだ。ただ、アントニオが自分から何を語るかちょっと聞いてくれたまえ。
「ジャコモ兄さん、恋したんだよ、ベアトリーチェ.アマーティに」  そして、今度はテレビのスイッチも入れよう。その画面の上にくっきりとその二人の人 物が燃えるような春の夕暮れの明りのなかで東屋の横を通りすぎている様子が写し出される。ダーク・ブルーのビロードの上着に、膝までのズボン、その下は白っぼい荒い綿の靴下、そして靴下の下には留め金付きの黒い不格好な靴。それに長いかっら。アントニオは帽子を手にもっている。
 団子鼻で、湾曲した足の太ったジャコモは、野草の茎を歯にはさんでいる。話すときは 手にもって、いろんなふうに振りまわしている。半ば白くなった髪は夕暮れどきの風に乱されて、なびいている。通りのどこかで、真鍮のボタンのついたコートの長いすそに街の悪どもが差した鳥の羽根がうしろでひらひらとゆれている。
「なるほど、恋か、恋ね」
 ジャコモは低い声でつぶやき、彼の瞑想のときの笑顔は空に消えていた。
「当然だが、おれも一度、そういうことがあったよ……、それをペトラルカはどう言いあ らわしたか知ってるかい?『キューピッドの矢は風を切る音とともに飛んでいき、誰の心臓に突き刺さるのやらわかりはしない』それともペトラルカじゃなかったかな?」
「ジャコモ兄さん、ぼくはもうそのこと忘れてしまいたいんだ。もしぼくが兄さんに、ぼ くの夢か、目を覚ましているのに目の前をすぎていく幻の光景にっいて話したら……」 「じゃ、なんで彼女にそれを話さないんだ?」
「ぼくは、彼女と話ができないんだ。いつもぼくのそばを駆け抜けるんだよ。まるでぼく なんかいないみたいに。もし一度彼女にすべてを話すことができたら、たぶん……、でも、 やっぱりだめだ。ぼくはなんだか、とんでもないことをやらかしそうだ。川藻に足を取ら れそうだ。ぼくをそれから救い出してほしいんだよ、ジャコモ兄さん」
「よし、助け出してやろう。おれもそれがどんなものか知っている。そいつはひどい妄想 だ。クレモナには娘は彼女だけで、ほかに娘はいないみたいな気になる。それに、それ以 外のいろんな、詩のなかかバイオリンによってしか告白できないようなことまで考える。 心は重く、胸のなかから飛び出すか、破裂するかしかねないくらいだ。またそうでなけれ ば、まるで砂袋のように、下へ下へと引きずりおろす。ただ、いいかい……」
 ジャガイモのような鼻のついた顔は急にゆがんで、陽気なサチュロスのしかめっ面にか わった。ジャコモは短い指で二匹の小さな黄金虫が交尾しているのを示した。その二匹の 虫はエメラルド色のよそ行きの服を着て、赤みをおびた真録色のタ日にさや羽をキラキラ させながら、風にゆれるジャスミンの木枝の上で愛しあっていた。
「ごらん、アントニオ、こいつらだって、たぶん、見た目よりは悩んでいるんだよ。神は 彼らの悩みを好んでおられ、彼らに笑顔を見せられる。やがて声をあげて笑いながら、両 者を相互に押しっけられる。あのジャスミンの花やあの輝く光は神さまの笑顔なんだ。お れは神を知っている。いつもあのように笑っておられるそしてあんなふうにいつも鞭 をふるっておられる。音は聞こえないがね」
 それから二人が何を話したか、私は知らない。もしクルト・フォンニアィーツセンが見 たら、大理石のテーブルの上にすばらしいカリカチュアを描くだろう。しかし、やがてあ たりは暗くなり、シニョール・アレッサンドロをタ飯の準備のできたテーブルにいつまで も待たせないために、彼らは階段をのぼって、食堂へ行ったほうがいいと考えた。
しかし私は、彼らが夕飯のあと、ふたたび庭を歩きまわりながら、やがて運河へ通じる 通りへ面した裏門から出ていったと確信をもって言うことができる。
「来いよ、おれがかわいい娘のところへ連れていってやる」
 ジャコモはわけ知り顔に言った。  アントニオは恥ずかしそうに黙っていた。しかし最後には「大乳のバルバラ」のことを 告白した。ジャコモはへへら笑いをして、気の狂ったサチュロスのように飛び跳ねた。
「ヘヘヘヘヘ、じゃ、おれが案内するまでもなく行き先は知っているのか。ほらそこだ」
 彼はアントニオのズボンのポケットに金を押し込むと、まるで体のない幻のように街の なかへ消えていった。
 次の日、ジャコモはひげをそり、どこかからちゃんとした服を調達してきてアマーティ の家へ出かけていった。さらに、夜になっても、彼は戦闘計画の準備をしていた。そして、 いまや、彼の言によると準備万端を調えているとのことだった。
 まず最初に使用人どもから、ベアトリーチェの母親はどこで見っかるかを聞き出した。 彼女は庭のゆるやかな斜面の端のぶどう園で支えの細木にぶどうの蔓をしばっていた。ジ ャコモは父親の三角帽を胸に押しあててから、ルクレジア・パリアーリの前に身をかがめ て騎士のようなあいさっをした。それから口上を述べた。彼らが何を話し合ったか、私は 知らない。
 ルクレジアはまだまだ美しい女性だった。そしてジャコモはぶどうの蔓や支柱のあいだ から彼女を観察した。それからニコロ親方のところへ行き、呼んでもらった。二人はぶど う棚の下で、何度かグラスの底を空にした。そしてありとあらゆることについて語りあっ たが、最後にニコロが言った。
「いいかね、ジュゼッペ・ジャコモ・ストラジヴァリよ、わしはおまえにまったく率直に 言おう。これまでも、わしは一つの悲しみをもっていた。いまや、それが二つになろうと している。その第一はだ、わしの子供たちのなかでジロラモだけがわしの仕事のあとを継 ごうとしている。たしかに職業の跡継ぎになることはできる。しかし芸術のではない。あ れのなかには多くの意欲があるのもたしかだ。しかしそんなものがあったってどうにもな らんこともある。つまり、あの子はそのために生まれてきてはおらんのだ。要するに『ノ ー』だ。そのかわり、おまえの弟のアントニオは、あれこそ『イエス』だ! あれこそ、わしの知識と、わしの秘密とを分かち合うことのできる唯一の人間だ。しかも、わしがあ の白い雲の頂きの上で小さな羽をもった天使たちに、かわいいバイオリンを作ってやって いるころには、わしの名声をも越えることのできる人間だ。
 たしかに、いまのところは少しばかり不器用なところのある、ひょろっとした若者だ。 むしろスリコギだな。だが、いずれにもせよ、あの子と、わしのベアトリーチエとならな んとお似合いのカップルになるかとは、わしがもう何度も言ってきたことだ。
 いまも言った通り、わしもそうなることを夢見ておった。だが、それだけじゃない。言 っても仕方がないことだが、わしはアントニオを愛しておる、むしろ自分の息子以上にだ。 言っても愚痴になるが、もしストラジヴァリ家の誰かがわしの婿になるとしたら、わしの 家にとっても名誉なことだからな。たとえその二人が別々に進むことがわしにはっきりし たとしても、もしわしが、わしのほうに来るように強制することができたなら。
 いつもこの理屈が通るわけではないにしても、一台の馬車を二頭で引かせることもできる。ときにはそのなかで何かがこわれるかもしれん。しかしそれにも慣れる。ときには、けっ飛ばしたり、噛みついたりするだろう。しかし馬車を神の意思で、本当に熱心に引いて猛スピードえ駆けるには、ただなあ、それができるのは……、要するに、この場合には当てはまらんということだ。
 それというのも、わしの第二の悩みというのがここなんじゃ。つまり、わしの娘はグァ ルネリ家のあの若者を望んどるんだ。わしの家と水と油の関係にあることを知っておりな がらじゃ。どうだ、わかってくれたか? そういうわけだ。バイオリンに魂(柱)を入れ るとき正しい位置に置かんかったら、どうなる音は……、とんでもないことだ、な、ジュ ゼッペ・ジャコモ・ストラジバリよ」
 二人は沈黙し、飲み、まるでむこうの何かを観察でもするみたいに、遠くのほうを眺め ていた。
「じゃ、ニコロ親方、もしわたしが自分で彼女と話をしたらどうでしょう? どう思いま す?」
 アマーティはジャコモの珍妙な風貌を試すように見つめてから、吹き出した。
「おまえがか? ひょっとして、おまえが、あの娘に何を話そうというのだ? そのよう な問題で、おまえは美しくて、誇りも高い、若い娘を説得できるとでもいうのか?」
 ジャコモは顔を曇らせた。 「そりゃ、わかってます。ぼくは魅惑することはできません。理性でやってみましたが無 駄でした。しかし、たぶん、ぼくには彼女には未知の旅について話すことはできると思い ますよ、ニコロ親方。放浪の旅のとき、ぼくの前方がどんなに暗かったか、またぼくの前 方がどんなにぎらぎらと輝いたか。たぶん、ぼくは、彼女が人をまどわせる太陽の光りの なかを、あれほど高慢に飛びまわらないように、彼女の翼から少し羽根をむしり取ること はできるかもしれませんよ。たぶん、ぼくは彼女に、生きるということ、死ぬということ が何かを話してやることはできますよ。それとも……ぼくの知っていることを……」
 そして、ジャコモは家の主の同意を得てから、ベアトリーチェを探しに出かけた。ニ コロ親方と一緒に仕事場のドアのところまで来たとき、ジャコモは自分の発見の旅につい て、さらに自分から話を続けていた。
 彼のあとから見習いの一人がっいて歩きながら、ジャコモのゆらゆらゆれるような歩き 方をそっくりにまねていた職人たちはそれを見て笑い、ニコロ親方も仕事場の入口のところで、ジャコモがぶどう園の低い石壁の角をまがって姿が見えなくなるまで笑っていた。
 われらが友人ジャコモが美しいベアトリーチェに何を話したかはわからないこのような会話を記録するのは興味ぶかいばかりか、滑稽であったかもしれない。しかし、残念ながら私にはできなかった。
 それというのも、ベアトリーチェはそのころ、ピェトロ・グァルネリと一緒に、生家を はなれて、より正確に言えば、いつも陽気なラッパの音を吹き鳴らしながら、一対の茶色 の駄馬に引かれてマントヴァヘの街道をがたがたと走っている、黒い鷲の紋章つきの淡黄 色の郵便馬車のなかで談笑にふけっていたからである。
 ほんとのところ、この二人が何について話し合っていたか、およその見当をつけるのは、 そんなにむずかしいことではない。だから、アマーティの家にもどることにしよう。
 アマーティ家では、ジャコモの探索が無駄におわったことを知ると、家じゅうが騒然と なった。なぜなら、ベアトリーチェが誰にも何も言わずに、午前中から家をあけるという ことは、これまで一度もないことだったからだ本当を言うと、彼女は最近、厳しい監視のもとにあったのだ。
 そこでアマーティ家の二人の兄弟、工房の職人連中や使用人たちは、いたるところをむ なしく探しまわったあげくに、アマーティ家の屋敷に集まって頭を寄せあった。兄弟は どっちにしろ探し出すことはできないだろうと確信しながらも、町じゅうをもたずね歩い た。
 ジロラモは母に報告をするためにぶどう園に行ったが、ルクレージァ夫人はいささかも おどろかなかった。彼女はバケツの水で手を洗い、エプロンでふいてから、息子とともに 大きな屋敷へと向かった。そこであちこちと走りまわっているニコロ親方の毛皮の前掛け をつかんだ。彼女はあっさり言った。
「きっと、夜のうちに出ていったんですよ。だって朝にはもうあの娘を見ませんでしたか らね。落ち着きなさいって、運命の神さまがそうお望みになったのですよ」
 それから好奇心の目を光らせている連中のほうを向き、平常と変わりない落ち着いた声 で、それぞれの持ち場にもどるように言った。
「さあ、みんな、自分の心配でもしていなさい。このうちで起こったことを、なにもいま すぐ大騒ぎして触れまわることもないでしょう。どっちにしろ、わたしだったら、あの子 たちに同意したでしょうよ」
 ジャコモはぽかんと口をあけて、美しいルクレジア夫人を見つめていた。そして、この ことはみんなこの奥さんの了解のもとにおこなわれたのだと感じた。だが、それは単なる 直感だった。だから、このことについては、アントニオ以外には誰にも言わなかった。  その弟について言えば、彼はその日、二枚のカエデの裏板と二枚のトウヒの表板の製作 に失敗し、ノコで手まで傷っけた。そして真っ青な顔をして、どもりどもり親方になにや ら詫びごとを言っていた。
 ニコロは自分の兄や両方の工房の連中の目の前でアントニオをやさしく抱いて、その額 にキスをし、家に帰してやった。 「こら、おまえ、そう気にするな、明日になれば、またうまくいく。それとも、あさって かな。だから、今日はもう家に帰って、そして……」
 それから、目にわき出てきた涙を誰にも見られないために、すぐに材料の木をもって仕事部屋にもどった。アントニオはけがをして血で汚れた手で皮の前掛けをはずした。家に帰ると、すでに夜になっていた。そして父と兄がクロスのかかった大きなテーブルで彼を待っていた。彼はしかるべき挨拶をして、いつものように左側の席にすわった。
 老バッティスタがテーブルに食事を運んできて、アントニオは七面鳥料理にとりかかっ たが、シニョーレ・アレッサンドロはなぜ手をけがしたかも、なぜ病人のように青い顔を しているのかもたずねなかった。ジャコモがすべてをすでに語っていた。そしていまは傷 の回復を見守るほうがいいと判断したのだった。
 夕食がおわったとき、シニョーレ・アレッサンドロはいっものように部屋へは引き上げ なかった。そのかわり地下室から真っ赤なパレルモ・ワインをもってこさせて、アントニ オに注ぐようにうながした。父と二人の息子は静かに飲んだ。彼らの目はときどき会ったが、これほどにも異なる三人は、彼らの顔がこれほどにも同じなのを喜んだ。そしてワインは心のなかのすべてのわだかまりをきれいに洗い流していった。
「おまえはジャコモの名づけ親の娘を知っているか?」
 老人はきわめて静かに言った。
「名前だけです。フランチエスカ.フェラボスキでしょう」
「その娘のことでほかに知っていることはないのか?」
「未亡人だそうですね」
「そうだ。夫のジャン・ジャコモ・カープラはあの疫病で死んだ。フランチェスコ.フエ ラボスキはわしの古くからの友人だ。その友人がだ、アントニオ、娘がわしの息子の嫁に なったら、きっと喜ぶと思うんだがな」
 アントニオは兄をみてから、ほほ笑んだ。そのあとすぐに、その話が自分のことだとい うことに気がついて、大笑いした。
「どうして、そこで笑うのか、わしにはわからんな、アントニオ」
「ぼくよりも十歳年上だとくことは、別に悪くはありませんが、でも…」
「あの女はおまえにとって忠実な仲問であるばかりか、母とも、人生の伴侶ともなるだろ う。カープルにとってそうであったようにな。もし仮に彼女がおまえより、二十歳年下で あったとしてもだ。それに性格も一途で、決断力もある。彼女はわが家の誇りとなるだろ うな」
「お父さん、お父さんの希望はぼくにとっては命令です」
「まあ、飲め。わしはおまえになにも命令なんぞしておらん。頼んでおるのだ。おまえに 善かれと思うからだ、アントニオ、おまえの幸せのためにな」
 彼らはグラスを打ちあわせて、飲んだ。それから計画を立てた。庭の東屋のところにす ごい工房を建てよう。婚礼がおわったら、アントニオは旅修業の準備をする。もどってく るころには、父親になっているかもしれん-iそして親方の仲間に加えられるだろう。
 ジャコモは喜んで踊り、詩を朗謂した。アントニオはひどくけがをした手でバイオリン を弾いた。シニョール・アレッサンドロも自ら一丁のヴィオラ.ダ.ブラツチヨを取り、アントニオとスカルラッティの何かの二重奏を演奏した。ジャコモは熱烈な拍手を送った。 アンナ・モロー二が死んでからこの方、こうして不幸のなかではじまったこの日ほど、三人が幸せだったことはなかった。それどころか、老僕バッチスタまでがパレルモ.ワインに酔い、かつてないほど心を開いて一家の喜びに加わった。
 老僕はバイオリンでナポリの民謡を弾いてもよいかと許しを乞い、やがてアントニオの 乳母までがのろのろとやってきて、うたいはじめた。乳母はどこからもってきたのかギタ ーまでかかえている。こうして、リフレインになると、すでに全員が声を合わせてうたっ ていた。
 通りでは見も知らぬ通行人が合唱に加わり、開け放した窓にむかって喚声をあげた。隣 の靴屋は陽気な人問だったから、マンドリンをもって自分が加わらないというのには我慢 がならなかった。庭の下のほうからは、どこかの未知のバリトンと靴屋の女中たちの鈴の 音のようなソプラノが聞こえてきた。
 バチスタは状況の高みに立っていた。彼は窓枠の上にあがり、しゃがんで、シニョーレ ・アレッサンドロの象牙の握りのついた黒檀の杖を楽隊の指揮杖のように振って指揮をし た。
 乳母のヴェロニカは次々に新しい節に進んだ。もう闇のなかに姿を消しはじめた向かい の家の屋根の上では、雄猫たちがニャーニャーと鳴きながら合唱に加わり、どこかの屋敷 の庭では犬までが吠えだし、音楽会はいっそうの盛りあがりを見せた。
 思いもかけない夜の音楽会に抗議しようと猫の家の窓から身をのりだしたパン屋の親方 は、通りかかった夜番の長い鎌槍の穂先に威嚇されて、自分のねぐらにひっ込んだ。そし て夜番自身もこの開放的なナポリの歌をうたった。
 満月は満面に笑みを浮かべて、くわえたパイプから小さな雲をはきだし、雲の煙の球の なかに星の灰を吹き込んでいた。
 そんなわけで、アントニオとフランチェスカの結婚序曲はこのように陽気に進んでいた。 そして、さらに華やかだったのは結婚式そのものだった。バチステロ寺院のなかでは、ク レモナの司祭がしかるべき方式に則って若い二人の婚礼の儀を執り行なっているとき、す べての名誉ある職人組合の親方たちが、それぞれの職業の色あざやかな紋章をっけて参列 し、ボナヴェントゥーラ神父は説教壇の上で、まさしく自らの名前の意味するところの意 味<訳注・ラテン語で「ボナ」=よい、「ヴェントゥーラ」=運命>によって二人を祝福していた。
 ただアントニオの立会人ニコロ親方だけは自らの悲しみを隠すことができなかった。彼 の視線は落ち着きなくバチステロの外陣の上をさまよっていた。たぶん、ここにおこなわ れていることのすべての原因となった、わが娘とグァルネリ家の息子のいまいましいカッ プルをこの列席の群衆のなかに探していたのかもしれない。
 しかし、アンドレア・グァルネリとその近親者たちは出席していなかった。だからニコ ロ親方にできたことは、思いっきり侮蔑的な視線をこの花嫁に投げかけることだった。彼 はその視線で美しい娘ベアトリーチェと、この、むしろ、軍人を思わせるようながっちりした体格の未亡人とのあいだに口を開けている深淵の深さを測っていた。
 ちょうどそれと同じ頃、マントヴァの古びた酒場のカビ臭い一室のなかで、ベアトリー チェはピェトロに話しかけていた。
「もし、あたし、あなたがこんな人だと知っていたら、きっと、あたし……」
 しかし、私たちは真っ先に、失望したベアトリーチェが「こんな」という言葉で敬意を 表したピェトロがどんな男だったのか解明すべきだろう。なぜなら、いまや「こんな」と いう言葉には、その当時、すでにいろんな意味合いが込められていたからだ。
 ピェトロ・グァルネリにっいてはとりあえず、多くの点で遺伝学の理論を証明している と言っておこう。彼はアンナ・マリア・オルチェッリから外面的にも内面的にも多くの性 格を受け継いでいる。そして父アンドレアからもバイオリンの製作への意欲を受け継ぎ、 彼のなかに生きていた。
 これらのすべてを綜合して考えると、その全方向的な天分と能カによって、どんな人問 でも魅惑しないはずはないのである――たしかに、彼はあらゆる楽器に精通していたぱか りでなく惜しむらくは、まさにその当時流行していた詩だけはだめだった――素描も油絵も銅版画の腕も傑出していた。
 だから、バイオリン製作の工房を建てるほどの資金のないいまこそ、口を糊するために 焼物に絵を描いたが、パン代だけではなく、それ以上の金が彼の手元に残った。彼は古い 中国の焼物や、かつてムーア人がスペインに残していった焼物の複雑な模様を目もくらむようなあざやかさで模写したので、それにたいしてロレンゾ・マントゥアーノ親方は気前がいいを通りこしたほどの多額の報酬として与えたほどだった。
 しかし彼はふわふわした羽毛の生えたような中国の絵を寸分たがわず模写できたばかり ではない。漢字の署名の贋作術までも心得ていて、ある晴れた日、工房のなかで丸っぼい 薩摩焼きの壷や焼物のモザイクや竜などとともに焼きあげて、親方をおどろかせた。
 それはオランダの船乗りたち――彼らは大阪湾の門戸が初めて開いたことを誇りにして いた――が、自分の支配者のために謎につつまれた島「日本」からもち帰ったものとそっ くりだった。
 だから、その当時、この壷がどれほどの価値をもっていたか想像するにかたくはない。 そのうちの一個はジエノヴァ経由でメディチ家の所有となった。ピエトロはその壷を大公 の屋敷で一度見ただけだが、彼にはその壷の模倣には一度見るだけで十分だった。
 たしかに、彼は模倣にかんするかぎり芸術家だった。彼は毛一筋の狂いもなく父のバィ オリンを、その外形も、音色もコピーし、クロード・ロランやニコラス・プーッサンの風 景画も、オランダの銅版画、陶磁器、トランプのトリック、絵入りの騎士の金言集までも コピーした。
 そもそも、この人物そのものがコピーだったし、写し絵だった。しかし、金は彼のとこ ろへ転がり込み、転がり出たそして彼自身、何か独創的なものを創造しようという気 はまるでなかった。これらのことを考えると、なんとなく彼の母方の祖父ウバルダ・オル チェッリを思い起こさせる。
 ただ、この偉大なるディレッタントは創造の熱に火をつけ、そしてたぶん、そのゆえに、 あれほど唐突に教皇軍とともに死ぬだけのために戦場に出陣していったのである。なぜな ら彼は一文の価値もない継ぎはぎ細工以外にオリジナルナものはなにひとつ作れなかった から。
 いったい、あの浅薄な心の深淵のなかに誰かが何かを見ただろうか? それに、小説家 や劇作家はどうして人問の性格が描けるということくらいで自慢をするのだろう? そん なら、ピェトロ・グァルネリとアントニオ・ストラジヴァリの最初のバィオリンの背後に 何があるのか、ウンヴァルダ・オルチェッリの軍務への逃避の背後に、またアンナ・マリ アの失践の背後に隠されているものは何なのかを言ってもらいたいものだ。
 また、どうしてアンドレア・グァルネリは自分でチロルの山からルクレジア・パリアッ リを連れてこなかったのか説明してほしい。そしたら私は小説家や劇作家を信じよう。 また、ベアトリーチェは、恋人のそばで、豊かに、なんの心配もなく生活できるという ときになって、どうしてだまされたという失望感をもったのか。ピェトロが贋物作りとし ての自分の飛び抜けた才能を自慢するとき、彼女はむしろ理由もなく嫌悪感が増してくる のをどうしようもなかった。
 たとえば、あるとき、ピェトロが薩摩焼きの壼の贋作にたいする特別報酬として得た大 量のフロレンス金貨をテーブルの上に放り出して、これだけの金を見たら、ほかの女なら 幸せいっぱいになって「ほんとに、ピェトロ、あんたは本物の芸術かだわ。これで、あた したち何の心配もなく長いあいだ生活できるわね。あたしたちどこかに仕事場と家を借り ることできるわよ、それから、あんたは自分本来の仕事に打ち込める。そして、やがてそ の家を買い取りましょう」と叫ぶだろうよ。
 ベアトリーチェはそう叫ぶかわりに言った。 「それじゃ、あんたって、そんな人だったの? あたしが、ずっとまえにそのことを知っ ていたら……」
「そいじゃ、ぼくは本当はどんななんだ?」絶望のあまりピェトロは怒鳴り声をあげた。 「言ってみろ、ぼくがどんなだか? ぼくは家に金を運んでくる。それだけの金があれば、 十人の女を十分食わしてやることができる金だ。女たちはぼくの仕事を評価してくれる。 それなのに、君は、いまいましい、狡滑な木食い虫が、最高に高価なシーダー材の木であ ろうが何であろうが食い入るみたいに、いつもぼくの心を食いあらすんだ!」
「ほかの人ならあなたの仕事を高く評価するかもしれないわね。でも、あたしはしないわ。 せめて一度くらい『フェツィット・ピェトロ・グァルネリウス (ピェトロ・グァルネリ作) 』と署名できるような作品を作ったらどうなのよ。そのようなものならあなたの仕事だと いえるわ。あなたが作っているのは他人の作品じゃないの」
「なんだって……? 他人の? それでも、それを作ったのはぼくだ、この手で、この目 で!」
「でも、その魂までじゃないでしょう」
「ぼくの魂? ちきしょう! ぼくの魂が君になんの関係があるんだ! 放っといてくれ!  君なんか、ただ自分の考えに凝り固まっている、変ちきりんな女だ! ここに金があるじゃないか、それ以上、何の文旬があるんだ。くだらんこと言うのはやめろ! 君はぼく が酒を飲まずにはいられないようにしたいのか? ぼくを意図的に破滅させようというの か!」
「あんたを破滅なんかさせないわ。あんたは自分の赤毛の頭をかつらで隠したってかまわ ない。でも魂にかつらはきかないわよ! そんなかつらなら、あたし、モフェッティの園 遊会での『狼と羊』のときのように、はぎ取ってあげるわよ」
「君はたしかに、ぼくが赤毛だということを知っていたんじゃないのか? それがいやな ら、どうしてぼくと別れなかったんだ? ぼくを死ぬまで悩ませるためかい? ぼくの赤 毛に何か不満でもあるのかい? ぼくの魂が気にくわないのかい? ぼくが君をなぐるよ うに仕向けたいのかい? ぼくがきみをけとばすとか、首をしめるように? いやだ!  ぼくが人でなしの悪党だなんて、言わせない! ぼくは君のおかげで監獄なんかに入りた くない。ここに金がある。これで宝石でも絹でもビロードでも買うがいい。しかし、洞窟 のなかのフクロウのように家のなかにくすぶっているのはやめてくれ。尻をふりながら広 場を歩いてもいい、ほかの女みたいに色男を作ったっていい、たとえば皇帝軍の将校と寝 たってかまわん。しかし、ぼくの魂は、それだけはそっとしといてくれ。ぼくの魂は放っ といてくれ、ぼくの……」
 彼の叫び声は、もはや言葉を生み出すことさえできない意味不明のむせび泣きに変わっ た。それは動物の声にも似ていなかった。なぜなら、このようにむせび泣くことができる のは、冷酷なドスでその下劣な魂に痛手を負った人間だけだからである。
 やがて彼は椅子をつかんで頭上にもち上げると、怒りにまかせて、打ち砕き、引き裂い た。ただ、そのときベアトリーチェにけがをさせないように注意をはらっていた。彼はた だ、物に復讐したかったのだ。
 このような嵐のあと、ピェトロは疾風のように飛び出していき、近くの街路で目的もな く竜巻をまき起こしていた。やがて彼の足どりは規則的に遅くなってきて、どこかの安酒 場に錨をおろして、飲み、街の女と愛し合い、最後には何もかもがいやになる。
 彼は自分のまえに、夜どおし泣きながら酒場のなかにすわっているベアトリーチェを見 ていた。そして彼女の涙はまるで、砂ぼこりも、こわれた破片も、汚物の山もきれいに洗 い流してしまう嵐のあとの静かな雨のようだった。その雨のなかを通って虹がかかり、青 い空の小さな空間がおだやかな許しとなって輝きはじめるのだ。
 このような瞬間、二人はかぎりないみじめさを覚え、軽やかな白雲や、また、太陽の最 初の一条の光線でブロンド色にそまる涙の雨が、罪を悔いる者ピェトロをキスの洪水でひ たすのだった。
「この町から出よう。ブレッシアで新しい生活をはじめよう」ピェトロは言った。「工房 を開く。そして、きっと……」
 こうして、まるで激しい風に追い立てられるようにして町から町へと移動した。マント ヴァにもどってきたとき、確固たる決意を固めたピェトロは工房にむいた建物を探しに出 かけた。そのために町中を歩きまわった。
 そして聖アンドレア広場で、突然、地面に足が突き刺さったように立ちすくんだ。それ というのも、彼のほうに向かってアントニオ・ストラジバリが長い、落ち着いた、規則的 な足どりで歩いてきたからだ――すでに避けるわけにもいかなかった。
 彼らは無言で向かい合ったまま立ちすくんだ。二人とも思いもかけない出会いに、どぎまぎして青ざめていた。ピェトロは無理にほほ笑んでみせた。
「それにしても、まさか、そこにいるのが君だとはね、アントニオ。ぼくは自分の目が信 じられないよ」
「まさに、ぼくだよ。ぼくがここにいて変かい?」
「そりゃ、なんたってここはマントヴァだからな、こんなところで君に会うなんて……ま ったく、思いもしなかったよ……」
「だけど、ぼくはまたすぐに旅に出る。チロルだ。ぼくは結婚した。そしていま旅修業の 途中だ。ぼくがもどると、親方の仲間に加えられることになっているんだ――工房はもう 出来ていて、ぼくを待っている」
 アントニオはなぜこの男にすべてを語るのか、なぜ彼にたいして憎しみを感じないのか、 自分でもわからなかった。そして「青いライオン」酒場にワインでも一杯と誘うことも考 えたが、結局、思いなおした。
「君は結婚したのかい? それで……もし、悪くなければ、相手は誰か教えてくれないか? ぼくが知っている人なの?」
「たぶん、知っているよ。もし、君がクレモナに来ることがあったら、ぼくのところへ寄 ってくれたまえ、ピエトロ」
「ぼくも君と一緒に行きたいよ! たしかに、ぼくだって……旅修業に出なきゃならない んだ。そしたら、ぼくも親方の仲間入りができるだろう。それとも、だめかな? しかし、 ぼくはここで何をしゃべっているんだろう……今日はぼく、完全に混乱している。この混 乱した世界のなかでは、人問、どんなことにだってぶっつかるものさ。ただ、君にはわか るまい……ぼくがどんなに……ぼくたち二人がどんなに……ぼくたち二人がどんなに不幸 だか。だって……、いつか、要するに、君だってすべてがわかるときが来るさ。だから、 今日のところは、これで――じゃ、無事を祈るよ、アントニオ」
 ピェトロはすばやく去っていった。アントニオはピェトロのほうを振り返りもせずに長 い、落ち着いた足どりで歩いていった。
 ぼくたちは不幸だこの言葉がドスのようにアントニオの心臓に突き刺さった。それ とも、そう言って、ぼくを慰めようとしただけなのか? 彼らの幸せがぼくをあまり苦し めないために? 彼はぼくから奪った幸せを恥じているのか? しかし、あれがほんとの はずはない! ぼくたち二人はいずれにしろ一緒にはやっていけない……、それとも、本 当に彼らは不幸せなのか?
 急な通りにさしかかったとき、背後の家並はだんだんまばらになってきた。町は過ぎ去 り、明け方の夢のように消えていった。アントニオは歩き、そして、悩んでいだ。人生の 厳しさが彼を目覚めさせた――彼の子供の時代はあの町のように彼の背後に置き去りにな っていた。彼の前方には青い山脈と、その頂きは白い帽子をかぶっていた。
 仕事場でのぼくのように帽子をかぶっている。彼はそう思いながら、ほほ笑んでいた。 そして山々、帽子をかぶった巨人が、おおいかぶさるように彼のほうに迫っていた。 仕事場でのぼくのように帽子をかぶっている、彼はそ,つ思いながら、ほほ笑んでいた。 そして山々、帽子をかぶった巨人が、おおいかぶさるように彼のほうに迫っていた。



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