訳者あとがき

このたび青土社からチャペックがオルガに書いた手紙のうち保存されていた手紙の全文をここに訳出し、読者の皆さんに提供できることは、チャペック訳者として、無上の喜びである。
今回、翻訳された手紙の数は三百六十二通である。一人の相手にたいして出した手紙の数としては、圧倒的な多さである。
この翻訳に用いた原本は「カレル・チャペック著作集」全二十四巻(補巻一巻)のなかで、第二十二巻(約五百五十ページ)と第二十三巻(約五百ページ)の二巻からなる書簡集の二巻目の三十六ページから二百六十四ページまでに収められたものである。


これらの手紙を読むことによって、カレル・チャペックの公的生活からは見えにくい、チャペックの内面的な心の動きなどが補完されて、人間チャペックを理解するうえで欠かせない資料になっている。ただ残念なのは一九三一年の手紙が完全に欠如していることであり(なぜなら、ちょうどこの一年だけチャペックがオルガに手紙を書かなかったなんてありえない)、国際的にも活躍が期待されていた時期のものであるだけに、残念である。

さらに残念なのは、オルガ自身がチャペックの没後、書いたロマン『チェスキー・ロマン』に引用された手紙と不一致な部分があること、また、ロマンのなかにあって現物が残っていない手紙があるとか、いろいろと疑問な点がある。しかし三百六十通もの手紙が保存されていたというだけで、チャペック研究家は納得するべきだろう。

オルガへの手紙を読んでいて感じるのは、チャペックがオルガにたいしては、真っ正直にすべてを告白しているということである。これらの手紙を読んで面白いのは、あれだけ好評で何版も版を重ねた、人間味ゆたかな『イギリス通信』が、実はチャペックにとって腹立たしいばかりの、馴染めない状況のなかで書かれていたということである。まずロンドンの騒々しさがいやだし、イギリス人たちの生活様式もチャペックには合わないというように、オルガにはさんざん不満を訴えているが、出来上がった作品からだけではわからない、本音がさらけ出されている。

チャペックは人当たりのいい温厚な人だとおもっていた人のなかには、チャペックに人間嫌いな側面を発見して、チャペック認識に多少の変更をしなければという人もおられるだろう。しかし、それは文学者であれ、芸術家であれ、われわれのような凡人であれ、だれもが「なくて七癖」的なものを持っているということかもしれない。

あと、チャペックが比較的まとまった数の手紙を書いた女性としては、十五歳のギムナジウムの学生だったころ付文をしたアンナ・ネペジェナー(『リスティ・アニエルツェ』)や、『クラカチット』のヴィッレ王女のモデルと目されているヴィエラ・フルーゾヴァー(『引出しから出てきた手紙』)がいる。とくにヴィエラとの文通はほぼオルガとの文通のはじまりと時期的に一致しているために、チャペックの不義に非難の目が向けられた時期もあったとか・・・・・・。しかし、その辺のことは単純に言い切れるものではない。
ある面では十二歳も年下の未成年の娘オルガに手を出したという自責の念(コンプレックス)がチャペックにはいつまでもぬぐいきれなかったようだ。それが、オルガの行跡にたいして苦情を言いながらも、決定的な悲劇にはいたらなかった理由の一つかもしれないし、チャペックのトレランス(寛容)の精神から出ているのかもしれない。


チャペックのオルガへの手紙は、カレル・チャペックのあまり格好の良くない面を暴露している点からも興味深いし、一読に値すると訳者は確信している。

                              田才益夫
2006年7月