BGMに流れている曲は中原中の詩につけた筆者作曲の
「汚れちまった悲しみに」です。
●[翻訳家の部屋] ―― 自己紹介をかねて ――
なぜ、私がチェコ文学の翻訳家になったか?
「お金になるから」という回答がもっとも現実とかけ離れている。
あるとき、私はこの問題について考える契機を与えられたことがある。
それを自分なりに、筋道を通して考えてみると、以下のような文章になった。
自分ながら多少、きれいごと過ぎるという気がしないでもない。
しかし人間は自分のことを語ろうとすると、
どうしても「嘘ではない真実」によって自分を語ってしまう。
いやなことは省略する。
私の文章にもそれがないとは言わない。
だが、ある程度は、このホームページの家主の人物像を
漠然とながら、わかっていただき、
わがホームの常連になっていただくきっかけになればいいなと思っている。
プラハの春――人間の顔をした社会主義
1968年8月21日の早朝、ソ連軍の戦車がチェコスロヴァキアの首都プラハに侵入してきた。
時はまさに六〇年安保の年だった。ここで私ははじめて年下の上級生や同級生たちといっしょになり、「安保反対」と書いたプラカードを作ったり、デモに参加したり、スクラムを組んだり、叫んだりということを体験した。
当時は事の正否はともかく、鉄のカーテンをはさんで東西の両陣営が力のバランスを保っていると思われていただけに、このソ連をはじめ、東独、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアの同盟五カ国が同じ東欧圏のチェコに侵攻したという報道は、それなりにショックだった。
はずかしながら、私は学生時代からノン・ポリだった。私のはじめての社会参加、当時、流行の「アンガジュマン」体験は俳優座の養成所に入ってからである。
大学卒業後の就職難で、職もないままに九州から上京してきて、税理士をしていた次兄のところに居候をしながらぶらぶらしていた。そのとき、たまたま、劇団俳優座付属俳優養成所というものがあり、演出コースもあるが、入るのは東大以上に難しいと聞き、「難しい」というところが気に入って受験してみる気になった(だって、落っこちてもともとだから)。
ところが難なく合格した
(第12期)。今にして思えば。多士済済であった。
たとえば、樫山文江、中村敦夫、加藤剛、里見京子、故・成田三樹夫、故・東野英心、永山藍子、岡倉敦子(岡倉天心の孫?)、故・松山英太郎、応蘭芳(三瀬滋子)等々。その4,5期上には仲代達也先輩がおられ、数年後輩には栗原小巻、故・原田芳雄、故・地井武男、古谷一行、故・太地喜和子、林隆三、夏八木薫、等々、数えればきりがない。
新劇はもともと戦前の左翼演劇の伝統を引き継いだ部分もあり、潜在的に左翼ムードにひたされていた。それに思想の如何にかかわらず、一見,はなやかに見える新劇俳優たちの世界、いわんや、その卵たちの生活は、それほど豊かといえるものではなかった。
私もそんな雰囲気のなかで少しずつではあるが、左翼的思考に慣れてきていた。もちろん、スターリンの一件以来、普遍的な意味での左翼的傾向はともかくとして、ソ連そのものにはなんとなく「うさんくさい」ものを感じていた。
養成所で三年間の俳優修業のあと、私は引き続き劇団俳優座で舞台部に所属し、裏方の仕事を していた。そのころは演劇鑑賞団体の全国組織「労演」の全盛期だったから、俳優座は一ヶ月近くの東京公演が終わると、労演の地方組織を巡回するのが決まったパターンになっていた。だから一つの公演につくと三ヶ月以上もその芝居にかかりっきりということもしばしばだった。
しかし、六〇年安保の挫折から、新劇内の左翼・反体制ムードも徐々に拡散し、うすまり、それにつれてかどうかはわからないが、労演の勢いにもかげりが見えてきていた。
この六十年代の後半に、私は偶然、アメリカの大学から奨学金をもらって、アメリカ中部の田舎の学校に一年ほど留学した。アメリカはすでに退屈なデモクラシーのパラダイスになっていた。それに田舎にいると、とてもベトナム戦争の当事国という緊迫感はなかった。そんななかでも、ある日、学生の一人が、空軍に入るんだといって大学を去っていった。
クリスマスのころ訪れたニューヨークの中心部、タイムズ・スクエアを取り囲む商店のショーウィンドのガラスがディスカウント・セールの張り紙で埋まっていたのには興ざめがしたのを思い出す。
日本に帰ってくると、巷ではブルー・コメッツの「森と泉にかこまれて――」という歌声が行く先々で聞かれ、これもまた一世を風靡した「恋の季節」などが続いた。
ちょうどイプセン作『人形の家』地方公演の旅先のホテル、それとも旅館だったか、公演あとの遅い晩飯のときに、食事をしていたホールにバンドが入っていた。ノラ役で旅をともにしていた市原悦子は「あたし、どうしてもうたいたい歌があるの」といって、バンドの伴奏でうたったのが『恋の季節』だった。
実に、うまかった。確かに、役者だ! 彼女について語れば長くなる。彼女は俳優座でのブレヒト『三文オペラ』の公演で、新劇界きっての名バリトン歌手(?)で大ベテラン俳優小沢栄太郎演ずるメッキ・メッサーの向こうを張って、当時、ほとんど新人だった市原悦子がヒロインのポリー役を演じ、うたったのだから、演技の実力はもとより、歌のほうだってもともと実力があったのである)
そのほかにも、このころはいろんな名曲が数多く生み出された時期だといっていい。だが、それらの曲をいま思い返してみると、そのどれもが、何かやりきれない鬱憤を内向させるか発散させるか、そのどちらかの傾向をはっきりにじませているようにおもわれる。
こうして、私はまたもや裏方の仕事に追われる日々にもどったとき、アメリカから何を学んだか反省するゆとりなどなくなっていた。
劇団の公演成績がジリ貧状態を続ける全体傾向のなかで、「新劇運動」という言葉がカンフル注射でもあるかのように繰り返し言われていたが、すでにむなしく響くだけだった。小沢栄太郎が退団したのも、そのような状況の中で、「客もろくに集められないような芝居を、赤字を出しながらもやりつづけることが新劇運動か?」「客が入りさえすれば、どんなものやってもいいのか?」というような、かみ合わない、実りなき議論のはてに、小沢退団という結論にいたったのである。
ただ、事実を現象的に述べるなら、小沢演出の芝居には比較的客が入ったが、千田演出の芝居には観客は少なかったと、概して、言えたような気もする。
後の演劇評論家がこの問題を新劇史のなかにどう位置付けるかは知らない。だが、この手の問題は演劇に限らず、商売にはならない芸術に携わる芸術家にとって、絶えず直面を迫られる問題ではある。
「プラハの春」の弾圧が起こったとき、私はこういう状況のなかにいた。そして「プラハの春」「人間の顔をした社会主義」「ドプチェク」という言葉が頭のなかに焼きついた。
たとえムード的な側面はあったとはいえ、新劇運動と、それを支えていた左翼的思想ないしは社会主義思想は、現代という現実と、もはや、ずれてしまっているのではないだろうかという、はっきりとは捕らえられないが、それでも私のなかでくすぶりつづけていた漠然とした疑念が、これによって、私なりの「ヘウレーカ」を得たことに違いはない。それと同時に、当時の私にとっては未知の国だったチェコについて(当時はチェコスロバキアだったが)知りたいという願望が澎湃として湧き上がってきた。
しかし、当時はチェコについて、チェコスロバキアについて十分な知識を与えてくれる参考書の類はほとんどなかった(日本語ではその翌年に『チェコスロヴァキア史』という本がクセジュ文庫から出たし、『プラハの春』事件に関連する資料など続々と出たが、本質的にチェコとは、チェコ民族とは何かという問題について答えてくれるものではなかった)。
当時、劇団俳優座舞台部では『舞台部ニュース』と称する、劇団内機関誌を発行していた。私はその誌上にソ連による「プラハの春」弾圧について次のように書いていた。
チェコ問題は最近の世界情勢のなかで、いろいろと考える材料を提供してくれた。
ぼくらが大なり小なり理想としてもっている社会主義的、共産主義的社会形態、それが実践的に取り入れられている共産圏の国々において、実は「自由」が非常に希薄な状態でしか存在していないらしいこと----しかも、それらの国々で「自由」にたいする願望が非常に強くなってきているらしいこと----西欧圏の国々の共産党はソ連のチェコ介入にたいして反対し、北朝鮮やベトナムはむしろチェコの自由化にたいして批判的であるということ----中国の共産党にいたっては、両者にたいして「修正主義者の犬ども」のいがみあいときめつけていること、等々。
ぼくがここで考えたいのは、現今の状況において「自由」とは、いったい何だろうということだ。ぼくらははたして、このようないろいろな立場からの批判にたいしても正当な根拠を失わない「自由」というものについての自分なりの意見をもっているだろうか。
日夜、アメリカという資本主義の怪物と戦っている北ベトナムの農民にとって、チェコの求めている「自由」など贅沢品にちがいない。だとしたら、世界中にまだ抑圧された人々がたくさんいるのに、それらの人々をさしおいて、自分たちだけ「自由」を得ようとするのは利己主義なのだろうか。
「自由」の抑圧(たとえばチェコ)から、資本主義の侵略(たとえばベトナム)からの解放の戦い、つまり人間解放の戦いとは、いったい何だろう。どちらも「自由」獲得への真剣な願いではないだろうか。
ソ連の共産主義的政治体制が境界、圏というものを前提とした排他的、あるいは対立均衡による自己保存のシステム以外の何ものでもないことが、最近、だんだんと暴露されてきた。チェコの問題もその関連において一般にとらえられているようだ。たしかに共産主義のオリジナルなテーゼ「万国の労働者よ団結せよ」なんて理想は、もはやクソの役にも立たなくなっているのも事実だ。ソ連にも歴史的に一国社会主義という政治体制に向かわざるをえなかったのには、当時(1920年代)の国際情勢があったのだろう。そのなかでソ連自身が歴史的必然に従って、自己に適した社会主義のシステムを創り上げたのだとしたら、自分の方法のみを正統とし、他のやり方(たとえそれが他の国には適したものであっても)修正主義あるいは反革命的と一方的に決めつけるやり方は自己中心的、国家主義的エゴイズムだといわれても仕方がない。もしチェコの自由化が共産圏の仲間国と資本主義勢力との間の力の均衡を危うくするものだという根底に立っての武力干渉であるならば、それはもはや国際政治のカケヒキ以外の何ものでもない。人間の「自由」が政治の生贄になっている。
ぼくらの理想とする社会は、ぼくらの「自由」を支払うことによってしか得られないものなのだろうか。だとしたら、人間にとって「自由」とはいったい何だろう?(「舞台部ニュース」第六号、1968.9.28)
私はこの文章を書いて数年後に、田中千禾夫作・演出『八百屋お七牢日記』(栗原小巻、横内正ほか)の舞台監督を最後に俳優座を退団した。この公演の旅先で、たしか佐世保の公演のときだったか(小高い丘の上に建った会館だったが、もともとは海だったのか、ホールの内も外も、なんとなく砂っぽかった)、昼頃だったと思う。ほかのスタッフは仕込みも一段落つき、食事に出ていて、私ひとり舞台の袖で不要なものをボテ(行李)につめ、それをかついで冬の日のあたる搬入口にとめてあるトラックまで運んでいた。
そのとき、なんの脈絡もなく「ああ、だめだな」という想念がふとよぎった。それは「流されていく日々」をどこかでとめなければという思いだった。
退団後、数年、あるいは、その後もずっと「芝居屋」の続きのようなことをしていたが、ある日、朝日新聞に日本チェコスロバキア協会による「チェコ語講習会」の小さな紹介記事が出ているのを見て。「あっ、これだ!」とはっきり目がさめた。
私が「プラハの春」事件のころ抱いていた疑問に最初に答えてくれたのは、カレル・チャペック(1890-1938)だった(拙訳編『コラムの闘争』/『カレル・チャペックの闘争』参照、いずれも社会思想社刊)。そして「ベルリンの壁の崩壊」「ゴルバチョフのペレストロイカ」「チェコのビロード革命」がそれを実証してくれた。
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(左) は尾崎秀実(ゾルゲ事件で処刑-実は筆者の戸籍上の義兄)愛用のサングラスをかけた筆者。
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