(11) コメディア・デル・グレーネン と ピカソ――1913年


  ・・・・・・ そして、アルレッキーノとブリゲッラの攻撃をかろうじてかわしたプルチネッロにむかってうなずく。ドットーレはこともあろうにこの運命的な場面での二人の無作法な軍人の登場が、炎となって燃え上がる彼の心の願望を台無しにしかねないという不安を抱き、嫉妬の痛みにもだえながら、コロンビーナの上機嫌を心の中に刻みこんでいる。そこで、スカラムッツォとスパヴィエンテもただちにコロンビーナの包囲攻撃に没頭する。
  操り人形たちは身動きもせずにガラスの展示用のケースのなかから、何か意味もない ことをべらべらしゃべっているグレーネンと、ぽかんと口をあけて聞いている子供たちの 群集を見つめていた。人形たちはガラス・ケースの上部に仕切られたコメディア・デラル テの棚にそろっていた――パンタローネ、ドットーレ・グラジアーノ、コロンビーナ、プ ルチネッロ、タルタッリア、アルレッキーノ、ブリゲッラ、スカラムッツォ、スパヴィエ ンテ、ピエロ、スカピーノ、それにトルファルディーノ――これではまるで、聖チェチリ ア広場から哲学者グレーネンの恒例の子供の日に、ここベルリンのペスタロッチ・ストラ ッセに飛んできたかのようだ。
  ここで子供の日について少し触れておこう。この日、つまり毎月最初の日曜日に、彼 は小さな友人たちをここに招待している。グレーネンはこの日を彼の操り人形同様に非常 に必要としていた。彼は神を探していた――たとえそれが、すでに運命、宿命、真理、自 然、偶然、時間・空間の調和、四次元、原動力、無限エネルギーという名を与えられてい ようとも――そして、この不可知的現象を明示する看板として、さらにその他の形而上学 的な名称を含めて、どれを掲げるべきかは、とっさに判断のつきかねるところではあった が――。
  もちろん、グレーネンはそれらの現象といろんな場所で出会っていた。思いもかけず 、また、自分では気がつかないうちに――つまり、実際、それらは捕らえることのできな い一過性のものだった。時には洞窟のなかで、ときにはキリストの磔刑像の十字架のてっ ぺんでペチャクチャさえずる雀たちのなかで、あるときは古い絵のなかで、あるときは橋 の下で、血なまぐさい記憶のなかで、また演奏されるバイオリンの響きのなかで出会って いた。
  しかし、そのすべては過ぎ去っていく瞬間の、また精神の戦慄、精神の原始の振動の ほんの何千分の一秒のことにすぎなかった。だから彼は常に神を子供たちのなかに、操り 人形のなかに見出していた。そしてこの場合の神は体系化し、思索し深化しうる意識的な 持続的な高価な出会いでもあった。子供たち、操り人形、それに犬の本との言うことは、 グレーネンに呪物(じゅぶつ)崇拝の神秘やタブーの概念、手にとり自分の目で見ること のできるものの根源的力の価値を説明してくれた。
  私はテオドール・グレーネンをよく知っている――彼の茶色の、犬のような目には素 朴な善意が輝いている。洋梨のような頭からは女性のようなやわらかい栗色の髪が波打つ ように生え出して、頬のあたりで銀色のひげと入れ替わっていた。茶のビロードのジャケ ットは、子供の日にはいつも訪れる友人のゴッビのジャケットと同じように、薄紫の絹の 縁取りがされている。
  ゴッビのほかにグレーネンには二人の友人があった。彫刻家のヴィラックと、ダイア モンド研磨師のスピノザである。スピノザは当然のことだが、ずっと昔に亡くなっている 。妻と娘は彼の人生の中で彼の教え子や何人かの出版者と同様に、ほとんど重要性をもた ない人物である。彼の一風変わった性格については詳細に分析するに値すると私は考える 。
  たとえば、あるときハ―ルーン・アル−ラシドにかんして何か読んだことがあった。 この読書の感動のもとに、彼はたれさがったひげを何度かなでおろし、それから、床屋が ごくあたりまえの気配りで剃り残しておいてくれた唇のしたの画筆の毛のようなひげをひ ねりまわして、それからペンを取って紙切れに書きつけた。
 「一週間、外出する。わたしのことについて心配する必要はないし、わたしを探すよう なこともしないでほしい。 目的――魂のなかに沈潜するため。郵便物は机の上に重ねて 置いておくこと。訪問者にはヘレンヒーム・ゼーに行ったことにする。 ――テオドール 」
  彼は頭に彫刻のある外出用ステッキと、ボヘミア製のつば広の帽子を取って出かけた が、そのとき妻のレンヘンが台所でこの世の最悪のジャーマン料理を不器用に調理してい るところだった。――ペスタロッチ・ストラッセを通っていきながら、そこここに目を配 り――通常、そういう習慣はないのだが――とうとう彼の探しているものを発見した。
  一本の通りの角に松葉杖をついた乞食が立っていた。胸には1870年の戦争に従軍 した記念の勲章をつけている。そのことは彼に退役軍人の風采を与えていたが、その割に 彼の服はそれほど擦り切れてはいなかった。グレーネンが彼のほうに向かっていったとき 、乞食はすぐに帽子をさしのべたものの、なんとなくグレーネンをいぶかしそうに見つめ た。
 「ちょっと、そこの通り抜けの歩道まできてくれないか、じいさん。あんたと少し話を したいんだ」
  こつこつと敷石を打つ松葉杖の音がアーチ状の通り抜けの通路のなかでこだました。 グレーネンの顔には内密の、同時に共謀者的な表情が浮かんでいた。
 「あのな、わたしは一週間、あんたの代わりをしたいんだ。その方法と理由をいま説明 しよう。わたしはあんたにいつも稼いでいる分を払おう。そして、あんたはその代わりそ の場所と服と、乞食の許可証とを貸してくれ――あんたは少し休息するといい」
 「休息だと? わしは全然疲れてなんかおらんよ。わしのことは、わしにまかせといて くれ。 しかしあんたの提案には同意しよう」
 「あんたは全然驚かんのか?」
 「驚くもんですかね。すでに一度、あんたみたいな気ちがいが現われたことがあったよ 。そいつとわしは・・・・・・、パルドン、そいつを自分のことと思わんでくださいよ。でも、 わしはすでに、要するに、こんな取引をしたことがあるんですわ。そのいま言ったやつは 一日だけと取り決めた。ところが、そいつにはこれが気に入ったらしいんだな。で、二日 間延長した。結局そういうことが一週間続いた。それからわしのものと許可証を返してく れた。しかし、わしは、いまもその男がこの職業を続けているんじゃないかと疑っておる んだ。というのは、わしはすでに何度かゲデヒトニス教会の前で、やつに似た同業者を見 たんだよ。だがね、そこはわしの縄張りじゃねえ、だから・・・・・・」
 「どうだ、この話に乗ってくれんかね、それとも、だめか? 道々、そいつを話してく れ。あんたはどこに住んでいる? わたしもそこに住みたいんだよ、じいさん。いいかい 、わたしもそうしたいんだ」
  グレーネンは乞食として一週間すごしかった。しかし、彼にはたった三日間しか成功 しなかった。三日目の夜、つまり、ライオン風のカットをした黒いプードル犬のポントに 見破られたのだ。グレーネンはすっかり度肝を抜かれ、とうとう書斎の堂々たる机の前ま で追い立てられてしまった。しかし、後には、経験としては異常なほど実り豊かな三日間 だったとして、ゴッビにたっぷり話して聞かせた。しかも、あまりにも延々と、しかも華 麗な尾ひれをつけて語ったので、ゴッビまでが同様の楽しみを体験したいという気にさせ られたほどだった。
  暖かそうなウールの普段用のスラックスをはいた娘のリスベットとやや悲しげな面持 ちの妻のレンヘンは、ハールン・アル-ラシードのエピソードに刺激されたこの行動を英 雄的な行為と評価し、彼女らが告げたように、その目のなかに父親にたいする、さらに大 きな畏敬の念を父親自身が認めたのであった。リスベットは約一ダースもの彼の教え子た ちと文通していたが、その手紙に父親の体験をおおいばりで書いた。
  別のときグレーネンはさらに勇敢な行動を決意した。あるアフリカ探検に参加したの である。この探検隊は三百十二のバンツー族の言葉の相違やその他の詳細について解明す るという任務をおびていた。グレーネンはフロイトの『トーテムとタブー』の誤りを指摘 する準備をはじめた。そんなわけだから、この決意はもともとそれほど目を見張るような ことではなかったのである。しかし、はるかに説明困難なのは、遠征隊とマルセイユまで 行きながら、そこで因果関係のあらゆる糸がぷっつりと切れているということである。
  彼がかの有名な遠征隊と別れてから何年もして、はじめて事実が明らかになった。ペ スタロッチ・ストラッセのわが家から遠く離れてすごした二週間、彼は一軒の女郎屋にし け込んでいたのである。ところが、レンヘンとリスベットはこれを当然のこととみなし、 父親にたいする畏敬の念はまたもや高まったのである。
 「まあ、すごい、人生の深淵だわ」と彼女らはしばしば秘密めかして言ったものである 。
 「そのためには、実際、大変な勇気がいるのよ。そんな犠牲はお父さんだからできるん だわ。それはたしかに、どこかのバンツー族だかなんだかの未開な精神世界よりも、もっ ともっと大きな何かがあるわ。この二週間から有意義な作品が生まれることは間違いない わよね」
  そしてさらにもうひとつの冒険をこの報告に加えなければならない。それはペスタロ ッチ・ストラッセのわが家の雰囲気とまったくことなった味わいの冒険なのである。
  あるときグレーネンはミッテンヴァルトの頂上で消えた。そして三ヶ月間、そこのバ イオリン製作者の仕事場ですごしたことを誰にも話さなかった。そのときはフュッセンと アブサムに住み、ティーフェンブリュッケルとスタイネル、その他のバイオリン製作者の 足跡をたどったのだ。
  この旅についてはリプセットにもレンヘンにも何一つ語っていないことは取り立てて 言うほどのことではないとしても、いずれにしろ、このようなことについてはゴッビ・エ ルハルトにさえ一言もしゃべっていないということは、私には奇妙なことに思える。私た ちは彼のそれ以外の奇行の目撃者にもなるはずだが、しかし、いまは私たちがわき道にそ れてしまった例の子供の日にもどることにしよう。
  それから、私はこのようにあちこちと過去へ行ったり、遠くへ行ったりするので、そ の辺のところを読者の皆さんにお許しを願っておきたい。
  そこで、子供たち、赤っぽいほっぺたをして目を輝かしていた。そして、よく教育さ れた幼いドイツ人たちは、ニーチェのポートレートのかかった壁にそって、小鳥が止まり 木にとまるようにぴったり膝をくっつけあってお行儀よく並んですわっている。その子供 たちの前には濃いいひげを生やした先生がザラトゥーストラのポーズをして立っている。 ザラトゥーストラのむこうには四人の女の子と六人の男の子がすわっていた。彼らは人形 の顔を見ながら、それらの人形についてテオドール小父さんが何か面白いことを言ったと きなど、ときどき笑った。もともとここには絶え間ない動きが緊張感を維持しているハン スヴァルスト人形劇場のなかでのような、そんな絶え間ない活気煮に満ちたざわめきはな い。
  大きなショー・ケースのつやつやしたガラス板の奥で身動きもせずに子供たちを見つ めている道化たち――ここでは見る者が自分で動きを想像し、自分のファンタジーのなか でテオドール小父さんが語ってくれることを完成させなければならないのだ。それができ た子供は楽しみ、そうでない子供は退屈する。しかしガラス・ケースのなかのピアッツァ ・ディ・サンタ・チェチーリアは実をいうと、彼らのなかの一人の大きな子供だけが体験 することができたのだ。
  彼もまたこの壁のそばにしんぼうづよくすわり、その瞬間、この小市民的職業哲学者 の等身大に成長した魔法使いの先生の話を聞いていた。それと同時にゴッビが感じたこと は、バルトリーニの店で彼自身がクルト・フォン・ティーッセンにこの章の末尾で語るこ とだった。しかし、いまは、茶色のビロードのジャケットに、グリーンの刺繍飾りのある ヴェスト、それに黒いボヘミアン・ネクタイといういでたち、大きな胸と麻痺した左手の 持ち主の大人が、ニーチェ−ザラトゥーストラの大きな銅版画の下で子供たちにまじって すわっている様子、そして、友人グレーネンの話をどこからか紛れ込んできた身も知らぬ 人間のようにして聞いているゴッビの様子を観察するにとどめよう。
  イタリア・コメディーの登場人物たちについては――総括的にも、個々にもグレーネ ンはすでに何回も子供たちに説明していた。スカラムッツォとスパヴィエンテの大法螺と 大自慢と大誇張で有名なほら吹き男爵、悲喜劇的ドン・キホーテ、あるいはハンガリーの ハーリ・ヤーノシュの冒険にいくらか似ていた。ときには、そのなかにタルタリーノ・ス ・タラスコヌの物語の味わいも感じることができるが、それにもかかわらず、彼らの独自 性は最高に磨きあげられ、小さな聴講生たちの心のなかにくい込んでいった。動かない操 り人形はまるで魂の彫刻家の手にかかったかのように――本物の彫刻家ヴィラックでさえ 、ある機会にグレーネンをこう呼んだのだが――生き生きとした個性的人間に形成されて いった。
  グレーネンはパンタローネを金銭の化身とし、ドットーレを学問の化身とした。この ようにして彼は素朴に、学問をもふくめて彼(グレーネン)に金もチャンスも提供しよう としない多くのものに復讐したのである。同様の復讐の対象はコロンビーナの浮気心であ る。彼女についてグレーネンは冗談めかせてそのように物語ることができた。彼もまたお そらく自分の無節操なコロンビーナたちを経験していたにちがいない。それについて語る とすれば十巻からなる分厚な哲学的文献を内容豊富なものにするに足るだろう。それとも 、少なくともそのようなコロンビーナをもっていたら、さぞかし彼もおお威張りだっただ ろう。
  しかし彼にはレンヘンが当たった。彼女の貞操については論をまたない。レンヘンは おやつに、カップの底が透けて見えるようなひどく薄いコーヒーと、さらにこれまたひど いリンゴ酒と最高にひどいケーキを子供たちと衛生顧問官フォン・デア・ゴルストに出す のだが、これがいつもいつも同じだった。
  ピエロ、ブリゲッロ、スカピーノにたいしても、それに、アルレッキーノにたいして もグレーネンの嫉妬が感じられた。それは農民的単純さのもつ無限大の可能性、使用人根 性まるだしの悪知恵や突拍子もない陽気な冒険にたいしてであった。祝福された者たちは そのことを意識しないし、無欲そのものである。なぜなら彼らの世界は天の王国だからで ある。
  永遠の若者たち、ティル・オイレンシュピーゲルやシンプリツィシムス<訳注・バロ ック時代のドイツの大長編冒険小説の主人公の名前。もともとラテン語で「最も単純な」 という意味。作者はハンス・ヤコプ・グリンメルスハウゼン>の同類たちは、まさに、唇 に冗談をたたえながら、遠くのほうへぐるぐるまわりながら、伸びている道路の上をさま よっているのだ。彼らのいたずら、彼らの放浪癖、善行、悪行が、ローエングリンの樫の 木の杖のように突然花を咲かせるものの、彼らは、家の部屋のなかでは死んだも同然だ。 彼らは樫の木の森のなかか茂みのなかにすわり込むが、それでもくり返しくり返し放浪の 旅に出るために立ち上がる――若くて、貧しく、気苦労がない。
  この連中は、たしかに、カントやスピノザをかじったことは一度もない。だから、ま さにそれゆえに、彼らの荷の包みは軽く、灰のなかで焼いたパンケーキをすごく喜んで食 べる。当然ながら、グレーネンは子供たちに笑い話、ウイット、冗談、物語などを仲介と してこれらのすべてを語っていた。しかしゴッビは常にやかんの底の残りかすのように、 ウイットの底に抑圧された情念の滓(おり)が堆積しているのを感じた。

  グレーネンはタルタッリアのなかに出版者、批評家、野心家とを合体させていた。出 版者は何がその後に来るのかまだまったく知らないのに太鼓をたたいてまわっている。そ れでも書物は読者の手のなかにあって生き返る。けっして机のそばとか印刷所においてで はない。
  次に批評家がくる。語られたことの形式や内容を品評し、様式や時代精神、歴史ない しは地方色について、また、神秘的な関連性や歴史的な展望について、ジャンルや独創性 について自分の意見を披瀝する。ローマ人の誰かがかつて言ったことがある。「書物もま た自分の運命をもっている」と。
  そして最後にトルファルディーノにはまったく何のいわれもなく、思いかけず、どん なときでもタナボタ的な幸運の瞬間にひょっこり登場してくる。大喧嘩、大騒動の真っ最 中に、まさに彼は予想だにしなかったコロンビーナとともに遁走するのである――そして 、もし、いま生きていたとしたら、プロデューサーたちは彼のオペレッタを獲得しようと して四苦八苦するだろう。
  彼を主人公とした通俗的(キッチュ)な台本は毎日のようにドルで印税をもたらすだ ろう。彼の小説は数十万部の単位で出版され、彼の靴墨または金属磨きは、素朴だが効果 的な宣伝文句の一撃で他の競争相手の商品を駆逐してしまうだろう。彼自身が自分の成功 に一番驚くだろう。そして彼の手には万能の熊手があって、手当たり次第にどこでも引っ かけばざくざくと大金が入ってくるということもわかったのだ。
  さて、そこで、ガラス・ケースのなかの人形たちが等身大に成長する。そして、その 不動の姿勢のまま動きはじめるのだ――すると、こんがり焼けた丸パンのような頭をした 小さなドイツ人たちは子供っぽい笑みを唇の上にただよわせながら未来を見つめている。 彼らのなかには四歳の子供もいれば、十歳の子供もいた。彼らのなかには商業顧問官や銀 行の頭取の甥たちもいた――それと同時に、孤児院の子供たちもいた。リスベットとイル ゼ叔母さん。この二人の一風変わったオールド・ミスは日曜日の午後には、いつも自分か ら世話を引き受けていた。
  彼女らの人生はこれらのもう一種類の別の子供たちのなかにあったのである。もちろ ん彼女らだって以前には、やわらかいひげを生やした女たらしたちを知っていたに違いな い。そのことは私も認めよう。たぶん、あの思い出の、遠い昔に過ぎ去った五月の夜に、 彼女たちのためにも窓辺の下でセレナーデが演奏されていたのだろう。しかしそちらのほ うの歌は、色あせてひそかに散り、金塗りのカット・エッジ製本の豪華な『ファウスト』 の挿絵入り版のページの間にひそんでいる木の葉かあるいは押し花のように、もうとっく に鳴りをひそめてしまっていた。
  イルゼはゲルトルートの父親ゼーヴィッツ大尉がカメルーンで何かの毒蝿に刺された のがもとで死亡し、母親はゲルトルートの出産を自らの死であがなったとき、孤児のゲル トルート・ゼーヴィッツの後見人になった。一方、リスベットは義理の父親の哲学者にそ の貧血性の生涯を捧げ、その際、女中と秘書の役割をうまく調和させることになった。
  そんなわけで、私が、この二人のオールドミスの生涯はきっと豊かであったばかりか 、充実さえしていたと断言したとしたら 、読者のみなさんはほとんどの方が、そんなこ とはないと反論されるかもしれない。それにもかかわらず、彼女らのことをもっとよくお 知りになれば、私の言うことが正しいと認めざるをえなくなるだろう。
  しかし、私はいま操り人形や哲学者やオールドミスたちのことを語りたくない。むし ろ、私が語りたいのは、私のあらゆる信仰と希望が宿っている、すごくかわいい、私にと っては小鳥のように、花のように、また」音楽の魂のように近づきがたい存在である子供 たちのことについてである。
  ちいさなゲルトルートのことを私たちはすでに知っている。彼女がメンデルスゾーン の協奏曲を弾いたとき、私たちはちょうどゴッビのところにいた。私は彼らの短い会話も 耳にした。そのほかのおやつの時間の小さなお客たちのことは、むしろ第一案としては、 みなさんに十分楽しんでいただくためにトーキー映画に撮って映写したい気がする。しか し当時はまだトーキー映画はなかった。そして無声映画の視覚的な楽しみしか与えないフ ィルムでは、いまや片田舎の、あまり注文のうるさくない、ごく普通の観客でさえもまん ぞくさせられなくなっている。それでも、せめて二言三言だけでも彼らのことについて描 写してみようと思う。壁にそってどんな具合にすわっているか、彼らの目の輝き、彼らの 笑い声、彼らの身振りのかわいらしさ、そのすべてを私はあなた方に、書かれた言葉によ って仲介しなければならない。
  オットー、四歳、粗い髪のブルネット。父はかなりな大酒飲み、劇場付オーケストラ の楽団員、数種類の金管楽器を演奏する。バヴァリア(バイエルン)王国への愛国心を誇 示するためには――もちろんその必要を感じたときであるが――黒ビールを十本飲み干し てしまう。母親は綱渡りの曲技師である。しかしサーカスで働いているのではなく、独立 して縁日の立つようなとき、そこで演じる。彼女はシュレスフィヒ=ホルシュタイン地方 の出身で、その活動領域の大部分がこの地域である。オットーの父親は演奏旅行からもど ってくると、大量のビールを一気に飲んだ。オットーは揺り木馬と鞭とラッパをもらった 。彼はいまもそのラッパを手に握り締めている。テオドールの小父さんがほんのちょっと でも、いたずら者たちの冒険物語の話の糸を途切れさせたりすると――もともとオットー には話の内容などほとんど理解できていないのだが――操り人形たちの名誉をたたえるた めにそのラッパを吹き鳴らすのである。
  ときどき彼は椅子からすべりおり、勇敢な訓練ぶりを証明しようとでもするように、 ふたたび自分ではいあがろうとする。リスベットが彼のほうにかがみ込むと、いつもささ やき声で、お菓子はいつもらえるのだとたずねるのだ。リスベットは何度か彼にお菓子は もうすぐだと答えると、彼はしんぼう強く待っている。とはいえラッパの鳴る回数はだん だんと増えていく。
  母親はその間、いろんな伝(つて)を頼りに、どんな小さな町の市場をも経めぐって は、教会の塔と市庁舎とのあいだに三〇メートルの高さに綱を張り、靴底にたっぷり松脂 を塗ったバレーシューズをはき、大きな日本の唐傘をもってバランスを取りながら渡るの である。腰のあたりまでたっする長くて明るい赤毛の髪は風になびき、市長のオペラグラ スは体にぴったりくっついた色のあせたレオタードを執拗に追っている。助役もまた同様 にオペラグラスを手にして、彼女を――必ずしも評判がいい女とはいえないにしても―― 今晩のバルトロ夫人の家のシャンパン付の夕食会に招待しようと決心する。
  ただし高い空に舞う魔法使いはアルコールの類は一切のまず、氷のように冷たかった から、彼女とうまくつき合うのは、実は、そう楽ではなかった。彼女は安全ネットを用い ずに芸をおこなっていたし、また網に落ちるようなこともなかったから、彼女をものにし ようとすれば、小さな町の金庫から幾許(いくばく)かの金をくすねる必要があった。か くして劇場のトランペット吹きは野外遊園地で合唱団の女性歌手とビールを飲み、オット ーはトランペットを吹きながら目をぱちくりさせてお菓子を待っていた。
  ヘルベルト、六歳、ゲルトルートの従兄弟。父親は西区の郵便局員。彼は仕事のほか にも公的な誇りをもって制服を着ている。彼の妻、旧姓フォン・ゼーヴィッツは彼を嫉妬 で苦しめ、ピアノの教師をしている。ヘルベルトはニーチェを恐れ、操り人形を恐れてい た。彼は校庭の入り口の取っ手をカチャカチャ鳴らすのが好きだった。彼は自分をここに 連れてきたイルゼ叔母さんを憎んでいた。隠れてグレーテをつねったりしたが、それがこ の場での彼の唯一の楽しみだった。彼はグレーテもきらいだった。とくにバイオリンを弾 いているときのグレーテがとくにいやだった。彼はここからどうやって逃げ出そうかと考 えていたが、校庭は彼にとって絶望的なほど遠くの霧のなかに沈んでいた。
  グレーテ、七歳。彼女の小さな肩の上には、亜麻色の明るい髪の束がたれている。ヘ ルベルトがつねるのにも彼女は口をへの字にして、黙って我慢していた。彼女はウエスト ファーレンの女菓子職人とブランデンブルクの運送屋との間の子供だった。操り人形と童 話はまさに彼女のために生まれたようなものだった。彼女は捨て子収容施設から孤児院に 引き取られた。そして女性牧師の院長は彼女をときどきイルゼ小母さんの保護から開放し て、例外的に子供の遊びに参加させるのだった。グレーテはテオドール小父さんの一言一 言を砂が水を吸い込むように飲み込み、吸い込んだ。イタリアの操り人形は別の棚のドイ ツの人形たち――ロートケップヘン、ラウテンデライン、ドルンレーシェン、アッシェン ブレーデル、魔法使いの老婆グーデ、ニッケルマン、山の巨人リューベツァール、シュト ルーヴェルペーテル、、マックストモリッツなど全部、そしてそのほかのものも全部―― と同様にいい友達だった。
  彼女はしばしば彼らの夢を見た。それでこの日曜日がまちきれなかった――それでテ オドール小父さんのお気に入りになったのだ。私たちが彼女をもっとよく知るためには、 彼女の夢を描き出す必要があるかもしれない。しかし彼女は自分の見た夢をけっして誰に も話さなかった。だから彼女の夢は彼女のグレーの瞳のなかにだけ生きていた。たぶんい つか彼女自身が語りはじめるだろう。
  ゲオルク。ユダヤ系ドイツ人。金髪で、七歳。そのことは彼の出生について何も語っ ていない。彼の父親は有名な銀行家だった。銀行と、現在グレーネンの著書を出版してい る出版者の経営者である。。最近、彼のところでユダヤ人問題を扱った本が出版され、そ の問題をめぐって新聞などで大きな論争が展開されている。一般によく知られている見解 によれば、グレーネンというのは単なるペンネームであり、その陰にはハリッチュ地方の 特徴をもった強い言葉の訛りが隠れているというのである。
  小さなゲオルクはあらゆる人種理論の生きた反証である。彼は透き通るようなプロシ ャ人の目をもち、硬い発音、闘争的で、彼のませた、大人っぽい身のこなしはどんな門閥 (ユンケル)の若者も羨望の念を抱くだろうと思われるほどだ。グレーネンの書物のなか では特別の一章を占めている。
  ヘディ。ゲオルクの一歳年上の姉。彼女は母性的である。操り人形にたいする関係に おいても、彼女自身の人形のコレクションにたいするのと同様に母性を意識している。茶 色の瞳からは思慮深いビロードのようなやさしい視線が射しているが、何代も前のそれは 彼女からのお祖母さんたちの遺産の相続者であることの証拠だろう。彼女は男の子をきら いだったから、みんなの遊びには加わらなかった。
  ヴァンダ。ヘディの同年の友達。桃のように丸っこい頬。ヘディの父親の銀行の計理 士である。彼女は男の子たちの憧れの的であり、最も巧妙な手段でもって彼らを悩ませて いる。彼から切手やビー玉を取り上げ、唾を引っかけ、彼らをぶった。彼女は男の子たち に兄のエロチックな写真のコレクションをもってきて見せてやった。彼女はまったく勉強 をしなかったが、あらゆる科目で最高点を取った。そして彼女はダンサーになるのが夢だ った。
  ハンス、九歳。父親は書籍の卸業者でテオドール小父さんの著作選集も取り扱ってい る。その一方、母親は逢引にいそしんでいる。ハンスはイタリアの操り人形が好きであり 、絶えず人形たちにまつわる新しい物語を考え出し、学校のベンチの下でテオドール小父 さんのためにそれを書きぐづっている。有名な拳闘士やベテランの猛獣使いの話。
  グストル。ハンスと同年齢。ハンスの秘書であり、召使である。彼の父はどこかの無 名の貴族である。グルトルの誕生のときに、誘惑した売り子のために蒸気動力のドライク リーニングの工場を買い与えたが、そのあと杳(よう)として消息を絶ってしまった。
  エリッヒ、八歳。彫刻家ヴラックの息子。この身分によって、彼はグレーネンの家の 常連客である。それどころか彼は操り人形の秘密の誕生にも立ち会っていたのである。そ のとき彼の父がグレーネンとリプセットのために産婆役を演じたのである。汚いアトリエ のなかにエリッヒは彫像の誕生も見た。だからグレーネンのように偶像を崇拝する。彼は いつも腹がへっていた。だから皿がガチャガチャいう音や、コップやスプーンがかちんカ チンと鳴る音が隣の食堂から聞こえてくると心のそこから幸せになるのだった。
テーブルの上に広げられたおやつに真っ先に突進すると、リブセットとレンヘンとのあいだにもぐりこむ。ほかの子供たちはそのあいでに騒々しい音を立てながら時分の場所を占める。いまは、もはや薄いコーヒーの上に浮かんだ泡立てクリームとテーブル中央の巨大なケーキだけが生きていた――操り人形はガラスケースのなかでしんでおり、いまはゴッビだけが死んだ人形について夢をはせている。
  おやつのあと、男の子たちのなかに闘争意欲がわいてきた。ヘルベルトがきっかけを 作った。彼らはプロシャ対フランスの戦争ごっこをやることに決定した。戦闘の場は台所 と廊下で、プロシャ軍の将軍はゲオルク、フランス軍の将軍はハンスとなった。ヴァンダ とゲルトルートは女スパイ、グレーテとヘディは赤十字の看護婦になった。もちろん必要 に応じて戦闘に参加できる。テオドール小父さんは平和主義の立場を維持して発言してい た。そして人間性について、また友情について語ったが、子供たちはくすくす笑い、テー ブルの下でつつき合っていた。グレーネンは平和主義に勝ち目がないことを見て取ると、 家の秩序と家の管理をもち出してきた。しかしそれはかえって子供たちの戦闘意欲を煽り 立てる結果になった。ゴッビは自体の成り行きを見届けることなく、その場を後にした。
  日曜日の午後の死に絶えたような街路を目的もなくさまよいながら、五月の日差しが さんさんと降り注ぐこんな日に、人々はいったいどこへ消えてしまったのだろうと思いを めぐらしていた。きっとハイキングにでも出かけたのだろう。自然の膝に抱きかかえられ 、愛しあい、スポーツをし、食べ、飲んでいるのだろう。それらのすべては子供たちの戦 争ごっこと同じように、はるか遠い昔のことのように思われた。
  あるとき彼は生徒たちと一緒にサンスーシに旅行したことがあった。彼らはフランス 庭園を見学し、オルゴール時計や陶磁器、フリードリッヒ大王のバイオリンやフルートも 見学した。しかしメンゼルのえは生気がなく、ふべては彼に退屈に思えた。彼は孤独を感 じ、帰りの旅でピシュタ・バボシャーニュィと一緒に郊外の酒場に入り、ビールの大宴会 をやらかしたものだった。
  ピシュタは放浪の楽士からバイオリンを借りて弾いたが、その彼の『旅立て、つばめ !』もゴッビをメランコリーな気分から引き離してくれなかった。彼は若者たちのなかに いて、年齢を感じ、以後は絶対に旅には行くまいと決心した。それからは、またもや日曜 日の午後は家で過ごすようになった。バプティストはいつも月曜日にもどってきた――そ してゴッビは芳醇な香りの古いワインを味わうように孤独を味わうのだった。
  毎月日曜日だけはグレーネンの「子供の日」に通った。彼はそれを必要としていた。 子供の言葉と騒ぎを清新の気風の湧き出る泉のように感じていた。その後でふたたび自分 の穴蔵にもどり読書にふけるのだ。いま彼は家にもどる気分ではなかった。何かを探して いた。そしてしばらくするうちに、彼はそこらをそぞろ歩きしている若いお針子の視線を 求めていることを意識した。彼女らはどの娘も男性の相手を連れていたが、それでも彼女 らの落ち着きなく移ろう視線はビロードのジャケットを着た、黒いぼさぼさ頭の熟年の男 のほうへさまよってくるのだ。そして彼はそれらの娘たちを楽しみ、好奇心に満ちた視線 を受け取り、最後に一人の娘にうなずいた。通りぬけの小道に入り、しばらくすると娘が 彼の後ろから門を入ってきた。ゴッビは微笑んだ。
 「なかなかやるじゃないか、君のブロンドのナイト氏にはなんと言ったんだ?」
  娘はどぎまぎして大きな茶色の手をにぎりしめた。
 「あれは兄なんです。あたしから解放されたかったんですわ。あたし兄に言いました。 今晩は友達のうちに泊まってくるからって」
  あっけない凱歌はゴッビをしらけさせたが、彼はこんな美女を外堀のほうからゆっく り攻めて征服していくのが好きだった。やがて彼女の趣味の悪い既製服までが彼の気分を 損なっていった。それに赤い手。
 「工場で働いているのかい?」
  娘は恥ずかしそうに両手を後ろにかくした。
 「あなたって、手から他人のこと見てしまうんですね? あたし、家具工場で働いてい ます。塗装仕上げ場です」
 「別にかまわんよ。だからなおさらいい友達になれるさ。わたしのところへ行こう。君 はお茶を入れてくれ。そしてゆっくり楽しもう。もともと――お茶にするにはちょっと暖 かすぎる。むしろビールでももっていこう――すぐ隣がレストランだ。それとも、君が何 かいいもの知っているかい? そうだ、一軒店に寄っていこう。そこは一風変わった酒場 でね、そこには芸術家だけが集まる。わたしはいつも夜だけはそこにいる・・・・・・、要する に、まだ、昼間、そこを訪れたことがないんだ――そこへ通いはじめてから、もう十二年になる。すくなくとも、いまは、昼間はどんな具合か見てみよう。面白いとは思わないか い?」
  娘は彼の話を聞いて、この世のものでないような幸せを覚えていた。
 「みんな芸術家なんですか、あなた、その方々とお話になるの? ああ、あなたも芸術家なのね、そうなんでしょう、ね?」
 「うん、つまり・・・・・・だったんだ。バイオリン。だが、その後・・・・・・」
  彼は左手を上げた。そして折れた羽のように手首を振った。
  娘は全身を固くして彼を見つめた。彼女の目はこの悲劇が彼女を深く感動させたことを示す印に大きくふくらんでいた。娘は彼の手にすがりつき、その手にキスをした。ゴッビは彼女から左手を振りほどこうとしたがすでに遅かった。階段の下で門番が何かぶつぶつ言い、門のところに例のブロンドの騎士(ナイト)が現われたのだ。
 「なーるほど、女友達のところに行くというのがこれか、この淫売め! おれはこんな売女(ばいた)と時間を無駄にしていたというわけか!」
  門番はへへら笑いをしながら、やがてよった勢いにまかせて怒鳴った。
 「マイエーッ進め! さあ、さっさとここから出て行け。ここはランデブーの場所じゃない! こんなところで逢引などするやつはどこのどいつだ? さあ、とっとと出て行け! ここはフォン・シェッケンドルフ男爵の所有になるところの・・・・・・」
  そのあと、シャッケンドルフ男爵のあとに何が述べられることになっていたかは、もはやふたたび明らかにされることはないだろう。ゴッビは拳骨(げんこつ)の最初の一撃で門番を門番小屋のなかに突き飛ばし、それから金髪の騎士にはほっぺたが振り子のように左右に向きを変えるほどの往復びんたを食らわせた。すると騎士は小刻みな足取りでよろめきながら後退して門の柱に寄りかかった。
  娘は甲高い笑い声をあげた。彼女の金髪の騎士はすぐに反撃に出るかのような身振りを示したが、ゴッビは彼の光沢のある生地の上着と、はだけたシャツをつかんだ。若者のネクタイと一緒にそこからどろどろの汚物が現われた。それに続いてさらに汚物はブロンドの髪の若者を突き上げ、数回、門柱のわきに吐いた。鈍い打撃音が街の子供たちを誘い寄せ、彼らは叫び、口笛を吹き鳴らし、手をたたき、口々にののしり、勢いにまかせてとんぼ返りを実演した。
 「突撃だ。要塞を撃破しろ!」
  子供たちはゴッビをけしかけて叫んだ。
  人だかりがだんだんと多くなってきた。門番はさっきゴッビの一撃で突き飛ばされて尻餅をついた小屋の隅からはいだしてきて、大声で警官を呼んだ。警官は一部始終を記録した――そしてゴッビは娘と市内電車に乗って、その場を去った。彼の水車の輪のような大きな縁の帽子は格闘の場所に置きっぱなしだった。
  ライプツィガー・ストラッセのほうへ曲がったときには、通りはすでに日陰のなかに沈んでいた。未知の地区に立って娘の表情には当惑の色が浮かんだ。たしかに一度か二度は偶然、この地区にきたことがある。どちらかというと彼女はとくに陽気で順応性があるほうではなかった。だから、ここに来て彼女の足取りはまったく自身なさそうな、不器用なアヒルのように、ときどきよろめきさえした――そして、彼女の粗悪な量産品の黒い靴はピンクのアイスクリーム色の安物の衣装とはまったくつりあっていない。そしカフェーのウインドの向こうにたむろする連中の苦笑を呼んでいた。
  ゴッビが思い知らせてやった門番や郊外の伊達男にたいする怒りがようやく消えてくると、どこかの男爵の貸家の通り抜けの路地で、街の子供たちの群れに取り囲まれながら闘った様子を思い浮かべて、われながら苦笑せざるを得なかった。また、彼はばかげた警官にもにも苦笑した。この警官の大げさな情熱は、街の悪童たちのとんぼ返りや、その動物の鳴き声の物まねに邪魔されて挫折してしまった。しかし急に広がってきたこの上機嫌も、やがて嘲笑的な視線が多くなってくる街路のなかで消えはじめた。この郊外に住むセンスのない不器用な美女は日曜日の見物客にとってさえも、場違いな異物に感じられたようだった。
  一番いいのは、サーカスの道化を見るかのうように楽しんでいる連中みんなにビンタを食らわせることだろう。しかし、やがてそうはいかないことに気がついた。その瞬間、ゴッビはこれ以上、スキャンダラスな話題を盛り上げないように、早々にこの娘と一緒に賃馬車に乗って家にもどるべきだろうとさえ思った。やがて、この嘲笑的な笑いは娘にたいしてではなく、むしろ帽子のない彼の頭に対してであると思い直して気をやすめた。当時は通りで、どんなにひどい暑さのなかでも男が無帽で歩く習慣は一般的ではなかった。そして帽子をかぶっていないときでもヴェストの留め金かジャケットの襟のところに引っかけていた。そこで、彼は帽子を取りにもどろうかと思った――彼はあの帽子をかぶるのが習慣になっていた。なぜならその帽子は手にもなじんでいたし、形も気に入っていたからだ。新しい帽子になじむまでにはまたしばらく時間がかかる。
  娘は彼の目の色をうかがって不安を抱いていた。そして同時に顔を赤くした。娘はゴッビの沈黙を自分なりに解釈していた。つまり彼は彼女のみすぼらしい服装を恥じているのだと。とくにヒナゲシとヤグルマソウをあしらった二マルクの麦藁帽子が理由だと思った。この帽子のことなら、すでに彼女の周辺のいたるところで、あからさまな嘲笑が起こるくらいだったからだ。もし、ビロードのジャケットを着たこの大柄の素敵な黒い髪の紳士、または芸術家の風貌のなかに、彼女のために戦ってくれた救済者の姿が、また、彼女にそう思うことを許す何かが見えなかったとしたら、彼女はどこかの深みに落ちるか、それとも霧のように消えてしまいたいとさえ思ったのだった。
  この空想的な英雄は彼女を何かから救うはずである。それとも、彼はもう彼女のことを恥じ、彼女のことを不快に思っているのか――この瞬間、彼女には何もわからなかった。しかし彼女の中には無形のぼんやりした願望と、潜在意識下の欲求が目覚めていた――そこで、彼女はビロードのジャケット、紫色のボタンのついた見事な刺繍のあるヴェスト、かにかはでな色に塗り分けた救命ボートのような縞のズボンの男の手に絶望的にすがったのだ。
  私はこの二人とバルトリーニの店のちょうど入り口の前で出会った。そして私たち三人が三人、目もくらむような優雅な身なりの赤毛の魔女のために二重のドアを開けようとして身をかがめたティーッセンとすんでのところでぶっつかるところだった。私は真っ先にゴッビに、それからティーッセンに挨拶した。彼らもお互いに挨拶を交わしていたが、魔女はイチゴ・アイスクリームのスーツを着て、ヒナゲシのついた帽子の持主を品定めでもするようにじっと見つめた。
  きょうでもはっきり覚えている。このまったく気の毒ながらこっけいな場面で最も不思議だったのは、魔女の観察が決して人を傷つけなかったことである。真っ赤に塗られた唇のまわりには微笑が浮かんだ。その微笑がまたさらにその唇をはなやかに見せた。そして、緑色の猫のような目でこのグロテスクなペアーをまるでいたずらな子供のように見つめていた。それからビロードのジャケットの背中をシャンパン色のなめし皮の手袋でバンとたたいた。
 「ながいこと、わたしたち、会わなかったわね。まだ覚えている・・・・・・? あれから二年半だわ。もしかしたら三年かな・・・・・・この酒場で一度・・・・・・素敵な夜だった、あのときシュトゥックさんも一緒だったわよね・・・・・・」
  ゴッビは覚えていた。ブロンズのように日焼けした彼の顔に赤味がさし、困惑して髪をなで上げ、バルザック風の鼻ひげをひねりあげた。それから歌手でダンサーでもあり美術商の奥さんでもある魔女の手にキスをした。私もまた自己紹介をした。なぜならティーッセンが私のひじを抱えるようにして彼女の前に立たせたからだ。こうして私たち全員五人は酒場のなかへ通じるドアのある前室に落ち合うことになった。私たちが細長い部屋を二つ通り抜けていくとき、客たちはみんな私たちのほうを振り返った。それが目の保養になるというのなら、どうぞお勝手にだ。
  魔女と小さなプロレタリア女、ゴッビとクルト・ティーッセンの対照的組み合わせの付け足しででもあるかのように、私は行列の一番後ろからついていった。わたしは六〇センチ幅の最新流行のズボンをはき、その幅の全体にわたって絹のリボンで装飾されている。そしてズボンはカモシカの革張りと真珠のボタンのついたエナメル靴のつま先まで隠してしまうくらいだった。
  私のグレーの服のもう一つのポイントは、胃のあたりまで深くカットしたヴェストがある。小さな結び目で結んだウルトラマリーンのネクタイを完全に見せ、また誇示することができるということだった。しかしネクタイのすそは手のひらの幅しかない。私のジラルド帽<訳注・オーストリアの歌手 A.Girard にちなんで呼ばれた麦わら帽>の幅は二〇センチある。私の頬ひげは黒で、ステッキはインドに住んでいる小父さんの父へのお土産だったが、卒業後すぐに父から奪い取ったものである――それは非常に高価なマラッカ葦から作ったもので、人間の手首くらいの太さがあり、トラの皮に似た縞模様がついている。
  みんなは私をスペイン人かイタリア人と思っていたので、祖国ハンガリーとその政治的自立性、地理的位置関係についてそのたびに説明しなければならないのに私は運座礼していた。それというのもここの連中はみんながその辺の問題については、きわめておぼろげなイメージしか持っていなかったからだ。それに反して私のほうは一人一人の視線を挑発とみなし、挑戦的にその視線を見返し、うるさいやつという役割を好んで演じていた。私は日曜日の客たちにも容赦なく鋭い目つきで相手の品定めをした――彼らは意気地なく、とまどったように目をふせる。
  遊戯場ではラインハルト劇場の見習俳優が数人にぎやかに騒ぎはじめていた。彼らはビリアードの玉を突くときも、無限に続くドミノの際にも、かっかとしながらチェスを戦わせるときも、長く伸ばした髪をライオンのたてがみのように波打たせていた。私は彼らのあいだに二人の同郷人を見出した。そのうちの一人は職業的サチュロスだった――この芸人(ミストル)は全身をブロンズ色に塗り、あらゆる種類のパントマイムや神秘劇の上演の際には六メートルの跳躍を実演してみせる。もう一人は目下のところは召使の焼くまで出世したところで彼はこの役が気に入っており、いやなフランス女の同僚とも取っ組み合いをやっている。
  しかし今はそういうことにむいた場合ではない。なぜなら私の仲間や、画学生たちの何人かが私の幅広のズボンを引っ張って、意味ありげなしかめっ面で私の前を行進する二組のペアーのほうに視線を送っていたからだ。私たちは仲間のあいだにかくれたかったが、私が感じ取ったところでは、ゴッビもイチゴ・アイスクリームと一緒に人ごみの奥の片隅に逃げ込みたがっていたが、大尉は魔女の直接的欲求を満たし、私たちを一つのテーブルのほうに追い立て、シャンパンとパイナップル入りのフルーツ・ポンチを注文した。その際、彼独自の処方にしたがって事細かに指示した。
  いくつかの、かなりとまどったような質問と回答が交わされていくうちに、私の心眼にことの次第がだんだんとはっきりと映し出されていた。つまり、私が徐々に理解してきたことによるとゴッビはヒナゲシ・マークのイチゴ・アイスクリーム娘を街で拾ってきたこと、一方、くると大尉は彼の赤毛の魔女と偶然出会ったということだった。実際、ティーッセンはこの赤毛の女と、本書の第二章で述べた、あの奇妙な夜以来会っていなかった。それでも彼らは競馬場の雑踏のなかでお互いに気づいたのだった。
  しかし赤毛の女はいまやクルトのことなどまったく気にもとめていなかった。彼女の関心はもっぱらイチゴ・アイスクリームに集中されていた。彼女はイチゴ・アイスクリームに故郷のことや、家族のこと、何を読んでいるか、労働運動のことについて詳しく問いただしていた。この領域の問題になると娘はふたたび自信を取りもどしてきた。わだかまりなく、率直にありとあらゆることに浮いてしゃべりはじめた。そして旧に彼女は議論のなかでまったく変わった。その議論ではモアビト地区と西地区とが面と面をつき合わせていた。いま彼女はすでに控えめではなかったが、さりとて敵意をあらわにしているというふうでもなかった。彼女はまっすぐ煙を噴き出し、空高くそびえ立つ工場の煙突の自意識にも比すべき自意識に満ちていた。彼女の言葉は芸術的個人主義を停滞した水面に未知の人間の運命、群集の運命をもち込んだ。
  娘は同僚六人が眠るに足るだけの小さな部屋で聞こえる程度の声で語っていたにもかかわらず、彼女の単調な声の深淵に、まるで無限のかなたにわき上がるマルセイエーズの嵐の歌声を聞くかのような気が私にはした。彼女はこれらのことのすべてを何の恥じらいもてらいもなく語ったが、しかし、そこには何のいやみも感じられなかった。そして、私たちが知るところでは、部屋数が十六もあり、そのなかにはセザンヌ、マネー、モネーなどの絵がはちきれんばかりにつめ困れている住居の持主である、その夫人がじっと聞き入っているのだった。
  マルセイエーズのほかに、私のほうにはある種の感傷をそそるハンガリーのメロディーが迫ってきた。私はブタペスト郊外のウーイペストやアンジャルフェルトの工場の女工たちのことを思い起こさざるをえなかった。彼女たちも同様にゴキブリやカビのにおいでいっぱいの貸し部屋で寝泊まりしている。そしてこの重苦しい距離の隔たりにもかかわらず、共通の運命が演じられているのである。だって、ここにいる娘とハンガリーの女工とのあいだにいかなる隔たりがあるというのだ?
  ハンガリーの女工のプリント生地の服はアイスクリーム色の生地よりも趣味がいいとはいえないかもしれない。しかし彼女らの言葉、願望、ニック・カーターのパンフレット、彼女らの労働運動の知識は、プシランデル主演の映画ばかりでなく、ゲルハルト・ハウプトマンの『織工』、アウグスト・ベーベルの著作、それにクロポトキン公爵の自叙伝などによって誇張された被搾取者の生活よりも丸十年は遅れているのだ。そして私は、これらのウーイペストやアンジャルフェルトの女工たちから、安い晩飯の代償にせいぜい惨めな愛の戯れをだまし取ることができるということに、顔を赤くせざるをえなかった――そして、イチゴ・アイスクリームは社会主義運動について、クロポトキンについて語っている。それらは私自身がほとんど聞いたことのないようなことだった。
  ほかの者たちはティーッセンのパイナップル入りの処方による飲み物を熱烈になめたり、すすったりしていたが、私はフルーツ・ポンチはきらいだったからシャンパンをそのまま飲んでいた。私はこの二人の女性を見つめていた。一人のほうを見て、その隣を、そして一人のほうに向きなおっているもう一人を――ゴッビも大尉とともに彼女らを見ていた。
  バルトリーニの店のなかの気取りやうぬぼれ、成功や嘘っぱちの勝利といった精神的屋根裏部屋に、工場で働く女労働者が席を占めたことはこれまで一度もなかったはずだ――髪を長く伸ばした男たちや、短くカットした髪型のスラヴ系の女学生たちはタバコの煙の霧を通して彼女を見つめていた。それはまるで引き潮の後に砂浜に残った潮だまりのなかから忽然として出現した小さな奇妙なお化けを見るかのような目つきだった。
  歌をうたうダンサーはバターのような白いコスチュームを着て、からだの輪郭を浮き立たせるパントマイムを演じていた。彼女の赤毛のかつらの上のほうには、金の光輪のようにあしらったはとの羽のパリ・モデルが、暗紫色から緑をへて青藍にまで沈んでいく色のスケールのなかで輝いていた。
  しかしゴッビは立ち上がり、そして二マルクのヒナゲシの帽子を丸く編んだ重たいつやのある髪から取り去った。娘の顔はフルーツ・ポンチのほうに向かってほてり、グレーの目は無意識の陶酔に輝いた。鼻孔はふるえ、小さな胸のとんがりはプリント地のイチゴ・アイスクリームのスーツの下で張りつめていた――そして私たちは、勝利は一瞬にして彼女のものになったという印象を受けた。彼女の周りの全員が急に老けてしまった。バルトリーニの店全体が急に古ぼけて、薄汚くなったかのようだった。そこでゴッビは、職業的哲学者のところのガラス・ケースのなかの操り人形が、彼の目の前でぴくりと顔をしかめたことについて語りはじめた。
「思ってもみてくれよ。クレモナで謝肉祭がある。聖チェチーリア広場で身ぶるいしたり、シーシーと言ったり。爆発したり、火花を発したり、押しあいへしあいしたり、へへら笑ったりするんだぜ、コメディア・デラルテが。市全体が黒い鼻のドットーレやせむしのプルネッロやアルレッキーノ、それに大勢のひし形模様の衣装をつけた連中や、から威張りのスカラムッツォ、好色なパンタローネ、それに脳天気(のうてんき)なコロンビーナや、どもりのタルタッリアと楽しむんだ。みんなが遊び、自分で自分のことを笑うんだ。あらゆる瞬間に新しい生きのいいウイットが炸裂する。やがて夕闇が迫り、ポー川の上空に星が輝き、「三女神」(スリー・グレイセス)酒場の中庭と広場と通りに松明がかかげられる。
  やがてコメディアはオペラ・ブッファにかわる。ストラディヴァリ家、アマーティ家、グァルネリ家の子供も大人も仮装(マスク)に身をやつして、一人はヴィオラ・ダ・ガンバ、次の者はヴィオラ・ダモーレ、第三の者はコントラバス、第四の者はヴィオロン・チェロ、第五の者はヴィオラ・ダ・ブラッチョ、第六の者はヴィオリーノ・アラ・フランセーズ、そのほかリュート、リラ・ダ・ブラッチョ、ギター、マンドリン、そしてモンテヴェルディの音楽のなかでヴィオラ・ダモーレはコントラバスと愛しあい、ヴィオラ・ダ・ガンバと、アルレッキーノのマンドリンとピエロのギターも愛しあう。
  このオペラ・ブッファのなかでは、運命や神の勝って放題な、すばらしい気まぐれから、その当時のみに生きることができたような、音楽と楽器の青春が生きている。ヨーロッパの空間は広がり、サトゥルナーリアの古代的野放図さは、三十年戦争(1618−1648)の恐怖の後に、ふたたびはなばなしく返り咲き、ヨーロッパは謝肉祭の兄弟愛的陶酔のなかで生まれつつある楽器と芸術ジャンルのまっただなかにいて、音楽とマスクと踊りと芸術によって、しかも天上的な涙と笑いにも事欠くことなく生きようと望んだのである――そして響きに満ちたクレモナの広場ではバイオリンがうたい、笑い、涙を流している。やがてそのすべては収縮し硬直し、そして死んだ操り人形へと変わった。
  子供たちはおやつを待ち、戦争ごっこの準備をしている――わたしはあそこのガラス・ケースの前にすわり、わたしがバイオリンにこれ以上何を望んでいるのかわからずにいる。わたしの左手は麻痺し、目はうるみ、私の頭上にはサイン入りのニーチェ=ザラトゥーストラの銅版画がかかっている。
  しかしわたしはそこに何かが抜けているような気がする。たぶんそれは聖チェチーリア広場だ。そして、まさにここにこそ大きな違いがあるのだ。わたしはいったいなんでバイオリンを教えているのか、わたし自身、新しい大コンチェルトを作曲することもできないで! だからわたしは街へ逃げたのだ。そしてここの娘に出会ったのだ。事情はそういうわけだ。これこそ救いの天使だ。君にわかるかい? どうかわたしの救いの天使になってくれ」
  娘は一言も理解できなかった。しかしゴッビの目には、娘がいつか救いの天使になることができるかもしれないという思いに、熱い火が燃え上がった。たとえ救済するのが、たった一人の酔っ払いに過ぎなかったのしても。グレーの彼の目に火がともったとき、それは異様に見えた。このようなものを私ははじめて見た。私は何かが墜落しはじめたような、たぶんバイオリンのことで何かの不幸が起こっているかのような、そんな気がした。
  そんなとき『ドイツ芸術と装飾』の最新号が私の手に触れた。私は開いてみた。そこにはかつて見たこともないようなシミの野性的饗宴(オージー)と線と幾何学的形象の混沌(カオス)があった。『マンドリンを持った女』これは何だ? ギターを持ったアルルカンだ。私の血管のなかでシャンパンが勝ち誇ったように脈打った。そこでは誰かが恐ろしい鉄のこぶしでリーバーマンやスレーフォークト、クリンゲル、トーム、シュトゥックたちの一派に、マネ、クリムトに、印象主義や分離派(セセッション)に強烈な一撃を加えていた。
  誰かが遠くで黒人のファンファーレを吹き鳴らし、いま誰かのキャンバスの上の聖チェチーリア広場の新しい平面に舞い降りている。誰かが死にゆく者の声をつかみ、新しいキャンバスの上に、絵画の新しい平面上に、シミを一生懸命運んでいる。誰かが画筆で大コンチェルトを、新しいパレットでオペラ・ブッファを書く。
  バルトリーニの店には堅い胸をした女労働者がすわり、マルセイエーズが一度ゴッビの腕を高々と上げさせ、アルレッキーノたちはふたたび天まで大きくなり、すべてが新しい戦闘へと出発する。
  そうだとも、私たちはまだ死んでいない、まだ、死んでいないんだ!
  私はこれらの思いをすべて叫びたかった。しかし私はすでに酔っていた。だから私は貧しいドイツ語の知識を放棄して、ふるえる手でゴッビの鼻先に『ギターを持つアルレッキーノ』を突きつけた。
 「見たまえ! アルレッキーノの復活だ! 彼は画筆でバイオリンを弾いている! パブロ・ピカソだ!」
  ゴッビは愕然としてその複製画を見ていた。シミの混ざり合い、線のもつれ、幾何学的画像のアナーキー――そのすべては爆発したかのように散らばっていた。やがてゴッビの左手はさらにいっそう麻痺してしまった。
 「こいつは何だ? これは誰だ? おれには理解できない」
  私たちは長いあいだ沈黙していた。私には聖チェチーリア広場がバルトリーニの店をおおいつくしたような気がした――そして私たちは全員、瓦礫の下に生き埋めになっていた。私はここから逃れなければならないと感じた。私はダナエと別れるかのような気持ちで赤毛の婦人の手にキスをした。それから私は人に気づかれないように、そっと、その場を立ち去った。
  私は通りへ出て駆けだした。頭のなかでは一つの名前がずきんずきんと動悸を打っていた。パブロ・ピカソ、パブロ・ピカソ。私もまた絵描きだったのだ。だから私は逃げた。人々は私を気ちがいと思ったことだろう。角を曲がった。そして、ワインとピカソに酔ったなかで広い空間を駆けたかった。誰かが走りながら私のコートをつかんだ。私は振り返った――それはヒナゲシの帽子を手にしたイチゴ・アイスクリームだった。私は彼女のもう一方の手を取った。こうして私たちは手に手を取ってさらに駆けつづけ、笑いあった。






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