イヴァン・クリーマ著・田才益夫訳 『カレル・チャペック』





   訳者あとがき


* 初対面のとき訳者が撮影したクリーマ氏(プラハ城内スペインの間にて)

本書タイトルについて 

 本書の原題は Velký vk chce mít té~ velké mordy (直訳すると「大きな時代はそれと同じ大きさの惨劇をもたらす」)であり、本書「第二十七章 芸術家対新聞記者」の章に引用されたチャペックの時事風刺詩(302−303頁参照)の一句をそのままタイトルにつけたものである。副題に「カレル・チャペックの生涯と作品」とあるから、わからないわけではないが、わが国ではやはり、ピンと来ないところもあるので、あえて簡潔に『カレル・チャペック』とした。

本書について

 さて、翻訳者として、原著者イヴァン・クリーマのこれほどの力作をまえにしてカレル・チャペックについて言い加えることはない。おそらく、チャペックの内面世界をこれほどまでに深く掘り下げ、それを作品論にまで結びつけたチャペック論はこれまでなかったのではないだろうか。その意味からしても本書は、チャペックについて書かれたもののなかでも最高のものだと、私は翻訳者として断言する。
 チャペックの生涯と作品全体について書かれたものには、たとえばフランティシェク・ブリアーネク『カレル・チャペック』 Frantiaek Buriánek,  s spisovatel,1988 があるが、生涯と作品についての網羅的解説書であり、チャペックについて作品全体を把握し、あるいは生涯について概略を知るという点では大いに参考になるが、書かれた時代的制約(ビロード革命の前年に出版。つまり社会主義体制下で書かれた)から、どうしてもある視点が欠けているように思われる。だからといって、このチャペックにかんするこの本がつまらないと言っているのではない――それなりに力作である。
 クリーマのチャペック論を読むまでは、ぜひ、この本を出版したいと私自身が思って翻訳までしていたのだ。しかし、何しろ原書で三百五十頁近くの本、当時はパソコンどころかワープロもない時代だったから、大学ノートに手書きで訳して四冊になった。
 わが国におけるカレル・チャペックの作品紹介を振り返ってみると、『ロボット』と『虫の生活』を作品が書かれて数年後には築地小劇場が上演しているが、それ以後、第二次世界大戦ないしは大東亜戦争によって中断された。戦後、栗栖継さんが再開されたが、『山椒魚戦争』『ひとつのポケットから出た話』『園芸か12ヵ月』や童話が出たあとは、とくに新しい作品は紹介されなかったようだ。
 そして版権の切れたチャペック紹介の口火を切ったのは、私の訳の『クラカチット』(楡出版一九九二)だと思っていたが、意外な伏兵がいて、その二年前にドイツ文学者の金森誠也氏がドイツ語からの重訳で『絶対視工場』を出しておられた。
 いずれにしろ、栗栖継さんの『山椒魚戦争』のあと二十年近くものあいだ、わが国では、チャペック作品紹介の空白時代が続いた。出版界としてはチャペック作品の版権が切れてからという魂胆もあったのだろう。それでもその時代に成人に達した多くの日本人の意識のなかで、チャペックの名はすでに忘れ去られた、過去の作家となってしまっていたのはたしかである。
 当時、多少、つき合いのあった若い編集者など、チャペックという名さえ知らなかったし、チェコ文学と聞いただけで、避けて通りたいと言ったものだった。だから『ロボット』と『山椒魚戦争』と『園芸家の12カ月』、それに童話くらいしか紹介されていない作家の「評伝」などに耳を貸すどころか、興味さえもってくれなかった。
 それが、チャペックの版権も切れたころから、出版社もどうやら出版する気になってきたようだ。事実、私の『クラカチット』が呼び水となったかのように、次々にチャペックの本が出版され、マスコミでもそれなりに大きな反響があった。それにつれて、チャペックの作家としてばかりでなくジャーナリストとしても評価されてきた。私もチャペックのコラムやエッセイ、評論などを編訳した『コラムの闘争』(社会思想社一九九五年)と『カレル・チャペックの闘争』(同社一九九六年)という二冊の本を出した。(そのほかにも飯島周さんがチャペックのエッセイの本をかなりたくさん出版されている。)
『クラカチット』と『コラムの闘争』の当時のマスコミの反応については、当青土社刊「ユリイカ」が企画した「カレル・チャペック特集」号(一九九五年十一月号)に掲載された私の『ジャーナリストの顔と作家の顔』(同書二三〇頁参照)という小文に報告しておいた。 
 クリーマはチェコ以外の国の読者に向けて書いた本書の『序』のなかで、チャペックのジャーナリズムの著作など外国ではほとんど読まれていないだろうから、できるだけ多く引用すると書いていたが、その作品の重要なもののほとんどが、すでに日本でも紹介されているのを知ったら、クリーマ氏もきっと驚くだろう。

 イヴァン・クリーマ Ivan Klíma (1931) について


 本書の著者イヴァン・クリーマについても少しばかり紹介しなければならない。彼は第二次世界大戦を日本風に言えば小学校の高学年(一九四一年十二月)から中学校にかけて、テレジーン(マリア・テレジアの名に由来する)という、ユダヤ人の収容所ですごした。彼の家庭はユダヤ教ではなくキリスト教の福音派に属していたが、そんなことはナチスのユダヤ人狩りのお目こぼしの理由にはならなかった。ここは各地から集められてきたユダヤ人たちが最終目的地に移送されるまえの一種の積み替え基地になっていた。だからクリーマがここに滞在中の数年間のうちに顔見知りが、ある日、忽然として見えなくなるということがあったし、この戦争がもう少し長びいていたら、イヴァン・クリーマもまたこの世の人ではなかったかもしれない。
 彼の一九九五年当時までの伝記は『イヴァン・クリーマの愛と職業』Laska a Yemesla Ivana Klímy というタイトルで、ミロシュ・チェルマーク Miloa  ermák というクリーマ・フアンの若いジャーナリストとの対話形式のものがある。なんだか『マサリクとの対話』を髣髴とさせる。
 それはさておき、終戦後、クリーマはカレル大学に学び、卒業論文のテーマに「カレル・チャペック」を選んだ。そのあとチャペックにかんする本を出版している。そのことは『序』に書かれている。問題はその後である。大学を出てから彼は雑誌の編集者になる。やがて一九六三年から六九年まで「文学新聞」Literarni noviny の副編集長となって、自由化に向かう文学傾向のリーダー格になる。そして一九六八年のプラハの春事件が起こった。彼の自由化傾向は当然知られてはいたが、過激には走らなかったことが幸いしたのか、一九六九年秋からアメリカのミシガン大学の客員教授として講義するための出国を許可された。しかしクリーマが出国した直後に、ソ連のテコ入れによる「正常化」路線徹底強化のあおりで、国境が封鎖されることになり、一九六九年末までに、海外在住のチェコ人はチェコ国籍を放棄するか、帰国するかの選択を迫られた。
 客員教授イヴァン・クリーマは、大使館の特別の配慮でアメリカ滞在の延長を許され、学期終了の三月にクリーマは帰国する。このときの心境をクリーマは『僕の陽気な朝』の二番目の短編「火曜日の朝―センチメンタル・ストーリー」で昔の恋人に亡命をすすめられる「僕」は、チャペックが一九三八年というさし迫った状況のなかで、亡命をすすめる友人たちにたいして、亡命を断るときに言ったという言葉とまったく同じことを、結局、口にはしなかったが、頭のなかに思い浮かべるのである。こういったことから見ても、クリーマのチャペックにたいする共感は並々ならぬものがあったと思われる。
 また、外面的な関連性を紹介すると、チェコ・ペンクラブの創立会員の一人で初代会長はカレル・チャペックだったことは本書のなかにも述べられているが、実は、ペンクラブは社会主義体制下では活動を禁じられていた。そして一九八九年の自由化後活動を再開したときの最初のペンクラブ会長になったのがイヴァン・クリーマだった。

イヴァン・クリーマ氏と私


 一九九四年、自由化復帰後のチェコ・ペンクラブはプラハで世界大会を主催した。チェコ文学の翻訳者として私は大会に参加した。私は出発に先立ち、チェコ・ペンクラブの会長は誰なのだろうと思って日本ペンクラブ会員名簿の最後に出ている、世界各国のペンクラブのデータで見ると、チェコ・ペンクラブの会長はイヴァン・クリーマとなっていた(しかし、その時点ですでに会長は交代していた)。それでイヴァン・クリーマの名前が私の記憶のなかにインプットされた。大会そのものについてはここでは触れないが、ただ、プラハ城内の絢爛豪華な「スペインの間」で催されたさよならパーティーのときに、私はイヴァン・クリーマ氏と初めて会ったのだ。
 私は胸の名札を見て確認した。そして話しかけた。あなたは自由化後のチェコ・ペンの最初の会長だったそうですね。私はチェコ文学の翻訳をしています。チャペックの『クラカチット』を翻訳したのは私ですと自己紹介した。(実は、その時点では、私はまだチャペックの『クラカチット』一冊しか翻訳していなかった。もちろんそんなことはおくびにも出さない。)そこで、私はあなたの作品も日本に紹介したいのですが、プラハの書店で手に入るでしょうか・・・・・・などと話をした。
 クリーマ氏はそれにたいして、プラハの書店ではほとんど手に入らないだろうから、明日、君のホテルに届けておくよという答えだった。
 次の日、私は午前中から出かけてホテルにはいなかった。帰りも遅かった。受付の女性に今日、僕に何か包みが届かなかったかとたずねたが、そんなものは預かっていないという不機嫌な答えが返ってきた。私はやはりクリーマ氏の言葉は社交辞令だったんだなと思って、ベッドに入った。翌朝はチェック・アウトの日だったので、受付に行くと、昨日は引継ぎがまずくて、あなた宛の包みを預かっていたのに渡さなくて、ごめんなさいと言って、あまり見てくれのよくない紙の包みを渡してくれた。
 見ると、クリーマ氏の本が三作品、そのうち二冊は英訳もつけてあった。
クリーマ氏は約束を守ってくれた。今度は私が義理を果たす番だった。最初の出版社は若いまじめな編集者で、だいぶ乗り気になっていたのだが、もうちょっとのところで、だめになった。二つ目の出版社では比較的簡単に決まった。こうして『僕の陽気な朝』は出版された。
 私はかつてのお礼をかねて、直接、クリーマ氏に本を送った。返事には、これが最初で最後の本にならないように希望すると書いてあった。
 そして、いま、彼の二冊目の本を出版することができた。
 最後になったが、イヴァン・クリーマがチェコをはじめ世界的にも高く評価されている証明として、二〇〇一年からチェコが世界のすぐれた文学者を表彰するために設けた「フランツ・カフカ賞」を、第一回目の受賞者、アメリカのフィリップ・ロス Philip Roth に続いて第二回目の受賞者としてクリーマ氏が受けたことを報告しておこう。これによって私も、チェコを代表する世界的作家のわが国への最初の紹介者という名誉を得ることになったのである。――そしてその仕掛け人は宮崎志乃さん(青土社・編集部)だった。

                                           訳者

 二〇〇三年六月