(8) インテルメッツオ

そのようなわけでストラディヴァリは外側から鉄鋼の板でおおわれたオーク材の戸棚のなかに憩うていた。しばしばバイオリンはしんだようによこたわり、ときには彼らの仮死的な眠りのなかにかにか夜明けまえの灰色の薄明りにみたされてくる。やがて夢があけて瞬間的に覚醒の光が差し込んでくる。だが、それはディレッタントか専門家か、あるいはべぼ楽士かがケースの蓋を開け、弓に松やにをぬり、顎と肩のあいだにバイオリンをはさみ、弦をはじき、糸巻きを締めるその瞬間にではなく、また、弦をはじいたあと、弦を一本ずつ調弦するときでもない。
    ときにはバイオリンは光り輝くコンサート・ホールで、オーケストラ伴奏つきの壮大なるバイオリン・コンチェルトの演奏のときでさえ死んでいることがある。重音フラジオレットや重音トリルや早いパッセージやピチカートが火花を散らすとき、火花を散らし,光り輝き、持続し、鳴り響くかに聞こえるときでさえ――。
    華麗なカデンツがオーケストラを沈黙させ、オーケストラの全楽器の奏するトゥッティが魅力的なソロの主題を受け継ごうと待ちかまえる。やがて主導的ソロ・バイオリンの音がコントラバス、チェコロ、ヴィオラ、第一,第二バイオリン、木管楽器、金管楽器,小太鼓、ティンパニー、トライアングル、シンバルと一体となり、羽にいっぱい風を受けてクレッセンドしながらフォルティシモにまで空高く舞いあがる――そしてソロ・バイオリンは金鳥にも似て、他の同族のはるかかなたの高みを飛翔する。四本の弦から紡(つむ)ぎ出されるメロディーの線は全楽器によって奏される華やかな色彩の音階の上にかぶせられた桂冠だ。だが、それでも……バイオリンが生きているとはかぎらない。
    あるときは木食い虫がコチコチと木を食う恐ろしい音や、蜘蛛の巣にとらえられた蝿の瀕死の羽のうなり、ネズミが木をかじるおわりのないピアニシモやチューチューと愛をささやきあう鳴き声を聞きながら、また、ゴキブリやムカデが動きまわる音、どこか遠くの時計のチクタクと時をきざむ音、時を告げる鐘の音を聞きながら、まる十年間、鉄の枠取りをされたケースのおおいのなかの真っ暗闇のなかで横たわっている――バイオリンは目を覚まし生き返る。われらがストラディヴァリは、このような予想を超越した創造物で合った。そして現代にいたってもそうなのだ。
    そのオーク材の戸棚のなかでわれらがストラディヴァリはジャコモおじさんのこととはっきり思い出しているに違いない。ジャコモおじさんはその生みの親でもあり製作者でもあるアントニオ・ストラディヴァリが生まれたばかりのわが子をどんな音の肌着でくるみ、どんなふうにモンテヴェルディやスカルラッティのコートを着せているかをカーテンの陰で聞いていたのだ。
    しかし、かつて自分を買い取っていったカストラートという人物のことを、このストラディヴァリは覚えていない。いろいろな国へ彼に伴われていき、名誉にさいしても、死においても苦しみをともに味わった。それでもそのことは何一つ記憶にない。そのころこのバイオリンは死んでいた。
    やがてエゼキエルという名のユダヤ人の戸棚のなかで目を覚ました。そればかりか自分のケースやほかのバイオリンとも話をした。さらに何度もこの鋼鉄で補強した土棚の中で、金曜日の祈りのローソクが燃えるときに目を覚ました。このバイオリンの目を覚めさせたのは、アラム-アッシリア文字で書かれたカルデア語の何かすごく古い祈祷文であり、それをスペインのユダヤ人は読み、場合にはイタリア語も話したのだ。いったいどうしてこの祈祷の文句がこのバイオリンを目覚めさせたのだろう? それになぜだかわからないが、髪を短く切ったあの小柄な、身の軽い女が毎晩、よれよれのかつらを脱ぐ様子をのぞいていた。
    実際、この小柄な女はときどきケースを開け、一人のときにはストラディヴァリとその仲間のバイオリンたちをも眺めていたものだ。彼女はこれまで一度もバイオリンを手にしたことはなかったが、それでもグァルネリでパレスチナからここまでたどりついた素朴な祈りの歌などをぎーぎーと弾いたりもした。しかしそれでも説明には足りない。それに私はこのバイオリンを彼女に結びつけた糸をとぎほぐすつもりはない。だって誰もがわたしを馬鹿にして笑うだろうからだ。私は、ただ、どのようであったか、またどのようにありえたかを語るだけなのだから。もともと私にしてからが、このバイオリンがなぜ、まさしくシュヴァルツェンベルク侯爵の腕のなかで幸せな目覚めをしたか、たぶん理由づけることはできないだろう。
    確かに彼をディレッタントとさえみなすことはできない。彼は、あえてストラディヴァリに挑戦するまえに,長いあいだかかってほかのバイオリンで練習してきたリュリのアリアのどこかの部分とか、コレルリの『ラ・フォリア』をこのストラディヴァリで間違いなく弾くことができたときには、きっと幸せの絶頂だったにちがいない。しかしよく見てみよう。なぜならこの侯爵について語るべきことは、まだたくさんあるからだ。たとえば、彼のことをもっとうまく描写できたとき、このバイオリンの目覚めについての,多少はましな説明になるのではあるまいか? そうしたら私も自分の作家的能力に満足するだろう。
    そうだとしても、フレデリックがあのバイオリンをはじめて例のオーク材の戸棚に収めた、その瞬間に何が起こったのか私にも十分わかってはいない。読者のみなさんもこのことは覚えておいでだろう。マルキースがクレモナでポルトガルのムラット(スペイン系の混血男)からそそのバイオリンを賭けで勝ち取ったこと、そして同時に,それがどんないきさつであったかも私たちは知っている。彼はそのバイオリンを弟のアンリと、その後、館の門番になるジャックに自分の館まで運ばせた。そしてそこでグァルネリやグァダニーニとともに治められていたが、あるとき不意にそのAとGの弦が切れた。そして弦が切れた瞬間、クレモナノピアッツァ・ディ・サン・ドメニコ・二番地の自宅で一人の老人が死んだのだ。
    この不思議を解明するのは、実際問題として、わたしの手に余るものがある。第一、このような関連性というのは私たちの理解のはるかに及ばないところにある。老人は魂を放出した――その魂(柱)がバイオリンを張り詰めさせていたのだ。バイオリンは何かを言わなければならなかった。何かで涙を表現しなければならなかった。激しく何かを言い表さなければならなかった。もし、その木が割れたら、いま魂を放った者にたいして恥をかかせるだけになる。無言の涙は音には出ない。だからバイオリンは二本の弦を切ったのだ――反面、ニスはいっそう美しく輝き,音は魂柱に張り詰めた苦痛の分だけ、さらに完璧になっていった。私の言うことに間違いない。そこには何の秘密もない。問題は人間や動物や植物や好物や神や水について言えるのと同様に、いろんな覚醒の段階があるということだ。
    なるほど、マルキースとムラットの死にはもちろんかなり謎が多い。あのときはまだロマンチックなものは欠けらもなかった。むしろ私たちは軽蔑的な微笑を浮かべて、そんなものはちっともロマンチックじゃないと宣言することもできただろう。しかし、それはまさに新しい言葉だ――そしてバイオリンの生命の背後に隠されていること同様に,言葉の背後の奥深くにも意味が隠されている。あらゆる歴史時代が完全な生命に目覚めることを必要としている。そして諸々の歴史時代は、もちろん、バイオリンの概念など堂々と踏み越えて進んでいく。
    オークの木、岩、それに百姓など、背に時代を背負い辛抱強く運んでいき,自分は変わることはない。なぜなら自分の顔を変えるのは何世紀もたってからだからだ。そのかわり建物の性格のなかに自分の精神のいくつかの刻み目を彫り込んでいく――ルネサンス、バロック、それにエンピール――その建物の新しい部分や家具,それに人間もまた様式や流行や戦争や国家の重要問題に即して形成される。たとえば、長いかつらのかわりに髪を束べたかつら,こめかみのところに四本のカールした髪の房をつけ、うしろでワイヤ―に巻きつけた何かしら猫の尻尾を思わせるようなものをつけたかつらなどが登場した。
    されに、金の縁取りのある、膝までの釣鐘のようなコートは前のほうがきりこまれ、すそのほうはカブト虫の堅い羽のようになっている。フロック・コートの下は短く切り詰められたヴェストがあり、ズボンは長くのばされている。ダンディーな若者たち、いわゆる伊達者(アンクルワイヤブル)たちは膝までのタイトなズボンをふくらはぎの上までkぶせ、長くて細い杖のかわりに、ゆがんで節くれだった棒っ切れのようなステッキを手にした。三角帽は二本のとんがりに変わり、尻尾のように髪を後ろに束ねたかつらも流行の王座から引きずりおろされた。
    目に見えない流行の独裁者はすでに頭に二本のとんがりのある奇妙なシャコー帽をかぶっていた。だからその帽子と耳のあたりまでふくらんだボー・タイとのあいだには、頬ひげのなかから鼻だけが突き出していた。不思議なことに一世紀にわたるフープつきのスカートの支配が終わろうとしていた。ネッカチーフは首にかけて前で十字に結び、かつらのかわりに一般市民階級の勝利のシンボルとして堅くノリをきかせた高い帽子をかぶるようになった。
    ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーの著作の直接的な影響のもとにか、それとも自分の空腹に鳴る胃袋の命令にしたがってか、民衆はいくつかの館を占領した――これらのすべてのことにかんして、あのオーク材の戸棚のなかのバイオリンは信じられないほど多くのことを知っていた。そこでバイオリンたちがお互い同士で語り合った会話を内緒で聞いてみよう。

    イギリスのバイオリン――あの馬鹿な神父はどうも胸くそがわるくなる。音階や指づかい、ボウイングを教えるかわりに、あの未熟者たちにクープランやラモーを聞かせるのだからねえ。
    チロルのバイオリン(おそらくティーフェンブルックネルの製作とおもわれる)――ねえ、君、いいかげんにそのボウイングの練習の話はやめてくれないか。弓のことなら、いまにもっと悪くなる。まったく違う練習法が必要になるよ……
    弓たち――なんてこと言うんです!
    チロルのバイオリン――当然hじゃないか! 悪いけど、無礼な、なんて思わないでほしいな。とにかく最悪の事態を覚悟しておくんだな。君たちはどっちにしろ骨董屋か屋根裏部屋行きだ。円弧式の弓はだんだんと直線型の弓に圧倒されている。つい先だっても、ある子爵がそんな弓でわたしを弾いたがね、新型の弓のほうがはるかに具合がいいと言っていた。
    弓たちは気分を害して黙る。
    フランスのバイオリン――まあ、まあ。わたしたちは究極の形態に達したといわれている。その意味は永遠の生命を得たということだ。まあ、一種の死だな。しかし君たちにはこの大革命のなかでいかなる未来も約束されていないのだよ――例の子爵や侯爵たちと同じにね。
    ストラディヴァリのバイオリン――失礼だが、なんでそんなことが言えるのです?
    フランスのバイオリン――わたしにはそのような形而上学的予備知識があるのだよ。しかもその上に、わたしは下男どもがそこらで話しているのをしょっちゅう聞いているからね。彼らは言っていますよ、百姓どもはかつてないほどの貧困にあえいでいる。だから新しい農民一揆(ジャックリー)の時代がまた来るだろうとね。
    ガスパル・ダ・サローのバイオリン――そのとおりだ。わたしも召使たちが言っているのを聞いたよ……百姓たちにも、もう少し余裕を与えたらよくなるといっている。結局、彼らの言うのが本当だろう。ここじゃ、誰もがクジャクのペーストを腹いっぱい食っている。しかも食料庫ではかなりの食料がすでにいたんでいる――ところが、あっちの百姓たちは春の耕作のころになると、黒パンさえろくに食えないというありさまだ。だからどんな動物でも目につこうものなら、すぐにひっ捕まえて前後のみさかいもなくぶっ殺して食ってしまう。
    イギリスのバイオリン――勝利は彼らのものとなるさ。だけど、そのためになんでそんな大げさな形而上学が必要なんだい。それにしても、われわれはいったいどうなるんだろう?
    ストラディヴァリのバイオリン――わたしたちはみんな焼けてしまう。だって、この館が灰になってしまうことは、火を見るよりも明らかだから。
    弓たち――あんたたちはくさるよりゃ、焼けたほうがましだろうよ、へへへ。すくなくともわたしらは木食い虫にやられる心配はないからね。
    チロルのバイオリン――せめて下男たちがわれわれを盗んでくれるよう期待しましょう。われわれの代金としてなら、分銅形のルイード金貨で払ってくれますよ、たとえ革命の最中といえどもね。そんなことは連中のほうがよくしっています。とくにあのオクタヴィアンは機会あるごとに舌なめずりをせんばかりにわれわれのほうを見ていたし、ホノレーはまさに敬意をもってわれわれに頭をさげていましたからね!
   
スタイネルのバイオリン
――ついこのまあえのことだけど、ガストンがさたしを弾いたがね、まんざらでもなかったよ。ラング・ドーク語(南部フランス地方で用いられていた中世のロマンス語)の小歌や、なにか南部地方の舞曲のようなものだった。
    弓のなかの一本――あれはフランス革命当時の歌と踊り(カルマニョール)だよ。
    モンタニャンのバイオリン――カルマニョールだと? それは何のことだ?
    イギリスのバイオリン――そいつはね、サヴォイ地方の丸く輪になっておどる踊りだ。だが、言っておくがね、いまやいたるところで規律がなくなり、かつてなかったような退廃現象が起こっている。教師はわたしたちを使ってはなたれ小僧をおしえている。下男たちはまるで自分の部屋にいるみたいにわたしたちをなでまわす。召使までがわたしたちのほうをもの欲しげに見つめて、どうかすると不器用な手でこすってギーギーいやな音を出すしまつだ……
    スタイネルのバイオリン――すみませんがね、わたしだって弾かれたことがありますよ。しかもフィレンツェでは演奏したのがガエタノ・プニャーニだったんですよ。
    ガスパロ・ダ・サローのバイオリン――おまけに飽きもせずにあんたをね! コレルリなんかわたしを携えて十四の都市でコンサートを開いたんですぞ!
    ストラディヴァリのバイオリン――いいかげんにしなさいって。貴族的な閉鎖性の時代はおわったんです。わたしたちはこんな戸棚のなかでお陀仏になるよりは、赤くはれあがったお百姓さんのたちの指ででもいいから、触ってくれたほうがいいと思いますがね。炎はこんな鉄板なんかへいちゃらで飛び込んできますよ。ケースに張った皮ははがれてめくりあがり、わたしたちは熱ではじけてヒビが入り、あとは灰になって残るだけです。ですからね、お百姓さんが持主になるか、それとも略奪して売るかしますね、すると、まあ、ふたたびわたしたちは専門家の手にわたることになるでしょう。
    チロルのバイオリン――すみませんが、マダム・ヴェトというのはどんな方です?
    フランスのバイオリン――はは、マダム・ヴェトが保証されたのです……。つまり王妃さまのことですよ。
    モンタニャンのバイオリン――あのガストンという下男はいつも歌をうたっていますね、例のサヴォイの踊りの歌のメロディーで。最初は小さな声でうなっていますがね、やあがて声だかになっておわりです。「カルマニョールを踊ろう、大砲の響きよ、万歳!」
    イギリスのバイオリン――で、マダム・ヴェトはどうなりました。あのオーストリア女のマリー・アントワネットのことではないんですか?
    ストラディヴァリのバイオリン――ちょっと静かに……、わたしには何かの音が聞こえるんですがね……戸棚の外で……、音楽サロンの向こうで……、館の向こうで……、ほら、あの向こうで、まさにその歌をうたっているじゃありませんか……、彼らの力は……だんだんと大きく……、だんだんと数をまして、そして、こっちへやってくる……

    そしてバイオリンはまたもや死んだ。そして燃える穀物置き場や倉庫、家畜小屋のまわりで農民たちは踊っていた。同時にガストンが小声でひそかにうたっていた歌の歌詞を大声で叫んでいた。
   「大砲の響きよ、万歳!」
    やがて、四方八方から館にむかって攻撃がはじまった。
    そして名誉あるシャトルヌワール家に属する男たちは屋敷の防衛に失敗した。しかも鋼鉄の熊手の先に頭を突き刺されるまでには、館のご婦人方にはまったくひどいことが起こった。この恐慌の様子をすべて詳細に描写することはロマンの作者には名誉な役目というべきかもしれないが、私たちの関心は何よりもバイオリンの運命にある。そのなかでも、とくにストラディヴァリの運命に……。その運命の軌跡はすでにこの世紀全体にわたる、いろいろな経過をへてうまく追跡してきた。
    館でストラディヴァリが焼けなかったことは広く知られている――だが、そもそもこのストラディヴァリはどのようにしてクルト・フォン・ティーッセン中隊長のところまでたどりついたのだろう? つまりストラディヴァリにかんするかぎり、私はいかなる心配にも煩わされる必要はない。だからこのインテルメッツォも嵐のようなサヴォイの円舞と反復句(リフレイン)によっておわることができる。そして焼ける館の効果的なプレストによってわれらの主人公ストラディヴァリの運命における、次の罪な事件の忠実な描写へと進むことができるというわけである。



次へすすむ
この章の頭にもどる
本作品のタイトル・ページへもどる
トップページへもどる





談話室/E-mail送信室

この作品についてご意見、ご感想などお送りください、大いに期待してお待ちしています