カレル・チャペック戯曲全集
訳者あとがき>
このたび、八月舎からカレル・チャペックの戯曲集を出版することができた。カレル・チャペック独自の作品は五作、兄ヨゼフとの共作が三作。本編ではカレル・チャペック独自の作品五本を第一部とし、共作による三本を第二部として、一冊にまとめて掲載するとにした。
それはカレル・チャペックの戯曲ないし作品を系列的に見るとき、共作作品もカレル・チャペックの文学にとって、決して欠かすことのできない重要性をもっているからである。また、これらの作品を見ていくとき、カレル・チャペック単独の作品と、カレル、ヨゼフ兄弟の共作作品とを別の系列の作品として見るよりも、一連のカレルの戯曲作品として見たほうが、カレル・チャペックの作品を考えるときにも、その変遷がわかりやすいし、カレルの作品を系列的に見ていく場合、この方が連続性を保てると思うからである。したがってチャペック(一部はヨゼフとの共作)作品を著作年代順に並べると次のとおりになる。
一九一〇年代の作品
@ 愛・運命の戯れ(一九一六)カレル、ヨゼフの共作。
A 愛の盗賊(一九二〇)カレル単独。
一九二〇年代の作品
B ロボット(一九二〇)カレル単独。
C 虫の生活より(一九二一)カレル、ヨゼフの共作。
D マクロプロス事件(一九二二)カレル単独。
E 創造者アダム(一九二六)カレル、ヨゼフの共作。
一九三〇年代の作品
F 白い病気(一九三七)カレル単独。
G 母(一九三八)カレル単独。
私がチャペック(兄弟)の戯曲作品を著作年代に即して三つのグループに分けて並べたのは、各十年ごとに時代の様相が変化し、それによってチャペック戯曲の性格が極めて典型的と言いうるほど変化しているからである。最初のグループ@ 愛・運命の戯れ(一九一六)とA 愛の盗賊(一九二〇)は一九一〇年代の作品。第二のグループB ロボット(一九二〇)〜E 創造者アダム(一九二六)は一九二〇年代の作品。そして最後のF白い病気(一九三七)とG 母(一九三八)は一九三〇年代の作品である。
同じ一九二〇年に発表ないしは上演された『愛の盗賊』と『ロボット』を別のグループに分けたのは、その作品の性格および成り立ちの違いからである。
この当時、時代はまさに十年の区切りに即して変化している。一九一〇年台は第一次世界大戦によって象徴され、一九二〇年代は独立国としてのチェコ(スロバキア)の一人歩きがはじまり、生活の安定を求める小市民的傾向と同時に、国家主義、ファシズムが台頭する時である。
一九三〇年代はドイツにおけるヒトラーの国家社会主義(ナチズム)による独裁主義の確立によって象徴される時代であり、カレル・チャペックが強く反発した傾向であった。そのあおりはチェコスロバキア(当時)が最も強く受けることになる。チェコ北部のズデーテン地方の割譲を求めるヒトラーの要求に始まり、とどまること知らぬ欲望は、ついにチェコの占領にまで発展し、ついに第二次世界大戦へと突入するという、チャペックが最も危惧していた事態にまで状況は発展する。
それでは、チャペックの作品を時代順に見ていこう。
一九一〇年代のチャペックの戯曲『愛・運命の戯れ』(Lasky hra osudna;1916、カレルとヨゼフ共作。チャペック兄弟の作品集『輝ける深遠』に収録)は、一種のコメディア・デラルテの形式を模した戯曲作品であるが、衣装などは現代風を容認している。(この点に関しては『虫の生活より』にも同様のことが言える。つまりチャペックないしチャペック兄弟は登場人物の衣装などについては、人物自体との同一性ないしは類似性を求めていない)
この劇の筋、人物の性格等は、もともとのコメディア・デラルテの登場人物の性格を借用しているが、本来のコメディア・デラルテがある程度の筋展開の約束事は守られるものの、それ以外のせりふは当意即妙のアドリブで進められるのにたいして、チャペック兄弟の『愛・運命の戯れ』は、その即興性を許さず、せりふとして文字に定着させている。そこが本来のコメデシア・デラルテと異なる点であり、定着された文字のせりふをいかに即興劇風に語らせるかの意図が、ある程度、読み取れる。
一九二〇年と年代的には『ロボット』と同年の作である『愛の盗賊』(Loupeznik)を一〇年代の作品に分類したのは、『愛の盗賊』の成立が多く一〇年代のチャペック兄弟の文学活動にかかわっているからである。この作品はチャペック兄弟のパリ遊学中(一九一一年・第一次世界大戦前)にほぼ完成されていたものだが、それを発表直前になって(世界大戦後、しかも共和国として独立した時期)結末部分をカレルが書き加え、カレル・チャペック作として発表した。
カレル・チャペックが書き加えた結末部分にはいろいろと戯曲解釈上の問題が提示されている。そこにはこの十年間に体験した第一次世界大戦という歴史上の重大事件が関連している。それまでのチャペックは兄の画家ヨゼフとともにチェコの前衛芸術(チェコ・モダニズム)の信奉者でもあり、ある部分では旗頭でもあった。そして現代(二十世紀初頭)の機械文明の発達を大いに称揚していた。
ところがその機械文明が実は人間虐殺のすぐれた道具にもなりうることを第一次世界大戦が証明したのを目の当たりにして、機械文明に疑問を持つようになる。そして古き伝統のなかにも、よいものもあるのだという心境にいたる(このあたりはチャペックの相対主義とも関連している)。カレルが『愛の盗賊』終幕において書き加えたものはまさにそのことであった。古い世界観(ここでは教授によって象徴されている)にたいしても一定の敬意を払うという姿勢が示される。
この作品はカレル・チャペック作として出版され、一九二〇年三月二日にプラハ国民劇場で初日を迎えた。
この一九二〇年春には戯曲『ロボット』が完成された。正式名称は「Rossum's universal robots=ロッサムズ・ユニヴァーサル・ロボッツ」で、タイトルの表記はチェコ語ではなく英語である。本国ではもっぱら「R.U.R」〔エル・ウー・エル〕というイニシャル表記の名称で通用している。
この劇ではチャペックの支持する古きよき時代の価値観は乳母ナーナによって表明される。だからといってチャペックは新しいものすべてを悪しきものと言っているのではない。人間を苦役(ロボタ)から開放するためにロボットの製造を進展させる。それによって出来た余暇を人間は自己向上のために用いればよいという。その限りではロボット製造会社の社長ドミンの考えはまちがってはいない。
だが、労働から解放された人間はどうなったか。チャペックは苦役から解放された男については書いていない。女は子供を生まなくなる(または、産もうとしなくなる)。出産率0%、出生数0の日が続く。いったいこれは何を意味しているのか?(日本でも今年から人口減少化の時代に入ったという)
やがてロボットが世界中にあふれんばかりに行き渡ったとき、ロボットの反乱が起き、人類は滅亡する。あとには一人の人間アルキスト(建築技師)だけが残る。理由は彼がロボットと同様に手で仕事をしていたからだという。ところがまたもや思いがけない災難が起こる。
ロボットの寿命は二〇年しかない。しかしロボットたちは自分自身を自分たちの手によって製造する方法を知らない。その製造法を記した膨大な書類は、ロボットをこれ以上作ってほしくないと願う社長夫人へレナによって焼却されていた。そこでロボットたちは一人生き残った人間アルキストにロボットの製造法を再発見するよう、強要するが・・・
ところで、いま、普通にロボットといえば人間以上の速さと正確さで仕事をし、人間とは比べものにならないくらいの能力を発揮する機械のことである。その機械的な能力の点ではドミンが断言したような能力をロボットは発揮する。ドミンのロボットの能力は機械的には実現された。それでも、現代のロボットはただの優秀な機械にすぎない。自己を再生産するどころか、生殖することもできない。
チャペックといえども、まさか将来人間が人間を生産することができるようになろうとは想像もできなかっただろう。ところが、いま、クローン技術によって、生殖によらずして人間が人間を再生産することができるようになった(もちろん、まだ、単なる可能性、ないし理論の限界内においてだが、人間の倫理観という恐怖心がそれを抑制している)。
だが、はたして人類は将来、チャペックが考案したような生き物のロボットの援助なしに生きていけるのだろうか? それは千年、二千年といった遠い未来のことではなく、百年か二百年か先にそんな事態が起こってくるかもしれない。
それでも、ロボットが機械である限り、どんなに優秀なロボットが出現しても人間は恐れる必要はないだろう。しかし生きた人間のロボットが出現したとき、われわれは安心していてもいいのだろうか? チャペックの空想的予言は一つの科学的時代を飛び越えて、ここでも見事に言い当てている。
朝日新聞はBe版の『愛の旅人』プリムスとヘレナ――チャペック「ロボット(R.U.R.)」のなかで「機械(ロボット)がどんなに人間に近づいても問題はない。怖いのは人間が機械になることです」というイヴァン・クリーマの言葉を引用している(『愛の旅人』 朝日、BE、2005.10.15)。
『虫の生活より』(一九二一)Ze zivota hmyzu この戯曲はチャペック兄弟の共作である。この劇は、虫たちの生き様のなかに、人間の幸福や欲望の本質を照らし出しているといえる。ところでこの劇の解釈のうえで注目すべき登場人物は、先ず浮浪者だろう。彼は虫たちの生活の第三者的目撃者である・・・いや、あればよかったのである。しかし、最後に劇中の行動に自ら干渉して(隊長蟻を踏み殺す)、虫の世界に入り込む。それによって、宿命的に自らの生命も虫同様の死を迎えることになる。
当時の劇評はこの劇をペシミズムとみなすかどうかで議論を喚起した。それにたいする回答として、もう一つの幕切れをチャペックは書いた。劇中の浮浪者の死がドラマの性格をペシミズムであると決定付けるほどの意味があるのかどうか問題であるが、そのような批評に応えて、別の終わり方、仕事を得たことによって生きる希望を取り戻すという結末も書いた。
当時のチェコの文化世界では、ペシミズムという言葉にきわめて神経質だったように思われる。ペシミズムは否定されるべき思想だったし、芸術作品の評価として、一種の殺し文句の作用をもたらした。チャペックはしばしばペシミスティックというレッテルを貼られていた。そしてチャペックの文章のなかにはしばしばこういう決めつけに憤慨し、反論を書いていた。
この『虫の生活より』はプロローグと三幕およびエピローグから構成されており、それぞれに「蝶々たちの生活から」「略奪者たちの生活から」「蟻たちの生活から」に分かれている。この劇のなかで興味があるのは、この三種類の虫たちに属さない登場人物、浮浪者(人間)と蛹とパラジット(寄生虫)で、明らかに時代の傾向的思想にたいするかなり辛らつな風刺であると、私(訳者)は思う。
次は『マクロプロス事件』(一九二二)チャペックの作品のなかにはどのジャンルに入れればいいのか、よくわからないものがある。通常はごく普通のリアリスティックな劇としてはじまるが、だんだん劇が進行するにしたがって、次第にわからなくなってくる。それは観客にしても登場人物にとっても同じなのだ。唯一つの鍵がわかれば、あとはなんでもないと言えそうなのだが、それがそうはいかないのがチャペック流である。
事実、ヒロインの歌手は若くは見えるが実は三百数十歳なのであるということに納得すれば、きわめて簡単なドラマであるが、やはりチャペック流の非現実を押しつけられながら、観客はいつしかチャペックが提示する不条理(三百歳という長寿)を当然のものとして受け入れ、登場人物とともに、この長寿の議論に巻き込まれる。
結論(劇の結末ではない)は舞台の上で演技をしている登場人物よりも、客席のほうが、もう、とっくにわかっている。でも観客は知らないふりをして右往左往している登場人物たちを楽しんでいるのである。
謎は、通常、解けてしまうととたんに興味が失われるものものだが、この『マクロプロス事件』の場合、謎(三百歳の長寿)が解けたあとも、まだ、興味津々、どういうことになるのか、観客は固唾をのんでいる。
そして究極的場面を迎えたとき、観客は安堵するか、悲しくなるかいろいろの反応を生むに違いない。そして非現実な事実にもとづいて作り上げられた芝居を見たあとも、観客は決してチャペックさんに一杯担がれたと悔しがる人はいないだろう。
劇中、ヒロインのエミリア・マルティの「歴史は嘘をつきます」という言葉がある。では、ここで「芸術(ドラマ)は嘘をつきます」というのはどうだろう。芸術は嘘であるがゆえに人を納得させ、自分〔ドラマ〕自身の存在をも確かなものにしているのである。
『創造者アダム』Adam stvoritel(一九二七)この劇はチャペック兄弟の最後の共作ドラマとなる。チェコ国内では、社会的にも政治的にも左右両派のせめぎ合いは激しくなる一方で、ヒューマニズム的中立の立場を貫く相対主義者カレル・チャペックは左右両派からの攻撃の狭間に立たされていた。この戯曲は左右両派から否定されたカレルおよびヨゼフ・チャペックの「否定のカノン(砲)」による反撃だった。
世界は滅ぶべきであった。地球上の万物を「無」に帰せしめる大砲(カノン)の一発でこのドラマははじまる。地球上には何もないはずであった。しかし、自己否定を忘れた、アダムのみがこの世に生き残る。「ブルジョアの制度を打倒し、そこに新しい労働者による理想社会を打ち立てる」という、今世紀のある時期、一定の人類の理想のお題目を実現するはずであった「否定のカノン」はたった一人の人間を生き残らせたために、その後には、なんだか革命とは、似ても似つかぬ世界が現出する。あるいは、時の支配者が革命によって絶滅させられたあとに、はたして労働者たちの手によって理想的な世界は実現するだろうかとチャペック兄弟は設問する。そして自己否定を忘れて生きのこったアダムは、神との問答のなかで創造の力と創造の土を与えられる。そして、いろいろと思索しながら、そして、それなりの理論的裏づけのもとに、よきものと思われるものを創造しようと思う。そして、その彼の最初の創造物はノミであったというのは、冗談もきついという手合いのものだが、その後に作り出すものといっても、創造主アダムの意に反するものばかりだった。
この劇の舞台に紹介される人物や、状況や、事件などは、同時代者が観れば、すぐに理解できたであろうが、もうずいぶん(一世紀近く)時間が経過している。登場人物の台詞の端々に出てくる揶揄など、同時代であればこそ面白いのだろうが、いまや、内容を理解したうえでの面白さだ。でも、そのおかしさ、滑稽さのなかにはまだ現代にまでつながっているものがあるのもたしかである。
三十年代に入ると、時代はさらに危機の様相を強くしてくる。金融恐慌、国家主義の熱狂、そして軍国主義化、戦争。それが求める生贄となるのはチェコである。まさにチェコの隣国でのことだ。一九三三年のヒトラーの政権奪取。そしてチェコへの(とくに北部のズテーテン地方への利害関係)への言葉による、文字による、政治的謀略による圧迫は耐えがたいまでに強化され、チャペックの精神的安定にも影響を及ぼした。(チャペックの生まれ故郷もこの地域に含まれる)
『白い病気』Bila mnemoc が書かれた背後にはこのような政治・社会的な背景があった。このドラマのなかで『白い病気』の特効薬を発明した医師ガレーンはさして裕福でもない町医者だが、貧しい患者のみを治療し、金持ちへの治療は絶対に受付けなかった。この点に関しては患者にたいする差別であり、医学の良心を冒涜ものだという批判も出た。だが、それでも、チャペックはガレーンに断固としてその姿勢を守らせ、自分の主義を貫かせた。
この戯曲は明らかにナチス・ヒトラーへの当てこすりだ。そういう批判があることを承知の上で、このような戯曲を書いたのにはそれなりの理由があった。事実、公演直前になってドイツはプラハ駐在大使を通じて、この劇のなかのドイツ人を連想させるクリュークという軍需産業の統率者の名前の変更をするよう申しいれてきた。このままだときっと何かが起こるにちがいないという予感のもとに幕を開けたこの芝居は、最後の幕が下りたときには、劇場はチェコ愛国者のプロパガンダの場と化していた。そして、その後の拍手は三十分も鳴り止まなかったという。
カレル・チャペックの生涯最後の完成作である戯曲『母』Matka は『白い病気』が書かれ、上演されてから(一九三七年一月二十九日初日)、ほぼ一年後の二月十二日に初日の幕を開けた。劇場も同じスタヴォフスケー劇場だった。その一年のあいだにチェコを取り巻く状況がいっそう緊迫の度を加えていたのはもちろんである。
チャペックはこの一九三八年という没年に文学作品や戯曲はもとより、新聞掲載用の短い文章、コラムやエッセイなど百本以上も書いている。そして内容も、言葉もいっそう直接的に、明確に、辛らつになっている。そして自分を励まし、同胞を励ます文章を書いた。
たとえば『発展はどこへ向かうか』(一九三八年一月五日)『歴史の講義』(同年四月二十七日)『おとぎ話と現実』(同年六月十二日)そして最後のエッセイ『ごあいさつ』(同年十二月二十五日・チャペックが没した日。民衆新聞に掲載)など(もちろんこのほかにも沢山の文章を書いている)いま読んでも、いまだからこそ、チャペックの意図は明確に伝ってくるし、十分に説得させられる。そしてその先見性(ドイツはまさにチャペックの予言どおりになった。そして『ヨーロッパ』という文章では、現代のEUさえ予言していたと言える)は以上の文章などをお読みになれば、チャペックの作品はもっともっといまの日本でも読まれるべきだと、皆さんも思われるだろう。
チャペックは四十八歳という若さで亡くなった。でも、そのあとに展開された歴史をいまの時点から振り返ると、チャペックの死はそのあとに続く地獄を見ず、また、兄ヨゼフのように体験せずにすんだだけでも幸せだったのかもしれない。
そう思うことで、わたしたちはチャペックの早世を悼み、冥福を祈るしか仕方あるまい。
田才益夫
二〇〇六年一月