(11) 騎士スタニスラウ・デ・ウィシュニョウスキ・一八二六年より所有



   かの有能な騎士はそのバイオリンが彼の所有物になってすでに二年を経たある日「騎士スタニスラウ・デ・ウィシュニョウスキ・一八二六年より所有」と所有者リストに記入した。それを記入したのはある夏の曇り日の午後だった。彼は文字を一字一字順に、ゆっくり書いていった。それからふたたびストラディヴァリを手にとってながいあいだあらゆる角度から眺め回し、その高雅な輝きに大いにご満悦であった。これらのすべてのことは、ワルシャワからほど遠からぬ円柱のファサードをそなえた貴族の館内の窓にみどり色のベネチアン・ブラインドのさがった白塗りの壁の涼しいサロンで行われたことだった。
   四百イットロ(一四四〇平方メートル)の農場をふくむ郷士屋敷は彼に帰属するが、ウイシュニョウスキ家の所領ではない。もともとこの一族が過去において財産をもっていたかどうかも疑わしいし、騎士ないし貴族の称号自体、信頼に足るいかなる資料にも記録されていない。ところが私たちはこの悪名高き騎士が土地購入のために、汚い、もみくちゃになった百ルーブル紙幣を貪欲にかき集めていたことを確かに知っている。その紙幣はペテルスブルク警察第三部の指示でソコロフ銀行の建物内で支払われたものだが、ワルシャワ近辺の人間でその事実を知っているものは誰もいない。
    周辺の地主たちは深いしわを刻んだこの痩身の男の訪問をむしろ喜んで受け入れた。彼は剣も楽器も、ホイスト(トランプ・ゲームの一種)も巧みだったし、女性のあつかいにもたけていた。その上、彼は自由を求める闘争に先立つ共同謀議や秘密会議には参加しなかったが、立派な愛国者として通っていた。こうしてすべては順調に進んでいった。騎士は結婚して落ち着こうかとさえ、すでに思い始めていた。誰か彼の年に見合う、同時に、いぜんとしてまだ美しさを保っている未亡人、そんな女性がいたら……。
    そんなある日、奇妙な事件が起こった。
    それは陽光が燦々(さんさん)とふりそそぐ、ある秋の日の午後のことだった。騎士は小さなエンピール式のサロンのなかでバイオリンを弾いていた。ほそながいベネチアン・ブラインドの下にはぶちの毛並みのブラッドハウンドが二匹寝そべり、うるさく飛びまわる金蝿に向かって、ときどき吠えていた。大きな屋敷は澄んだ、すでに日盛りをすぎて陽射しのゆるんだ太陽の光のなかにひっそりと横たわっていた。桑の木の葉のあちこちには黄色い斑点が輝き、格子状の棚に沿ってのびる野生のブドウの蔓の壁は赤い色に、そして階段を通って少しずつ青い色にまで染まっていた。
    木陰は中庭の砂の絨毯の上に深い青の領域を広げていき、庭園のはるかかなたにはゆるやかに丘の輪郭が波うっている。家畜小屋のまわりには館の使用人たちが、なんとなく急に老け込んだかのように無言でゆっくり歩きまわり、のろのろと行ったり来たりしていた。すべての動きは儀式のときのようにゆるやかになっていた。その瞬間、騎士はバイオリンを弾くのをやめた。そして気が狂ったような、恐怖にゆがんだ顔でじっと中庭のほうを見つめた。
    太陽の光を注がれた空間の真中に四本の絞首台が見える。その一本には髪のすそを「ア・ラ・ティトゥス」風に短く刈り、頭をくしゃくしゃにしたハンサムなコノヴァロフ氏が刺繍飾りのある黒い燕尾服を着て、格子縞の南京織のズボンをはき、手には鹿皮の手袋をして、象牙のにぎりのついた葦のステッキをにぎってぶら下がっている。第二の絞首台にはたくさんのボタンと、銀の紐で飾ったダークグリーンの騎兵の礼服の胸をぴちぴちに張りつめ、足には銀の刺繍に拍車をつけたエナメルの乗馬靴をはいた赤ら顔のペスチェル大佐。ムラヴィヨフ-アポストルは十七世紀にピヨートル大帝によって創設されたロシア最古の国防軍プレオブラジェンスキー連隊の少佐の肩章のついた軍服を着て、またリレイエフはレースのシャツに赤いズボンをはいてロープの下にぶらさがっていた。そして四人とも微笑を浮かべながら、ある種の残酷な、なんとも計り知れぬこの世のものものならぬ笑顔でウィシュニョウスキのほうを見つめていた。そのむこうにはまるで何事もないかのように使用人たちが家畜小屋のまわりを行き来していた。
  スタニスラフ・ウイシュニョウスキは全身がふるえた。体じゅうから冷たい汗が噴出し、喉も口の中も空からになった。要するに突如として神経に異常を来たし、気がふれた人間に見られる幻覚が彼にも起こったのだ。そして、これらのすべてはほんの数分のことというよりは、むしろすうふんかんもつづいたのだった。おまけにそれは太陽の光の降り注ぐ館の中庭でのことであり、おぼろげな一過性の幻覚ではなく、スタニスラフ・ウィシュニョウスキの網膜に深く刻み込まれた目もあざやかなせんめいなえいぞうであり、それは実物大のあらゆる細部にいたるまで正確かつ完璧な、あくまでリアルな映像だったのである。
  騎士はその画面と面つき合わせてその場に立ちつくしていたが、やがて真珠を象嵌したオーク材のテーブルの上にバイオリンと弓を置くと、窓を開けて、窓から中庭へ飛び出して、その恐ろしい映像のなかへ彼自身が入り込むかと思われるところまで、まっすぐに進んでいった。
    しかしその映像は熱に浮かされたときの幻覚のように一過性のものではなかった。映像はすぐには消えず、部分的に、少しずつしか消えていかなかった。動かない手、長靴、ロープの一部、新しく作られたばかりの絞首台の床、絞首台の上にゆらゆらゆれながらとまっている灰色のカラス、そのすべてが――映像のほかの部分が太陽の光に飲み込まれてしまった後になっても――まだ空中に浮かんでいた。
      農奴たちはご主人さまが自分の体から何かを振りほどこうとしたり、何かのほうに手をのばしたり、飛んでくる矢を払いのけデモするかのように中庭の真中で手を激しく振りまわしているのを見ていた。やがて、彼らはご主人さまが死人のような青い顔をして自分たちに向かって叫ぶ声を聞いていた。
   「おい! ヤネク! シュテフェク! おまえたちはここで何かを見なかったか?」
    彼らは走ってきて、兵隊のように気をつけの姿勢で立った。
   「わたしらは何も見ませんで下です、旦那さま」
   「もちろん、もちろん、おまえたちに見えるはずはない。おまえたちは、わしみたいに飲んではいないからな」
    彼らは変な目つきでウイシュニョウスキの顔を見ていた。彼らはご主人さまが通常酒を飲まないことを知っていた。そればかりか、客が来たときでさえ飲まないのだ。どうして、いま、嘘をついているのだろう?、どうして窓から飛び出してきたのだろう? この嘘の裏には何かいろんな謎があることを彼らははっきりと感じ取った。そして今日のこの日から、彼らのみのうえにもあらゆること成り行きが変わるだろうということも予感した。
    こうしてまたもや事件が起こった。次の日、召使のところに、ひげをそり落として、黒いマントに実を来るんだ一人の外国人がやってきた。そして騎士にすぐに取り次ぐように求めた。この男が入るのはみんな見ていたが、出て行くのを見たものはいなかった。召使はこのマンとの男をサロンに案内したときに少しのあいだ立ち聞きしていたが、ささやき声以上には何も聞こえなかった。
    ところが、私たちは彼らの話が何ののか知っている。マンとの男は騎士に会うとすぐに信任状を示し、彼に封ろうの押された手紙を渡した。それにはピョートル・ゲラシモヴィッツ・スベリョフが政治警察第三部の指令によってくることが記されていた。騎士にはその名前に記憶が合った。来客の顔を長いあいだかけてしげしげと見つめていた。そしてさらによく見ようとしてカーテンまで大きく開けたが、それでもその相手が誰だかを見分けることができなかった。
   「あきらめなさいって。どうせあんたに私が誰だかわかるはずありませんよ。わたしがコノヴァロフのところでまだ執事をやっていたコロは、鼻の下にも、頬とあごにもひげを生やしていましたからね」
    騎士は誰かがいいていると感じでもしたかのように声もなく笑った。彼は長いかいだ一つのところに、この男と、コノヴァロフばかりでなく、自分のことも嗅ぎまわっていた男と、自分も嗅ぎまわられていることも知らずに一緒にいたのだ。いまやっとすべてのことが分かった。中庭で見た、あの恐ろしい幻覚のことも。きっと、あれはこの男の来訪の前触れだったのだ。そしてすでにことことも、つまり、あの中庭の幻覚もこの男を殺害してはじめて完全に消滅するだろうということもわかった。
   「じゃあ、あれはあんたなのか、スコベリョフ。イヴァノヴォむらで、あんたはコノヴァロフだけでなく、わたしのことも嗅ぎまわっていたのだな。そうか、もちろん、いまはもうすべてのことがわかった。ときどきわたしの報告が遅れることがあったが――たとえば、あのフランス人のときのようにな。なるほど、それじゃ……、今度は何だ? いったいおれから何が欲しいんだ?」
   「情報だ。ポーランド人が反乱をたくらんでいることは、当方としてはせ先刻承知だ。われわれとしてはあらゆる情報源を手にしていたいのだ。あんたには、できるはずだ……」
   「わたしはもう今後一切情報提供はやらんことにした……」
   「残念だな。われわれはあんたに、実際のところ、相当の額を呈示したいのだがな。この異常事態にかんがみて……。そのことは、もちろん……あんたがまだ……あんたも共同謀議に参加する……と考えられるとしてのことだが……。まさにポ^―ランド問題においてあんたが協力をしたくt¥ないということは、それだけですでに疑わしいともいえる。わたしは脅迫するつもりはない。しかしある日コサックがやってくる。そしてあんたを逮捕するだろうという……」
   「ありうるな。わたしをしょっぴいていくということもね……。しかしだね、わたしが昨日この中庭で午後の太陽の陽射しのなかで四本の絞首台を見たといったら、あんたどうするね?」
   「本当にか? そんなら……ぜひ聞きたいもんだな――どんな絞首台だった?」
   「答えるのはむずかしい。どっちにしろ、そんな幻覚がどうしてここに現われたか理解できん。つまり、ちょうど四年目絵に冬宮の前であれはあったんだな? わたしはその現場を見ていない。だが、それでもわたしにはわかるんだ……それは、まさにあの絞首台だったと……。そのなかの一本には黒い燕尾服を着たコノヴァロフがロープの先にぶらさががっていた。二本目にはペスチェル大佐、その他の連中についてはあんたも知っているはずだ……、きっと、あんたは連中を見たんだろうからな……、だから、いやなんだ……」
    スコベリョフは青くなった。気の触れた人間をどう扱えばいいかわかったからだ。だから、騎士が怒り狂うまえににげだそうとすきをうかがっていた。
   「もちろん、そりゃそうだ。あんたがそんな幻覚を見たというんなら……そんなら、あんたがこの仕事を引き受けたくないというのも当然だ……、そういった類のことならわたしにも理解できる……」
    騎士ウイシュニョウスキはこの男が逃げようとしているのがわかった。しかも、この男の目のなかに自分を逮捕に来るコサックの隊長の姿も見た。騎士はこの後の推移についてもある程度の予想がついたから、その先手を打つ必要を感じた。
    ソコベリョフが椅子から自分のマントとシルクハットをステッキを取ろうとして身をかがめたとき、すでに身を起こすことができなくなっていた。彼は九部筋に冷たいものがつく刺さるのを感じ、喉が不意に熱くなった。そして叫びをあげようとして開けた口から、血が滝のように吹き出したのを、まだ、自分の目で見ることができた。そして、そのまま床の上に顔からくずおれていった。
    騎士はそれからもなお数回、刃先を三面に研いだイタリア式の短剣でその男の体を突き刺した。そのあとですべてを用心深く片づけた。ところがコサックがスコベリョフの行方の探索をはじめるよりもまえに、はやくもポーランド中が火の海となった。反乱軍は結集して、ヴォルガ地方やウクライナ地方の槍騎兵団がドン河やアストラハン地方のコサックを追跡し、反乱軍の大砲が轟音を発した。そしてスタニスラウ・ウイシュニョウスキは一日中、お互いに追跡しあっている軍隊の将校たちと酒びたりになっていた。ロシア人が来たかとおもうと、今度はポーランド人がやってきた。
    彼は胴でもよくなっていた。彼は途切れることなく酒を飲み、トランプに大金を賭け、飲んだあとは酔っ払ってあの幻想の絵の下で眠り、長い死んだような眠りのあとには、またもや次の暴飲暴食へのめりこんでいくのだった。周囲のすべての家々は焼けて灰になっているのに、彼の館だけは無傷のまま立っていた。
    それからしばらくたって、冬宮の前とペトロパヴロフスク要塞の中庭でふたたび絞首刑がはじまった。
    ウイシュニョウスキだけがどこかの流れ者や、なにやらいかがわしい冒険家や、住所不定の乞食や放蕩者などと、相手かまわず大酒を飲みつづけていた。かくして、彼の財産は湯水のごとく蕩尽(とうじん)しつくされ、やがて館まで手放さざるを得ないは目になった。







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