(2) ノクターン ― 1908年
事実、そこでは、秋の日がヘリコンやチューバ、ホルンやトロンボーンに照りつけていた。その朝顔形に開いたラッパの口からは「勝利の栄冠を受けし者に栄えあれ」と「ドイツ帝国、すべてに冠たるドイツ帝国万歳」が噴出していた。
皇帝が頭にどんな冠物を戴いていたか、もう、正確には覚えていない。もしかしたら馬の尻尾の毛をたらした近衛部隊の銀のヘルメットだったかもしれない。彼のお気に入りの身辺警護隊の鷲の紋章をつけた金のヘルメットだったかもしれない。
ただ一つ、たしかに覚えているのは麻痺した左手を、ナポレオンが片方の手をいつもしていたように、白い長外套のの折り返しの裏に差し込んでいたことである。それにたいして白手袋をはめた右手にはオークの葉の装飾をほどこした元帥杖がゆれていた。そして両端がピンと跳ねあがった勇猛な彼のカイゼルひげの上には「ただいま入荷」の宣伝文句が掲げられていた。
皇帝の左側にはきれいに切りそろえられた金髪の鼻ひげ、頭にはされこうべのきしょうをつけた騎兵隊の儀装帽(シャコー)をかぶった皇太子が歩いている。それ以外の五人の皇子たちはまさに制服の出来栄えを展示するモデルででもあるかのようだった。彼らは騎兵、砲兵、擲弾兵(てきだんへい)の各部隊の制服を着ていた。このコレクションを完全にするためにでもあろうか、なかの一人は濃紺の海軍士官の服だった。すべてがヴァーミリオン、黒としろ、ダーク・グリーン、カーマイン・レッドといった階級章のはなやかな色の祝祭に照り映えていた。
皇帝の十歩前を近衛隊の胸甲騎兵が厳かにホーエンツォルレン家の旗を掲げて進んでいる。黄色の旗に描かれた黒いプロシャの鷲と十字架がはためき、連帯の平時の隊列は敬礼のさいには、一ミリの狂いもなく「気を付け」の姿勢をとる。
全連隊の鉄兜や銃、剣の完璧な整列の様子、命令を実行するにさいしての、行動の機械的正確さなどを詳細に描写するのは無駄なことかもしれない――だとしても、私はクルト・フォン・ディーッセン大尉についてだけは触れておきたいと思ったのだ。彼は先祖伝来の伝統的支配権をもって近衛連隊の擲弾兵第四中隊へ向かって号令をかけていたのだ。
ティーッセン大尉はパレードや軍事訓練、皇帝視察の大演習、兵営生活、それどころかパレード用の礼服みたいなものにまですっかり嫌気がさしている士官たちの一人だった。わしに黒十字の国旗さえもが彼の心に何の特別の敬意も呼び起こさなかった。
へいえいでの、ある退屈な勤務のときに、自由領主フォン・ティーッセン家の家系は信頼にたる系図によれば、ホーエンツォルレン家の家系よりも百四十年ほど古いことが計算してわかった。そして、そのときから彼のキラキラ光る金縁のモノクルのなかで黒十字の旗を見つめる目には、冷え冷えとした退屈が反射していた。
ティーッセンはいつでも軍司令部に出入りすることができたが、しかし、彼はそのことに何の野心もなかった。戦争に関係するものすべてのものは無味乾燥な無駄な苦労とみなし、自分の感情を過酷なカリカチュアのなかに表現していた。
シャンパンの酔いも手伝って、バルトリーニの店の大理石のテーブルの上にこんな落書きをしていた。友人たちは「シンプリシツィマ」紙のための仕事をするように彼に熱心に提唱した――なんでもオーナーのランゲンは気前よく金を払うというのだ。しかし痩身で背の高いティーッセンはただほほ笑みを浮かべるだけだった。
「もう、その話はやめろって。そんなことだったら、テオドール・テオフィル・ハイネやオラフ・グルブラッソン、シリング、テーヌやその他の連中のほうがよくわきまえているよ。だから――鐘のために働くというのはジェントルマンにとってはまったく意味のないことだ。そいつで、汗のにじんだ苦役(クーリー)仕事の金を稼ぐことはできるだろうよ。こんな具合にして稼ぐのが自分と君たちのためにというのなら、話は別だ。金貨がじゃらじゃら鳴るときのように、君たちが本心から笑うっていうんならね。そして、やがてテーブルの上からきれいさっぱりなくなってしまう」
ビロードのコートを着て、幅広の蝶ネクタイ、洗ってもいない長い髪のバルトリーニの店の客たちは、長いあいだティーッセンをどう位置づければいいかわからなかった。ペッタリなでつけられたブロンドの髪、ていねいに、きっちりとつけられた髪の分け目の筋、ていねいにアイロンがかかっているがひどく野暮ったい仕立ての上着、清潔なシャツ、金縁の片眼鏡(モノクル)と二匹のフォックステリア。これらのすべては芸術家のあいだをさまよう、東プロシャの下級貴族(ユンケル)一門の遠い血縁の若者を思わせる。
長髪の芸術化気取りの連中はこの若者のことを、この夏、彼の細長い頭を床屋のバリカンで坊主頭にしたあげく、自分の家の先祖伝来の無味乾燥な領地生活に死ぬほど退屈し、ほかのことはさておき、返済のほとんど臨みもない小銭を自分たちに貸すために、ベルリンに来てすんでいるのだと話し合っていた。
その後、あるとき、騒々しい連中の一人ゴッビ・エーベルハルトがウンター・デン・リンデン街で軍服姿の彼に出会った。ほかの場合だったら、このような身分の暴露は大尉の地位をゆるがしただろうが、しかし、この場合はむしろ堅固なものにさえした。そのご彼はさりげない苦笑を浮かべながらも、バルトリーニの店のウエイターが親愛の念をこめて大尉殿と呼びかけ、同様に、オーナー役のオリーブ色の肌をしたでぶの女も彼を同じように呼んだことを心にとどめていた。
ティーッセンのくしょうのなかには、たしかに、ちょっとした陰謀も秘められていた。それというのも、これまでのところ、例の長髪族は彼の男爵の称号には気がついていないから、彼らにたいしては依然としてある種の秘密をもっていることになるからだ。このような些細なことが彼に子供っぽい楽しみを与えた。なぜなら、かれはもともと、彼のフォックステリアと同様にいたずら好きだったからだ。それはまた同時に、大きな祭典のはなやかさを完全には拒否しきれない理由でもあった。
ティーッセンはパレード用の制服を着て、白い手袋をはめ、振り当てられた足長の鹿毛の鞍上からではないが、号令をかけているいまでさえ、漫画の素材になりそうないくつかの細かな点を観察していた。そして軍人の伝統的石膏の仮面の下に、やっとの思いで笑いを押し殺していたのだった。
小太鼓の嵐がわき起こった。閲兵式典を祝して空高く発射された金のテープのようなトランペットのファンファーレが広大な練兵場にこだました。冷たい秋の太陽は武器やラッパや隊列への視線を、まるでティーッセンのモノクルをとおして投げかけているかのように、また大きな骨っぽい馬のつやつやとした毛並みを、熟練者の目つきでいましばしめでるかのように、そのガラスのように透明な光を放っていた。
ティーッセンは中隊をしたがえてふたたび兵営へもどった。兵営では歩兵の将校らしくやや不器用に馬からおりた。そして、手綱を放り出し、タクシーを呼ばせてシャルロッテンブルガー・ストラッセの自宅へ帰った。
彼は新築したばかりの貸家の六階の小さなアトリエに住んでいた。通りに面したガラス張りの窓はルビー色に輝いていた。そのガラスの光にティーッセンは長いあいだ身動きもせずに酔っていた。それから装飾をほどこしたケースの蓋を開け、古い名匠の作になるバイオリンを用心深く取り出した。
白手袋を脱ぎ、ルビー色の光に向かって立つ。やがて、ある奇妙なメロディーを奏でたが、それはこのときにかぎり、たまたま彼の弓のしたから生れたものであった。彼はふと、式典用の礼服を着た将校がバイオリンを演奏する姿を見た。それは結構、餌になる姿だったので思わず笑みがもれた。
ベッドの下から二匹のフォックステリアがちいさな、短い、いわばピチカートのような声でほえながら飛び出してきた。彼らもまた笑っているようだった。ティーッセンはバイオリンをおき、たくさんのリボンで飾り立てたギターを取ってボロンと鳴らした。それから軍服を脱いだ。どこだよくわからない秘密の控室から士官付従卒があらわれて、軍服にていねいにブラシをかけて戸棚にしまい、エナメルの長靴には白いクリームを塗った。
ティーッセンは部屋儀に着替えると、何かのボーク料理と黒パンの食事をした。それからタバコを二本ふかして、熊のけがわをしいたソファーに長くなった。またギターを弾いた。それから従卒が一階の酒場までエレベーターで買いにいってきたジョッキのビールを一気に飲みほし、小箱から葉巻を取り出して火をつけたが、しばらくルディ・エルトがバルトリーニの店で描いたその小箱の見事な絵に見入っていた。
ルビー色の夕日の光は消え、完全な闇が訪れた。ティーッセンは二匹のフォックステリアを兵卒とともに散歩に生かせ、彼一人、暗闇のなかでバイオリンを弾きはじめた。こんどはコレルリの『ラ・フォリア』を弾いた。いかなる意味でも正統的な技巧といえるものではなかったが、その代わり感情には深いものがあった。それはまさにディレッタントの情緒めんめんたるえんそうだった。そして彼もそのことをよく感じていた。すばらしいバイオリンのみが、そのような演奏をもたらしてくれる。音は演奏者にかかわりなく広がり、低く、また高くただよい、空間のなかに、時代の暗黒をとおって、果てしない、かえりみる者とてない孤独のなかを飛翔していた。
電気のスイッチを入れた。マイエル百科事典の「コレルリ」の項をめくった。長かつらをかぶった骸骨が、白い靴下、金の縁取りのある膝までのコート、カビの生えた軋みの音を発するオルガン、小型のひびの入ったチェンバロ、クラヴィコード、手をかけて作り上げられたヴィオラ・ダ・ガンバ、それに名も知らぬその他の弓で弾く弦楽器、それらをいいかげんな即興で弾く幻の姿を見た。
またバイオリンの演奏にもどる。幻の骸骨の姿は丸みをおび、絹の靴下は太いふくらはぎと筋肉質の太もものあたりではちきれんばかりになる。骸骨の指のおのおのの節にも肉がついてふくらみ、新しく完成した楽器はつやつやと輝き、広間のなかには漆喰(しっくい)の天井までキューピッドたちが飛びまわる。小さな舞台の上の田園風景はマドリガルによって満ちみちる。
それは長いあいだ続いた。やがて、従卒と二匹のフォックステリアがもどってきた。従卒は百科事典をもとのところにもとして片づけると、もどかしそうにティーッセンのほうを見やった。ティーッセンはまだまだ弾きそうだった。ミニアチュア細工の舞台の上には相変わらずアリアドネやダフネ、プーッサンとクロード・ロランによるロココ様式のアンドロメダなどが登場していた。
しかし従卒の表情には,もう出かけなければならないのだという非難が明らかに読み取れた。そしてのりの利いた胸飾りのあるしゃつ、濃紺の上着、鹿皮のコンビネーションのエナメル靴を取り出してそろえた。ティーッセンは子を荒い,服を着替えた。ダーク・グリーンのネクタイを十センチもある糊のきいたハイ・カラーに結んだが、ネクタイは締まらず,カラーは波ひだの胸当てのボタンからはじけるようにしてはずれた。最後に毒々しい紫色の地に黄色の水玉を散らした、ひどく悪趣味なネクタイを十センチ高のカラーに結ぶことに成功した。
幅広のカフスが上着の袖口をふくらませている。すそを斜めにカットした釣鐘状のズボンは「ドルンドルフ」のトレードマークのはいった、ボタン式の靴の上までとどいている。胴のあたりをぴったり絞り、その下はたっぷりと広がった円筒型仕立てのコートのボタンをピッタリかけたところは、どう見てもこの世で最も趣味の悪いダンディー――つまり、ベルリンで最新流行の至福を来た,ドイツの田舎貴族(ユンケル)の士官――は絹襟のついた明るいねずみ色の長コートを着てバルトリーニの店にお出ましというところなのだ。フロックは膝までも達していない。幅の狭い,ないしはほとんどないといってもいいくらいの、むしろ西洋かぼちゃ真っ二つに胴切りにしたような形の山高帽のことは言うにおよばずだ。
一杯に詰め込まれた満員の市内電車のなかでグラマーな金髪女性のほうに押し付けられた。最初は昇降口のあたりでもみあっていたが、やがて車両のなかのほうに押し込まれた。その女性の体は締まっていて、その体の温かみはコートを通してさえ伝わってきた。電車がゆれたとき、二人は文字通り支えあうような形になった。ティーッセンはうぶな学生みたいに紅くなった。
女性は彼の学生っぽい急激なのぼせ上がりようを明らかに感じ取ったらしい。興味しんしんと水車の輪のような大きな帽子の下からチラッチラッと背後の彼のほうを見やった。品定めの結果、どうやら彼女の気にいったらしい。それというのも彼女はほのかに微笑を浮かべて、悪女っぽい色気をただよわせながら唇を噛み、コルセットで絞めつけた丸っぽい背中を、彼女のカモのほうにいっそう強く押し付けた。ただ、ピンでとめた子の大きな帽子だけがひどく混んだ人ごみの圧力で乗客同士が、文字通り折り重なって倒れるのを防いでいた。
この風変わりな高台を日本の大きな羽根飾りが支配していた。当時は、飼育されたオストリッチの尻尾の羽根といわれていたものだ。一本の羽根は真紅で、もう一本は逆に紫色だ。つまり帽子の地の色の構成要素である。すなわちトカゲの紫だ。それ以外に二個のパンジー、一羽のハチドリ、観賞用のアスパラガス、三色昼顔、二束のスミレがこの高台を支配していた。これらのすべては薄紫色の帽子の山の尾根とその周辺に優美に配置されている。それにたいして鉱物の世界はピンと呼ばれる帽子をさし抜いた縞メノウの巨大な槍の穂先が代表していた。
ゴムの襟をつけ、無精髭に赤鼻の、ややくたびれた感じのドイツ人がこの巨大サイズの最新流行の氾濫に小うるさく文句をつけてきた。そしてこの電車の運行の邪魔者をただちに排除するように厳しく要求した。
「それは無理ですよ、お客さん。なんたって、誰一人身動きもできないくらいいっぱいなんですからね。それに――あの女性客の帽子のピンの先には安全キャップがつけてありますからね。だから、ほかのお客さんの目を傷つけることはありませんよ。もし、あの方がそれを忘れていたら、規則で罰金を払うことになります。このような帽子はその大きさにかかわらず切符の料金のなかにふくまれておるのです」
ゴム襟の男は相変わらずぶつぶつ言っていた。そのとき、ティーッセンモノクルがその男をにらみつけた。
「何か、まだ、文句がおありなのですか?」
老人は真っ赤な顔をして黙った。ブロンドの女は小声でお礼の言葉をささやき、太ももをティーッセンの膝におしつけた。ウンテン・デン・リンデン街で降りたときには、すでに親密な関係という気分になっていた。そして、ぴったり体を寄せあって、車や電車、自転車や歩行者のあいだをくぐり抜けながら歩道までたどりついた。
二人とも、たとえば、黄ばみはじめた葉をつけた菩提樹の木の下の、この場でいますぐにも、激しく抱きあいたい気持ちをつのらせていた。二人は情熱的に限りなく愛しあうことのできるクッションと虎の毛皮を敷いた柔らかな藍のすのことを思い描いていた。とはえい、二人の会話の主題はそのことではなく、電車の中で文句をつけた顎ひげの男のことだった。
「彼のニクローム枠の鼻眼鏡の奥で、ほんとに目を白黒させてたな。あんな鼻眼鏡にぼくのモノクルが巻けるものか。ハハハ」
女の健康で、充実した笑いがさらに挑発した。牝馬のいななきだ! ティーッセンは電車のなかでよりももっと興奮した。彼の細い体は前屈みになり、ほとんど歩けないくらいだった。そのあいだに彼は推測した――おれが相手にしているのは、医学顧問官か法律顧問官のウイットにとんだ奥さんだな。それにカリフォルニアけしから作った香水でかなり魅力を増大している。
「奥さん、あいつはまさしく国家の祝日のときにパレードの山車の上で鼻眼鏡をふるわせているといった手合いですよ。古代ゲルマンの衣装を着て、熊の毛皮に腰をすえているんだ。そこにはグループの真中にプロテスタントの女子慈善団体の名誉ある代表が、先のとんがった鉄兜のそのゲルマン人を紹介するんですね。ところで夕飯でもご一緒にいかがです? ご招待してもいいかな?」
通りの門で新聞売りが叫んでいた。
「軍艦ウエストファーレンの進水式におけるウィルヘルム皇帝の最新の声明」
「クルフュルステンダムの殺人」
「ベルリン市モアビット区で社会主義者集団のデモ」
「マルデブルクの商人、妻の浮気の現場をおさえ射殺」
「ウイーン証券市場暗黒の日」
車が騒々しくクランクションを鳴らす。すると歩行者はそのエレガントな車を見ようとして人垣を作る。「みなさん、こいつはメルセデス・ベンツですよ」「すばらしい車だ」「ほら、見て、見て、黒人だわ。本物の黒人よ」「どうやって、こんなところへきたん来たんだろう?」「昨日、ニュルンベルク・プラーツで中国人を二人見たよ」「そいつら留学生なんだ。ぼくの仲間の一人が彼らを知っている」「彼らは神秘的な人間だよ。ハンガリーの劇作家が彼らのことについて戯曲を書いたくらいだ」「いや、それは違う。それは日本人について書いたものだ。『台風(たいふう)』という題名だ。大変な成功を収めたという話だ……。どこの劇場だかは知らない」「日本人がヨーロッパ人の女を殺すんだ。ドイツ女だ。それだけでもかなりスリルのあるものだった。こんなドラマを黒人についても書くべきだよ」「またジャガイモと豚肉の値段があがったな」
「あたしには興味ないわ――どっか気のきいた店に行きましょうよ。ただし、あたしの分はあたしが払うという条件よ。でなきゃあ、いや」
「わかりましたよ。それがそんなに重要なことだというのならね、奥さん。じゃ……、それに同意せざるをえないのですね? 芸術家の溜まり場というのはどうです」
「あたし芸術家を崇拝してますわ。あたし歌手になろうとしたことがありますのよ。主人が、もちろん、同意しませんでした。シュトゥックがサロメの扮装をしたわたしを描いてくれたことがありますわ。ヨハネの首の載った皿をささげていますの。あたし、その絵がすご区気に入っていますわ。でも、誤解しないでね、あたし、そんなに血に飢えていませんからね。主人は美術商なんですの。近いうちに、あたし、『サロメ』をうたいますわ。劇場監督がやはり主人の親友ですの」
「でもあなたのご主人が、おゆるしに……」
「主人はただ――市民階級にもあってしかるべきだ――なんていってるだけよ。それに、あたしダンスもできるのよ。あたし、その劇場監督の前でちょっとばかり、裸でおどったんですよ。もちろん、うちのサロンでですけど――それに主人も一緒でしたわ。だって、わかるでしょう、リヒャルト・シュトラウスの音楽を前にすると、もう、体中の血が騒ぐってかんじよ。要するにすごいのよ! その芸術家の酒場っていうのはどこなの?」
「ここ、ライプツィガー・ストラッセ。バルトリーニの店です」
「あら、そう、それは素敵! それになんてロマンチックなんでしょう! その名前にまでマカロニの味がしみ込んでいるみたいよ。オイルのたっぷりした料理でしょう。それにキャンティ・ワインでしょ? ああ、あのイタリアね!」
ティーッセンはほほ笑んだ。この情熱的な賛美のなかには群青色(ウルトラ・マリン)の空も、太陽の注ぐ入り江も、フォーラムの廃墟も、ミケランジェロのひびの入った壁画(フレスコ)も、鐘楼も、ダンテの楽園も、パルマ産チーズも、絵葉書、しわがれ声のクレモナの名所案内人、水藻のいっぱい生えた水路に浮かぶゴンドラの船頭の歌声などの思い出の余韻さえもがふくまれていた。しかし、いまはフリードリッヒ・ストラッセの角で群集が最新のネオンサインの広告を見つめていた。巨大な手がシャンパンの瓶から泡立つ液体を半球の杯に注いでいた……。
そのとき神酒(ネクタル)は泡を発し、カフェ・バウエルと星空とのあいだのどこかで火花を散らしていた。そして「ヘンケル・トロッケン」のトレードマークが他を圧して四方に広告していた。
どこかの仕立屋の見習が興奮して叫び、街の女たちが悲鳴をあげた。白い手袋をした警官が威圧的な身振りで、歩行者の人並みが交通の邪魔にならないように、流れを二つに分けていた。
ものすごく大きな映画のポスターが『泥沼』という題名のアスタ・ニールセン主演の退廃的(デカダンと)映画の最新作の宣伝をしている――デンマーク悲劇の鬼才ウルバン・ガット監督、ベルリン市モアビット地区娼婦街(デミ・モント)の全女性の感涙を誘うべく、今回退廃世界にはじめて登場――ゾリンゲン双子兄弟社、バッチャリ社製ツィガレッテン、ドゥルコップ・タイヤ、ツィクロップ・ガラージュ、ああ、あのイタリアだ!
「何がおかしいの?」
ティーッセンはそのすべてを早口でくり返した。ブロンドの歌うたいのダンサーも笑った。二人は底知れぬ歓楽の予感に手をにぎりあい、笑顔を見合わせた。そして気が付くとマカロニのアトリエに来ていた。
「どうか、彼を紹介させてください。これは友人のゴッビ・エーベルハルトです」
毛むじゃらの熊がいたるところに毛の生えた手足を投げ出していた。輝く黒い目、ウエーブのかかった黒い顎ひげ、黒い首筋の毛、黒い幅広の蝶ネクタイ、ゆったりとしたビロードのジャケット、まったく救いようのない仕立て、絹のささべりで縁取りされている。ミュルジェの『ラ・ボエーム』風の大きな身振り。そしてそのほかは――痩せたの、小さいの、太ったの、大きいの、ブロンドの髪、黒い髪、破れた服もいれば、成金風の者もいる――これらの全員がこのカフェ・モモスの確固たる常連であり、精神医学のベテランたちであり、まさに、アンリ・ユルジェ < 『ラ・ボエーム』原作小説の作家 >そのものであった。おまけに、この大騒ぎのなかで、誰かがプッチーニ作曲になる、同オペラのルドルフのアリアまでわめきだしたのだ。
「私は遠くのほうで、延徳からパリの空の上に、いざなうように煙がただようのを見る。それなのに、おれたちのストーブは煙さえ吐かず怠惰にあくびをしている。本当はおれたちを暖めるべきなのに、金持たちのように、ただ、ぼんやり見つめているだけだ……」
「あの人、何語でうたっているの・・・・・・?」と赤毛の女がたずねた。
ティーッセンは私に笑顔を向けた。なぜなら、たまたまうたっていたのは私だったからだ。
「ハンガリー語ですよ。彼はハンガリー人なんです。なかなかのもんじゃないか、ハハハ」
ゴッビは車えびのフライを食べ、リューデンスハイム産のワインをたっぷり注いでいた。それは、いわばイタリア・ドイツ・ユダヤの入り混じったグループだった。やがて彼はマドロス・パイプをくわえ、赤毛の女に話しかけた。
「どうしてここへ? 私はすぐにあなただってことがわかりましたよ。最初はシャルトルでお目にかかったような気がしましたけどね。やっと思い出しましたよ。春の展覧会でしたね。シュトゥックの絵の『サロメ』でしたね。いま、あなたの身分がはっきりしました。あなたのご主人はあそこの『グレッセンヴァーン』によくすわっておいでですね」
そのころは「カフェ・ヴェステンス」と呼ばれていて、なりあがり者とか自称エリートがよくたむろするところだった。
「たぶん、よく行っているかもしれませんわ。でも、それがどうかしたのですか?」
「きっと、三十分もしたら、あなたがここにいらっしゃることをお知りになりますね」
「じゃ、さっさと、あなたが行って、ご自分でそうおっしゃったらどうなんです……」
「わたしはここから動きませんよ、酔っ払わないかぎりはね。そうなると朝までここにねばることになりますよ。でも、ここには絵かきがたくさんいましてね、みんな『サロメ』を知っていますよ。もう、一人がじっとあなたを見つめていましたよ。そしてあなたがほほ笑みかけられたら、もう、すぐに、ここにシュトゥックも現われますよ。彼はいまベルリンにいるそうですからね」
「主人なんかどうでもいいんです。要するに、あたしはイタリア的雰囲気にあこがれているんですから。あたしポレンタ(トウモロコシ粥)をいただくわ。あたしにしてみれば、これは『グロッタ・アッザーラ(青い洞窟)』の腹いせよ」
「でも、それはポンペイの女郎屋の男性のシンボルの形をした看板ですよ」
「あたし、本当におこったわ。だって、あたしその家のなかのフレスコの壁画を見れなかったんですもの。女性は入っちゃいけないんですって。ほんとはどんな絵が描かれていたのか話してくださらない? でも、詳しくよ!」
ゴッビはとたんに大笑いをしはじめ、テーブルの上のグラスまでがカチャカチャとゆれるほどだった。彼の笑いはときどき本物のライオンの雄たけびを思わせ、女性のほうのすごく子供っぽい古拙(アルカイック)の笑いを呼び起こした。そして、この笑いは店内のやや気取った雰囲気を一掃して、周囲の羨望の的になった。
テーブルの上と壁にはトマやスレーフォークト、リーバーマン、シュトゥック、クリムトのデッサンやカリカチュアが、興にまかせて描いたその場所に、そのままの状態で、上からガラスでおおわれてはいたが、一瞬、それらの絵から覆いのガラスが落っこちるのではないかという気がした。
「ねえ、そのフレスコには何が描いてあったの? 何かめずらしいもの? たしかに古い人だけが何か新しいことができるってほんとね」
「ねえ、君……、君は本当にいい子だな! もし、ぼくが無教養なにんげんだったら、たぶん、フランス人みたいに言っただろうな、そんなことは口にしないもんだってね。ちょっと厄介なことになった。それとも、君に話すべきかな?」
「場合によってはな。でも、君ならそんなこと話すのはへいちゃらじゃないか。それにだ、君は自分を何様だと思っているんだ? ただの、くだらんゴッビじゃないのか?」
「まさに、その通り。難破したバイオリンの名人さ。ほら、見てくれ」
彼は大きな左手のこぶしを上げ、それを左右に動かした。指は死んだように、手首とてのひらにくっついて動いた。
「麻痺してしまった。それでおしまい」
その間にティーッセンはほかのテーブルの知人との会話をおわり、皇帝と六人の息子の二種のカリカチュアを描きながら、クララ・ヴァン・ゼルホウトと明日午後五時のアッシンゲルでのデートの交渉をし、マラスキーノを四杯、立て続けにあおってから、今度はゴッビの手の実演にほほ笑みかけた。
「どうした、どうした? ぼくたちはもうそんなに飲んだかい? ただし、この女神をだな、そんな悲劇で誘惑しないでくれよ、君! この女神は、ほんの偶然と気まぐれから、われわれのあいだに舞い降りてこられたんだからな。さあ、カキをおもちいたしました」
彼は皿をテーブルに置き、給仕のようにクロスをわきの下にはさんだ。みんなそのしぐさに笑った。赤毛の女はたしかに優雅な身振りでカキを飲み込んで履いたが、まだ足りなかった――するとティーッセンはそのあいだに紙ナプキンの上に、だんご鼻に大きな鼻の穴、角張った顎、その頭に帽子、その帽子には巨大な動物園が載った絵を描いていた。虎のペア、二本の椰子の木、ワニ、飼いならされた野獣たち、それらばみんな一つの檻のなかに入っていた。赤毛の女は口のなかに入れたものを、あわや、吐き出しそうなくらいに笑った。
「ぼくは君をサロメにはできないな、シュトゥックじゃないから」
ティーッセンは言った。
「僭越ながら……、わたしがそのシュトゥックです」誰かの声が背後でした。
ティーッセンがふり向くと、写真で知っている巨匠の顔がそこにあった。
彼はミュンヘンからまれに来て、ほんの数日間だけ滞在するのだった。そこに立った姿はとくに気取った様子もなく、細かなチェックのズボンに、ダーク・グレーのジャケットを着て、銀の縞の入ったネクタイをゆるく結んでいた。ちじれた半白の髭のなかに笑みをたたえていた。彼はことのほか愛想がよく、人を引きつける魅力があった。
ティーッセンは椅子から飛び上がり、しどろもどろに自己紹介をした。シュトゥックの忘れがたい絵の記憶が彼をとらえた。そして巨匠の右手を取って握手をしたとき、この手があのすばらしい絵画――『夏の夜』――を描いたのかと、ひとしおの感慨を覚えざるをえなかった。その絵は果てしない星空のもとに笑い、踊っているバッコスの巫女たちの群像だった。
二人のローマ人、二人の愛妾(ヘテーラ)、そして中央に一人の黒人――彼はまったくの偶然から、敗北のあと殺されなかったどこかのアフリカの王か、それとも奴隷か。いずれにしろたいした問題ではない――彼らの笑いは陶酔的な、ビロードの夜の深みのなかへはこばれていく。遠くからキターラの響き、子供たちの声。目に見えぬサチュルスたちの番(つが)う荒い息の音。ロードス島のラプソード歌手のリラ、エジプトの音楽家のリュート、これらのすべては蒸気のようにまいあがり、響き、星ぼしへそそぎかける――しかし赤毛の女は彼の手をすり抜けていった。
シュトゥックは彼女の手にキスをした。そして全員が二人を見つめていた。どうして彼女をここに連れてきたのだ? 彼女とともにまっすぐ家に行くべきだったのではないか――彼女は太陽の日に熟れて色づき、香りを放つ果物のように、彼の膝に落ちたかもしれないのに……。
ティーッセンは別れの言葉もかけずに姿を消した。フリードリッヒ・ストラッセでは街の女と冗談をかわした。カフェ・ミカドを除いてみた。そこでは厚化粧の男娼が私服を着て、付けひげをつけた聖職者や、劇場監督、ビール醸造業者、管理、その他の家庭の父たちの前を歩きまわっている。肉屋の脳みそに血がのぼり、性的殺人のどす黒い計画が体中を駆けめぐる。すり、いかさま賭博うちは、いわくありげにウエイターにほほ笑みかける。私服の刑事はニック・ヴィンテルのやり方で太いステッキで武装して周囲に目をくばり、油断なく身構えている。そして色あせた花の花売りは、歩行者のボタン穴にバラの花をさしこみ、家庭の父親が彼女らに金を払ってくれるのを待っている。
ティーッセンはシャルロッテンブルガー・ショッセーのわが家のほうへゆっくりと歩いてくる。墨のように暗く陰鬱な丸屋根のしたの、その黒馬の背には、額にしわを寄せた裸の戦士が両足をふんばり、大きな段ビラを背負っている。それに続いて、その他の兵士も、馬の尻尾の毛飾りをさしたヘルメットをかぶって馬にまたがってやってくる。そしていっぽごとに、全軍の馬のひづめの音が轟音となってとどろきわたる。
シュトゥックとクビナの『戦争』と呼ばれている絵の幻想は、通りの角の家ととけあい、すべては消えていった。そしてティーッセンはエレベーターであがっていった。
(以下、つづく)