(12) ダヴィッド・ダヴィドヴィッチ・一八四九年より所有


   
ダヴィッド・ダヴィドヴィッチはユダヤ人街の通りの角にバイオリンをもった乞食を一年中見ていた。ぼろ服を着た男はあるときは酔っ払って、またあるときは正気だった。あるときは深い雪の中で体中凍えさせてギーギー音を立てていたかとおもうと、またあるときは力いっぱい弓を押さえつけて弾いているかのように体中から汚い汗をたらせて弾いていた。
    こんなこともあった。その男は安酒のにおいをぷんぷんさせていたが、それでも名人芸的演奏をひろうするかとおもうと、またあるときはひどい演奏で自分の楽器を責めさいなんでいた。かつては駒の上をわたる四本の弦がみんなそろっていたが、しかしいつのまにかわずか一本の弦を残すのみとなっていた。そしてバイオリンにはもはや一本の弦もなくなってしまったとき、ダヴィッド・ダヴィドヴィッチは乞食にたずねた。
   「どうした? もう一本も弦がないのか?」
    ぼろを着た案山子はむっとした顔をあげて、黒いカフタン(長衣)を着たユダヤ人を片方の目で見上げた――もう一方の目はなにか悪い眼病にでもおかされたのか、つぶれていた。
   「ない」
    それはまるで深い地下室からもれ出てくるような陰にこもった声だった。
   「どうだ、そのバイオリンをわたしに売らんかね。新しいバイオリンが二丁買えるだけの金を払うぞ」
    乞食は顔をゆがめてせせら笑った。もちろんこんな苦笑をせせら笑いと言えるならばだが――それというのも、その男は顎ひげのほうにたれさがった汚らしい鼻ひげをほんのちょっとゆがめただけだったからだ。
   「このユダヤ野郎、貴様はなんてことを考えているんだ! このバイオリンにどれだけの値打ちがあるか、おれはよーく知っているんだぞ! おれは領主だった。おれは貴族だぞ。騎士だ、へへへ……。おれは農場をもっていた。馬や家畜や羊の群れを……、それに書斎もだ……! いいかおれは書斎ももっていたんだぞ! それに三十丁のバイオリンも……、それに四十冊の本だ、へへへ。いいか、こいつはな、ストラディヴァリだぞ!」
   「わかった、わかった。そんなにいきなり怒鳴らんでもいい。おまえがそう言うのならそれはストラディヴァリだ。そいつはたぶんバイオリン製作者の名だな。何だって、それなりの価値をもっている。何だってだ! そんなに叫ぶことはない。そいつを買ってやろう。わたしと一緒に来なさい」
   「おれを酔っ払わせようったってだめだぞ。おれは絶対に酔わんぞ! バイオリンはおまえに売ってやる。ただし、おまえがこの楽器の値打ちに相当する金を払うというんならな……」
    二人はユダヤ人街のなかに入り、ゲットーの中心部まで歩いてきた。ストラディヴァリは弦はなかったが、意識を取りもどしていた。そしてこの夏の朝、その f 字孔を通してなつかしい声とにおいが浸入していたのだった。バイオリンはこの f 字孔を通して見ていたかもしれない。あるいは以前この場所にきたのはいつだったかを考えていたかもしれない。バイオリンはメルツェリエのことを思い出していた。たしかにつるつるの頭にかつらをかぶった老女たちが、こことは違う言葉でぺちゃぺちゃしゃべっていたし、空もこととはことなる色調の青だった。エゼキエルもまた、この長衣を着たユダヤ人のように耳のあたりにこんなに豊かな頬ひげを生やしてはいなかった。
    その代わり硝石のしみのついた家の通り抜けのなかの鼻を突き刺すようなにおい、その臭気は糞尿と熟した果実と腐った軒、蛾のはいまわった生地、カビの生えた紙のにおいがあそこと同じ、おなじみの割合で混ざり合っていた。また両開きの扉の真鍮の取手、古いガラクタ、狂気じみた金稼ぎ、意味ありげにまたたく目つき、あるいは一種独特の夢見るような目つきなど――それらのすべてが三角地帯のメルチェリエのことを思い出させる。
    弦のないバイオリンはいつになったら遠くの運河の土手からゴンドラの扇動の唱声が聞こえてくるかと耳をそばだてんばかりだった。しかし歌声は聞こえてこなかった。そしてバイオリンは通りぬけと曲がりくねった廊下、ネズミの巣、湿った階段の絶望的な闇のなかにのみ込まれていった。
    やがて奥まった小さな部屋のなかでバイオリンについての取引がはじまった――そしてバイオリンはまたもや意識を失った。
   「見てくれ、ユダ公、ここにこのバイオリンの所有者の系譜がある。そsの所有者がみんな自分の名前をそこに記入したものだ。所有者のなかには侯爵もいる。このバイオリンはそういう由緒ある代物だ。ユダには見分不相応だ。おまえが手に入れたら大いに光栄におもうがいい」
    ダヴィッド・ダヴィドヴィッチは眼鏡をかけてバイオリンを詳細に検分した。それから名簿の紙を。そしてエゼキエル・アミーゴの名前を見出したとき、彼のタカのような顔には笑顔が広がった。そして猛禽の表情は完全に消えうせた。
   「おいおい、あんまりえらそうに言うんじゃないよ! ユダヤ人が持主だったことだってあるじゃないか。それもずっと以前に。これにいくら欲しいんだ?」
   「勘定しろ。おれはこの金でひげをそりに行って、温泉に行く、そして領主のような服装をしたいんだ」
   そんなことはお安いご用だ。その上、新しいバイオリンも買える」
   「おれはもうほかのバイオリンは欲しくない。待て、それともう一つ……、ピストルを買いたい。そしてすごい墓を建てさせる。それから葬式代も前払いしておく。おれにふさわしい貴族の葬式だ。ただ、おまえにはこれらのことにどんな意味があるか何にも理解できまい。計算してくれ、これらがみんなでいくらになるか」
   「百トラルもあれば十分だ。百ポーランド銀貨だ」
    乞食は笑った。
   「なんだ、貴様らユダヤにはちゃんと生きて、ちゃんと死ぬにはいくら掛かるかわかっちゃいないな。おれなら、そのために千トラル必要だな。そんな百なんてもんじゃない!」
   「それじゃ、そのバイオリンに千トラルはらってくれるところへもっていけばいい」
    乞食は立ち上がった。紙を自分のぼろ服のなかに突っ込み、バイオリンを小脇にはさんで、手探りしながら立ち上がり、ドアのところで言った。
    「おれはこいつをパリへもっていく。たとえはってでもな。おれは、おれらしく、おれにふさわしく死にたいんだよ、へへへ」
    ユダヤ人が彼の背後に向かって叫んだとき、彼の足の下で螺旋階段がすでにみしみしと音を立てていた。
   「おい、そいつをわしのところへ置いていけ。五百だ」
   「いやだ」
   「八百」
   「だめだ」
   「おい、もどってこい。おい、頼むから」
    ユダヤ人が鉄板でおおった箱や壁のなかの秘密の戸棚のなかから金をかき集めているあいだに、乞食は絞首台にぶらさげられたロシアの貴族たちのことを話していた。そのなかの一人は肩に金の肩章をつけていた、もう一人はたくさんの飾りボタンのついたハンガリー騎兵の礼装をしていた。さらにいま一人は刺繍飾りのある黒の燕尾服を着ていた、などなど……。
    続いて、腐るまでさらし者にするという判決を受けて、果物のように絞首台に吊り下げられたままになっているポーランドの貴族たちについても話をしていた。首の周りのロープがぴんと張ると、足は急に縮こまるか、ぴんと突っ張る課する。そしてきざな鼻ひげはぐんにゃりになり、首はシャツのレースの胸飾りの上にたれる。ペトログラードの冬宮の周囲にはしょっちゅう絞首台の森ができる。
   「なんてことを言うんだ、この気違いめ、金ならそこにある、そいつをもってとっとと出て行け」
   「あと、もうちょっとだ――絞首台にはポーランドの貴族もぶらさがっている。パスケヴィッチに……」
   「この阿呆! 金はそこにある、勘定したらさっさと出ていけ」
    札の山はぼろきれの中に消え、ぼろきれは暗い階段のなかに消えた。ユダヤ人は一人でストラディヴァリとともに残った。やがて汚らしい中庭に向いた蜘蛛の巣の張りついた割れたガラス窓にむかって叫んだ。
   「メンデル! メンデル!」
    蜘蛛の巣はふるえ、すぐに誰かが階段をきしませ、咳をしながらあがってきた。せむしのメンデルが入ってきて、夢見るような目で部屋のなかを見まわした。その目はバイオリンの上にとまった。一言も口をきかずにバイオリンを手に取り、ながめまわした。ぼろ布のきれっぱしで木の部分をこすり、それから唾をつけて頭部の渦巻きのところからネックまでもう一度丁寧にこすった。ポケットからもつれ合った大きな弦の玉を取り出すと、四本の弦を選び出してバイオリンに張った。調弦をした。無関心な様子でそれを何時間も続けた。
   ダヴィッド・ダヴィドヴィッチはその間、熱心にその様子を観察していた。それからまた一時間がすぎた。やっとバイオリンの音がととのってきた。せむし男の長い指がユダヤ教の『コル・ニドライ』(祈りの歌)を綿々と、むせぶがごとくに響かせはじめた。バイオリンとともにダヴィッド・ダヴィドヴィッチもむせび泣いていた。やがてダヴィッド・ダヴィドヴィッチが涙に潤んだ声でたずねた。
   「二千トラルの値打ちはあるかね?」
    せむし男は引き続けた。祈りの歌のあとには『ハーヌカー』(神殿清め祭り)の陽気なメロディー、子供っぽいかわいい歌。それらは野原に咲くメドウ・サフランのように弦の上で花咲いた。バイオリンははるを、かつて一度も訪れたことのないユダヤの春をうたっていた。そしてやがて、これまで一度も聞いたことのない、強烈にして雄大な、奔放で魅惑的な楽の音が響いた。つんぼの天才の悲しみと喜び、『クロイツェル・ソナタ』だった。
    その誕生の瞬間からこのかた、これまで一度もこのバイオリンはこれほど生き生きと響いたことはなかった。不意にバイオリンのなかで興奮によった鼓動が激しく脈打ちはじめたのだ。それにくらべるとこれまでのこのバイオリンの目覚めは単なる夢うつつの目覚めだったのだ。そのかわり、いま、この瞬間にこのバイオリンのすべての秘密、喜びと秘められた悲しみのすべての障壁が取り払われた。バイオリンのなかで最高の自意識が光を発し、その光は無限へ通じる道の上を照らしていた――そしてバイオリンはなぜ、かくもはるか遠いクレモナの地から人間の罪の迷宮と贖罪の手探りの旅路へと踏み出さなければならなかったのかを幸福にひたりながら、やっと理解できたような気がした。
    バイオリンの音は空高く飛翔し、激しく吹き荒れ、陽気に叫び、笑い、鼓動する自然の巨大な力を感じていた。自然はその流れによってバイオリンのあらゆる繊維、あらゆる分子、あらゆるアトムを突き放し、また、抱擁した。バイオリンはあらゆる人類の総体のいちぶになったこと、宇宙の仲介者になったことを感じた。その張りつめた弦の上で革命と信仰と戦争の嵐が吹き荒れたこと、一つの世界全体がその試練の海を乗り越えてこの音楽において、その文化の頂点を極めたのだということを感じた。
    また、ほかの世界からこのせむし男の指をもってやってきた一人の息子が、このそなたの表現によってヨーロッパ製新の根幹に触れたのだということも感じた。そして、どうしてこのバイオリンの真の目覚めが、蜘蛛の巣だらけの、空気のよどんだ、カビにまみれたゲットーの真中のこの小部屋のなかでなければならなかったかも理解した。いまこの小部屋はバイオリンのまわりで、まるでムラノ産のベネチアン・グラスの巨大な花のように虹色に輝き、放射し、膨張していた。
    せむし男はサルのような長い手を下にさげて咳をした。
   「このバイオリンはロンドンにもっていくべきだよ」
   「ロンドンへ? どうしてロンドンへだ?」
   「あそこは、いまバイオリンの取引の中心地だ。ワーダー・ストリート。そこにはバイオリン王が住んでいる。ウイリアム・エブスワース・ヒル卿だ。その人ならこのバイオリンのために相応の値段を払ってくれる。その人のところでハイム・エスケレが働いていた。彼はそのウイリアム卿のことについていろいろ話してくれた。ワーダー・ストリートには世界中からバイオリン製作の名人の作品が集まってくるということもね。あそこには金の磁石があるんだ。金で出来たマグネットだよ。どうだい、エスケレを呼ぼうか?」
   「何のために?」
   「このバイオリンを見せるためさ。ぼくの弾き方は本物じゃない」
   「必要ない。どっちにしろこのバイオリンがただ物でないことくらいわしにだってわかる。そのためにエスケレは必要ない。だが……、さっき、何の曲を弾いていたのか教えてくれんか?」
   「ある耳の悪い男が作った曲さ。二十七年にウイーンで死んだ。ベートヴェンという名前だ。この地球に人類が生きているかぎり、彼は忘れられることはないだろう」
   「耳が聞こえないのになんであんな曲を作ることができたんだろう?」
   「ぼくもずいぶんと考えたよ。できるんだなこれが。思うに、魂も耳をもっているんだよ。だから彼はその耳で聞いたんだ」
   「どうやって?」 「いいかい、ぼくはあるときそのことを考えて、蝋を耳に流し込んで詰めたことがある。ぼくはいくつかの音を想像してみた。そしたら誰も何も弾いていないのに、その音が聞こえたんだ。ぼくは勝手にいろんな音を想像してみた。一編の音のおとぎばなしだ。音の夢。おとぎばなしも夢も現実ではない。それでもここにある。彼は音の夢を紡(つむ)いだのだ。おれたちはおとぎばなしのなかで女王様を夢で作り出す。そしてそれを楽譜に書く。五線に点を書く。すると彼の夢が肉体を得るのさ。
    ぼくだって以前、おとぎばなしの王女様を夢見たことがある。髪は露玉をつけた草の葉っぱのようだった。なんとすばらしい言葉だろう――言葉という言葉がみんないま花咲こうとする蕾、どの言葉も笑っているようだった――「モーゼの五書」(トーラ)を支える棒の先につけた金の鈴の音のようだった。しかしおれはそれを手ににぎりしめることができない。でも、かまわない。いつも夢のなかでぼくを訪ねてくれる。だからぼくにはそれで十分なんだ。ぼくの背中のこぶなど見えないかのように振舞ってくれる――ときには自分でもこぶなどないんだと信じるほどだ。やがて目が覚める。そして夢のなかに見たものをバイオリンで弾くんだ」
    激しく咳き込みはじめ、大量の痰を吐いた。そのとき彼の顔は紫色になっていた。彼はたれさがった薄い鼻ひげの下でかすかに笑った――それからまたバイオリンを弾いた。
   「おい、メンデル。わしは思いついたんだが、このバイオリンをもってロンドンの、その……」
   「ヒルかい?」
   「そうだ。ここじゃ、殿未知、このバイオリンにふさわしい正当な金を得ることはできまい。たとえウイーンとかペトログラードにもっていってもな。そこで思いついたんだが、どうやってそこへ行けるかエスケレから聞き出してくれ。あれはおまえに全部教えてくれるだろう。そしたらおまえが行ってヒルにそのバイオリンを弾いて聞かせるんだ。バイオリンだけでなく、おまえの演奏も聞けるようにな。たしかにおまえは音楽家だ、たとえ独学であったとしべもな。彼はきっとおまえを誰か名人のところで勉強させてくれる。そしたらおまえは大きなホールに出て、コンチェルトを弾けるぞ。それたちユダヤ人にも何ができるか見せてやる運だ。もし人が聞いたらな、いま弾いたような、あのつんぼの……」
    メンデルは咳き込みはじめた。そしてその咳のなかにその答えも含まれていた。もう長い旅行はできないことも、コンサートホールもないだろうということも。彼は自分の死の判決を痰によって宣告したのだ。そして、唾を吐いてから、陸に放り投げられた魚のようにぐったりして息を詰まらせ、その苦しそうな息のしたから言った。
   「ぼくは英語ができない。言葉を知らない。誰ともきちんと話ができない――こんな背中のこぶを背負って、どうしてそんな旅にでなきゃならんのだ?」
   「エスケレだって、英語はできなかったんだぞ。それでもこの外に出た。金を稼いできた――金だ。こいつがすべての言葉をしゃべる。わしにとってはそれが商売だ。だから、いざ商売ということになったらわしはしり込みなんかせんぞ。そのバイオリンをうるんだ。そして自分のバイオリンももっていけ。おまえは勉強しろ。そしておまえがコンサートで稼いだ金は半分わしのものになる。おまえはわしをだまさん。おまえのことはよく知っている。これはよい商売だ。もしそのイギリス人がおまえの勉強代を払わんというのなら、わしが、このダヴィッド・ダヴィドヴィッチが払ってやる。おまえはそれをにばいにして、いや、それどころか十倍にして返せ!」
   「考えてはみるよ。ぼくが咳をしていなかったらそれもできるかもしれん。ぼくも行ってみたい。たとえこんなに背が曲がっていても……。みんなはぼくの背中や頬ひげを見て笑うだろう。しかしぼくは弾きたい。今ここであんたに弾いたよりも百倍もうまく弾いてみたい。みんなは言葉をうしない、やがて嵐のような拍手がわきあがる。ホール中のみんながてのひらが赤くなるまで拍手をするだろう。そしてホールが振動するくらいに叫ぶだろう。ブラボー! ブラボー! と。
    しかし、ぼくは演奏の途中で咳をしはじめるかもしれない。ぼくは演奏を中断しなければならないだろう――そしてすべてはおしまいだ。みんなはぼくに向かって口笛を吹き鳴らすだろう。ぼくをあざ笑うだろう。ぼくの背中のこぶも、頬ひげも伸びすぎたのだ。ぼくは咳をする。そしてすべては壊れ、ぼくは破滅する。そのバイオリンはあんたが自分でもっていくがいい。だってエスケレは悪党のなかの悪党だ。ぼくはあいつを信じる気になれん」
    そのあと、二人は長いあいだ涙をいっぱいに浮かべた目で床を見つめながら黙っていた。そして彼らの胸にも肩にもゲットーが重くのしかかり、彼らの頭を踏みつけ、カビと硝石のにおいを両肺に吸い込み、蜘蛛の巣は心のなかのあちこちに張り巡らされていた。やがて彼らは、この不潔と腐敗と民族的虐待と家畜小屋から、ユダヤの民に約束された土地に彼らを導き出してくれるヨシュアがそのバイオリンのなかから登場してくるとでも言わんばかりに、気落ちした視線をストラディヴァリのほうに向けた。
    メンデルは蜘蛛の巣におおわれた窓を通して、おそらく、光に照らされたコンサートホールの遠くの大きな舞台上に、サシャやヤシャ、それにエフダやエフラム、ナタンなどが登場する姿を見ていたのかもしれない。彼らは続々とゲットーから出ていき、そして四本の弦の上に弓を飛ばせて魔法のようにドルをあふれ出させる。ストラディヴァリやアマーティ、グァルネリやガダニーニを買い込む。自分のサインを配り、インタビューに応じる――そんな様子を……。
    彼らは背中にこぶを背負っていない、喉から痰を吐き出すこともない。ボヘミアン・スタイルに整えた髪のなかからはシラミはきれいに梳きだされている。あごひげは短くそり落とされ、体は風呂で洗って清潔。英語やフランス語で話し、セーラー・スーツを着ていようが、燕尾服を着ていようが誇り高く胸を張る。彼らはバイオリンのヴィルトゥオーゾだ。だから彼らの演奏会は大オーケストラの伴奏つきだ。豪華なホテルのロビーに専属の音楽マネジャーとすわっている。そしていま、彼らの心のなかの目の前には、ときには、長い頬ひげを生やし、咳をし、せむしの、メンデル家の先祖たちの姿が浮かんでくるだろう。
    メンデルはバイオリンを見つめていた。咳をしていた。そして痰を吐いていた。しばらくして彼は突然立って蜘蛛の巣の張った窓際のくぼみのところに来ると、まるで自身が山をふるわせるように激しく背中のこぶをふるわせてむせび泣いた。








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