(10) コメディア・デラルテ――1671年
聖ペテロを初代司教とし、そのあとを受けつぐローマ・カトリック教会はオリンポスの山を引き倒し、その神々を泥まみれにしてしまったが、カタコンベのなかに押し込んで窒息させることまではしなかった。教会はオリンポスの神々の祭典が天国的愉楽ではなく、地上的、世俗的な快楽であることを十分承知していた――とはいえ、天国的至福だけでは世俗の民衆は満足しなかった。
だからたとえいい結果にはならにとしても、ローマ時代以来の農業神の祭(サトゥルナーリア)を謝肉祭で代用してやる必要があった。それは貧窮からの脱出口だ。なぜなら、貧窮から脱出できれば、あとは天国への道に向かって全力を注ぐだろうからだ。もちろん天国への展望がどんなに豊富に提供されたところで、すべてのものを提供することなどできはしない。精神的な滋養のほかに肉体的にも何かをあてがってやらなければなるまい。せめて、ちょっとした味見くらいはさせなければ――。
言葉、冗談、胃袋、路地、セックス、それに地位身分にたいしても――それが聖灰水曜日の前の日だけだったにしろ――日ごろの抑圧を解き放ってやる必要がある。愛国者たちも、平民も、司祭たちも、乞食修道僧たちも、ボルジア家の一族も、ジョルダノ・ブルーノ(1548-1600: 地動説を支持し、汎神論を主張、異端審問の結果、火刑)派の連中も、租税の滞納者も、縁日の香具師(やし)たちも平等の人間になる必要がある。たとえ、それがほんの何日間か、何時間かのことであれ、自分の本物の顔を仮面の下に隠すことができるように、屈辱も告白も、理性の罪もすべて、笑いのなかに覆い隠す必要があったのだ。
ルクルス(紀元前65年没、ローマの将軍、大規模な饗宴を開催したことで有名)はサトゥルナーリアを渇望する大勢の奴隷、平民のあいだに船の積荷の、ほとんど腐りかけた小麦の分配を強いられたし、一度は貧しい通りに立ち止まり、金貨を転がしてやることも必要だ。畑も広場も、ともに息を切らせて何らかの大きな開放への過程を進むことも不可欠だ。これまでは押さえつけられていたのだが、ここで目を覚ました兄弟愛、経済の吊看板の勝利のはためき、そして風見鶏の大きなキスのおとも、オリンポスの火の争奪戦も必要だ。そのあとで、すべてが古いままであり続けられるように――。
今回は釜が爆発しようなどとは、まだ誰も知らなかった。しかし安全弁をあける必要のあることを、最初のサトゥルナーリアと謝肉祭をこの世に最初にもち込んだ者は感じていた。たしかに、これは貧窮からの出口ではあるが、教会はこの譲歩を三十年戦争が全ヨーロッパで死の踊りをおどり狂った今度だけは取り止めにしたかった。
死神はアレッキーノの衣装、疫病はピエロの衣装をまとい、血にも、火にも、空腹にも、荒廃にも、それぞれに見合ったあらゆる種類の仮面(マスク)を与え、黒い馬にまたがって窮乏からの脱出口となるべき何千という荒野を駆けまわらせた。それは死のサトゥルナーリアであり、死の謝肉祭だった。都市や村の聖灰水曜日は黒死病(ペスト)と真っ赤に燃える石炭の大海のなかに、そして、灰の雲のなかにあった。窮乏から脱出の復讐だった。
しかし、それでも太陽だけは輝いていた。カーニバルは黒い馬たちを徐々にとらえ、黙示録(アポクリフ)の馬車につながれていた馬も、騎士が乗っていた馬も武装を解いた。ハンブルクやブレーメン、リューベックなどの海岸や岸壁には舳先(へさき)を花で飾った商船が凱旋の轡(くつわ)をならべ、パリのシテ区では角に金を塗った太った牛が群れをなし、、マドリッドとセヴィリアでは竿の先にぶら下げた蝋人形の行列、ミュンヘンでは輪の上で踊っているハンスとグレートヘンをともなった行進、ローマでは競馬、ベネチアでは気ちがいたちの小船、そしてクレモナではせいセチーリアの三角広場での楽器の祭り、そこへ貴族たちのご到来という具合。
残念ながら私は聖チェチーリアの生涯を知らない。この聖女について知っているのは、彼女が楽器を非常に愛していたということだけである。私は何度も古い画商や新しい画家の絵の上で彼女に会っている。それらの絵のなかで、彼女は花咲く野原で小鳥や蝶々たちにオルガンを弾いて聞かせている。そして森の奥の暗い背景では目に見えないニンフやファウヌス(<ギ>サチル)たちがバイオリンを弾いている。
また、あるいは太陽の降りそそぐ山頂で、天使たちのために楽器を奏でている。天使たちはそれらの音から、私たちの主と創造主のために、光りかがやく髪のまわりに音の後輪を編もうとでもいうのか、羽ばたきながら雲の馬の背に楽器の魂を乗せて天国の道の高みへと運んでいる。だからこそ私は孤独の時間に、私には未知の生涯を送った、かの聖チェチーリアにほれ込んでしまったのだ。彼女の純白の肉体は私の罪の真っ只中にありながら純化の手段(楽器)である。彼女の音楽のくちづけは私のアンダンテであり、彼女の純潔な視線はゆれ動く私の気持ちのスケルツオに活気を与えてくれる真珠玉の泉である。
やがて私も彼女とともに小鳥や蝶やファウヌスや天使のために音楽を奏でるだろう。そして、私の魂と言葉も何かの大きな虹の光輪は聖チェチーリアの白ユリのような純白の手のひらの愛撫のうちに私の全存在を飲み込んでしまうだろう。しかし、これらのすべてはただの軽佻浮薄な物書きの私的なたわごとにすぎないのだ――だが、それよりも、今は騒々しい罪深い、汚濁に満ちた「三女神(スリー・グレイセス)」酒場の本性が聖チェチーリアの白い雲のような存在にたいして、どんな厚顔な顔をむけできるのか、むしろその点を考えたほうがよさそうだ。
その通りは、クレモナ市の権威ある評議会員の方々により、この聖女の名前にちなんでつけられたことは明らかである。それというのも彼女はことのほか楽器を愛していたからである――だからこの広場は、あらゆる時代を通して楽器をたたえる祝祭の中心地になったのだ。たしかにそれはもっともだ。それに悪い理由は何もない。
しかし私は本書の第七章で「三女神」酒場の性格については、堂々たる押し出しの騎士サルヴァトーレ・トスカーノとアントニオ・ストラディヴァリがワインを前にして、読者の見解をたずねてみたいものだ。つまり、私にはその両者の、つまり酒場と聖チェチーリアとのあいだの協和音関係を見いだすことができないのだ。だが、ともあれ発見にはつとめてみよう。
謝肉祭の最後の日には全クレモナ市が一睡もしなかった。すでに朝早く、人々は郊外から運河のそばに群がり、かの聖女の広場にあらゆる方角から大勢の人波が押し寄せてきた。貧困は叫び、飛び跳ね、マスクのおかげで開放された――今日は乞食たちもが市民階級にも手出しができた。なぜなら乞食のぼろ着でさえ、単なる仮装の仮面になりうるからだ。
「三女神」酒場のあらゆる片隅では人々や動物や子供たちがひしめき合っていた。いったい、いま、どんな宿なしや社会のはみ出し者がクレモナ市民とまじりあっているのか、誰が誰で、誰がどんな仕事か職業か言えるものとて一人もいまい。部屋、キッチン、物置、馬小屋、地下室、屋根裏部屋、使用人部屋、そのどこもが人間であふれかえっている。彼らは脱いだり、着たり、道化も俳優も、それに盗人までが……。この日、大きな中庭には荷車も馬車も通っていなかった。椅子籠も通らなかった。そして広い三角形の空間の、木戸のない踏み倒された柵に近いほうの部分では、ノコギリがごしごしと音を立て、大工用の斧が風を切り、金鎚の音が響いていた。そして台が組み立てられるときは誰もがそばで見ていたいだろう。つまり、この台はコメディア・デラルテとオペラ・ブッファの公演の舞台となるものなのだ。
広場では主催者が出演者たちをグループに分け、彼らにコメディーの簡単な筋書きを、子供をふくめて全員が完全に覚えこむまで、くり返しくり返し読んで聞かせていた。もし私たちが各グループごとに別々に、しかも、うんざりするくらいに単純で、内容のとぼしい筋立てをくり返しているのを聞いたなら、この幼稚な寄せ集めを馬鹿にして笑い出したくなるだろう。
あまりにも頭の切れるボローニャの博士が――ほかの連中ともども――好色な老人パンタローネの娘コロンビーナに恋慕している。そこで最初は目も当てられないほどみっともなく、かつまた滑稽である。なぜならコロンビーナにはほかに二人の軍人カピターノ・スパヴィエンテとカピターノ・スカラムッツォも恋をしているからだ。
ところで、一方、パンタローネの心のなかでは娘の下女に対する愛の炎が燃え上がっているが、彼女はプルチネッロ以外の男には見向きもしない。ところがこのプルチネッロは女性の扮装をして喋りまくるというわけだ。プルチネッロと張り合うのは博士の下男ブリゲッラとアルレッキーノ、それに軍人の下男スカピーノとピエロであるが、これは毎度おきまりのこと。それにたいしてコロンビーナは名声かくかくたる騎士トルファルディーノにたいして憎からぬ思いを秘めている。もちろんそれは父親のいに反したことなのだ。
これらのすべてのこんがらがった関係を、タルタッリアが観客に十分説明する――彼の同類の人物たちは、誰もが思いもかけないところで舞台に登場する権利をもっている。そして、このこんがらかった関係をさらに一層こんがらがったものに仕上げていく。しかもこれがすべてなのである――そこには、あらかじめ決められた台詞は一言もない。しかし、そこから新しく組み立てられた舞台の上に展開されるものは、何千回と演じられ誰もが知っているこの単純な筋書きから、おおよそは理解できるのである。
私たちにとって理解を困難にしている状況は、この手のあらゆる種類の即興的な筋の展開がかなり困難な迷宮(ラビリント)だということであり、しかも当時は、まだ、いかなる種類の速記術なるものも知られていなかったから、後代の人間にはコメディア・デラルテや、その他の類似した舞台の上で、いったい何が演じられたかについての記録がほとんど残されていないということである。
善良なる老ゴルドーニ(1707―1793)はドラマのこのような一貫性のないつぎはぎ細工を、正当にも、苦々しく思い、腹立ち紛れに数百のコメディーを一気呵成(かせい)に書き上げた。そのなかでは対話の言葉は一語一語を書き記し、ここの役のために書き分けた。だからゴルドーニは小市民階級が脂っこい食事のあとの大きなあくびをかみ殺しているように、ピューリタンが肉屋の息子をストラトフォードから追放したように、死が生を滅ぼすようにコメディア・デラルテを押しつぶした人物だ。
しかし、いまは太ったふくらはぎをもったこの劇作かのことは脇へおいておこう。それに彼はもともと今日にいたるまでベネチアの記念碑の上の微笑を浮かべた銅像が証明しているように、まったくごく普通の人間だったということもありうるのである。
そこで私たちは、しばらくもう一つの三角形の広場のほうに目を向けてみよう。私たちもできた手の舞台に登場してやるのだ。そして、金持ちで好色なパンタローネと、すべてのものを徹底的に分析せずにはおかない習慣をもっているボローニャのドットーレの周囲で演じられていることを、せめておぼろげながら通訳してみよう。
タルタッリア (縁日の呼び込み屋のマスクをつけて登場。そのグリーンの長い服の上には日のように真っ赤な太陽と、白い月と、金の星が輝いている。高い、とんがった魔法使いの帽子の両面に雄鶏の羽根がついている。白く塗った顔と、その上に黒い輪、ひなげしの色の鼻。青い山羊ひげ――髪と鼻ひげはまったくない。足には手首から肘くらいの長さの大きな靴を履いている。太鼓と錫の皿をたたき、叫び声をあげ、はや口でしゃべるなと思うと言葉につまり、どもり、咳払いをしたり、唾をはいたり)
ここに新しく作られた、舞台の上から皆さま方に前口上(プロローグ)を述べさせていただきます。
群 集 しゃべろ、さえずれ、聞いているぞ!
タルタッリア
ところが、みなさまご一同、何が起こるかはとっくにご存じ。
これなるドクトル・グラジアーノ、ボローニャ生まれの大学者、
世界にその名は知れわたり、さらには、
ただいま、ご到着をばなされたばかり。
なにゆえと、おたずねなさるるか?
それなら、ただちに申しましょう。
群 集 誰がそんなやつに興味があるものか! そいつが知っているのは蛭(ひる)の吸出し、浣腸、吸い玉治療に、静脈からの瀉血法! それか、そやつの学識の 全部じゃないか!
タルタッリア
おやおや、この方、ご存じと! いまはさておき
わたしの口上、最後まで、述べさせてくださいませ。
そこでお出ましのそのわけは、いささか老いぼれ、くたびれの
貴賓、淑女のみなさま方の
食らいすぎたる胃袋を
ちょっぴり、すっきり
させ参らせようとの思し召しから
さあて、みなさまお望みなれば
瀉血、浣腸、何でもござれ
準備万端、整えてござりまするー
群 集そんなら、貴様の巾着袋の浣腸でもしていろ!
タルタッリア
さて、われらが善良なるドット―レ
診療のためクレモナへ旅立たれたのはいいものの
旅の途中、アモール(愛)の矢が彼のハート彼のハートへ命中してしもうた
おかげで先生、ご自身が、ひどい病気にかかられた。
運命は、こともあろうに、パンタローネと引き合わせたが
これぞ、かわゆい娘の親御さん
そうそう、みなさん、ご存じの、コロンビーナがその娘。
先生、娘を見たとたん
神が恋の火花を吹きかけて
先生、恋の火だるまに。
ブリゲッラにアルレッキーノ、この二人の下男たち
娘の下女の心を取り囲む、
それというのも、ほかの紳士方が近づきにくくするためだ。
ただし、この娘を心ひそかに見張っているものに
娘の父親、パンタローネもその一人。
みんなはそろって「三女神」の酒場に
陣営をかまえる・・・・・・が、
これはかつて「三匹のシラミ」とよばれていたところ。
そして、いましもそれが起こらんと、
まさしく不幸な偶然が!
よりもよったり、そのときに、二人の荒くれ
勇猛な騎士が憤怒の形相ものすごく
いまや、大火のごとく燃え盛り
あわれ、われらがドットーレの花咲く行く手をさえぎった。
片やカピターノ・スパシエンテに
二又の矛のごとくに両端のとんがりひげのスカラムッツォ。
それに彼らの従者、ピエトロトスカッピーノ
猛虎のごとく侍女に飛びかかる――
あわれなるかやプルチネッロに。
こいつはそのとき、女のスカートをはいていた。
そこで、もしこれが、例のメス狐のコロンビーナと
いつもそのあとをついてまわる
愛人トルファルディーノだったらば
血の雨降ったは間違いなし、
いまのところは二人とも逃げだす気ではないらしい。
ところで、ここからどんな教訓がでてくるか?
「人間、この命のあるかぎり、女を信じるな」ということか。
さればこのコメディーが終わったれば、
なにはさておき大急ぎ、わが家へお帰りなさりませ。
それから、よっくご覧あれ。
しかし、まあ、いまはわたしらとご一緒に、少しばかりのしんぼうを
そして燃えし火をば消さぬこと――きっと、まだ燃えてはおりますまいが。
やっとの思いでつとめまする
これなる役者どもに似ましたる出来事は
稚拙なる弱強挌韻(アイアンブス)にて織りなせるもの、作者はてまえ
あなた方のストラディヴァリ――ジャコモ・ジュゼッペ――
それは、真実、汗ひと樽にも値せしもの。
今日は、わたくしめを、いましばらく、ご利用あれと
わたくし、みなみなさまに、御もうしあげまする、
と、申しまするのも、コメディアはただいま始まったばかりでござりますれば――。
タルタッリアの言葉はものすごいざわめきの中に沈んで、口上役者はいたずらに太鼓 を打ちいたずらに錫の皿を鳴らしたが、彼の本体の口上はもはや誰も聞いてはいなか った。色とりどりの群集の色彩の海は、二月の太陽の光にたらされて波打ち、人波の ざわめきは一旦は盛り上がって、ふたたび大きな広場や酒場の中庭、家のバルコニー や屋根の上、さらには煙突の上におさまった。
色あざやかな紙テープや紙ふぶきがあらゆる方向で飛び交い、子供たちはキーキーと 叫び、犬は吠え、ラッパは鳴り響き、足を踏まれた者たちの悲鳴が笑いの潮騒のなか を突き通っていく――タンタッリアは舞台の上から飛び降り、群集の人波にのまれて いった。
少しの間を置いて、雄鶏の羽根で飾った高い帽子をかぶって、ふたたびどこかから現 れた。そして舞台の上に黒い服を着たドットーレを連れてきて観客に紹介した。ドッ トーレの背後では、階段の上に四つんばいになって、彼の二人の下男がもみ合ってい る――二人は荒い息をしながら、またもや階段の下に転げ落ち、姿勢を直して立ち上 がった――それから最後に、四人全員が舞台をひとめぐりした。
ドットーレ・グラジアーノ(黒いキュウリのような鼻、浅黒い頬、グリーンの眼 鏡、大きな白いネクタイ)
わたしは鼻をひくひくさせながら、あちらこちらに首を突っ込み、むしろ、そこらじ ゅうをぐるぐると駆けまわり、見まわり、見まわし、検分し、点検し、あらを探して 注文をつけておりました。まるでこのわたしが自分でこの足場や、この演壇ないしは 演技の場、簡単に言やあ舞台のこと、その舞台つくりの監督であるかのようにでござ います。この舞台、これはまた競技の場ともいえますな。実を申せば――この舞台、 役者の足どり軽やかなれば言うことなけれども、たとえ大根役者が足を踏み鳴らそう が、つんのめろうが、尻もちをつこうが、はたまた威風堂々、威厳ある重い足どり、 その足どりの早かろうが遅かろうが、板一枚、垂木(たるき)一本、ぴくりとも、へ にゃりともいたしませんこと、これまさに、ほんとのほんと、うそ偽りなしの大請け 合い。
そこで、わたくし、コメディアの開始のためのライセンスをば作成つかまつりました 。運命は勇者の味方。ええい、こうなるにいたっては、かつてローマ元老院の議員の 言葉にありますように「ウィデアント・コンスレース!」<執政官に見張らせろ>を きめこみましょう。後は野となれ山となれ、俺は知らぬの河童の屁。おっと、わたし としたことが、身分不相応なる下賎の言葉。そんなものは放っておけ、タルタッリオ 、この下劣なる精神と肉体の持主の役立たず。この評判かんばしからぬ酒場にて、我 輩を不幸なる運命につかせんとする、その他の人物たちをしごとにつかせろ。
行け! そしてあのぐうだらの二人が相手では、わしはうまくはやれまいがなと言っ てやれ! それとも、うまく行くかな?
タルタッリア
お言葉どおりにいたします。わが親愛なるドットーレ。(退場)
アルレッキーノ(少なくとも百以上の赤、青、黒、白、黄、緑の菱形の小切れを 継ぎはいだ、ぴったり身についた服、小さな鈴をつけた三角帽子、黒いマスク、手に はリボンのついた杖、そのリボンの一本一本にも鈴がついている)
さーて、みなさん、わたしはその昔、学識豊かなる魔法使いにござりました。魔法使 いのなかのマイスターと称されていましたもの。ところがいまでは腕も落ち、あわれ なる人間の走り使いの身になりはてた。コメディアが人間をいかにあらゆるものに作 り変えるかを、どうぞごゆるりとご覧あれ。
ブリゲッラ(白いお仕着せに、黄色のリボンやテープがついている。顔の半分は 緑色、半分は白)
さーて、ご覧あれ、あのお方を! 目ん玉こすって、とっくとご覧! そいじゃ、あ んたには使い走りの役がお気に召さんとでも? だから、ドクトル先生の治療をチョ ロチョロのぞき見か? そんならわたしにおまかせを! たぶん、あんたは、まだ、 きれいな娘ごのお尻の穴に御手ずから、浣腸液をつぎ込まれたことはありませんな?
アルレッキーノ
しわくちゃの、ばばあの尻の穴なら、おまえたちにまかせよう。
ドットーレ・グラジアーノ
貴様らときたら、もう、さっそく言い争いだ。ここには大勢の高貴なるレイディー方 がおまえらの馬鹿話を聞いておられるし、こんなにたくさんの若奥さまがおまえらを 見ておられるのだ。おまえらは自分の顔に浣腸液を吹っかけて、ちっとも恥ずかしく ないのか? きさまら、むしろ、女中どもを探すがいい。それならおまえたちでも役 に不足はあるまいし、わしにとってもうまく行く。このとんま野郎、少しは身の程を わきまえろ、わかったか!
タルタッリア(酒場の庭で)
ほーれ、ここに身体強健なる勇者パンタローネさまのご登場! コロンビーナさまと お付の方もご到着!
(ベネチア風の衣装の下僕たち、二台の椅子籠をかかえて中庭を通り抜けて舞台の上 に運び上げる。前の籠にはパンタローネが乗り、もう一方にはコロンビーナとその下 女が乗っている。パンタローネが大きな息をする。下僕たちは籠をおろし、そこら足 りをあちこち走りまわる)
タルタッリア
ここにあります一人の重病人! 幸いなことに
かの有名なるドクトル・グラジアーノさまが
われらが町にご滞在。
どうかこの病人のお見立てを!
ドットーレ(第一の籠に頭を突っ込むが、そのときあまりにも深くかがんだので 、見えるのはドクトルの尻だけとなる)
アルレッキーノにブリゲッロ! ランセットをもってこい。急げ、ピンセット、蛭に 浣腸器! よいしょ、こら、これで患者が足をぱたぱたさせなかったら大変だ! オ ルガニズムが活動を停止し、呼吸が止まったら――これは胃腸の洗浄をせにゃならん 。さもなきゃ「エクジトゥス・レーターリス」<死出の旅>への旅立ちだ!
コロンビーナ(籠から飛び出してくる。フープの入った大きなスカート、白い幅 広のベルトにマント。そのすべてには黒い矢の刺さった赤いハートがたくさん縫い付 けてある。わら帽子の上には縫いぐるみの鳩)
どうか父をお救いください。神の愛にかけて、どうかお助けを!
パンタローネ(籠のなかから)
おしまいだ! おしまいだ! これぞ、わが終焉! わが命を救いし者は、わが娘の 手と、わが財産の半分を得るべし!
アルレッキーノとブリゲッラ(巨大なメスとバケツと浣腸器を運んでくる)
やっと、浣腸という次第にたどりついたぞ! 最後の審判! ちょうど十二時を打っ たところだ!
ドットーレ・グラジアーノ
畏敬おくあたわざるパンタローネ殿、ズボンをば引きおろされんことを。しかして、 お尻をば突き出されよ! (浣腸器をあてがい、パンタローネの背中にくくりつけて あった、赤い液体の入った袋を切り裂く)
ほう、この手術はどうやら成功したようだ。もし、わたしの勘違いでなければ、あん たは生き延びますぞ。いま、しばし、腹に蛭をば吸いつかせましょう。そして、もし あんたがまだ生きておられたら、あんたは助かったのじゃ。(ドットーレは片膝をつ き、コロンビーナの手にキスをしようとする。しかし彼女は彼を払いのける。ドット ーレは腹ばいになって倒れる)
プルチネッロ(召使の黒い服、ボンネットをかぶり、レースの襟、大きなスカー トの下には黄色の彼本来の衣装のズボンがのぞいている)
ああ、これは親愛なるドットーレさま(女性の声で続ける)、たぶん、あなたさまは 、まだ一発もちょうだいなさっていませんのね?
アルレッキーノとブリゲッラ(女性のオッパイと見立てた、胸のあたりの 詰め物のコブをあいまいにまさぐっている)
なんだこりゃ! この女のオッパイ、こんなに硬いぞ! ほれ、触ってみろ!
カピターノ・スパヴィエンテとカピターノ・スカラムッツォ(山羊ひげに、大きな鼻ひげ 、憎々しいスペイン兵士の衣装を着て、重々しく駄馬の背にのり、よたよたと中庭を 横ぎってくる。武装は錆びついたダンビラに20センチもある拍車、彼らの後ろから 、水車の輪ほどもあろうかと思われる大きなひだ襟、黒いぴったりしたキャップ、白 いだぶだぶの上着、その上着には拳(こぶし)ほどの大きさの真っ赤なぼたん。カピ タンたちが舞台にたどり着くと、下僕たちは厚さにへとへとになって、反抗的なロバ から滑り降りて、自分のご主人のカピタンの馬の轡を抑えて、ご主人さまが馬から降 りるのを助ける)
コロンビーナ(パンタローネが籠から出るのを助ける。二人の軍人を見たとき、短くくすくすと笑い、そして・・・・・・)