第W部 1945年以後のチェコ文学(20世紀後半)

1945年代

「現代チェコ文学の真の悲劇は主として、けっきょくは誰もが知っていたことを、誰も大声で叫ばなかったということにあるのではなく、すでに長年にわたって、民族文化の全体が、豊で多様な構造として表現されうるための環境がなかったということにある」
                            (ヨゼフ・エドリチュカ)


第二次世界大戦後の文学状況


 文学発展とチェコ文化全体の変化にはいくつかの明確な転換点がある。その一つは1930年代のおわり――文化にたいする集団的外部圧力の始まりである。当時、チェコ文学は「禁じられた」(国内であれ外国であれ)文学と「許された」文学に分断されていた。その二つの領域のあいだの境界線は、40年代を通して80年代にいたるまでのあいだに交替する。厳格なドグマの期間は通常「温暖な」期間と入れ替わる(最も長い、そしてチェコ芸術にとって、殊のほか豊な雪解けは1963−1969年のあいだにはじまった。しかしながら国家権力の側からの文学操作の原理は続き、1945−1948年の短い休止期間にいたるまで文学もまた分断されたままであった。
 ここで言っておかなければならないのは、禁じられた文学は自動的によい性格を意味し、許された文学は自動的に悪い性格を意味するわけではないということである。文学的価値の評価基準は上記の分断とは必ずしも一致しない。文学の評価に際しては――たとえ、文学を、当然、いろいろな尺度で見るとしても――作家の思想的傾向や市民的傾向の確かめるだけでは不十分である。とくにこの点は、20世紀後半におけるチェコの芸術家や文学者の運命にとってはきわめて重要である。
 文学の分断は徐々に三つの文学的流派、三つの分派、ないしは、もし概念的に厳密に見きわめようとするならば、三つの伝達(コミュニケーション)サークルの発生に導く。
 その第一の文学は国内の公認(公的)文学、第二の文学は国内の地下文学(筆写、ないしは地下出版<サミズダト>)そして第三は国外文学(亡命先の国で書かれ出版され、頒布された作品)である。そのいずれもがやがて独自の美学や倫理観の境界を形成し、独自の読者層に焦点を定め、独自のジャンルや文体、その他を選んだ。同時に、外国で活動する作家たちも、その後もチェコ語で書くかぎりは、祖国の状況に何にもまして反応し、いずれにしろ、その状況にたいする自らの態度をはっきりさせた。これら三つの流れや多種多様な作品を合体させた性格こそ、文学が「純粋に文学的」に機能せず、多くの点で抑圧された市民生活の代替物となったという現実である。
 次の重要な区切りはつい最近、1989年である。許された文学と禁じられた文学とのあいだの障壁ははかいされ、究極的な有効性を失い、国外における障害も取り払われた。民主主義的転換により文化面における自由と相対的な多様性が復活した。かくして文学も、過去十年間の制度的非自由の時代に否応なしに背負わされてきた非美学的(政治的、情報伝達的、道徳教育的)機能という異例の役割を放棄した。
 しかし、このような自由化が意味するものは何であったのだろう? それは同時に文学の影響力を弱めることではなかったのか? 企業において、またはどこかの別の社会で自由に生活し、なんの制限もなく自分の意見を述べ、世界中を旅行することのできる市民たちは本のなかに、演劇公演のなかに、体制によって抑圧された思想を求め、公的生活の不条理から、それらのもののなかに逃れ、テキストのなかに隠された暗喩を追求することを止めてしまった。
 書籍は市場経済の一構成要素となった。そして文化的(どちらかといえば、むしろ非文化的)商品の多様な供給は文学の伝統的な意味での影響力を西欧におけるのと同様に制限している。作家たちはこれまでとは違った役割をになわされている。しかしそれでも文学はこれからも自分の役割と使命をもち続けるだろう。また、今日でも文学は、大企業生産の時代がもたらした生活の機械化にたいして、また、民主的社会をも脅かしかねない狭量な功利主義(プラグマティズム)にたいして、今日もなおカウンター・ウエートとして存在し続けている。なぜなら現代社会においても、社会的平安の要求と繁栄の要求とのあいだには常に矛盾が存在し、自己満足と単純化された類型性に重点を置く「わかりやすい芸術」と、むしろ常に「難解な芸術」であろうとする、高踏的文学作品とのあいだにも葛藤はある。文学者たちは人生の表層の下を追及し、危機的な、問題性を有する要因を感じ取る――他人の運命を共同体験することで不満と不安を呼び起こし、カタルシスをももたらすだろう。一見自明のことと思われることについての問題を提起し、世界についての真実の新しい形の提示すること、そのなかにあって人間は自分自身と、自分と同時代と永遠の問題の姿を探し求めることをあきらめない。文字文化の伝統は視覚メディア、映画、テレビ、ヴィデオ、そしてコンピューターが優勢を誇る時代にあっても、絶えず教養の基盤であることを止めなかった。
 しかし、われわれは過去半世紀におけるチェコ文学の発展に戻ることにしよう。すでに1938年と1939年の変わり目に、文化、とくに文学にたいするかつて例を見ない検閲がはじまった。検閲は1941年、ハイドリヒ Heydrich の着任以後強化され、1942年以後の最も深刻な占領時代にさらにいっそうの強化を見た。戦争終結の三年後、状況は繰り返され、文学活動の統制はさらに厳しくなった。ドイツによる占領時代には、時たま――間接的な、しかし明瞭な――体制にたいする反感を表現した作品が出版されることがあった(ヴァンチュラ、ハラス、パリヴェッツ)。
 ところが二月以後の体制〔訳注・1948年の総選挙におけるチェコ共産党の大勝以後の共産党支配による体制〕では、それさえ不可能になった。出版の禁止は、いまや、保守主義者、カトリック作家、自由主義的民主主義者、そればかりか、革命的社会主義傾向の作家たち(タイゲ、ヴァイル、コラーシュなど)も標的とした。要するにスターリニズムと、そして「社会主義リアリズム」という硬直した規範に一致しない作家たちである。この公的発言の禁止に加えて、体制はソビエトの範例にならって市民の粛清にも手をつけはじめた――その結果、ザフラドニーチェク、クシェリナ、レンチュ、パリヴェッツ、その他の作家たちは十年間監獄で過ごし、カランドロラは処刑された。60年代の緩和の時代には、文学活動は正規の軌道にもどり、国内で出版された文学は大きな開花の時期を経験するが、1970年以後の正常化(ネオスターリニズム)の抑圧の時代を迎える。ふたたび、長大な発禁作家の名簿が作成され、図書館は「清掃」され、雑誌は発行を止め、すでに出版されていた書物は裁断された。そしてふたたび、権力者側の都合のいいように公的歴史も書き変えられた。                              発禁という事実そのものは芸術的価値を保証するわけではないことは言うまでもない。発禁作家や市民として告発されている者たちはのなかには、すぐれた文学者に入らない作家たちも含まれていた。しかし、また、たびかさなる浄化によってすぐれた作家の大部分が大なり小なり被害をこうむっていたのも事実である。そのような作家の中には二度どころか三度もブラック・リストに名を連ねたものもいる――ドイツ占領時代に、50年代に、そして正常化の時代に――そして、彼らは出版の自由の吐息をほんの短期間味わっただけだった(たとえば、ヴァーツラフ・チェルニー、ベッジフ・フチーク、グロッスマンといった、すぐれた評論家たち)。
 戦後、社会主義の建設に情熱を燃やしたその他の多くの作家たちは、その後、少しずつ疑問と失望と幻滅と折り合いをつけてきたものの、60年代末の改革の挫折後は、同じく歴史の掃き溜めのなかに追いやられることになった(ヴァツリーク、シクタンツ、コホウト)。二月以後であれ、八月以後であれ西側への出国を選んだ者たちは自由で、苦労のない市民的実存を得ていた。そのかわり、生来の文化的環境の喪失を重く引きずっていた。その結果は重症の精神障害(ブラトニー)、文学的活動の休止(チェプ)、あるいは徐々に異文化への密着していく(M.Kundera)ことになった。
 発禁と浄化のあいだをうまくくぐり抜けた作家たち、著作に没頭し、公に自分の著作を出版できた作家たちは? 彼らもやはり文化的空間の狭い枠に苦労することになる。馬鹿の一つ覚えのような「党派性」「社会主義リアリズム」「大衆性」の狭い鋳型のなかに押し込められた彼らの作品はほとんど常にその付けを払わされ、作品の芸術的かつは決まって低下していった。その例が二月以後のプイマノヴァー、ジェザーチュ、ドルダ、カイナルであり、70年代のフロリアン、パーラル、フクス、その他である。
 さらにつけくわえておく必要があるのは、国家によって出版された文学は、もちろん、70年代、80年代には、二月後の数年間におけるよりも、はるかに個人差や多様性を示していた。コザーク、スカーラ、あるいは前述のフロリアンのように体制順応で、十分な報酬を受け、庇護されていた作家たちとともに、公的文学には「中間の流派」の大勢の作家たちが属していた。彼らの作品はしかるべき作家的水準にたっしていたが、また、フラバルやサイフェルトのように「公認」文学と「発禁」文学とのあいだの境界線上にある作家たちもいた。いずれにしろ両大戦間期と比較してみると、戦後文学の動向は持続性を欠いた、途切れ途切れの、くり返し外部から妨害され、国家によって管理された政策の路線に押し込められていたことがわかる。(p.718)私たちはいつものように出版の遅延を目撃してきた――シュクヴォレツキー『臆病者たち』Zbabelci は1949年に完成し、1958年に出版された。40−50年代のホランの内省的詩は1963年になってから出版することができた。ドゥリヒの『神の魂』Bozi ducha(1955年作)は1969年に出版された。1951年に書かれたザフラドニーチェクの『権力の印』Znameni moci は――没後――60年代に亡命中(チェコでは1968年に雑誌「Student」で、1970年の版は破棄された)そして正式の国内版は1990年まで待たねばならなかった。
 フラバルの代表作『ヤルミルカ』Jarmilka は信じがたいほどの奇妙な運命に見舞われた。1952年に完成しまず最初にフラバルの処女短編集『民衆の会話』Hovory lidi(1956)から削除され、つぎにはすでに印刷済みの『つながれたヒバリ』Skrivanek na niti(1959)と名づけられた作品集ごと断裁された。手を加えられた形ではあったが、作品集『パービテレー』Pabitele(1964)のなかでやっと日の目を見るが、1970年にはフラバルの全作品集『つぼみ(小娘)たち』とともに破棄される。その本来の形での出版は書かれてからちょうど40年後、1992年にやっと出版することができた。
 同様の運命はイジー・コラーシュにも降りかかる。彼の原稿『日日歳歳』Roky v dnech は1946−1947年に書かれたが植字済みの原版が溶かされてしまった。1970年に出版準備の整った次の版はやはり同じ運命にさらされた。選集はその後、数十部の規模でサミズダト版で現われた。しかし著者は最初の単行本の形での出版を四十五年後の1992年まで待たなければならなかった。
 以上にあげた例はまったく個々の、偶然な事例ではない。際立った、独創的な、非伝統的な作品は、出版までに数年はおろか何十年間待たねばならなかった。あらゆる文学グループや文化傾向(シュールレアリズム、カトリック、実存主義的傾向の作品)は粛清された。禁じられた作品の原稿は有名になり、強い興味をそそった。時期遅れの出版はもちろん、すでに別の時代に生まれ、別の読者に宛てられた過去の声になっていた。たとえば、ヴルフリツキー Vrchlicky やヴォルケル Wolker の作品集が二十年ないし四十年もたって出版されたということはほとんど信じられないことだ。二十世紀後半のチェコ作家の多くがそうなるべく運命づけられていた。真の文学的発展はまるで水面下でおこなわれていたかのように、ほんの時たま広い範囲の読者の目の前に浮かび出てきた。
 文学への権力の干渉はさらに次なる問題を呼び起こした。つまり「公的」評価と「非公的」評価の対立である。国家機関やそのスポークスマンは主要な尺度として非美学的価値ではなく、「政治参加」Angazovanost、したがって、政治的、イデオロギー的路線にたいする忠誠度を適用した。それによって、公的評価のなかには相互に相異なる、種々雑多な作家たちや、まったく異なるレベルの作家たちが含まれることになった。たとえば70年代にはチェコの詩の重要な詩人としてザーヴァダ Zavada と無価値な詩人リバーク Rybak
が、また散文においてはフクス Fuks と三流の作家ジーハ Riha が同価値の作家として宣言された。またチェコ文学の「主流」の理論のようなものさえ生まれ、その流れには現代と過去のしかるべき作家がその流れに含まれたが、ペロウトカ Peroutka やミラン・クンデラ Milan Kundera などの亡命作家も、反体制派のヴァツリークもハヴェルも立ち入りを禁じられた。
「非公的」批評――友人の集まりのときに持ち寄ったり、手稿やサミズダットで発表されたり、国外で印刷された――は体制の意思やライセンスにも依存していなかった。彼らは芸術の規範から導き出された尺度によって判定をくだし、それを自由に発言することができた。しかし、文化の非正常な状況――芸術家の大部分が社会から疎外、三つの流れに区分けされ、一貫性を欠いた発展――はある程度まで「非公的」批評にも影を落とした。ここでも文学がとくに市民と政治の問題があった。だから市民的姿勢がときには文学的価値を装った(それは国内でよりも国外でもっと問われることになった)。
 しかし、それでもチェコの第二次世界大戦大戦後文学に最高の作品をもたらしたのは反公的、ないしは発禁作家たちだった(彼らはいつも緩和と民主化の時代に文学活動の水面上に姿を現わした)。次の詩人たちの名前を挙げれば十ぶんだろう――ホラン、コラーシュ、サイフェルト、フルビーン、ザフラドニーチェク、ミクラーシェク、スカーツェル、シクタンツ、それにヴェルニシュ。散文作家のなかではフラバル、リンハルトヴァー、M.クンデラ、ヴァイル、ホストフスキー、シュクヴォレツキー、ヴァツリーク、クラトフヴィル。戯曲家のなかでは少なくともハヴェル、トポル、それに50年代末から現代にいたるまでの「小劇場」の作家たちも含まれる。
 批評家のなかではチェルニー、ペロウトカ、グロスマン、スス、オペリーク、それにロパトカ。これらの人物たちは様々な世代に属している。そしてそれぞれがことなる理念的姿勢と様々な芸術的見解を代表していたし、代表してきた。文学作品の評価とともに彼らを結びつけていた唯一のものは、一度ならず、ときにはくり返し公的文化活動からの追放である。
 政治的かつイデオロギー的圧力ははっきりと文学をゆがめた。それでもなお注目すべき現象に導いたのである。自由な言葉、あるいはたとえ暗号化された言葉であれ、段々と注目を集めるようになった。文学はたとえその作者たちが困難な条件におちいり、ときには危機的な状況のなかにあっても、何かは得るものである。厳しく監視され、脅かされ、同時に特別扱いの身分であっても。
 第二次世界大戦後のチェコ文学の発展は政治的発展と不可分である。作家たちの活動はこれまでになく頻繁に公けの場で問題となった。文学はそれにより形成され、変形された。そしてこのような条件のもとに再三にわたりさらされ、くり返し公の問題に影響を与え、社会的支配体制にたいして抵抗し、それを変えてきた。以下に続く解説は歴史的解説である――したがって、時代の文化―社会的枠組みにたいしてとくに注目の目を注ぐことになるだろう。