(15) パンサー、ライオンとウルフ 一九一四年




 話の筋を撚るのは髪を編むのに似た、物語作者のもちいる古いトリツクである。
まず最初に髪全体によく櫛をかけてほぐし、次に、髪を三っか四っの束にして、それを 一章ごとに三っ編みにする。ときにはこのようなロマン作者的髪結いは、少し髪を乱れさせておくのも有効な手段だと思いつく――やがて変化をつける目的でいろんな方法で解きほぐし、くしゃくしゃにし、それだけで気がすまないときは、物語の筋糸を意識的にもつれさせるのである。その後でふたたび髪をなでつけて、あらためて、それをさらに細かな章の髪束に分けて、あらためて編むのである。
 それは実に巧妙と言えるものだ。たとえば私たちの主人公が未開の荒野かベンガルのジャングルでライオン狩りをする。彼の連発銃はまたもや標的を得る。猛獣は跳びかかろうと身がまえる。原住民の案内者たちは、てんでに逃げ去り、文字通り血が血管のなかで凍りつく――そこで、作者は主人公をほとんど死の喉元に置き去りにしたまま、突然、次の章では、おなじ頃、進行しているニューヨークのウォール.ストリートの株取引きをめぐる駆引きか、あるいは、ベサラービェ<現モルダヴイア地方>での偶像破壊主義者の神秘主義的密議について語りはじめることもできる。
 読者を、少し、はらはらさせなくては!
 だから、ジャングルには次の章でももどらずに、海上での戦闘についての詳細な記述に取りかかるのもいいだろう。ということは、三番目の髪の房ということだ。そして四番目の章になってやっと、ガンジス川の岸辺のまさに生々しい生活の情景が描写される。
 ここでも沐浴をする病人や最下層民や、身をくねらせて踊るメガネ.コブラの描写を延 々として、たっぷりと引き伸ばすことができる。たぶん、私たちをふたたびジャングルのなかに案内することができるのはそのあとだ。そこで、やつと、われらが主人公と跳躍する野獣との生死をかけた決闘場面の描写で読者の好奇心を堪能させるのだ。
 これまでに出版された私のロマンのどれかを、偶然読んだことのある人なら、私がいたずらに物語をこんがらがらせる作者でないことはご理解いただけるはずだ。なぜなら人生とはクリスマスの捻り菓子や髪の束を編むのとはわけが違うからである。
 それにしても私は、部屋の薄暗がりのなかでもつやつやとして、さんさんと降り注ぐ陽光のもとではさらに輝き、風のなかの女性の旗のように、早足で駆ける馬のたてがみのように、まっしぐらに前進する生命の粗い髪のように、ふさふさとした解かしたままの豊かな髪が好きである。
 髪のなかにてのひらを差し込むのが好きだ。そして指のあいだでまさぐり、それを指輪のように丸くして遊び、今度はくしゃくしゃにする。そしてふたたびなでおろし、記念としてその小さな髪の房を切り取る。
 しかし髪を編み、まげに結うのは、私の仕事ではない。それは髪結いにまかせよう。だから私は、いまなぜクレモナからベルリンヘ、世紀から世紀へと規則的に飛躍しないのかと責任を問われても仕方がないことである。
 アントニオのダンテ的夢想から、ふたたびベルリンの動物園へ、またアメリカン.バッ ファローの保護柵の前でクラーラ・ヴァン・ゼルホウトとクルト.フォン.ティーツセン が語り合った最後の言葉を、読者の意識のなかによみがえらせるようにすることは、たしかに使い古されたトリックではある。
 その会話に移るまえに、なぜ髪の房をもち出したかについて説明する義務があるように思う。私にかんするかぎり、興味を高めるとか、もっと話を複雑にするために物語の筋の髪束を今度はこれ、次はあれというふうに取り上げるつもりはない。
私はバイオリンの緒止板と糸巻とのあいだの駒の上に弦を渡してその弦を張らなければならない。私は四本の弦すべてを使って演奏するという約束をしたからだ。もしかして、私がある種の神秘的な関連性をそこに見ようとするなら、たぶん、古いクレモナは私にとっては、その四個の穴にG・D・A・Eの四本の弦の端を固定する緒止板であり、ベルリンは糸巻のついたネックにあたる。そして調弦をするためには、その糸巻を絶えず微妙にまわさなければならない。
 また、ネックの頭部のなんともデリケートな渦巻きは……、それについては終楽章までおあずけにしよういずれにしても、私は少々手の内を明かしすぎたようだ。私がオープンに話さないからといって苦情を言われる筋合いはない。これがほかの小説かなら……、だが、もうその話はよそう。そしてクルトがいかにやさしい、あたたかい、しかもまったく軍人らしからぬ声でクラーラに話しているかに耳を傾けてみよう。 「ほら、ご覧、バッファローだ! 死にかけているみたいだ――それに、まったくゴツビ みたいだ。見えるかい? 立っているのに、まるでぴくりともしない。あの額で時間にぶ つかっていこうとしているみたいだ――まるで銅像だ。あれは、やっばりゴッビだ!」
 そしてその比較にクラーラがどんなふうに笑っているか聞いてみよう。
「そんなふうに見るなんて、クルト、あなたはまったく風刺画家だわ!」
「じゃ、君もそれを認めるんだな。真実は風刺画のなかにのみある」
 二人は冗談を言い、木の葉は黄ばみ、太陽は輝き、子供たちは鉄の輸をころがして駆けまわり、ボール球を投げ、あるいは縄跳びの縄を回してジャンプの回数を競っている。乳母たちは乳母車を押し、子守りたちは片メガネをかけた中尉殿にこびを売る。
 檻のそばの汚い服の飼育係は何かを説明し、女の子は人形に動物たちを見せている。すると風船の売り子は韻を踏んだ調子のいい物売りの言葉をうたうように叫びながら品物を売り歩く。騎兵連隊の兵隊はヴユルテンブルグ地方の衣装を着た娘を二人を引き連れ、立ち木のはるか彼方では白い雲が風の命ずるがままのテンポで行進している。そのすべては市街電車の騒音と、どこか遠くのほうから流れてくる軍楽隊の楽の音に伴われている。
 ただバッファローだけがそこの柵の陰に、まるで縫いぐるみででもあるかのように、信じられないほど身動きもせずに立ちつくしている――そして宝玉のように輝くアニリン染料で染めた赤、青、黄色の風船の房は、反対側の柵のふちでバッファローの上空に浮かび、風船のさらにものすごく上の高い空には飛行船(ツェッペリン)が浮かんでいた。
 太陽はじっと動かないほそ長い雲の連なりを上から赤く焼き、その下に浮かぶ空のゴンドラはただの茶色の点にしか見えず、それをつなぐロープも赤く染まった雲の行列と黄ばんだ木の梢のかげにかくれて見えない。
 二人の見習い職人がバッファローを動かしてやろうと小石をなげた。すると飼育係が二人一度に拳骨をくらわせた。クルトはうまく同時にくらわされた拳骨を見ておかしそうに笑った。彼は軍服を着ており、モノクルの絹の黒い紐を指のあいだにはさんで、ふっていた。
「クラーラ、君はぼくたちがここを歩いているときに、自分のまわりでどんなにおかしなことが起こっているか観察することに、まるで興味がないようですね。ぼくは君にそのことを話ししなければならない。いま、ぼくは『神曲』のなかから引用してみよう。そのなかには、あらゆる種類の象徴的動物の幻想で満ちているよ。あそこの体に斑点をもつ、パンサーは『快楽』だ。なぜかはわからない。でも、ダンテがフィレンツエを追放されてラヴエンナでの生活のなかで、この動物を見たように、ぼくも見ているんだ。それから、このライオンは『プライド』です。ご覧なさい」
 クラーラはほほ笑んだ。ライオンが大きな口をあけ、大きな喉の奥まで見せてあくびをしたからだ。クラーラは笑わずにはいられなかった。片メガネをかけ、派手な真紅の襟と金の肩章のっいた青い上衣を着て軍帽をかぶった将校が、ダンテの幻想にっいて語っているのだそれにたいしてライオンはあくびをした。
 これらのすべては古きよき時代の『メッゲンドルファー・ブレッテ』紙にポンメルハンスが描き、小話で補足したようなものだった。しかし、クルトにとって彼女の笑いはさまたげとはならず、犬に似た野獣の濫のそばで、また話を続けた。
「次に、ここにいるのは狼、『永遠の飢え』だ。それともあのスマートなグレーハウンドを見てごらん。ぼくたちはいつか『神曲』を一緒に読まなくてはいけないね。ちょうどいま、ぼくは浄罪篇を読んでいるところなんだ。それにしてもこの動物園はなんて時代遅れなんだろう!ここでは動物たちをまだ檻のなかで飼っている。ついこのまえハンブルクに行ったんだけど、あそこにはすでに檻はなかった。猛獣たちはまるで自由であるかのように歩きまわっていた。そして人間とのあいだには堀があるだけ。あのハーゲンベックはたいした人物だ。動物部門での本当の芸術家だ。だからといって、彼にだって北極熊のために北極や北極の光を作り出すような手品はできませんよ。こんな話、退屈じゃありませんか?」
 クラーラは自分を動物から隔てる越えることのできない濠について、壊れない柵について考えていた。その動物たちの目から彼女にむかって得体の知れない恐怖を覚えずにはいられない秘密の生命が光を放っている。彼女がやはり恐怖を感じざるをえない、カジミェシュの目も思い出してみた。そして彼の視線がどんな動物の目に似ているのか比較してみた。彼女はそのことをクルトに打ち明けようと決心した。
「パビリオンのほうへ行きましょう。あたし、おなかがすいた」
 いっぱいに並べられた小さな大理石のテーブルのあいだを通っていたとき、軍楽隊がニーベルンゲン・マーチを勢いよく演奏しはじめ、それからジークフリートのファンファーレを俗っぼく陽気に吹き鳴らした。
 調理室の近くに、この騒音のなかで二人だけになれそうな一角が見っかった。それはちょうど休日の群衆や、声や、雑踏の荒々しい混乱のなかにいながら、森の奥でキャンプをしているようなものだった。たぶんクルトもクラーラと人のいない静かな部屋のなかだったらけっして話さなかっただろうことを、雑多なけばけばしい色や、趣味の悪い形や、樽から注ぎ出されたビールの匂いやらにとりかこまれて、叫びや、騒ぎや、笑い声、足を踏み鳴らす音、食器の触れ合う音、それにウェイターの罵る声、ヘリコンのうなりやトロンボーンのおたけびの伴奏のなかであればこそ、語り合うことができたのだった。
 なぜなら、クルトは赤毛の女について語り、クラーラもカシミエシュについて語ったからだ――そして私はこの二つのデリケートな魂が孤独を逃れてまぎれ込んだ年の市の喧騒のなかで何を話し合ったかについて証言するようつとめてみよう。 「ぼくは誰かにこのことを告白しなければならないんだよ、クラーラ。その誰かが君でなかったら、いったい誰に……、ゴッビにかい? ヴラックに? それともサーントー(こ れは私のことだ) に? あるいはバルトリー二の店の常連の単細胞どもにかい? とんでもない、男にこんな話をしてもはじまらない。女性が聞き役でないとだめだ。それに君みたいな純真な女でなくては。その女性は……要するに、想像してもごらんよ、大勢の雌は、常に一匹の雄にしか定められていない。そして、その逆もまた然り。だが唯一、真の雌だけが同情だけでなしに、すべてを与えることができる――すべてをだよ! そしてそのすべては単に詩的とかロマンチックとかいった問題じゃない。そのことについてべらべらしゃべり、欺瞞を語り、その問題について哲学する――そこであえて言えば、生殖器官の完壁な調和について語ること以外の何ものでもないんだ」
 彼の言葉はウェーバーの『オベロン』序曲や『オイリアンテ』序曲を圧倒した。だから、ブラスの嵐のなかでクラーラだけが彼の言葉を聞いていた。そして彼女だけがこの粗野な開放性のなかで自分の運命を理解した。
 ウェイター、兵隊、職人、シーソーに乗った連中、二人の水兵、一人の馬丁、その他のごろつきたちは、すでに今晩の女の生贄を見つけていた。
「いいかい、クラーラ、ぼくは率直に話しているんだ。ぼくはそのことを話す勇気が出てきたんだ……、ぼくたちのあいだに一切の秘密がないように。最後の仕切りも取っぱらうためにね。いかなる意味での奇蹟も必要じゃない。ただ両者の肉体の相互的帰属が重要なんだ。  これらの悲劇的な、恥辱的な、動物的な問題は硬さやセンチメートル、あるいは体液や体温に依存している。そして肉体を介して、ぼくたちの魂も動物の魂に変化する。一度の手の触れ合い、ひと刺し、ひと噛み、ひと打ち、キス、悪口、一度のセックス、一度の苦しみ、それは非現実的なマルケータやオフェーリアのこの上もない高貴さよりも、もっともっと多くの意味をもっている。
 オセロはデズデモーナゆえに端的に野蛮人の種馬にになりはてた。ぼくたちの周囲にいるジゴロどもは恐ろしい、きびしい、情け容赦のない雄豚だ。そして、どんなにすり切れた情婦であろうが怒りにまかせて足蹴にする。ところが女のほうときたら、それでも自分の官能の最後のふるえまで、最後の一プフェニッヒまでもその男に捧げっくしているんだ。ぼくだって試しに女たちをけっ飛ばしてみたいがね、ヘヘヘ。ぼくなんか落第だな、きっと。そのあとで、ぼくのほうがけっ飛ばされかねないや。そのあげく、つばをひっかけられて、おっぼり出されるだろう。
 だからあのジゴロ連中は女たちから官能の最後のふるえまで、最後の一プフエニッヒまで吸い取るんだが、それは大きな、頑丈な、冷酷な肉体の力によってなのだ。ぼくのいうこと、わかる?」
「わかるわ」クラーラはオイリアンテに伴奏されながら言った。「だから、続けて」 「あの赤毛の雌犬、誰のことだかわかるよね。要するに彼女もぼくにあらかじめ予定されていた一匹の雌なのさ。想像もしてご覧、彼女は一人の女のなかにパンサーもライオンもオオカミも一緒にもっている。つまり『プライド』と『快楽』と『永遠の飢え』とをもっているんだ」
「だから、あなたはあの動物たちをじっと観察していたの?」
「そう。人間は苦しんでいるとき、ものごとにほかの意味を加えたがるものなのさ。たとえば、あの赤毛の獣はぼくの従卒とも寝ているんだ――彼女のおかげで、ぼくはもう三人目の従卒も追っぱらったところだ。で、彼女は笑いながら、すてき、すてき、あたし変化がほしいのと言っている。とくに、二枚目きどりの百姓の男がいいというんだ。獣的な行為をしたいときは、一番いいのは獣とすることさだから、君が『神曲』をもってぼくのところにきても無駄かもしれない。つまり、そのことがある人問を絶望に導いているのさ、クラーラ。彼は自分ではその女を満足させられないと感じるときにね。どんな従卒でも、どんな水兵でも満足させられる、まさにその女をだよ、その女を満足させられないと感じたとき。その誤りは『神曲』のなかにはない。肉の塊、ひと蹴り、ひと噛み――それは必要なのかもしれない。だから彼女は満足じゃないのだ。
 ところが彼女はぼくにとってすべてだ。セザンヌについて語ることができるからとか、できないからとかいうのではない。腿の奥は溶岩を噴き出したみたいに熱くなっている。ほかの者たちと激しいセックスをしていないかぎり、いっも熱くて、ぬるぬるしている。ぼくはすぐにピンと来た。セックスのあとでは彼女の陰部ははれぽったくなっていて、乾いているんだ。さすがにこれがぼくには最高にっらい。
 彼女の目はと見ると、これがまた最高に誇り高いライオンの目なんだ。彼女が横目づかいにちらっと刺すような視線を送ってよこすときなど、ぼくは幸福を感じる。彼女の背中はパンサーの背中だ。彼女の鋼のような筋肉はほかの男たちの下では痙攣的に波打つ。ぼくの下ではごくまれにしかない。彼女の性器はオオカミだ。深くて、底なしで、何もかも飲み込んでしまうオオカミの食道だ。ただ最高に大きな一口で一瞬のうちに飲み込んだときだけ満足する。
 彼女の肌はなめらかで、白く、夏の太陽がブロンズ色に色づける。ほかの赤毛の女は白いままか、太陽が赤茶色に焼くけど、彼女はカメレオンのようにブロンズ色だ。乳房は大きくて、硬い。大きな乳房は、普通は硬くはないものだ。彼女の乳房は乳首のとんがりの先からマンゴーのはなが咲き出しそうなくらい中身がつまっている。
 そのときの彼女の声は恐ろしいほど響き、腕の力は強く、やさしくなでるようなことはない。爪を立て、引っ掻き、押しつけ、たたく。彼女がこぶしでぼくをぶつとき、すごく幸せを感じる。ぼくはむしろ革の鞭でひっぱたたかれるとどんなにうれしいかと思うくらいだ――そう言うと彼女は笑っている。鞭はぼくが彼女にたいしてふるうべきだと言うんだ。
 ときには裸のあしでぼくの背骨をけるんだ。ぼくの髪をもみくしゃにし、耳をひねり、ぼくの唇を血がでるほど噛む――彼女としてはほんのちょっとした遊びなんだ。そんなことをしても快感はない。ただぼくを嘲笑しているだけだ。ぼくの目の前であっちの用足しもする。するとぼくは快感を感じる。わかるかい、これがまさに、詩人や作家たちが あえて語ろうとしない部分なんだよ」
 ブラスのオーケストラはオッフェンバッハ作曲の音楽からの抜粋をごちゃ混ぜにして勢いよく演奏していた。やホフマン物語の『ミラクル博士』の死の舞踏、『天国と地獄』のカンカン踊りといった具合だ。これはまさに野性的な金管楽器による格好のバック・ミュージックだった。
 このような粗暴ともいえる背景がなければ、クルトとしても、おそらく、このような話はとてもできなかっただろうし、クラーラでさえ、ほかの男性がが自分の葉巻に火をつけるみたいに、いともあっさりと彼女の処女を奪ったカジミエシュの話をしたりはしなかっただろう。
「ほんとよ、クルトさん、あたしにもそれと似たような経験があるの。だからだわ、あたしたち、こんなふうにお互いに打ち明けあえるのよ。あのね、あたしゴッビ先生を愛していたの。レッスンのあとで、いつもあたしの手にキスしていた。そしてときどき、冗談に、それとも父親的な意味でかしら、あたしを抱くことがあったわ。一度、あたしの下宿に来たことがある。そしてあたしにお乳を見せてくれって頼んだわ。
 あたしのブラウスを脱がせて、肌着までも。あたし、そのときもう覚悟してたわ、あたしを奪うんだって。でも、あの人、体をふるわせて、あたしにキスしたけど、それ以上のことにはならなかった。
 それから、しばらくして、また来たわ。一気にあたしを裸にした。あたしが処女だってこと信じたわ。でも、そのときも何も起こらなかった。それからあのポーランド人が来たの。あたしのバィオリンをよく調べたいんだって。彼はグァルネリ・デル・ジェスゥのモデルにならって楽器を作りたいんだって。彼はストラジバリ型よりも完壁だと思うって言うの。
 彼はしゃべりにしゃべったわ。何もかも、バイオリンのことやバイオリンの製作のこととか、あらん限りのことをごっちゃにして。あたし、もう帰ってって言いたくなったくらい。でも、追い出すってことまではできなかった。
 それからよ、いきなりあたしに飛びかかって、服をはぎ取って、ソファーの上に押し倒して、奪ったのよ。あたしがまだ痛くて頭がくらくらしているっていうのに、腹がへった、何か食べるものをくれって。なんとか起きあがって、食べるものをあげたわ。そしたら、あたしがほんとに処女だったことを博物館ものの貴重品だって、冗談言うのよ。
 本当にそこまでは思ってもいなかったのね。それからまたバイオリンのことをしゃべったわ。彼は自分が作曲できないことですごく悩んでいるって告白した。大きなバイオリン協奏曲を作曲したいんだけど、できないって。だからほかの人たちにも書けないはずだって思ってる。他人の曲の再現だけじゃ不満だから、自分はバイオリンを製作したい。それこそか本当の創造だって。それからまたあたしを押し倒したの。次の日も、また来たわ。毎日、来た。恐怖も嫌悪感もあたしのなかで消えていった。そして、彼を待ちながら、ふるえていたわ。
 そのうち、もうそれほど頻繁には来なくなった。あたしが彼を待ちこがれているのがわかったのよ。だって、あたし喜劇を演じることなんかできないもの。あるとき、お金をねだったわ。あたし彼にお金があげられて幸せだった。そのときからしょっちゅうお金を渡すようになった。あたしそれがすごくうれしかったわ。でも、そのお金、ほかの女のために使っていたのよ。夕食に縫い子や場末の娼婦たちを「アドロン」に連れていくの。普通ならそんな女は誰が連れてきたつて店のなかには入れないんだけど、ウエイターたちは彼の人相を恐れたのね。
 彼は汚い襟のシャツを着ているくせに、たっぷりチツプをはずむの。ゼルホウトのお父さんのお金をよ。ゴッビ先生にはとても打ち明ける勇気ないわ。先生はあたしのこと、いつも……。あたし、このことをあなたにどうしても打ち明けたかったの。あたしたちいつまでもにお友だちでいられるわよね。そしたら、あたしたちもっと楽しくなれる、どうお?」
 進軍マーチを吹き鳴らし、全員が隊列を組んだ。 「ぼくたち二人にはお互いに人間の尊厳を認め合っている。クラーラ、だからなんだよ、たぶん、いつか、ぼくたちが楽園で出会うことができるために、地獄と浄罪界を通過しなければならないんだ」
「どうして、あたしたち、そんなに待たなければならないの? わたしたち、ここにこう して向かい合ってすわっているのよ。手を取り合うことだってできるわ。いらっしゃい」
 クルトの前方にあるものが明るく照らしだされてきたかのように、彼の目のなかに喜びの火花が走った。やがて自分たちがこんな最低の安酒場にはいり込んでいたことを思ってクルトは苦笑した。本来ならば一般の兵士がここにすわっているときは、将校規定にもとづいて将校は同席を禁じられている場所であり、彼の身分にふさわしくない場所だったのだ。
 将校たちは自分たちのために第二号パビリオンを占有している。彼は遠方に何か滑稽なものを見たかのようにそのパビリオンを見て笑った。それから払いをすまして、クラーラが自分の肩によりかかるにままにさせた。二人はアーク灯の下の道を歩きはじめた。檻のなかはすでに空だった。  クラーラはクルトによりかかっていた。彼らは秋の薄闇のなかを新婚旅行で遠くから来て、未知の国で静かにお互いに楽しさを分かち合っている人のようだった。二人はブロンドの髪にグレーの目をしていた。背が高く、そしてエレガントで、まるで親戚のもの同士のようにも見えた。
 クラーラはホームスパンのイギリス仕立ての服を着て、茸のような毛皮の帽子をかぶっていた。クルトは赤茶色の襟の青い軍服を着て、肘の下で長い革紐でつったサーベルの金の柄をにぎっていた。二人はゆらゆらゆれるアーク灯の光に照らされながらプラタナスの並木道を通っていた。クラーラはシャルロツテンブルゲル・ショーッセで立ちどまった。
「こんどはあなたの部屋へ行きましょう」
 それ以上のことは言わなかった。小さなアトリェの部屋のなかでお互いに、完全に、純粋に、純粋な心でお互いに与え合つた。そのことでどちらも快楽はえられなかつた。二 人とも、これはある種の逃亡だと、そしてこんなふうにしても、けっして逃げられはしないということも感じていた。
 精神的には一体化していた――だが、まさにこのことにかんしては、それが満足と充足を提供するためには、反対に、ある種の苦汁にみちた憎悪が、ある種の粗暴な敵対関係が必要なのだ。
 悲しげにお互いの手にキスをした。そしてなす術もなくじつと空を見っめていた。ただ、アトリェの窓だけが街の明りのきらめきと、宇宙の天体の冷たい光とを闇をとおして彼らにむけて放っていた。彼らは寒さにふるえ、新しい逃亡を考えていた。
 クラーラ、ぼくは、君がぼくの妻になつてくれるとうれしいんだけど。ぼくたちはどこかウェストファーレン近くの駐屯地に駐留するだろう。ぼくたちはそこで静かに生きる。だけど・そんなものみんなただの空虚な言葉、非現実的な夢だ。君はべートーヴェン.ザールでのコンサートの準備をする。そしてぼくもベルギーだかフランスだかの国境でコンサートの準備というわけだ」 「何なの? 戦争?」
「今日・明日というわけではないけど、いずれにせよ、時間の問題だ。その田舎の駐屯地では何も起こらない。ぼくはそう感じている。そう、まつたくなんにも起こりやしない。起こるわけがない」
 そしてこの無意味な言葉を無限の疲労感を覚えながら言った。
 クラーラは顔を輝かせた。彼女は自分たち二人のあいだで、すべてがこのようにして、すでに何年もすぎているかのように、クルトの前でも自分の裸の姿を恥じてはいなかったた。そして男は自分に単なる美的な快感のみしか与えることのできない、象牙色の、このほとんど完壁ともいえる美しいヌードを悲しげに見っめていた。知り合一て何年かのつき合いのなかで、そのことはもうすでに知つてはいた。そしていま、そのことを確信したのだ。娘は電灯の放つ光の輪のなかに立つていた。色あざやかな花柄模様の絹の衣装につつまれてバイオリンを弾いていた。彼女の手にはストラジバリがにぎられていた。そしてリンゴの形をして、シンメトリツクに位置する彼女の乳房は、弓をもった右手の大きく波打つ動きにもぴくりともしなかった。
 両肩は音楽のリズムにのってゆれ、解かしたままの亜麻色の髪は茶色のバイオリンの上をかるくなで、腰はバイオリンの横板の曲線をそのまま拡大してコピーしていた。腿も足も関節のところでほんの少し堅そうな感じを見せるが「クニドス島のアフロディテ」の彫像の素晴らしい緊張感を思い起こさせる。バイオリンは友人ダンテのために何かのカン タータをうたっていた。
 クルトは部屋の隅で顎を突き出し、荒い鼻息を吐きながら見つめていた。その横顔は修道僧の頭巾をかぶったラヴェンナの追放者であり、やがて長い年月をへてどこだかフロレンスの、太陽の降り注ぐ市場を、小背ででっぶりしたカセッラ、大きな体躯のギド・カヴァルカンティ、それにぶきっちょなジオット……と連れだって横ぎっている、そのやせ細った姿を見た。
 クラーラは絹のシェードでおおわれたアトリエの電灯の光の輪のなかで、弾きに、弾いた。そしてこの四人は、市場から、色鮮やかな街の通りを、ドーム屋根の塔の下を、無秩序に散在するぼろ屋のあいだを、あてずっぽうに歩きに歩いた――このころ都市の周辺は紫色に波うっていた。そしてやがて、フィェソーレの谷間のどこかで、四人組のまえに、ローマ詩人の影が落ち、その影はディトの森へむかってだんだんと狭くなる地獄の漏斗の円のなかを通って四人を案内した。
 地下世界の川は火の手をあげ、赤紫色になった。死のような憎しみのステュクス川、怒りに燃えるプレゲトーン川、深い悲哀のアケローン川、そして忘却のレーテー川、これらの川が恐怖の山や岩場、火の雨の降る砂漠をめぐり、呪われた者たちは引き裂かれ、噛まれ、切りきざまれ、何もかも一緒にまぜこぜにされ、シジフォスの岩をころがした。そしてその下のシャルロッテンブルガー・ショーツセでは新聞売りの口から長いあいだ待たれていた言葉が叫ばれていた。 「戦争だ! 戦争だ! 戦争だ!」 その瞬間、クルトはすばやくアトリェの窓を開け、その下の深淵を見て、間もなく窓を 閉めた。体を堅くして、自分自身を閉じ込めるように。それから地図帳をあちこちと開いて調べた。クラーラにデューラーとベックリンの黙視録の騎士とクビンとストゥックの戦争の幻想、ブリューゲルの地獄の幻想を示した。しかし、クラーラは理由がわからず、何も見たくもなければ聞きたくもないというふうに、ただバイオリンを弾き続けた。
 やがてクルトは地図をほうり出して、画板に紙をとめて木炭でバイオリンを弾く娘を描いた。それはほんの数瞬間のことだったが、それでも彼は、いま、生まれてはじめて何かを創造しているという気分を覚えた。彼は木炭の切れ端を見つめていた。それは焼かれ、炎をあげる町の一部のように思えた。
 素描を見つめた。それは最初に目に見える彼の心の一部のようだった。娘をながめた。それは手の届かぬものの一部のように思えた。それからアルコールとシェラックとを瓶のなかで混ぜ合わせた。それから細い管を取り、もう一本の管と直角に合わせた。大きい方の管を瓶のなかに差し、細い管のほうを吹いた。 アルコールとシェラックの混合液は霧状になって素描をぬらし、白い紙の上に黒い木炭の線を固定した。
ベアトリーチェがバイオリンを弾いていた。




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