(13) ヘンリク ・ ウィーニャウスキ   一八六七年


    ヘンリク・ウイニャフスキは自分のキャリアのなかでも最高の地位に達していた。彼はロシア皇帝の宮廷ソリストの称号を得たうえ、首都ペトログァルネリラード音楽アカデミーの教授にもなった。ボロフスキー夫人にはそれでもまだ満足ではなかった。彼女はさらに別の宝石、新たなる喝采の嵐、新しい冒険が欲しかった――それにしてもヘンリクには最低でも百人もの名声のある美女が熱をあげているのだ。それなのにヘンリクはまったくボロフスキー夫人の気まぐれのなすがままになっていた。
    彼はアントン・ルービンシュテインとポーランドの都市をグダンスクまで演奏旅行に出かかけたし、さらに計画された旅行ではハブルク、ロンドン、サウサンプトンやアメリカまで足を伸ばした。ワルシャワではこんなことがあった。黒いカフタン(長衣)を着たユダヤ人がわれらのストラディヴァリをホテルにもってきて、このバイオリンの大家に五千ルーブルで買うようにすすめたのである。ユダヤ人はとりとめもなくいろんなことを話した。
    その話すところでは、自分の遠い親戚からユダヤ人街の家を相続したが、一人のせむしの男がある一丁の高価なバイオリンは遺言によって自分が相続したのだと執拗にせまった。しかし肝心のバイオリンはどこにもなかった。やがて、そのせむしの男が死んだので、建てなおすために家を壊させた。そのとき壊れた壁のなかから秘密の金庫があらわれた。親戚がそのなかにこのバイオリンをかくしていたのである。その金庫のなかにはまだ何丁かの高価なバイオリンがある。そのなかには巨匠が自分用に選ばれるにあたいするようなものがまだあるかも……。
   ヘンリクはこの饒舌に退屈した。しかしストラディヴァリは気に入った。
   「五千ルーブルか、そいつはちょっと高すぎるんじゃないか?」
   ヘンリクは微笑を浮かべながら問い返した。 「いえいえ、とんでもない! 失礼ですがこの紙をご覧ください。これが天下一品、正真正銘のストラディヴァリであることを証明しております。どうかお確かめになってくださいませ!」
   ユダヤ人はみごとな彫刻をほどこしたクルミ材のケースを開けた。それはダヴィッド・ダヴィドヴィッチがつくらせたもので、その真っ赤なビロードの内張りのしてあるケースの仕切りから一枚の汚い紙を取り出して大理石のテーブルの上に広げた。ヘンリクは目で名前の列を追ってから、すでに書き込まれている名前の下に優雅な装飾体の文字で自分の名前を書いた。それから彼は上着のポケット、ズボンのポケットをすべてごそごそかきまわして、そのなかからくしゃくしゃになったり、折りまがったりした二千ルーブルと何がしかの札をかき集めた。それからマダム・ヴォロフスカヤの部屋に入っていった。
   「ねえ、君、ぼく、ストラディヴァリを買ったよ。千ルーブルばかし貸してくれよ」
  「あんたって、なんてお馬鹿さんなの! あんた4丁もイタリアのバイオリンをもってるじゃないの。いい、あんたがそのバイオリンを売りたくなったとき、いくらになるっていうのよ! ばか! あんたって人は、ほんとにこりないんだから、あたしは……あたしは、ボロフスカヤは……」
  「そんな話はあとだ、いまはその金をくれよ、そのユダヤ人が待っているんだ――早くしないと部屋から、またなんか盗んでいくかもしれないぞ。あいつは仲介人特有のいやな人相をしている。やあ、どうもありがとう」
   もどってきたヘンリクは金をそろえて差し出した。
々   「ほれ、これがその五千ルーブルだ。領収証を書いてくれ、それがわたしの習慣でね」
   彼がヘブライ語で書かれた領収証をもってきて笑った。
  「驚くべき民族だ! 六千年だよ、それに、ほかのどんな文字も覚えようとしないんだ」
  「なに馬鹿なこと言っているのよ! 六千年まえにはあんたのご先祖さまなんて、どうせ文字なんか賭けもしなかったわよ。あんたと同じに、アホな家畜だわ!」
   そしてまさにここにマダム・ボロフスカヤの秘密があった。彼女が自分の下品さによって、バイオリンによっていかなる人――彼女を例外として――をも感動させ、赫々たる名声を博した男に膝を屈しさせたのは、まさに彼女のこのげひんさだったのだ。ボロフスカヤ家の由緒について知っているものは誰もいなかった。しかし彼女はしょっちゅうくり返される口論のさいには「わたしはボロフスカヤだ」、そして彼には「本当は、わたし、ボロンスカヤは身分不相応なのだ」といやになるくらいくり返すのだった。こんな言葉のハンマーで男の頭のなかに自分の優越性を叩き込むのだ。そんなことのあとでは、ほんのわずかなやさしさが、この世のものでもない至福感で男の心を満たすのだ。
    ただ一つ確かなことはボロフスカヤがなぞめいた蠱惑的な美人であるということである。腰のあたりまでふくらませmお引きずりにしたビロードの衣装、マントー、マンティラとボレロ、鯨のひげの芯の入った鋼のように硬い胴着、さらさらと衣擦れの音を立てる絹織りのぺチコート、透かし織りのストッキング――その衣装にくるまれた高く、硬く、丸っぽい肉体が灼熱の野心、黒い目のなかの反抗的な憎悪、そして退廃的で相手を見下すような薄い唇、その微笑が男性たちの情熱を鞭打つのだ。
    もし、私が詩人なら彼女の歩き方について詩を書くだろう。私は散文というなんとなく控えめな手段をもって彼女の特徴を描写している。彼女のなんとなくよろめくような、同時に軍人のような断固たる足取りを想像しても見たまえ。俗な言い方をすれば、アイロン台の上を体を後ろにひねりながら歩くということになるのだろう。しかし私ならどんな柔軟な動きのなかにも鋼鉄の強靭さを感じさせるパンサーの歩き方だと断言する。それというのも彼女の動きを見ていると、この野獣がいったい、いつ、このゆらゆら揺られているような歩き方から、突然、思いもかけない跳躍に移るのか誰にも予想させないからだ。
    あるいはポプラの木を思い起こさせる。風はポプラの木にたわむれ、ちょっかいをかけるが、風は空しく吹き抜けるだけだ。なぜなら、その細長い幹は柔軟に風を受け流すだけだからだ。彼女の足取りの中には女性の肉体のあらゆる柔軟なたくましさが優雅に歌い、王女たちでさえ彼女に教えを乞わねばならないだろう。ただい、こういう歩き方をマスターできるのは――生まれつきすでに備わっていたというのでなければ――街娼だけである。それに彼女の肩、広くて象げ色の丸っぽい肩がその歩きをリズミカルに強調する。こういう状況を考えると、ボロフスカヤがこの繊細なヴィルトゥオーゾにたいして加えた専制的支配はまったく驚くにはあたらない。
    なぜなら彼女は悪魔だったからだ。つまりこうしじまのズボンをはいたお人よしのナポレオン三世を膝までのルダーンゴット(前の開いた婦人用コート)で、彼の胆石ごと戦火のなかに追いやったスペイン生まれのエウゲーニア妃タイプの――白鳥の背筋を持った王妃と同時代の――十九世紀七〇年代の悪魔だったからだ。だからヘンリクをナポレオン三世同様に「セダン要塞」へ追い立てるくらいたやすいことだったのだ。
    そこで彼らは町から町へと移動した。西へ行けば行くほど郵便馬車のかわりに、高い煙突のあるコーヒー工場が、派手な色を塗った蒸気機関車や駅馬車に似た客車を引いた列車が鋭い汽笛の音で蒸気時代の幕開けを告げていた。しかしグダンスクやハンブルクではまだいぜんとして帆布が煙突を圧倒していた。フリゲート艦やコルヴェット艦などの細長い煙突は、もっかのところは、大きな帆やマストやロープの陰に控えめに寄り集まっていた。そして黒い煙突の柱が巨大な柱となるのは軍艦が広い外海に出るようになってからである。
    イギリスに近づくにつれて煙と煙突の量はだんだん増加し、また工場の数も増えてきた。それらの工場は新しい世界の到来にたいする自意識の象徴であると同時に、恐怖と驚異の新しい時代を告げる予言でもあった。その世界は城館や教会の塔の背後に勢力を増大させている。アリの行列のようにうねうねと続く農民たちの行列は、農村から都市のアリ塚を目指して絶え間なくその数を増加させていた。機械織機は織工の暴動を押しつぶした。家内工業は密度を増す煙突の上方にもつれ合う黒い煙の抗争から、そしてだんだんと数を増すマダム・ボロフスカヤの宝石からも自分の死の宣告を読み取っていた。貴族階級は煙突の一本一本が自分たちのギロチンであることをまだ知らなかった。しかし彼らの足元の先祖伝来の地面が革命の時代よりもゆらいでおり、金が金庫から銀行へ流出していることを感じていた。
    劇場もコンサート・ホールもなかをうずめる観客たちが多様化し、競馬場では市民階級のものまでが封建貴族のマスクをかぶり、温泉地のレストランで飲み、陽気な太った女房の自慢をしているし、手にはオペラグラスをもち、花眼鏡をかけ、そもそも数十年前にプレーヴ市場で何が起こったかを見せつけるために、ことさらにエレガントにも、傍若無人にも振舞っていた。
    マルクスは新しい『社会契約論』を書いた。そして農民のアリの行列は新しい鉄道に沿って都会へ向かう。これだけで時代状況を描写しつくしたわけではない。そのすべてがボロフスカヤの血管を循環し、彼女の息のなかに吸い込まれ、彼女の欲望のなかに浸透し、彼女のなかで成長し、彼女の貪欲さを刺激するのだ。ボロフスカヤの目は煙突の煙のように黒かったが、それでも新しい宝石へのあくなき欲望に輝いていた。ボロフスカヤの喉は金を飲み込み、彼女のひくひく動く鼻孔は植民地のにおいをかいでいた。
    しかもボロフスカヤは際限のない食欲をもって吸収し、もののみごとにエンジョイし、百姓の健康と貴族の洗練とをもって欲望をみたし、金や食事と同様に男をもむさぼり食った。用がすむと男を天国のベッドから追放し、ベッドを沖天引きずりあげて、この説教台から自分の白いしりを宣伝し、金をかき集めるあらゆる煙突にたいする自分の独裁を宣言するのだ。ヘンリクや彼と同類のその他の男たちは、彼女の前にひざまずき、彼女のためにバイオリンを弾き、彼女のために機関車を組み立て、百貨店を建てた。コルヴェット艦やフリゲート艦は彼女の裸の大きな尻をでんとすえられるような新しい植民地を目指して遠い海へ船出する。するとヴィクトリア女王もバッキンガム宮殿から追い出されないように、恐怖に駆られてこの新しいタイプの女の真似をする。
    ボロフスカヤはへんりくがいやだったし、アントン・ルービンシュテインも鼻もちならなかった。それというのも、彼女にはルービンシュテインもユダヤ人であるという点ではヘンリクと同類に見えたからだ。この長い髪をしたピアノの巨人が彼の革命家的過去を三回目に語ろうとしたときボロフスカヤは最後までは言わせなかった。
   「それじゃ、あんたはシベリアでその話をさせられるわよ。あんたはエレーナ大公妃にすくわれたのよ、あの方からあんたを宮廷ピアニストに任命されたから、それに……」
   「ああ、そうだった。そのことを君に話したことがあったね、忘れてたよ」
    ピアノの名人は少しとまどった。そして路線に沿って過ぎ去っていく風景をながめながら、ハンスリックという名のある音楽批評家の悪口を延々と執拗に語りつづけた。
   「ハンスリックというのは要するにペテン師だよ。この反動的ないかさま新聞の『ディ・プレッセ』でおれもワーグナーも抹殺する気だ。彼はワーグナーについて、ニーチェと同様の気の狂った空想家だと書いている。で、おれのことは『ヴィルトゥオーゾには違いないが、うんざりだ。指のサーカス芸人』だとしか書いてない。おれのオペラもシンフォニーも、バラードもコンチェルトもこのペテン師野郎にはなんの意味もないらしい。それらの作品のなかには、これっぽっちの工夫もオリジナリティーも独自性もないだと。ときにはテーマらしきものもあるが、ただそれを大げさに吹きまくるだけで、手をかけて磨き上げていくという方法を知らない……そしておれは、考えられるあらゆることを書きなぐり、その他の似たようなものを曲のなかにつめこんでいるそうだ。この毒舌家はおれたちがすでに鉄道で旅行しているというのに、モーツァルトのころから何も起こらなかったみたいに、ヴィヴァルディにしがみついているんだ。まったく……そうおもわないかい?」
    ボロフスカヤは、ヘンリクがハンスリックにたいする攻撃に援軍を送っているあいだに、あくびをしながらカルマン・レッドの席の背に頭をもたれていた。そして長いスカートの下に隠れて、向かいの席の鼻メガネをかけた伊達男の足に膝を何度も押し付けていた。その当時鉄道の客車にすでに通路というものがついていたら、きっとこの二人はお互いに知り合う方法を発見できただろう――このようにして長い時間、お互いにただ興奮しただけだった。ドーミエかトゥールーズ-ロートレックがこの場面の目撃者だったら、きっと快楽の期待にあえぐ二人の赤くほてった表情を石版画かパステル画にえがいたことだろう。このようにして駅から駅へ、土地から土地へ――郵便馬車で、鉄道で、船の甲板で、そしてレストランで……。
    ペトログラードからはじまってジャルフォルニアまで、そしてその逆を。もし私がロシア皇帝の宮廷ソリストよりももっとボロフスカヤの関心を引いた男性のタイプをすべてピックアップしたとしたら、それだけで、私は問題の本質からそれることになるだろうし、また出版者や読者の嗜好に反して、好色性やユダヤ的エロティシズムについて必要以上に筆を費やすることになるだろう。そんなロマンならプレヴォーやブールジェのほうが私よりもはるかに容易に、完璧に書くことができる。だから私は、あらゆるコンサートで金が集まったこと、その金はホテルや競馬やルーレットやモード・サロンや宝石店で湯水のように流れ出していったということだけ報告しておこう。
    私たちにとって重要なのは長い髪のルービンシュテインが金を何に使ったかという事実ではない。しかし、ただ一つ、確かなこと――ヘンリクがあのとき、金成金としてカリフォルニアからもどってはこなかったということである。二丁のバイオリンをすでにシカゴで売っていた。そしてストラディヴァリは……。それについては、いずれまたふれることになる。





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