エッセイスト カレル・チャペック


 カレル・チャペック(一八九〇−一九三八)は短文の名人と言われている。この短文という意味のなかにはコラムやエッセイにかぎらず文学作品もふくまれる。その片鱗はすでに青年時代、まだ、兄との共著として作品を発表していたころからすでに現われていた。このチャペック初期の共著作品集は『輝ける深淵』(一九一六)と『クラコノシュの庭』(一九一八)という短編集として実現した。そしてその前年にはカレル・チャペック単独の短編集『路傍の聖者像』(ボジー・ムカ)を出版している。

 実際にエッセイストとしてのチャペックの登場は一九一八年の国民新聞に記者としての入社してからである。国民新聞(ナーロドニー・リスティ)でのエッセイストとしての成果は『言葉の批評』である。ここにはすでにチャペックらしい、あるいはチャペックならではの言葉にたいするセンスが示されている。しかしエッセイスト、ないしはコラムニスト・チャペックの本領は、右傾化した国民新聞を退社して、一九二一年に民衆新聞(リドヴェー・ノヴィニ)に移ってから発揮されることになる。
 チャペックの国民新聞での待遇は特別だった。チャペックは一九三七年のアンケートのなかで次のように答えている。

「私の『市民』としての職業はジャーナリストです。しかし、私が文章を書いている新聞は非常に理解があり、フリーの作家として、私が書きたいものを、書きたい欄に書いてもよいとしてくれています。したがって、私の『市民』としての職業は本当は単に文学ということにもなります。もちろん、私は心して新聞の広範な読者層のために書くようにつとめています」

 このようにチャペックははじめは国民新聞、次に民衆新聞においてできるだけ多くの読者に理解されるような文章を書くようにつとめた。だからといってチャペックは短い文章
(コラムにしろ短編にしろ)ばかり書いていたわけではない。その新聞記者としての多忙な日々のなかに『絶対子工場』や『クラカチット』、三部作として通常知られている『ホルドバル』『流れ星』『平凡な人生』のほか『第一救助隊』といった中長編も書いている。

 チャペックの名を世界的に有名にしたのは、実は戯曲『ロボット』だった。この作品は初演から数年後には日本でも築地小劇場で上演されている。だが、国内的に彼の名前を有名にしたのは新聞(とくに民衆新聞)に掲載された短い作品だった。チャペックの著作は戯曲を除いてほとんどすべての作品が一旦は新聞(たまに長めの論文は雑誌)に掲載された。だから『ポケットから出てきた話』は言うに及ばず、『クラカチット』のような長編小説でさえ、一度新聞に連載されたあと単行本として出版されたのである。

 たとえば、チャペックの旅行記として有名な『イギリス通信』などは一万冊の単位で出版されても数時間後には書店の書棚から消えてしまったそうである。それほど、チャペックの短編・エッセイの類は人気があった。だから、チャペックのコラムやエッセイ、あるいは短編小説が掲載されているかいないかで、民衆新聞の売れ行きにも影響したといわれている。

 チャペックのエッセイの特徴は、その長短にかかわらず、ものの見方、観察力、ものに触発される発想が、われわれ凡人とはきわめてことなっていたことである。普通の人にはなんでもないこと、平凡にしか見えないものでも、チャペックの想像力のフィルターを通して見ると、読者を「あっ」と言わせずにはいない「もの」に変貌する。それはチャペックならではの独特の「観察眼」の産物ということができる。そのことは本書に選ばれたエッセイの一つ一つについて読者自身が感じられることだろう。
 これらのチャペックの「短い文章」は日本語の四百字詰めの原稿用紙にすれば、大概が六枚前後の長さだ。何かちょっとした理屈を述べようとするには短く、ごく雑記風にメモ的に書くには長すぎるという分量である。しかし、チャペックはこのなんともいえぬ中途半端な長さのなかに、実に見事な「起承転結」で一つのテーマをまとまりがあり、説得力もある文章に仕上げているのである。

 チャペックのこのような短い文章(新聞ではコラムと言われたり、エッセイと呼ばれたりする)を得意なジャンルとして自家薬籠中のものとした。一見、ユーモラスでさり気ない語りのなかにも十分考えさせられる問題を盛り込み、読者を魅了した。そこにはユーモアあり機知あり、風刺あり、ジョークありとあらゆるものがあった。
 その結果、当時、民衆新聞の同僚であったエドアルト・バスは「最近編集部の連中がコラムとか小記事といったものに手を出そうとしなくなるという現象が起こっています。・・・・要するにカレル・チャペックだか、どこかの人気記者だかの領域を侵犯するのではないかと、みなが尻込みしているからなのです・・・・」と民衆新聞ブルノ本社の主幹ハインリヒに訴えるほど、チャペックのコラムの人気は絶大だった。

 たしかに、これだけの時間的隔たりをもちながら、チャペックのエッセイ(コラム)は相変わらず私たちの思考に刺激を与えるだけの十分な新鮮味を保っている。ここに選ばれたエッセイは全体で三千にも達するといわれているチャペックのエッセイのほんの一部に過ぎないが、きっと読者の皆さんにもご満足いただけると確信している。

 ちなみにカレル・チャペックが亡くなった一九三八年のクリスマスの民衆新聞に掲載された、事実上の絶筆『ごあいさつ』は「カレル・チャペック著作目録」(一九九〇、アカデミア・プラハ)の全著作の通し番号では三千百四十番になっている。これは長編作品もふくめた番号であるから、チャペックの全作品を日本語の四百字詰め原稿用紙に換算すると何枚くらいになるのだろう? とにかく病弱にして、比較的若くして亡くなった(四十八歳)チャペックとしては信じられないほどの作品量である。しかも、その一編一編が一世紀近くもたとうとしている二十一世紀のわれわれ読者をも楽しませ考えさせる内容を盛り込んだ魅力的な作品なのである。

                              訳者
 二〇〇四年四月