(5) 侯爵(マルキース)シャトルノワール・一七三三年)


   「金の輪」酒場の一階の大広間から皇帝軍の将校や役人、またその追従者などが排除された。五分おきに持病もちのエルコール親方が新しい情報をもって「真の祖国の息子たち」の部屋へ駆けつけてくる。
   「勇敢なガリア軍はいまフランチェスコ城門を占領しようとしているところだ」
   「ギース司令官は手兵とともに、すでにポー川の川下の浅瀬を渡った」
   「ワロン軍の胸甲騎兵隊は砲撃で破壊された防壁の穴からクレモナ市内に突入した」
    酒場の壁も窓も砲撃の振動でゆれた。天上からはカビの生えた漆喰がこまかく砕け、蝿をとらえた蜘蛛の巣と一緒にふってきた。ネズミも落ち着きなく小さな鼻先を部屋や床の隙間からのぞかせている。
   「ほんのちょっとのあいだの秩序回復ですね、エコール親方、ほんのちょっとのあいだのね」
    ほんのちょっとのあいだ砲撃の音が鳴り止んで、人声が聞こえてきたとき、オモボノ・ストラディヴァリが冗談を言った。
    オモボノは彼の祖父、かつてのシニョーレ・アレッサンドロがすわっていたのとおなじ席についていた。マンターニ、レナルドゥッチ、カラッチ、それにその他の貫禄十分なクレモナの布地商人と関連する職業組合の会員たちの場所に彼らの孫たちがすわっていた。
   エコール氏は彼の祖父や父親と同様に相変わらず持病もちの、ちょこちょこあ動きまわる小男だった。彼は父の名前を受け継ぎ、その名前をすでに同様に育ちの悪い息子に譲っていた。ただ老神父のボナヴェントゥーラだけが、そこに、その古くからの自分自身を出席させ、九十七歳の高齢の陽気な哲学的高台の上で息子や孫たちに混じってマガラ酒を飲んでいた。老神父のボナヴェントゥーラは今日もまたかつての善良なるシニョール・アレッサンドロ老の時代と同じように、若い給仕女の尻をつねってきたところだった。そして大砲の音が一時やんだその瞬間、自分の酒をコップの底まで飲み干してから話し始めた。
   「皆さんのおじいさん方が、今日のこの日まで生きのびられなかったのは、返すがえすも残念じゃ。ほんとですぞ、わたしらはあのガリア人どもには手を焼いてきた。一難さってまた一難じゃ。だが、それでもわたしらが下の大広間に集合することを、ここに提案いたしたい――せめて、この目で汚れを知らぬ白ユリの前から双頭の鷲が、慌てふためいて飛び立つ様子を見とどけようではありませんか。たしかに、わたしらはそれを長いあいだ待ち望んでいたのですからな。その瞬間を、たとえ、さまよえる大砲の弾のどれかが、たまたまわたしらのあいだで炸裂しようともじゃ、見逃すのは、なんとも惜しいことではありませんか」
    真の祖国の息子たちは、ボナヴェントゥラ神父の重大提案を嵐のような「万歳(ヴィヴァ)」で受け入れた。最高に臆病な連中でさえサヴォイ王国のシンボルの星をレースのネクタイにピンでつけたほどだった。このシンボルはこれまではチョッキの裏地のなかに隠しておかなければならなかったものだ――そして、やがて英雄的なジェスチャーで隠し戸のほうへ向かい一人ずつ戸をくぐって降りていった。
    皇帝軍は退却しながらあちこちで窓に向かって発砲していた。ガラスはガチャガチャと音を立てて部屋の床や通りの敷石の上に落ちた。その表通りは鋼鉄の輪をはめた台車や曲射砲の車輪の下でゆれ、ののしりや叫びや、うなり声、鞭の音、ひづめの響き、倒壊する壁の轟音、鎧や重い剣のぶつかり合う金属音、臼砲の風を切る音、それらが渾然一体となって地獄の阿鼻叫喚を織り成していた。
    この地獄の大混乱のなかで、最古の鐘楼の町、ヴィオラ・ダ・ガンバ、ヴィオリーノ・アラ。フランセーズ、ヴィオラ・ダ・ブラッチョ、ヴィオラ・ダモーレの町、マドリガルとコンツェルト・グロッソの町はその主を替えたのだった。それから次には三日間、切れ目なしの飲めやうたえのどんちゃん騒ぎが続き、やがて将軍の指揮棒でデクレセントされて日常の騒音にもどった。
   「金の輪」酒場の一階の大広間は皇帝軍に代わって、ガスコーニュ人、トゥール人、プレトン人、ノルマン人、フランドル人などが占領した。ハプスブルク家のスペインのかわりに、ブルボン家のスペインが支配者の位置につき、トランプでは「ファラオ」にかわって「エカルテ」ゲームがおこなわれ、レオポルド銀貨のかわりにルイ金貨が汚いオーク材の上でチャリンチャリンと音を立てるようになった――ただそれだけだった。
    ところで、短期間ではあるがクレモナを包囲し、その町の美女たちの心を奪ったコンデ公の作戦を遂行してきた例のガリア人たちのことにここで触れるのも悪くはないが、いま私たちに一番関心のあることは、あのダンディーな辺境伯(マルキース)シャトルヌワールのことである。彼はあるとき「金の輪」酒場の特別室の一つで、弟のアンリやかつての強敵ドン・ギマラエス隊長、そのほかにもパリの軍人仲間とエカルテを楽しんでいる――彼らはあらゆる組み合わせで交替にゲームをした。やがてエカルテでカードの熱戦に決着がつかないときは、いつものようにスペインのゲーム「ロンブル}に切り替わる。
    馬と女のほかにもう二つ熱愛するものがあった。トランプと、とびっきりにすぐれたばっきだった。その後者についてはあらためて言うまでもあるまい――たしかに私たちはある一丁のバイオリンの運命について追跡しているのだから――だから、もしこの町の占領後の最初の一週間のうちに、まさにそのバイオリンがこのマルキースの手に落ちることがなかったら、なにもわざわざこの快楽主義者のガリア人たちのことに余計な筆をわずらさすことはこれっぽちもなかったのである。
    私はあのとき何があったのかもう正確には覚えていない。しかし、確かなのはあのときジロラモ・アマーティがポー川の岸辺で友人のアントニオ・ストラディヴァリのためにバイオリンを弾き、自分の妹のベアトリーチェのことを語った。そしてその結果として、アントニオは巨乳のバルバラの腕に飛び込んでいった。あのときのような春がもう一度クレモナにあったということである。そのことについたはそのバイオリンがクルト・フォン・ティーッセンの所有となるまでに、もっとくわしく話しをすることになるだろう。いまはエカテルとロンブルの賭博師と、わがマルキース・ドゥ・シャルトヌワールが戦勝軍の将校として、まさにバイオリンの製作者の町に進駐するという名誉の報酬を与えられたことを、いかに喜んでいたかを報告しなければならない。
    彼は戦闘のあいだじゅうも、ひたすらバイオリンの収集をいかにして実行するかについて甘美な想像にひたっていた。だからマルキースは決着のつかないトランプの戦闘のあと、「真の祖国の息子たち」の部屋のなかを見渡した。その部屋のことは皇帝軍支配下にあるときのように、もうクレモナ人たちもそれほど秘密にはしていなかった。しかもマルキースは特別の敬意を迎えいれられたのだ。なぜなら彼はボナヴェントゥーラ神父のお気に入りになっていたからだ。
    たしかにユグノー派の信仰にかんしては問題なきにしもあらずであったが、それでも、誇り高く、愚かで、うぬぼれの強いカトリックの皇帝軍将校とは出来がちがっていた。彼は快活に恋の冒険や、王侯の愛人の化粧部屋や、皇太子の早熟な性生活について、猟犬を連れた狩について、アンダルシアの闘牛について、コルドバのムーア人のモスクの謎について語り、いたずらっぽく女郎やへお忍びで通う清教徒(ピューリタン)、ヴェルサイユの懺悔聴聞僧や、市場の香具師(やし)のエピソードまでもち出してきたものだった。
    彼は実にみごとな、世故にたけた小悪党で、その悪党ぶりでは監獄住まいの大ベテランで天才詩人ヴィヨンとの差は紙一重、トランプ勝負で勝つためなら多少のいかさまなど屁とも思わないところなども、まさに小悪党の名に恥じないところであった。しかし、この奥まった、やや沈んだ空気の小部屋も、彼のシラノのような鼻が、狭い引き落とし戸の上に現われ、ひくひくと動く鼻孔を通して荒い鼻息をはくのが見えるやいなや、歓迎の喚声に満たされてにぎやかになった。
    彼のかつらと紫色のリボンと緑のオストリッチの羽根飾りのついた帽子の下でロケットが発射され、ジョークが沸騰し、こけおどしが炸裂し、矢継ぎ早の鋭い風刺の泡がはじける。だれも彼もがマルキースのそばに近づこうと争った。そしてマルキースのクエスチョン・マークの形にととのえられたキザな鼻ひげの下の大きくゆがんだ口がまだ開いてもいないのに、もう、笑おうと待ちかまえているのだった。彼は「三人の女神」酒場であろうが、「黒いオウム」酒場であろうが、「穴のあいた杯」酒場であろうが、どこの酒場でも自分のお好みの酒をしたたかに飲んだ。しかしそれなりの成果を収めたあとは、いつも静かになり、おとり巻きの誰かと窓際の壁仕切りの隅のゆっくりくつろげるテーブルにすわって、いつまでもその相手と飲みながら、バイオリンについての詮索をはじめるのだった。
    たとえば彼はここでボナヴェントゥーラ神父からバイオリン製作の王アントニオ・ストラディヴァリは、実はすでに八十歳をすぎいることを知らされた。この神父にくらべると愚かな若者だというのも確かに事実だったが、それでもティーッセンはすでに思い通りにはならず、彼の現在の作品からはもはや魂が飛び立つ準備をしているそうである。形はやや不恰好になってきたが、そのかわり以前の火のようなニスは耕地のような茶色みをましてきた――要するに、もう彼は「白鳥の歌」をうたいおえたということなのだろう。
    アマーティ家の最後の一人、ジロラモもすでにこの世にはなく、グァルネリの最後の一人、ジュジェッペは跡形もなく姿を消した。ガダニーニ、モンタニャーニ、それどころかスタイネルのバイオリンでさえも行方知れずになっている。最高のバイオリンは、神父の証言では、この町にいたかつての皇帝軍の地方長官、騎兵連隊の連隊長シュヴァルツェンベルク侯爵のコレクションのなかにあったという。そしてマルキースは同じことをほかの人間からも聞いていた。しかしボナヴェントゥーラ神父は頑固にくり返すだけだった。
   「ところが彼のコレクションはあのひどい混乱のなかで誰かがもち去ってしまったのです。そのことはまったく確かな事実です。なんとかして、その探索をすべきです。きっとあのバイオリンは悪党の手にあるにちがいありません!」
   「親愛なる神父さん、それはそう簡単なことではありませんよ。ご存じだとは思いますが、運命のいたずらのおかげで、わが軍の臼砲は最後のころは地方総督府の官邸にも砲撃をかけていましたし、廃墟の下には侯爵自身が倒れていたそうですからね。それに残骸の排除はまだ手さえつけられていません。コレクションから焼け焦げた破片しか残らなかったということもありえますが、しかし完全な形で保存されていたとしても、わたしはおどろきませんよ」
   「わたしに言わせれば、もうとっくに誰かが見つけているはずですよ。ジュゼッペ・グァルネリのバイオリンを確かに見たものがあるのです――最もすぐれた作品の一つです――それに私の友人で、バッティステルの楽長のモフェッティという男が、それは侯爵のコレクションにあったものだと証言しておるのです。それにしても侯爵にはお気の毒なことでした。彼はすばらしい芸術の愛好家で、立派な方でした。おなじく、あの官邸も惜しいことをしました。あの宮殿はゴンザーガ家の最盛期に建てられたもので、十六世紀(チンケチェント)建築芸術の模範でしたからな」
   「それで、親愛なる神父さん、その楽長が誰のところでそのグァルネリを見たか、ご存じないのですか?」
   「そのことを、ええっと、なんとか言っておりましたな……わたしの記憶力も、もうこんなに役に立たなくなりました。それはそうと、そのころ、バッチステルでその男とお会いになれますよ。彼は合唱とオーケストラで仕事をしています。それともオルガンの練習をしていることでしょう」
    マルキースはすぐにいとまを乞ったが、しかし、すぐに立ち止まって考えた。
   「わたしにはどうもわからないのですが、総督はどうして逃げなかったのでしょう? 逃げようと思えば逃げることはできたはずです! 彼らはわが軍が進撃してくるのを知っていたはずだ。町は完全には包囲されていなかった。彼は自分の命ばかりか、楽器だって護ることができたんだ――彼の部下たちはたしかに逃げたし、わが軍も追跡はしなかった。それがどうもわからないのです」
    神父は答えなかった。それからしわがれ声を発した。
   「わたしは、あの人を知っているのです。あの方はすぐれた芸術の友でした。それにいい人でした」

    楽長モフェッティは合唱席の上で、皇帝軍の憲兵軍曹のように口汚くののしっていた。
   「貴様たちはそういうのをアダージオ・ソステヌートというのかね? こんちきしょう! それがソステヌートか? このノコギリや老、このくたばりそこないの、恥知らずの悪党ども、貴様らなんぞ、このゲンコツで……、この、わたしが、えーっと……このゲンコツで貴様らをぶんなぐって……、踏んづけて、ぶっ殺してやる……わたしは、えーっと、……ぶっ殺してやる、このくたばりそこない! そんなのはソステヌートじゃない。そんなのは女どもがだ……ケツを振りふりしているようなもんだ、いいか、ケツをだぞ!」
    マルキスの姿が目に入ったとき、楽長のののしる声が切れ、そのあと噴火を止めた火山のように、さらに二度、三度、低いうなりが聞こえたが、やがて怒りの皺は親愛の情を示す皺にかわり、息を吸い込むと、エレガントな戦士の挨拶と自己紹介に甘い声で応えた。
   「モフェッティでございます。わたくし、なんと申しましょうか……わたくしはモフェッティ。私の名前、えーっと、つまり……モフェッティという名前、きっと、あなたさまもお耳にされたことのない名前ではございませんでしょう……もし、あなたさまが音楽の愛好家でいらっしゃいますならば」
   「もちろん知っているよ! あんたは、まさかわたしが野蛮人だとでも思っているのですか? わたしが野蛮人だと? そうか、モフェッティ! で、わたしが音楽が好きかどうかだと? わたしは音楽が底抜けに好きなんだよ。底抜けだといったんですぞ、親愛なるマエストロ」
   「それではアダージオ・ソステヌートをお聞きください……」
    マルキースはモフェッティなどという名前を聞いたことはかつて一度もなかった。それにアダージオ・ソステヌートだか何やらを聞く気など毛頭なかった。彼は威圧するようななれなれしい身振りでマエストロを合唱隊席の薄暗い隅へ押していった。
   「そいつを聞きたいのは山やまだがね、わたしはあんたと非常に重大な問題について話をしなきゃならん。それは一分一秒を争う問題かもしれんのだ。例のバイオリンのことだ。あんたがボナヴェントゥーラ神父にはなしたという、そのグァルネリのことだ……。なんでも、あんたは総督の以前のコレクションのなかにあったものだと認めたということだが……、わたしはどうしてもそいつを手に入れたい……もし、どこの、誰のところにそれがあるのか話してくれたら、すごく感謝するんだが……」
   「わたくしは、なんと申しますか……、I・H・S とサインのあるグァルネリ・デル・ジェスゥの手になるあのバイオリン、あれは広く知られている有名な傑作です……、私も、なんと申しますか、つまり、喜んで……、わたくしはその楽器をコンデ公の竜騎兵連隊の、ある キャップテンのところで見たのです。その人の名前は忘れました。わたくしは、そのう……、かなり妙な名前でした、でも、名前を知らなくてもその人なら探し出せますよ、なんというか、こう、こげ茶色の肌をしていました、混血のような、その人の母親は黒人で、父親がアルジェリアでその女を買ったんだといっていました。なんだかスペイン人のような名前でした……」
    それを聞いてマルキースは悪態をついた――それはこの聖堂の壁がかつて跳ね返したこともないような口汚いののしりの言葉だった。
   「そのうすぎたねえ豚野郎の悪党はギマラエスだ! そいつ、ギマラエスと言わなかったか?」
   「そうです、たしか、そんなふうに言ってたような……、わたくしは、なんと申しますか……、いまになって思い出しましたよ。そのバイオリンを売るとかいっていましたが、あまりにも高いことを言いましたので、そんな値段じゃ、デル・ジェスゥはこの町からもち出されてしまうのではないかと心配です……、この町で、あのバイオリンにそんな金はだれも出しませんよ……、おまけに、それが外見もすごくみごとなもので、ジュゼッペの最良のじきのものです。もし、わたしの目に狂いが泣ければ、あのバイオリンこそ、地方長官が彼を監獄から釈放したとき、コンテストの出品のために手がけたものですよ……」
    楽長はぺらぺらとよくしゃべった。そして気が付いたときにはマルキースはすでにそこにいなかった。合唱席のカストラートたちがへらへらと笑い、楽器奏者たちは雑音を発した。モフェッティは彼らに向かって怒鳴った。
   「さあ、まじめにやれ、へたくそども! アダージオ・ソステヌート!」

    そして「金の輪」酒場ではロンブルで決闘がはじまっていた。その決闘にはマルキースには二重の野心――つまりバイオリンとギャンブルのいずれをも自分のものにしようという野心――があって、はやくもカッカと頭に血がのぼっていた。
    ポルトガルの混血(ムラット)ギマエラスはすでにマルキースを相手にトランプを戦ったことがあった。そんなときにはアラブの血の混じったすばらしい牡馬であったり、すごく手入れのゆきとどいた牝馬だったり、豪華な家具装飾一式を含む家がかかっていることもあった。 彼らは切っても切られぬギャンブルの好敵手となっていた。もはや一方がなしには、もう一方はギャンブルへの意欲さえ湧かないほどだった。あるときはトランプからチェスにかわり、チェスからサイコロへとかわった。ときには何年も顔を会わさずにすぎることもあったが、そのあとでまたもや顔を会わせた。彼らは次から次へと国を変え、ゲームの種類を変え、要するに万難を排してギャンブルを追及した。しかも彼らは手がつけられないほど頑固だった。
    彼らはお互いに顔の皺から目の瞬き一つにいたるまで、どんなささいな身振り表情も知りつくしていた。だから彼らは自分たちの関係がいずれは不幸な結果にいたるだろうということも感じていた。それでも毎度のように、もう一度、もう一度とゲームにのめりこむのだ。それはまさに何かに取りつかれたかのようだった。いまだってマルキース・ドゥ・シャトルヌワールがそのムラットを陰に呼びさえすれば、もし彼とバイオリンの値段について話をつければ、どのようにしてそのバイオリンを手に入れたか、あの瓦礫のなかを誰かがいまだに探しまわっているコレクションについてコレクションについてほかに知っていることはないかとたずねれば、問題はもっと単純だったのだ。
    しかしマルキースはそのどれもしなかった。彼は勝ち取りたかった、目前の好敵手からもぎ取りたかった、そして彼の手からバイオリンが転げ落ちるようにしたかったのだ。そしてそれは成功した。二日間にわたる決戦ののちに、ムラットはもはや手の打ちようがないことをさとり、いつものように自分の馬を提供しようとした。ただしマルキースのほうは容赦のない、文句なしの勝利のにが笑いに頬をゆがめただけだった。
   「おれは取り替えて乗る馬を四頭もっている――おまえの老いぼれ馬なんぞ、おれに何の価値があるというんだ? おまえが最近どっかで掘り出してきたというバイオリンをなんでださないんだ? おい、どうしてだ?」
    ムラットは顔じゅうをくしゃくしゃにして笑いだした。茶色の顔のなかで白い歯が光った――この白い歯にくらべると白いかつらさえグレーっぽく見えた。そのかわり彼の目はいっそう暗く映った。
   「わかったよ、こおすべてがバイオリンのためだったのか。おれはいつあんたがそれを言い出すか待っていたんだ。三丁すべて、金貨百ルイドールでなら譲ってもいい。ギャンブルとは別だ。おれはあんたを知っている。だから、おれから金で買うのはいやなんだ。ほかの人間からならOKか。だが、おれからはいやか。それならいい。そんなら三百にはなる。あんたがそのほうが言いというのなら、それだけ払えばいい。もし、いやならトランプは止めよう。言っとくが、ほかのやつにならおれは、たとえば、五十ででも売る。あんたにはこのバイオリンは三百の値打ちがある」
   「まず、そいつを見たいな」
    彼らはムラットが滞在している「錆びたピストル」ホテルの一室に入っていった。マルキースは長いことグァルネリ、ストラディヴァリ、それにグァダニーニに見入っていた。バイオリンは輝いていた。ストラディヴァリのケースのなかには名前の記入された紙片が入っていた。マルキースはすでに書き込まれている名前の列の一番下に自分の名前を走り書きした。ムラットはへへら笑いをした。
   「あんたには自信があるのかい?」
   「そいつはあんたのための売り物じゃない。あんたはそれを勝ち取らなきゃならん。ほかの人間になら――たとえ五十ででも売ってもいい……」
   「よし、下に行こう。ここではやらん」
   「こわいのか?」
   「こわいのではない。だが、以前、マルセイユでフリゲート船の船長をすんでのとこで刺し殺すとこだった。こんなふうに二人だけで勝負をしていたときだ。そのとき以来、おれはサロンか大広間でしか勝負をしないことにしている。だからゲーム室で……さあ、行こう」
    次の日、マルキースは三丁のバイオリンをヌワールヴィーユの自分の館に送っていた。
   「気をつけるんだぞ」
    マルキースは弟のアンリに言った。
   「おまえも、あの盗賊野郎を知っているはずだな。旗手のジャックも連れていけ」

    ムラットはマルキース・ドゥ・シャトルヌワールがあのとき、生涯にはじめていかさまをやったのを知っていた。彼はその瞬間、そのペテンを暴こうとや思いもしなかった――むしろ彼のトリックをじっくり観察しようと思ったのだ。そのときのあるゲームではポケットのなかにカードをすべり込ませさえしたのだ。
    それから二年後、またもピエモントでめぐりあったとき、ゲームのまえに言ったものだった。
   「もしかしたら、あんたがここに身ぐるみおいていくか、それともわたしかだ。あるいは二人ともか。わたしはまったく一文なしだ。どこへ行っても、あんたのいかさまは通用しなかったよ」
   「おれのいかさまだと? おれの、どんな……?」
   「待て、冗談どころじゃない、大砲の弾が飛んできているというのに。ただ、言っときたいのは、やるんならもっとうまくやれということさ。わたしなんざ、そのおかげで、二度も命を失いかけたんだ――三度目はさすた、わたしもやらなかったがね。そんなことはどうでもいい。あんたから金はうけとらない。しかし証文をくれ。あの三丁のバイオリンは正当な所有者としてのわたしに返却するとな」
    太鼓の合図が響き、マスケット銃の発射音がとどろき、右翼のほうで皇帝軍の槍騎兵が攻撃をかけてきた。
   「どうしておまえがあのバイオリンの正当な所有者なんだ? おれは、それをクレモナで……」
   「そうさ、まさにそのクレモナでだ」
    ムラットはポケットから羊皮紙にくるんだカードを引っぱり出した。それを開けると、一枚のカードの裏面に誰かが爪でつけた十字の印が朝日のなかで浮いて見えた。その反対側はダイヤのクイーンが魅惑的にほほ笑んでいた。
    マルキースはムラットの黒い目を見ることさえできなかった。そして一言もいわずに証文を書いた。それから二人は馬の鞍に飛び乗り、コンデ公の胸甲騎兵隊の攻撃に合流した。連隊は移動し、地面は大きな地響きでゆれた。耳をつんざく信号ラッパの甲高い響きも馬のいななきも、甲冑のぶつかり合う響き、マスケット銃の発射音のなかに飲み込まれていた。胸甲騎兵たちは手綱を放し、疾走する馬の背の上でサーベルを振りかざしている。彼らは古いオーヴェルニュの軍歌をうたっていた。そして彼らの樹上には銃弾に打ち抜かれた軍旗が風にはためきながら立っていた。
    マルキースとムラットはお互いにピストルをかまえていた。皇帝軍のこのエ連隊と遭遇して、まぜこぜになり、この激しい回転木馬の渦巻きのなかで三度相手の背後について、お互いに三度ピストルを発射し合った。そのあとはオロモウツ出身の軍団と戦わなければならなくなり、お互いに相手を見失ってしまった。


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