(4) 侯爵ヨーゼフ・フォン・ウント・ツー・シュヴァルツェンベルク・一七〇〇年


    国境の前哨基地――ここにはかつらは支配していない――に配置されているのはインド・ビハール地方出身の頑強でベテランの傭兵たちだ。彼らは髪を編み、ワシの羽根飾りのついたテンの皮の円筒帽(シャコー)をかぶり、黄みどりと朱色の外套を肩にかけている。その外套には装飾的な布地などよりももっとけばけばしいたくさんの縁取りやその他の装飾がほどこしてありたくさんの飾りボタンで飾り立ててあった。彼らは地面に打ち込まれた棒杭のように馬の鞍の上にまっすぐ背を伸ばして乗っている。
    彼らの前方の霧のなかには、かつらの支配するオーストリアがあった。三角の帽子、鼻めがね(パーンスネイ)、短剣、オストリッチの羽根飾り、馬車、膝までのズボン、フランス式庭園の刈り込みの幾何学的配置、茂りすぎたシダの人為的排除、クラビコード、ループでふくらませたスカート、張りついた黒い蝿、金色のムーア人のターバンをかぶり、オウムの檻を手にした黒檀のように黒い黒人、ヴェルサイユ・トリアノン宮殿舞台の田園劇、エズイット・バロック様式の礼拝堂、たっぷりと香水をふりかけた山羊ひげの枢機卿たち、かぎタバコを嗅ぐ警察署長、そしてテリアを連れた黒い服に白靴下の教区牧師。
    彼らの跡には金のトルコ風指揮杖(ブズドガン)をもったトランシルバニアの王侯たち、熊の毛皮のひさしなしの帽子をかぶったモルダビアとカルパチア山麓地帯のジプシーの長老たち、長柄のまさかりを抱えた騎兵隊に、鎖で武装したまん丸に太った歩兵、斧をもったプロヴァンス人、その後には二枚舌(リード)の吹奏楽器とコルドバ革の長靴が続く。
    銀貨、マリアの肖像を刻印した銅貨、トルコ産の子馬とひげむじゃらの説教者たち、彼らの後からは大きく反り返ったサーベル、年を取った地主の一団、それにスパイスのきいた食べ物、宝石をはめ込んだ留金、それらの次には南モラヴァの踊り、そのとき酒場はゆれる。
    黒い目の酒場女たち、だらしない大酒食らい、いまにもつぶれそうな国境の要塞、奇妙なルネサンス風の装飾をほどこした真新しい防壁、なんだか変な具合だ。たぶんインドのバロックかなんかだろう。このスタイルはクレムリンからワルシャワをへて慈悲深い領主ケシュマロクの居城にまでたっしたのだ。
    霧に沈んだあのドナウの岸は実際には二つの国の国境でもなんでもない。むしろ二つの世界の境目だ。そしてこの土地にこんな風に立つのこれで最後だと感じている年老いたトランシルバニアの反乱者たちは後ろに髪を束ね、鼻ひげを生やし、外套を着て、地面に根を張った騎馬像に似ている――傲然と、名残惜しげに。
   「いまさらどんな悲しみがあるというんだ、兄弟、どっちにしろ何もなしじゃないか?」
    しかし、この冗談めかした言葉に返ってきたのはシュチャヴニツァ地方特産の小さな角製の蓋つきのパイプから出る煙の塊だけだった。それはすぐに霧とまじりあっていった。
    しかし彼らの主人は押し黙ったままだった。かれらは、いま、オーストリア軍攻撃部隊先遣隊の最先端にたっていることなど、まるで意に介していないかのようだったし、この霧が少しでも切れたら、ウイーンに向けて進撃するのだという心構えさえもないかのようだった。そのうち急に馬の鞍に取りつけた革袋の鉤に引っ掛けておいた長柄のまさかりががチャッと音を立てたかのような気がした。馬のとがった耳がぴくぴくっと動く。そして、どこからともなく足音を消すにはあまりにも枯れしおれてしまった草むらを通って近づいてくるひづめの音が聞こえてきた。
   「前進」
    後ろのほうから、鋭い声がした。
   「そりゃ無理だ、おれの心臓の足をもつれさせるわけにはいかん。どうだ、そうだろう、老いぼれのおとっつあん?」
   「隊長殿自らが、このわたしに命令をくだされたんだ――おれたち、すぐにも前進しなきゃならん」
   「なんたって、百対一だ……ってことは、へべれけをきめこむべし」
    老兵のボルディジャール・トゥルコディ・ナジはぼやいが。そしてシチリア産で茶の葦毛の愛馬を霧のなかにおしやった。
   「それにしてもボルディジャールの親父さん、あんたはいまにも軍服を脱いでしまいそうな気配だけど、隊長は一時間以内に側面攻撃をかけるといっているんだぜ」
   「だけどよう、そんなことは隊長のほうがよく知っているんじゃないのかなあ? それとも、もしかして、あんたが隊長なのか?」
  「この鼻ったれ、おまえなんかあごひげもろくに生えそろっておらん青二才のくせして。だがな、よく見ておれ、これからどうなるか!」
    上のほうでは足並みをそろえて進み、絶え間なくニ、三騎ずつが組となった傭兵たちが二人の待機する場所に到着し、相互に連絡を取り合っている。そして絶えず、何騎かの騎馬の兵士を左翼のほうにも送り出していた――右のほうでは古いドナウ河が音を立ててながれている。そちらのほうに追跡たいを送る必要はない。
    二組の全焼舞台も、こうして、騎馬の兵士が到着するにしたがって、ほぼ前衛部隊を構成するに足る十分な数になった。やがて前哨部隊も左翼のほうに組み入れられた。この部隊は他のニ部隊にたいして、いくらか後ろの位置になっていて、こちらの隊に配置された中継舞台の分だけ人員は多くなっていた。こうして大勢が駆けたり、武器の触れ合う音を発したり、いたるところで霧のなかに見え隠れしていた――第一前衛部隊の先頭に鋭いワシの目のボルディジャル・トゥルコディ・ナジいる。
    やがてニ、三発のマスケット銃を発射する鈍い音がした。続いてハンガリー反乱者たちのピストルが非を吹き、小競り合いがはじまった。伝令はあちこちに飛びまわり、それぞれ下士官たちは第四、第五、第六小隊がすでに本体から離脱し、その全員が皇帝軍の後衛陣に突破口を開こうとしていた。それはまさに猟犬の群れが獲物のイノシシに飛びかかっているようなものだった。騎兵隊はそのとき早くも敵の後衛陣の胸甲騎兵隊におそいかかり、その隊列を蹴散らしたかとおもうと、彼らは跡形もなくきりのなかに消えて、そしてすぐに別の場所に現われて、今度はサーベルを振りかざした一団のなかに踏み込んでいった。この神出鬼没の先方は、おそらくろく世代の昔から伝わるもので、彼らにこの上もない小気味よさを覚えさせるものだった。
    ここで皇帝軍のフランスやヴァロン(現ベルギーの一地方)の士官たちは、このような自分の職業については語らない。すべてはサルマートの草原でのかつての時代のしきたりにしたがって行動しているだけである。霧が晴れたら退却中の皇帝軍は壊滅し、半死半生の状態で川岸に追いつめられているだろう。
    ラースロー・オチュカイはラッパを吹かせた。少人数になって散開していた各小部隊は本体に合流した。そこからは巨大な半月の形の角が二本突き出していた。ピストルや長柄の斧はふたたび鞍に取りつけたケースにしまわれ、何千本というサーベルががちゃがちゃと騒々しい音を立てながら抜き放たれた。そして、皇帝軍の『祖国と自由のために!』の叫びのかわりに、古風な「フイ、フイ、ハイラー!」が荒れ狂うようにわきあがった。
    革製の乗馬用具から放り出された大勢の人間が何もかも道から排除した。この大洪水はすう瞬間のうちに、何食わぬ顔で胸甲騎兵や竜騎兵、歩兵、砲兵、輜重車、鎧、孔雀の羽根にマスケット銃、かつらに槍などの入り乱れた混乱を冷酷に飲み込んだ。
   「一人も生かすな!」
    オチュカイが暴れ狂うアラブ系の馬の鞍の上から叫んだ。彼は肩から肘にかけて血をにじませていた。
   「突いて、切って、きりまくれ、あのくそったれどもを! 一人も生きのびさせるな! ラコーツィの勇士がどんなものかおもいしらせてやれ!」
    反乱軍の周辺で喚声が上がり、いたるところでそり返ったサーベルをたたきつける音が雷鳴のようにとどろいた。ただ左翼のほうでだけは、その嵐の音は岩か年ふりた堅い樫の木を打つかのように響いた。そこにはモション出身のパールフィ伯爵家の騎兵が鞍の上で血縁者同士の顔を見合わせていたのだった。彼らは退却しなかった――ここで、だれもが自分の相手と騎馬で一対一の決闘をおこなった。オチュカイはここから馬を駆って移動しようとした。反乱者たちはハンガリー貴族の騎兵たちを算法から取り囲んでいた――皇帝軍は河を背にしている。
   「わたしらも、あんたと一緒に行きますよ。ここはもうたくさんだ!」
    激しい戦闘のなかで誰かが叫んでいた。
   「そんなら貴様のかあちゃんとスカートでもはいて散歩でもしてこい!」
    オチュカイは怒って叫んだ。
   「みんな死んじまえ、この淫売の息子どもめ!」
    伯爵家の騎兵たちは、相手になさけようしゃもないことを悟ると、前方の者たちは勇敢に戦ってから、後退した。後陣のものは川っぷちの高い崖から水のなかに飛び込んだ。
   「追え! やつらを追うんだ!」
    一人、また一人と川岸で馬をおりて、水のなかに入っていった。彼らに続いてオチュカイも水のなかに入った。彼らのなかの何人かは向こう岸にはい上がろうとしたが、戦況を伝える可能性のあるものが一人もいなくなるまで血の鉱泉はわきつづけ、伯爵家の騎兵は一人残らず殺されてしまった。最後の騎兵が馬から落ちたとき、オチュカイは川から岸にあがり、信頼あついラッパ手フェルク・タルヤーンに言った。
   「騎乗のラッパを吹け!」
   他のラッパ手もそれを中継していった。すると隊員たちは集まってきた。中隊長や小隊長は指揮官の命令を口移しに伝達していった。
   「休憩はなし。正午までに、われわれはシュヴェハットの城壁の下まで達していなければならん。負傷者の治療と、敵の負傷者にとどめを刺すこと、戦利品の収奪のために一時間を与える。志願者を先遣隊として送る。ドナウ河はわが軍の右翼となる」
    隊員は馬から下りて、なれた手つきで、すばやく自分の仕事を片づけた――彼らの上方の色あせた愛の空に黒い点が円を描いていた。どこにいても彼らの後にはハゲタカガがついてまわった。隊長は全員を注意深く見まもっていた。そして自分は縁どりの装飾をほどこしたテンの毛皮の長いコートを着て、朽ちた木の株のうえに腰をおろしてベーコンを食べ、平たい水筒からから、野生のブドウのぶどう酒をあおっていた。やがてナイフを拭き、パイプに火をつけ、短く、黒い鼻ひげをひねり上げて目をしばたいていた。士官たちはその様子から隊長が上機嫌なことを認めた。そしてハゲタカのほうにも呼びかけた。
   「おまえたち、待っていられないのか、この死肉あさりめ。最初はおれたち、その後がおまえらだ! 見るだけなら見ていろ。だがな、きさまなんかにおれの目玉はぜったいつつかせないからな!」
    ジュルカ・ハムザはすばやく熊の足のような手で黒曜石のように黒く光る目をおおった。
   「ばか言うんじゃない、ラツィ。そんな縁起でもないことを言うのはよくない。きっとおまえの言うことを聞いているぞ」
    隊長がしわがれ声た、きびしい、大きなだみ声で叱ったが、不意にまじめな顔になって言った。
   「おまえの言うとおりだ。いつ頃からか……おれもあのハゲタカどもには人間の言葉がわかるんじゃないかと思うようになった」
    そのとき兵隊たちが一人の背の高い男を担架にのせて運んできて、隊長の足元におろした。
   「どうしようというのだ? いま、そんなひまはない」
    隊長は不機嫌に言いすてた。二人の兵隊は担架の後ろにオーク材の木箱を引きずっていた。担架にかぶせたテント用の帆布をはぐと、そこにはかつらをかぶった屈強な皇帝軍の男が横たわっていた――沈みつつある太陽の光が男の胸甲ににぶく光った。
   「この男はどこかの貴族であります。敵軍の高官にちがいありません」
    兵隊はそう言って士官の頭から落ちた金のふち飾りのある絹の三角帽を示した。帽子の反ったひさしの後部にはオストリッチの折れた羽根が三本ゆれていた。
   その羽根をやつのけつの穴に差し込んでおいてやれ。ただし、慎重にやるんだぞ」
    兵たちたちも将校たちも笑った。
   「こいつ、まだ生きています。体にかすり傷一つありません」
   「なんだと?」
   「われわれはこいつをテントの下に押さえつけて捕らえたのであります。われわれが取り囲んだとき、テントがつぶれて、こいつにかぶさったのであります。ただ、ほんのちょっと踏んづけてやりました」
    オチュカイは水筒を振り、残りを飲み干した。
   「そいつに一口飲ませてやれ。その箱は何打?」
   「たいしたもんじゃありません。バイオリンのケースが二個だけです。こつのことがすごく心配だったようであります。意識を失ってのびているところを発見したとき、この木箱を抱いていました。こんな変なものは隊長殿に報告するべきであろうと思ったのであります」
   「貴様の胃袋をカラスにつつかせてやるぞ! もしそれが銭箱だってみろ、貴様ら、その変なものをここまで引きずってきたか?」
    また、みんなは大笑いをした。
   「おい、ジュルカ、起床ラッパ代わりにそのバイオリンをぎいこぎいこやってやれ」
    ハムザはケースを調べてみた。堅い豚革で出来ていて鍵がかかっていた。
   「鍵が要るな、ラチ」
   「鍵がどうした。そんなおもちゃにつぶす時間はない。ケースが革なら切り裂いてしまえ、この石頭野郎!」
    胸甲騎兵の将校は目を開けた。急いで起き上がろうとしたが、大きなうなり声とともに、ふたたび仰向けに倒れた。
   「鍵だ、鍵だ」
    将校は苦痛のうめき声のなかで口走った。そして肘まである手袋の指で胸を指した。
   「オルバーン、おまえはそこにいるのか、ここにきてこののっぽの通訳をしてくれ」
    トピシュ地方出身の反乱兵がやってきて隊長の通訳として将校を尋問した。
   「バイオリンのケースの鍵はその胸甲の下にあると言っています。革を切っても無駄だ、その下はどっちにしろ鉄板になっているから、下手すると、バイオリンを壊すことになりかねんそうであります」
    そこで胸甲をはずし、シカ皮のヴェストのボタンをはずし、レースのシャツの下から、金の鎖につけた価値を引っ張り出した。将校はホッとした。もう一口ブランデーを飲んでから、非常な苦労をしながらやっとの思いで両足で立った。最初は風のなかの燭台の火のようにふらふらしていたが、やがて彼の身長いっぱいに背を伸ばして直立すると、威勢のいいスピシュ出身の兵士よりも背が高かった。
   「フォン・シュヴァルツェンベルク侯爵」
    股下まで達するエナメルの長靴につけたぎざぎざの拍車を打ち合わせて待っていた。
   「淫売のくそ息子め!」
    隊長は侯爵に向かって怒鳴った。反乱軍の兵士たちはまたもやげらげらと笑った。皇帝軍の最後の高官が真珠のリボンのついたシカ皮のヴェストを着込んで、二丁のバイオリンとともに、彼らの目の前にそんな格好で立っている。そして秋の雲にさえぎられたこの日陰で死ぬことを覚悟し、ゆがんで空っぽのくろ皮の短剣の鞘をまさぐっていた。ハゲタカはだんだん高度を下げながら、獲物をねらって空を舞っている。
   「のっぽのコウノトリの足……」
    周囲ではやし立てる喚声がわきあがった。そしてジュルカ・ハムザはケースから引っ張り出した一丁のバイオリンを弾きはじめた。二人のジプシーの兵隊がすでのこの音楽に合わせて踊りだし、オチュカイ軍の快進撃を祝って狐踊りをおどった。すると誰かが折れた羽根の突いた帽子を彼の頭のかつらの上にかぶせた。
   「何といっているんだ?」
    オチュカイは笑いにむせびながらたずねた。
   「これははなはだ騎士的とは申しかねると……」
    ウルバン・ゼルダーはおそるおそる通訳した。すると、オチュカイは飲み、いっそう激しく、茶色に日焼けした顔に赤みがさすほどわらった。そのうえ、首筋には血管が浮き出し、彼の目からは非情な笑いの大きな涙があふれていた。
    やがて建ちあがった。彼はドイツ人より頭一つ分背が低かったにもかかわらず、彼のテンの毛皮の帽子の上の鷹の翼の威勢は雲にまで達しそうな勢いだった。全員が静まり、嵐の前の樺の木のように細かく震えていた。
   「親愛なるオルバーン・ゼルデルよ、こいつに言ってやれ、お望みなら、カラッファやハイステルその他のやつらの首切り役人式騎士道精神にのっとってやってもいいんだぞと。知らなきゃ言ってやれ。こいつらの軍隊の六人の男が、わが国の娘をつかまえて裸にし、七人目の男が裸のまま女を鞭で打って侮辱した。われわれの指導者を杭で突き刺し、わが軍の将校を四つ引きにひきちぎり、わが軍の指揮官の体じゅうの骨をぼきぼきにへし折り、そのうえ彼らを吊り下げてさらしものにした。そして、われわれの子供たちの頭を壁にぶっつけてぶち割った。
    親愛なるオルバーン・ゼンデル、おまえたちの騎士道精神がやったのがこういうことだったのだぞと、そう、こいつに言ってやれ。それからおまえ、ヤーヴォルカ、こいつをどっか、おれの目につかんところへ連れていって、そこでこいつを片づけろ!」
    スピシュ地方出身のドイツ人の反乱加担者は以上の内容を通訳し、ジュルカはバイオリンで甘く悲しい旋律で伴奏した。そしてそれにつられて、秋の雲はこまかの時雨の涙を降らせて泣いた。
   「騎乗!」
    その言葉はラッパ手に言ったものだった。やがて、その信号ラッパは、ほかのラッパ手にも受け継がれていった。反乱軍は略奪を止め、獲物をいっぱい詰め込んだ袋を馬の鞍につけて出発のときを待った。ヤヴォルカと四人のスロバキア人の兵隊は侯爵を柳の並木のほうに連れて行った。
    「ラテン語ならわかるかね?」ドイツ人がヤヴォルカにたずねた。
   「あんたはわたしの顔を見て、そんなことを聞くのか? ラテン語混じり文ならあんたの懺悔聴聞僧にも負けないよ」
    彼らは葉を落とした黒っぽい幹のあいだで止まった。すると背の高い皇帝軍の司令官は膝をつき、首まで涙でぬらしながら、学生僧ヤヴォルカの手にすがってキスをした。
   「生きたいんだ、生きたいんだ! せめてもの慈悲を! わたしはベネチアへ帰る。それともミラノか、どこでもかまわん……、もう、二度と君たちに剣を振り上げることはしない……、ただどうか哀れみを……、ああ、わたしはどうしても生きたい……君は、君は、ほかの連中のように愚かではない……、ほら、こうして、膝を突いて頼んでいる、どうか、見逃してくれ!」
    学生僧は長いあいだ彼を見つめていた。なんとも言えない不快感に、思わず身震いした。そして、その苦々しい不快感から、ぺっとつばを吐いた。それから彼は表情をやわらげ、この人間の残骸が涙に暮れるありさまを、じっと見つめに見つめていた。彼は仲間の兵士たちにうなずいた。
   「さあ、いってくれ、こいつの始末はぼくがつけるから」
    柳の木のあいだに二人だけ残った。彼らのまわりには何千頭もの馬が荒い息を吐き、ひづめの音をとどろかせ、サーベルの音がガチャガチャと鳴り、命令の声がほえたけり、信号ラッパが甲高く騒音の中を突き抜けていき、どこかでは白地に聖母マリアの像を描き、赤と金の三角形で縁取りされたずぶぬれの軍旗がはためき、反乱軍はウイーンに向けて進軍していった。ずっと以前、この大冒険がはじまった当時と同様に、ウイーンへ向けての進軍だった。狂気じみて、無謀に、絶望的に、日の出とともにはじまったこの血なまぐさい決戦を、ひたすら戦い抜くために……、その時期は花の咲きにおう春の初めのころだった――しかし今度の戦闘は重苦しい、結核の微熱のような秋の末だ。
    アダム・ヤヴォルカはかつらをかぶったこの大男の残骸に哀れをもよおしていたのだった。もう一人の男も立ちあがった。すでに膝を突いてはいなかった。彼の灰色の目は学生僧の目のなかにある秘密を読み取ろうとしていた。二人とも口を利かなかった。この二つの世界には、すでに、共通する言葉は一言もなかったのだ――ただ、秋雨だけが語っていた。学生僧が向きを変えて歩きだしたとき、侯爵は背後から呼びかけた。
   「君がわたしの命を助けてくれたのなら、わたしのバイオリンも救ってくれ」
    ヤヴォルカは立ち止まった。 「お願いだ、あれたちも逃してくれ。わたしはあのバイオリンを愛しているのだ」
    ヤヴォルカは笑いだした。彼がバイオリンをもって、馬でもどってきたときにも、まだ笑っていた。
   「一つはストラディヴァリで、もう一丁はグァルネリの作だ。この戦争がおわったら、ロンバルディアのわたしのところを訪ねてくるがいい。ブレッシアかクレモナか、それともその地方のどこかで見つけることができるだろう。わたしはその地方を治めているはずだ。そして、君の妻としてわたしの娘を与えよう」
    ヤヴォルカは馬に拍車をかけた。そして彼の後ろで別の世界の異国の名前が聞こえて消えた。ストラディヴァリ、グァルネリ、ブレッシア。やがて自軍に追いつき、未来の義父にたいして心の底から笑った。やがて、彼は永久に命を救った男のことを忘れた。
    侯爵は両方のバイオリンに何か異常はないかどうかを点検した。そのあとで革のケースに収めて鍵をかけ、二丁のバイオリンをかかえて、川岸の繁みのなかに入っていった。彼は死にそうなくらい疲れ、雑草とエニシダの生い茂るなかに倒れこんで、前進をふるわせていた。しかしいろんな音が、かつてないほどに激しく襲ってきた。
    騎兵隊の遠ざかるひづめの音と、しわがれた叫び声と、息たえようとするものたちのうめき、、また主を無くした馬のいななきと、そのひづめの音がはっきり聞き分けられた。ハゲタカの声はカラスの鳴き声で妨げられた――それはまた、屍肉をめぐっての新たな戦いのざわめきでもあった。そのざわめきは、ふたたび馬のひづめの響きにかき消された。そして繁みの奥深くから、反乱軍たちが自軍の負傷者を鞍にくくりつけて運び去る様子をうかがっていた。
    やがて墓場のような静寂が訪れた。それをさまたげるのは、たくさんの羽のはばたきのおとと、ミツバチのうなり、そして遠くから伝わってくる驚いた野ガモの叫び声だけだった。やがてふたたび静寂。鉛のような雲が低くたれさがり、気まぐれな雨の滴のぴちゃぴちゃとなる音だけが一つになって流れ、川もざわざわと音を立てる。それはまるで、彼を何かの狂気じみた気まぐれは誘おうとしているかのようだ。
    天のバイオリニストが雲の指でモンテヴェルディやコレルリのアダージオ・カンタービレを演奏する孤独な声がどこからか無限の空虚のなかへ彼を呼び込もうとしている――それともそれを演奏しているのは、もしかしたら、静かな死神の白く光る骨の指だろうか? 背後では雲や死神の指のかわりに天使(ケルビーン)たちの丸っぽい指がぱちぱちと鳴り、カラスやハゲタカの翼は天使や大天使の羽のなかに溶け込んでしまう……いったいどうして、さっきは、あるいは千年も前は、あの冷たく光る四本のカービン銃の鉄の筒をおそれていたのだろう?
    かれは目を覚ましたとき、雲の羽根布団の上に憩っているような気がした。しかし、黒い装束の僧が彼のほうにかがんだ。日焼けした顔の重々しい表情の牧師だった。それからしばらくして、やっと侯爵は天国にいるのではないこと知った。ラルゴもアンダンテもすべて鳴り止んでいた。そして、ただ、ひどい空腹感が彼を襲った。
   「ここにわたしのバイオリンもあるのか?」
    彼はラテン語でたずねた。
   「あります。腹はすいていませんか?」
   「ひどく」
   「わかりました。四日間、あなたは口に何も入れていませんよ、連隊長殿。もちろん、あの朝の戦闘のまえに何か食べられたでしょうがね。あなたに子牛の肉入りスープを少しお持ちしましょう。病人にはいちばんいい食事です」
   「わたしはもう病人ではないよ。ただ、バイオリンが見たい」
    彼は長いあいだ、両方の手に届かないところにあるケースを見つめていた。やがて起き上がり、顔を洗い、食べ、飲み、肺の中に大きく息を吸い込み、死神と雲の指のバイオリン演奏から逃れられたことを喜んでいた。両方のバイオリンのケースを開け、弓に松脂をぬり、バイオリンを弾き、少し飲み、小さな部屋のなかを歩きまわり、何度も低い支柱の梁に頭をぶっつけ、泥だらけで、汗にぬれた自分のかつらの残骸を見て笑い、ふたたび何かを食べ、ごわごわのひげを生やした説教師にキスをした。そして同時に、 たわいもないことをぶつぶつつぶやいていた。何年ものあいだこんなにしゃべったことはなかった。
   「生きるというのはいいことだ。生きるというのはすばらしい。親愛なる神父。シュヴァルツェンベルクと称するある貴族、かつての地方長官、そして皇帝軍の連隊長をご存知ですか? その男がつい先ごろ、反乱軍の乞食兵士のまえにひざまずき、命乞いをしたのですよ。あれはいつのことだったのだろう? あなたは四日前と言いましたか?」
   「そうです。しかし、ラテン語でそんなに頭を悩ますのはおやめなください。わたしとならドイツ語で話ができますよ。場合によっては、オランダ語でも結構です。わたしはユトレヒトとライデンで神学を学びましたので」
   「そう、じゃあ、ドイツ語のほうがいい。いま言ったように、わたしは彼らの前で涙を流した――そして命乞いをした! この屈辱はまさに適切なときに来たのだ。人間は常に誰かを演じている。あるときは統治者としての顔をしなければならん。また、あるときは連隊長として……、そしてこのようなマスクはその人間を抹殺してしまう。わたしは自分の魂をその瞬間に、わたしがあの農奴たちの前に、それとも解放の反乱者たちの前にひざまずいた瞬間に発見したのです。
    いまとなっては、なんと言うべきかはわからない。とにかく、わたしは必死に命乞いをした――そして、いま、わたしはしゃべり、息を師、飲むことも、バイオリンを弾くこともできる。そういうわけです――わたしは音楽のなかではいつも自分の魂の反響を耳にしています。しかし、わたしがあそこで涙を流し、嘆き、彼らのあいだに混じっていた奇妙な飾りの黒服の学生僧の手にキスをしたとき、わたしは自分の本当の、裸の声を聞いたのです。何か未知のものがわたしのなかでしゃべりだしたのだ。それは、いまも、わたしのなかで話しつづけているし、今後も永久に話しつづけるでしょう。
    わたしはレオポルド皇帝の前に出よう、そして彼のちっちゃな鼻ひげと、突き出した下唇という彼の母方の特徴は戯画にも描かれていると言ってやろう。彼はかつらの上に米の粉を五ミリの厚さでおおっている。はっ、はっ、はっ。もう、わたしの前では何もえんじるなと、いずれにせよ、召使や下女たちをどのように扱ってきたか、とっくに、わたしは知っている。リヒテンシュタイン侯爵でさえ、いつだったか娼家から、ウイーン中と寝た娼婦を彼に世話したことがある……、いや、申し訳ない、敬愛する神父さん、わたしは自分の置かれた立場もわきまえずに、なにやら取りとめもない、たわ言を口走っている。いや、わたしは絶対に酔っ払ってはいない。ただ……生きるとは、なんとすばらしいことか! ということを……」
   「わたしは、あなたの懺悔を聞く気はありません。しかし、それでも、わたしはあなたの告白を聞いていたのです。あなたの汚い衣服を洗い流しなさい。そしてわたしは、あなたが外観も内心もともに清潔になってここから出ていかれることを願っています」
    緑色のブラインドのついた窓の外にはニクズクの木の赤い花が咲き乱れている。そしてその花々は、いまにも開こうとする雨のカーテンの隙間を通してさしてきて、教区農園の妖精の王国のなかにお気に入りの愛人――秋の空中に浮遊するクモの糸(バビー・レート)――を探しあぐねている秋の太陽とともに不信げな顔を見合わせている。しかし、お尋ねの絹に似た細い頼りない繊維は、とっくに雨に流されていってしまっている。だから太陽はニクズクの花や、板屋根の上の暗緑色のコケに、鈍く反射するガラス窓に、はらはらと舞う硫黄のように黄ばんだ葉っぱに、その行方を空しく赤い尋ねまわっている。
    侯爵はベネチアの秋のある日のことを思い出していた。彼は一人の気まぐれなあばずれ女と、ザクロやオレンジを積んだこぶねのあいだの運河の岸の沼地をさまよっていた。その女はあのとき彼を裏切った。彼もまた自分が独身だと言い張ったものだった。そして、彼が一度も経験したことのない大規模な戦闘の状況を描写していた。その女は魅力的な長い指をしていて、その指輪はみごとな金細工を誇っていた――しかし彼女のカメオはにせものだった。彼女の香りは聖書のページのあいだにはさんだラベンダーの香りだった。そして、そのあたりのどこであろうと、静かな会話の後には激しい快楽の抱擁が続くのだ。彼の歯のあたった跡に、秋が木の葉に描く紅の葉のような色をした血が、あの女の茶色の肩から流れ出したものだった。しかしもはやそのことについては、陰鬱な顔をしたプロテスタントの牧師にはストラディヴァリのバイオリンを演奏することでしか告白することはできない。そして牧師もそれを理解した。
   「このバイオリンは両方とも名匠の作なのです。真実、宝玉にも値します」
    やがて侯爵は牧師に言った。
   「ご覧なさい、わたしはこのグァルネリをあるユダヤ系のスペイン人から四〇ゼッキーニで買ったのです。そしてこちらのストラディヴァリは四十五ゼッキーニでした。わたしはこの楽器を製作した親方(マイスター)を両方とも知っています。わたしがクレモナノ総督だったころ、何度も彼らと話しをしました」
    彼はケースから一枚の紙を取り出すと、それをもって窓のほうへ行った。
   「エゼキエル・アミーゴ」彼はゆっくりと発音した。「そのユダヤ人の名前です。そしてもう一つの名前は、サルヴァトーレ・ディ・トスカーノです。この男はカストラートの歌手です――こんなばかなことをするのはイタリア人かトルコ人ですよ。この去勢男は何者かによって殺されました。しかも、その下男もです。この下男は主人のカストラートの持ち物を全部売ってクレモナに逃れようとしていました。ユダヤ人はたぶんこの下男からバイオリンを買ったのです。しかし、そのユダヤ商人は主人がまだ生きているうちに直接買ったのだと嘘をつきました――なんでも、五丁のバイオリンをひとまとめに買ったのだと……。
    もし、わたしが迷信深かったとしたら、このバイオリンをどこへも一緒にもっていくことはしなかったでしょう。それというのも、そのユダヤ人も誰かに殺されたからです。たぶん、そんな犯罪をおかしたのは例のカストラートの身寄りのものにちがいありません。それでわたしはそいつの親類縁者をみんなガレー船送りにしましたよ――そのころ、わたしはベネチアの統治にあたっていましたからね。 いまは、わたしはあなたの厚意にたいして感謝を表明したい。そこで、次に、申し訳ないが、クロステルノイブルクまでたどりつけるように、なにか僧服のようなものをゆずっていただきたいのですが」
   「妻に何かカトリックの僧服を見繕わせましょう。わたしはあなたのかつらの手入れをいたします。そして粉も少し振りかけておきます。帽子からは金の飾りも羽根もとってしまい、形も火熨斗(ひのし)をかけて変え、二本の角形にしましょう。あなたの長靴は短く切って、なにか短靴のようなものに作り変えましょう。そしてなにか留め金をつけましょう――それで、よろしいでしょうか?」
    「一つの仮装衣装から、まったく別の仮装に早替わりというわけですか。地方総督から連隊長、そして神父。雨から風、太陽の光。それから信頼のできる馬と、信頼のできる下男と、それから、ええっと……ようするに、この親切にたいしてはそれなりの返礼はするつもりです」
   「侯爵、あなたはこの広い、暴虐のかぎりをなめつくしたハンガリーの国内に、金のために皇帝軍の将校に手助けをしようとするプロテスタントの牧師がいるとでも思っておられるのですか?」
   説教師の目から火花が発せられ、彼の声はシナイの山にとどろく雷鳴のように響いた。そして侯爵はこの怒りに燃える黒衣の男の前に身をすくめた。
   「たしかにわたしは人間であり、キリスト教徒です」
    彼はしどろもどろに言った。
   「しかもこのように、わたしたちは敵同士です。出生においても、言葉においても、信仰においても、思想においても――。もし、わたしがこのことを金のためにしたのだとしたら、わたしはいやしい裏切り者となるでしょう!」
   「しかし、わたしは……あなたのワインを飲み、あなたの食べ物をたべた……。わたしは命乞いをした……、わたしは……わたしは……、あなたのためにバイオリンを弾いた。あなたに自由に話しをした……、わたしたちは、もはや敵同士にはなれない……」
    牧師はながいあいだ、背の高い、細身の外国人を見つめた。その視線は「あんたがたは、わが国の何千人もの説教者を国境の外に追放し、わたしたちの町を焼き、わたしの血縁者を殺した。あんたがたはわが国の民衆に恥辱を与え、わが国の王権を奪い、わが国の支配者の首を要求した」と語っていた。
    しかし、この牧師の心の耳には、臆病者の、優柔不断の声の弁明が聞こえるだけだった――わたしは、あなたのために……バイオリンを弾いたと。それから牧師はこの図体の大きなドイツ人のほうに近寄り、手を差しのべ、しっかりと手をにぎった。そしてお互いに握り合った右手を振り、じっと目と目をみあわせ、その瞬間、神の前においても、人間の前においても同等となった。
    しかし、次の日、二人のあいだには、すでに、ふたたびあらゆる世界が横たわっていた。別れに際して、たくましい黒い僧服の牧師の声は敵意にみちて響いた。
   「もう、今後は一切、だれもよこしてもらいたくはありませんな! これからは絶対、敵を許すようなことはしませんからな! このことはわたしの心にとって大きな痛手となるでしょうよ、侯爵!」
    それでも、牧師はおだやかな目で去りゆく者の後姿を長いあいだ見送っていた。牧師は彼に手をふった。それはあたかも「さあ、もう、腹を立てるのはやめよう。たしかにわたしだって……あんたのためにバイオリンを弾いたのだからね……」 とでも言っているかのようであった。
   




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