(15) アーチボルト・ダンジー 一八八五年


    ここでわたしたちは一見、主題からそれたかにみえる。たしかにその冒険的な運命をすでに二世紀にわたって追跡してきた私たちのストラディヴァリは例のコンテストにも参加しなかったし、いまのところは所有者も変えていない。私たちは頑健なるダンジー大尉がウイリアム・ヒルから彼のバイオリンを購入したという事実にもそれほどの興味も沸かないし、スコットランドの彼の猟の館も、ボンベイのバンガローも、競走馬も、武器の収集にも慎重に内密にされた奇癖や性的異常にも興味がない。
    私たちに興味があるのは、次の日、この頑健なる大尉が「ヒル・アンド・サンズ」商会の代理人から陸海軍将校クラブで受け取った荷物のことである。そのとき大尉は植民地時代の四人の仲間とウイスキーをしたたかに飲んでいた。そしてその荷物とともに次のような内容の書面が付されてあった。



1885年5月14日 ロンドン        
拝啓

私どもの昨日の会話にもどりましょう。つまりその結果は、私の最も成功した作品があなた様の所有に帰することになったということでありました。そしてあなたさまの新しい、とくにイギリスのバイオリンにたいする理解ある態度を喜びをもって受け入れたのであります。私には、あなたさまがわたくしの作品と比較しうるような古いバイオリンをおもちであるかどうかは分かりません。わたしはあなたの考え方を存じておりますが、その点から考慮いたしますと、あなたさまは古い楽器をおもちでないと推断いたしております。
    そこで、わたしの敬意と感謝の念の表明として、あなたさまに同時にお送りいたしますストラディヴァリを贈呈したいとおもいます。確かにこの作品は巨匠の絶頂期のものではありませんが、それにもかかわらず、きわめて注目に値する作品であります。したがって、あなたさまの芸術的、専門的友人の方の鑑定にゆだねられる機会があなたさまに提供されることになるでしょう。予断にわずらわされることがないよう、このようなテストには暗い場所を確保する必要がございます。もし、そのコンテストの詳細な結果をご記録のうえ、そのことについてわたくしにご報告いただければ、わたくしにとって、この上もない喜びとなるでしょう。
    同時にバイオリンを受け取られたことについての確認証をお送りいただくようお願いいたします。

    最大の敬意をもって、
   
ウイリアム・エブスワース・ヒル



    手紙とバイオリンは赤いジャケットを着た男たちの手から手へと渡っていった。そのあいだに、ダンジー大尉は絹のようなやわらかい紙に一ギニー金貨を包んだ。そして金のエッジのついたペンで軍人らしく大きな文字を便箋に書いていった。


一八八五年5月14日・ロンドン

   ニュー・ボンド・ストリート: ウイリアム・エブスワース・ヒル殿

前略

小生は貴方からのにもつおよび誠意ある言葉に感謝を表明いたすと同時に、貴方の希望にそうべく努力をしたいとおもいます。前記の日付から十年後に、貴方ないしは貴商店にたいして小生の評価についての結果をご報告いたします。
   小生にとって貴方から贈られた品物は非常に名誉なことではありますが、何らかの代価なしに受け取ることはできません。一ギニー金貨を同封いたします。とはいえこのような行為で貴方の気分を害そうというつもりではありません。これは無償では誰にも与えず、誰からも受け取らずという、わが家の仕来りに従ったものであります。

   最大の敬意をこめて
H・M・第二ベンガル連隊・アーチボルト・ダンジー大尉      

    報告は軍隊的正確さで十年後にニュー・ボンド・ストリートに到着した。ウイリアム卿はその報告を待ちきれず、それが到着するまえにあの世に旅立っていった。私たちもそのなかに何が書いてあったのか知らない。もしウイリアム卿の息子たちの誰かのところに、この注目すべき大尉の興味ある報告が失われずに残っているのが確かなら、私たちは十年間続いたストラディヴァリとヒルのバイオリンとのコンテストの経過を跡づけることはできるだろう。もちろんこの報告は営業上の秘密とみなされているかもしれない。私にはわからない。
    しかし、一つだけ確かなことがある。この物語にかんする興味をティーッセンが見せられたとき、このウイリアム卿の手紙と先に紹介した大尉の返信の単なる書き写ししかもっていないとしても、そのすべてはバイオリンの所有者の名簿に関係する追跡の結果に結びつけられる。
    フォン・ティーッセンの小さなアトリエの部屋でクルトとクラーラがそのバイオリンについて語り合っていたとき、この二通の手紙をクルト・フォン・ティーッセンと同じくクラーラ・ヴァン・ゼルホウトも思い出していたのである。

  『だから、ダンジーが休暇になるか、または連隊にもどってきたときには、その二丁のバイオリンはロンドンとボンベイで本当に真価を競い合っていたのだよ。父から聞いた話ではダンジーはヒル製のバイオリンに、まるで競馬にでも賭けるみたいにかけていたそうだ。彼はそれをスポーツみたいに考えていたんだね、ハッハッハッ。
    もともと、彼は賭けごとにはあまりついていなかったらしい。父が彼からバイオリンを買うにいたるまでに、ダンジーは絵プ染むのレースでかなり負けこんでいたらしい。なぜって、彼はかなり逼迫した状態だったというからね。やがて、彼はインドに帰っていった。
    ぼくの父は当時、ロンドンのドイツ大使館付きの武官だったんだ――そして、やがてダンジーフィールドの所領で狩をした狩猟仲間のことも、ダンジー大尉のうわさも、一切耳にしなくなったそうだ」
   「じゃ、もしその大尉が黄熱病か虎狩りかでしんだとしても、貴方はそのバイオリンの所有者の名簿に名前を書き加えた?」
  「ぼくたちはいつかは死神の腕に抱かれるのだよ。いつかそこへ追いやられる。あるときはゆっくりとした足取りで、あるときは哀れにもビッコの足を引きずりながら。
   しかしこの名簿は……、もし君の名前のような純潔な名前までがこの汚らしい紙に書かれることになるとしたら、そういうことにいたらせたぼくは自分自身を非難せずにはいられないだろう。君の名前はここにはふさわしくない。むしろぼくの名前にふさわしい。どっちにしろ、ぼくにいいことはおこらないだろうよ」
   二人は黙ったが、バイオリンは語っていた。この静けさのなかで目を覚ましたのだ。
  「ご覧よ、クラーラ、このウイニャフスキだって、最後はみじめだった……どんな百科事典にも書いてあるよ……。彼はモスクワのどこかの病院で死んだ――まったく乞食同然に。それに、ぼくの父も……頭を撃った。理由はまったく謎だ」
  「謎ですって……?」
  「このものすごく太い鼻ひげの、あわれな道化師。この胸甲騎兵は不要なカードを切るみたいに、あっさりとこのビスマルクひげをそり落として、年金生活に入ったんだ。父は皇帝がこの国を破滅に導くと言っていた。そんなこと言ったところで、もともと、たかが一介の連隊長風情になにができるというんだい? 父は絶えず自分の破滅に向かって進んでいた。だんだんと内向的になり、自分の領地に引きこもり、領地の経営にも興味をもたなくなった。自分の書斎に鍵をかけ、しょっちゅうこのバイオリンを弾いていた。あのときも父はその決心を……」
  「ねえ、クルト、あたし、そうと知ったら、そんなに分からず屋じゃない。そんな思い出はさっぱり拭い去りたいわ!」
    しかしその記憶はすでにはっきりとよみがえっていた。ストラディヴァリはレボルバーの発射音を聞いた。ストラディヴァリは体中のあらゆる分子を振動させた。そしてボロフスカヤの石のような声を聞いた。あわれなヘンリクの頭を絶えずどやし続ける馬鹿女のわめき声が聞こえたのだ。
   ストラディヴァリは小柄で、ちょこまかと動きまわるエゼキエルの女房やメンデルの柔らかな手が自分をなでまわすのを感じた。やがて大砲がとどろき、馬のひづめの下で地面がゆれ、バイオリンは体中をふるわせながら、古ぼけたシュヴァルツェンベルクとともに踏みつけられたテントの布の下に横たわった。ふたたび大砲がとどろき、総督の官邸は瓦解した。
    やがて長い沈黙――シャトルヌワールのオーク材の戸棚。フランス革命の歌。それはどんなものだったのだろう? マダム・ヴェト……カノン砲の息子よ、万歳……ガストンの荷物のなかに入っての放浪の旅、ヴィエラがうたうロシアの春の歌、刺繍飾りのあるコノヴァロフ氏の燕尾服、街角でバイオリンを弾く騎士ウイシュニョウスキ、かわいそうなヘンリク、彼はパガニーニの『二十四のカプリツィオ』も『無窮動』も『ロッシーニのモーゼの主題による変奏曲』も『カンパネッラ』も、また弓にとっては悪魔的難曲といわれるものまで完璧に弾きこなしていたのに――。そしてまたもやボロフクカヤの鋭い声。
   嫉妬をこめたウイリアム卿の愛着、十年間にわたるヒル製バイオリンとのコンテスト、フォン・ティーッセン大佐のレボルバーの発射音。将校付き従卒であり、漆喰塗り職人シュルツの大きな真っ赤な手、二匹のフォックステリア、コックスとボックス――いまは底のベッドの下に寝そべっている。
    そしてクルトはテーブルの上からバイオリンを取って、モンテヴェルディの『プリマヴェラ』を演奏する。この曲とともに、かつてこのバイオリンは製作者自身の手から離れて、直接、世界へ向けて旅立ったのだ。一人のカストラートがバイオリンをためし弾きしている。それをカーテンの陰で聞き入るジャコモ小父さん……、まるで昨日のようだ。
   「あなた、バルトリ―ニのみ背にいらっしゃらない? あたし、お友達のゴッビさんに行くって約束したの」
   「じゃ、以降、くらーら。ほら、夕日がどんなにきれいだか見ていておいで、そのあいだに、ぼく、着替えをするから」
    静寂。二人は出て行った。ふたたび静寂。
    まもなくして、赤い漆喰職人の手をしたシュルツェがシュレーゼン出の背の高い娘を連れてはいってきた。この娘は二回の医師シュヴァルツのところの女中である。
  「さあ、エルラッヘン、今度はぼくが君にギターを弾いてあげよう」  

[第一楽章 ・ 終わり] 第二楽章に続く






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