チェコ・テレビ制作


白人の作った黒人霊歌(スピリチュアル)第二部



 アントニーン・ドヴォルザークは「新世界交響曲」の作曲を終えると、すぐに家族全員を汽車に乗せて、アメリカ大陸を横断して、まっすぐアイオワ州に向かいました。この州のスピルヴィル村のほとんどの人がチェコからの入植者でしたから、ドヴォルザークはここをヴィソカー山の別荘の代わりと見たてて、ここを休暇の過ごし場としようと決めたのです。

 ドヴォルザークの一家と案内人のコヴァジークは客車一台をほとんど自分たちだけで占領していました。二千百十二キロの距離 ――それを三十六時間かけて旅行するのです。はじめのうちは結構、面白おかしくすごしていました。ペンシルヴェニア州を通っているとき、すばらしい森林の舞台背景に目を見張り、オークの木、ブラックベリーの木にも目を楽しませていました。
 ドヴォルザークはシナモンの色をした鹿にも目を見張りました。それにドヴォルザークは旅先までの地図をもっていましたから、すごい蒸気機関車を見るために、いつカーブにさしかかるか、地図でたどっていました。でも、やがて列車は平野に入りました。それでも、その州の名前そのものが、子供たちに活気を与えました。その州の名前はインディアナです。本当はアントニーン・ドヴォルザークまでも活気づけました。その理由は、いよいよインディアンや野生の牛バイソンについての歴史を物語るコヴァジークの出番がやってきたからです。


 いつ果てるとも知れない、平坦な草原の汽車の旅のあいだ、ずっと客車の中に閉じ込められているのは、とくに子供たちには、檻の中にいるようなものでした。それで、コヴァジークは、最初にこの土地にやってきた人たちは、プラハからパリまでの二倍もある距離を、馬に乗ったり、あるいは、馬車について歩いたりしながら、行かなければならなかったんだということを思い出させてなだめようとしたが、無駄でした。それでも、最後には列車はカルマー(コーマー、チェコ式には多分、カルマルと呼んでいるかもしれません。どの方式で読むか、チェックしてください:Calmar)の駅に到着しました。駅の前には、すでに二頭立ての四輪馬車がドヴォルザーク一家を待っていました。そして、それほど遠くないスピルビル村まで案内してくれたのです。
この場面、つまり、ドヴォルザークとその家族の到着の場面は、スピルヴィルの人たちによって再現されつづけています。そのささやかなオープニング・イヴェントが行われてから、毎年、村人たち主催の音楽祭が始まるのです。


 コーマーの駅から四輪馬車が大勢のドヴォルザーク一家を六マイル離れたスピルヴィルのこの家のまえまで運びました。ドヴォルザークはここに休暇用の貸家をもっていたのです。
 誤解のないように言っておきましょう。この「ビリー・クロックス」(Bily: このスペルだと、英語式だと「バイリー」と発音するはずだけど、テープではどうなっているか?)という看板(または、表札)ですが、この家はその昔、独身男のビーリー兄弟の家だったのです。彼らは一生の間、時計箱(時計の側)彫りつづけました。ですから、下の階は博物館になっています。しかしドヴォルザークを迎えたのは、もともとの家主、ブリキ細工職人のシュミットでした。彼はドヴォルザークのために「パーエク」――つまり、金属製のビールジョッキを作りました。そして、ドヴォルザークは殊のほか、このジョッキがお気に召しました。
 ここではビールを飲んでも平気でした。この村の人たちは言ったものです。「ビールなんてアルコールじゃありませんよ。ここじゃ飲むパンです」
そしてドヴォルザークに歓迎のライ麦のパンでもてなしました。こうなると万事OKということは明らかです。


 スピルヴィルには南チェコの人たちが入植していました。最初の人たちがここにきたのは千八百五十四年でした。入植者たちは草原の斜面に、いわゆる、穴ぐらを掘ってそれを木の枝で覆いました。やがてそれが草原の草になり、さらに後には、草を編んだ屋根に代わりました。
彼らは好き一本に、鉄砲を一丁しか持っていませんでしたから、畑を耕すのは月夜の晩にしなければなりませんでした。それというのも、草原の中には依然として、チェロキー・インディアンが徘徊していましたから、なんど緊急事態に陥ったことでしょう。
入植者たちは何もかも自分で作らなければなりませんでした。釘の一本から、馬車の荷台まで、木靴からレンガまでみんな自分たちの手でつくったのです。コーヒー挽きを使ってトーモロコシの粉を作り、病気は薬草の知識のあるお女性がなおしました。
やがて、臨時収入を得るチャンスがやってきました。鉄道敷設工事が始まったのです。男たちは六〇マイルの工事にたいする報酬のために、出かけていきました。一日につき一ドルの給金が支払われました。そのかわり畑仕事はすべて女が引き受けることになったのです。ですから、はじめのころは、本当に、多事多難な生活だったのです。


 スピルヴィルの人たちに多少の余裕ができると、村人たちはすぐに、教会の建設という大事業に取りかかりました。教会の土台を掘り下げているときに、古いインディアンのお墓が見つかりました。男たちが岩石を切り出しますと、女たちはモルタルをこねました。チェコ人たちの間には大工の棟梁や本職のレンガ積みの職人もいました。カレル・アンドレアにいたっては、教会の鐘を鋳造する技術も持っていましたし、祭壇に彫刻をほどこすこともできました。そして祭壇の上にはチェコ民族の守護神(パトロン)聖ヴァーツラフの像をかかげようということに意見が一致しました。そしてこの教会での最初のミサが聖ヴァーツラフの祝祭日におこなわれるように、みんなで力を合わせてがんばりました。こうして千八百六十年の聖ヴァーツラフの日、九月二十八日にそれが実現したのです。

 スピルヴィル村に到着した、すぐ次の日、ドヴォルザークは教会のミサに出かけました。そして、もちろん、こころよくオルガン演奏台の上にあがりました。オルガンの前に座るとドヴォルザークは『神よ、汝の御前に』を弾きはじめました。そして本当は、それでおしまいにするつもりだったのです。ところが、ベンチに座っていたお婆さんたちは怒ったように演奏席のほうを見上げて、やがてみんなでうたいはじめました。そして、たちまちドヴォルザークにせがみました。
「あんた『千回あんたに挨拶するよ』ちゅう歌をを弾いてもらえんかね」
「明日もまた来てくれるうじゃろうね?」
こうしてドヴォルザークは夏休みのあいだじゅう、お婆さんたちのためにオルガンを弾きました。ミサがおわり、ドヴォルザークがオルガンを弾き終わって、そのあと、この村のスピルヴィルという名の由来となった人物の墓のそばの小道を散歩していました。その名前はヨゼフ・スピールマンでした。しかし、何といっても、ドヴォルザークという名の彫られた墓石の前で足を止めました。この墓の前でドヴォルザークはいったい何を考えていたんでしょうね?


 スピルヴィル村の人々はまるで母鶏(めんどり)の周りに群れるひよこのように教会を取り巻くようにしてすんでいましたが、その教会の周りの墓地のほかに、生い茂る草原のなかに置き忘れられたかのような、もう一つ別の墓地があるのにドヴォルザークは気がつきました。ここにはいわゆる「チェコの継子たち」と言われる人たちが葬られていました。この人たちは、「継母のオーストリア専制帝国」に別れを告げたため、その結果としてカトリックの信仰とも縁を切った人たちです。その中心にはカトリックを批判して火あぶりになった十五世紀の宗教改革者フスの像が建てられていました。そんなわけで、彼らはここで永遠の眠りについたのです。

 スピルヴィルへの移住者たちはもちろん教師もいっしょに来ていました。スピルヴィル最初の学校は校長先生が自分の手で建てました。そして校舎が出来上がると、中の壁にコメンスキーの肖像画や言葉の引用を書いた紙を張り、こどもたちには初級読本を配りました。
 しかし、まもなく、みんなで大きな学校を建てました。それには校長先生の住まいまでついていました。そこにすむことになった校長先生がコヴァージーク先生で、ドヴォルザークの助手コヴァジークの父親でした。現在ではコヴァジーク家の人たちが勤めた学校もすでに役目を終えました。そしていま建っている学校は、いわゆる、第三代目の学校です。そして、学校もまた聖ヴァーツラフ(小)学校と名づけられました。


 ドヴォルザークが訪れたころのスピルヴィルがどんなたたずまいをしていたかは、当時の地元の画家が描いたカラーの絵が伝えてくれます。 この画家はその絵のなかで教会と古い墓地、学校、鍛冶屋、それにドヴォルザークが家族といっしょに休暇を(その二階で)すごした家が描かれています。それに、古い酒場まで。ここでは村人の結婚の祝宴がおこなわれ、あるときなどドヴォルザーク自ら陽気にコントラバスを弾きながら、村の牧師さんに呼びかけたこともあります。「牧師さん、わたしは天国の楽園とは、こんな村の婚礼のようなものではないかと想像していたものですよ」
 カレル・アンドレアはそのころ、もう、黒い箱と言われた写真機をもっていたのですね。ですから、このすばらしい田園風物詩のなかのアントニーン・ドヴォルザークの写真を撮っていたのです。ほらこの写真にはドヴォルザークがすっかり上機嫌にビールのジョッキを空にしているでしょう。 ドヴォルザークはヴィソケーの別荘のある村でもいろんな人たちと友だちになりました。ヴィソケー山の村では炭坑夫たちでしたが、このスピルヴィル村でも友だちができました。その人たちのなかには、たとえば、鍛冶屋のクリメシュ、靴職人のベンダ、父親のほうのコヴァジークといった人たちがいます。その人たちはここに座ってトランプをやっています。賭けているのはたったのマッチ一本ですが、まるで命でも賭けているみたいです。子供たちはビールのジョッキをもって駆けまわっています。つまりこの場所ではビールを飲んではいけなかったのです――ここは禁止だったのですね――ですから、お爺さんたちは建物の入口の階段を溜まり場をつくりました。少なくとも、そこの日陰にはビールが置いてあります。そのビールは特別に度の強いものだったのです。やがて彼らにビーリー神父も加わります。みんないっしょになってすわっています。お婆さんたちは十字を切っています――結構なソドムの町の出現です(神父までがギャンブルに加わるとは)――。でも、神父さんは聖書の言葉の一言でお婆さんたちを退けています。「喉が渇いた人には飲ませてあげなさい。さもなければ、魂が苦しむだろう。彼らの渇きを潤してやりなさい!」というわけです。


 このような楽しい集まりのときには、もちろん、こんな質問にも出会います。「いったい、先生、あんたは、どんな具合に音楽をお作りになるんかね?」
でも、そのことにかんしては、ドヴォルザークは話したがりませんでした。ですから、そういう質問にたいしては、「まあ、その話は別の機会にということにしましょう」
そう言って話をアメリカでの生活のはじめのころのことに向けるのです。
すると古い人たち自分の思い出ばなしをはじめるのです。


 村の神父さんは馬と馬車を持っていましたから、しょっちゅう隠居したお百姓さんたちといっしょに馬車に乗って、村のはずれのほうまで出かけていきました。ドヴォルザークが言っていたように、「みんなは喜んで要塞へ出かけました」。
それはアトキンソン要塞のことで、杭をめぐらした造りは、もともと、白人入植者たちがインディアンの襲来に備えて築いたのです。しかし、ドヴォルザークがここを訪れたころはウィニアグ族インディアンは制圧されていましたから、ドヴォルザークも家族といっしょにここまでピクニックに来ることができたのです。要塞はすでに役目を果たしてはいませんでいたが、その時以来、アメリカ人が自らインディアンを演じ、兵隊を演じる現代にいたるまで、――すでに、美化されすぎているとはいえ――その武勇譚(たん)は延々と語り継がれてきたのです。



 あるとき、突然、酒場の主人が酒類販売条例違反で取締官につかまるという事件が起こりました。取締官は店の地下室に中身のいっぱい詰まったビヤ樽を発見したのです。その場で、裁判の手続きが進められました。まず、陪審員の選任です。幸いなことに、その役にはアントニーン・ドヴォルザークを取りまくバッカスの神々が任命されました。そして彼らは「陪審員一同の評決は、この酒場の中にあるすべてのものを味わい尽くしたのちに提出する」と回答しました。そこで店を閉め切り、店のなかにあるご馳走を腹いっぱい味わいはじめたのです。
一人がこれは最高のリンゴ酒だと言うかと思うと、ドヴォルザークはドヴォルザークで、うん、こいつは最高のハーブ・ティーのようないい味がするという意見を述べます。すると三人目は、いや、これは糖蜜のようだと断言し、最後の一人は、これはバターミルクだと言ってがんばります。陪審員はそれぞれが勝手なこというので意見はいっこうに一致しませんでした。
取締官が評決の結果を早く出すように催促にきましたが、彼ら陪審員たちは、まだ意見がまとまらないのでまだ評決は出せないといって拒否しました。みんなは、当然のことに、この酒場の主人の生活の糧を失わさせないためには、地下室で発見されたビヤ樽を夕方までに空にしなければならないからです(証拠隠滅ですね)。そこで陪審員の神々はご馳走を、たらふく食べ、たらふく飲みました。そして、評決の終わりのころになると、みんなは、もう、どっちの手で有罪無罪の判定の意思表示をすればいいのか、どっちの手が右手なのだかもはや見当もつかないありさまになっていました。そこで、すっかり腹を立てた取締官は馬に一鞭入れて、行ってしまいました。で、めでたく酒場は生き延びることができたわけです。現在もその酒場は営業しています。
この店に来ると、アメリカ風の料理のほかにも、チェコ料理の代表格の”ヴェップショヴァー・ペチェニェ・セ・ゼリーム”、つまり「ポークカツにクニェドリ団子に酢づけのキャベツ」とか、大麦の粉にスパイスを加えて調理したポークでつくった肉パン。あるいはクニェドリーキ・エッグ、角パン、発酵させたキャベツ漬、パンケーキ、スフレ、コブラハ――これはどうやら「コブリハ」(ドーナツ)が訛ったものでしょう――それどころか「コラチーズ」まであります――これは明らかに、チェコ語のコラーチュからきたものですね。そう、チョコレートのことです。


 そのうち、ドヴォルザークはだんだんと一人で遠出をするようになりました。広大なとうもろこし畑に沿って進むと、森に達します。彼の道連れは鳥籠に入れたつぐみだけです。そのあいだ、ぺピーク・コヴァジークには新しい歌をさらわせています。
彼はクロツァニ川と支流が合流するあたりに静かな場所を見つけると、そこに腰をおろして静かに耳を傾けています。やがて、家に戻ってくると、シャツの袖の折り返しに、音楽の構想や音楽のモティーフやテーマみたいなものがぎっしり書き込まれていました。


 そして彼は三日三晩この部屋にすわって、すっかりいい気分のなかで、奇跡のような速さで弦楽四重奏曲を書き上げたのです。みなさんはその曲のなかでタンガラと呼ばれている黒い風琴鳥(ふうきんちょう)のさえずりの声や、村のオルガンの音を聞くことができるでしょう。その曲こそ「アメリカ」というタイトルをもって音楽史の中にも名を連ねる、ヘ長調のカルテットなのです。

 そして、とどまることを知らないかのごとくに、ドヴォルザークは五重奏曲の作曲に取りかかります。そした、この曲の第三楽章で潜在意識下にあったメロディーが現われます。もともとは、ドヴォルザークがアメリカ国歌を作曲しようという意図のもとに構想をねっていた楽想です。

 もし、わたくしたちが弦楽器を人間の声に置き換え、それに歌詞をつけたら、本体はアントニーン。ドヴォルザークによって作曲されるはずだったアメリカ国歌をそこに聞くことができます。

 しかしながら、スピルヴィルでの心楽しい夏休みは思いもかけない出来事で短縮されてしまいました。それというのは、シカゴで開催される世界博覧会にアントニーン・ドヴォルザーク先生にも参加してもらおうと、その使いがやってきたのです。この博覧会のためにアメリカに入植して、たくさんのコロニーを作っている同郷人たちがチェコ・デーを準備中だというのです。こんな誘いを断ることはできません。

 世界博覧会の開催地がシカゴに選ばれたのには、きわめて皮肉な理由があるのです。そのほんの少しまえ、大火災があって、市の中心部はほとんど焼けてしまったのです。いまなら、シカゴの市民には生活の糧を得る絶好の仕事にも恵まれるでしょう。そんなわけで四キロ四方の広さのジャックソン公園に、「ホワイト・シティー」が建設されたのです――未来のヴィジョン、十九世紀の決算と二〇世紀への展望。ミシガン湖の岸に沿って古代宮殿建築様式による建造物群の一大体系を現出させたのです。そしてそのなかに二十五万の展示場を設置しました。見物客は一日、十五万人に及びました。

 ですから、アントニーン・ドヴォルザークはシカゴの万博を数回訪れました。彼はセコイア巨大杉の断面の前に立ち、キリスト生誕の年を示す年輪や、コロンブスのアメリカ発見を示す年輪をながめていたことを、わたくしたちは知っています。彼は自動車の第一号のモデルにはあまり注意をそそられませんでしたが、反対に、来る新世紀に活躍を期待される蒸気機関車999号にはすごく感動しました。

 また、ブロントザウルスの化石も展示されていました。しかし、彼がいっそう興味を覚えたのは世界一早い伝書鳩でした。それに、また、彼は第一回目の「美の女王」のコンテストにも一票を投じました。しかし、特筆すべきことは、エジソンに特別に提供されたパヴィリオンに案内され、エジソンの発明にもふれたことでしょう。
エジソンは自分が写したはじめての写真を見せました。とくに、コロンブス記念祭のときにニューヨークで写した写真です。もちろん、わたくしたちも知ってのとおり、ドヴォルザーク自身もそのとき貴賓席にいた、あのお祭のときの写真です。


 エジソンは次に、ドヴォルザークを蓄音機のところへ案内しました。そして、蝋の管にドヴォルザークの声を録音しました。

 同郷の人たちが、そのために招待したチェコ・デーまず、チェコ人たちの行進ではじまりました。行列のなかには二万人のソコル体育会の会員たち、それにチェコの民族衣装をつけた女性たち、労働者たちが加わっていました。ドヴォルザークはジェイコブ劇場のバルコニーの上から見下ろしていました。彼らは、ドヴォルザークが彼らの指導者であるかのように彼に挨拶を送りました。
それから、まさにちょうど四分の一世紀後、つまり、二十五年後に、このバルコニーの下を行進することになります。そのとき彼らの数は二〇万人になっていました。そして、建国間もないチェコスロバキア共和国の初代大統領トマーシュ・ガリック・マサリクに挨拶をおくったのです。


 アントニーン・ドヴォルザークの演奏会はフェスティバル・ホールで行われましたが、それはコンサート専用のホールで、ちょうどここに建っていました。そのホールを六千人のチェコ人がいっぱいにしたのです。ハリソン市長はドヴォルザークの音楽を聞くためにオーケストラのなかに何かの包みをおいてその上に座っていなければなりませんでした。けっしてティンパニストとしてではありません。
そしてドヴォルザークが指揮したのは第八交響曲ト長調、後に「田園的」呼ばれるようになる曲です。なぜならこの曲はチェコの田園の叙情性を音楽的に完璧に描写しているからです。それに、「スラヴ舞曲」からの数曲を加えました。最後に指揮したのは「わが故郷」で、この曲は(のちの)チェコ国歌にもとずく変奏曲です。


 熱烈な拍手(オヴェイション)は半時間も鳴り止まず、そのあとの宴会は朝まで続きました。

 ドヴォルザークはニューヨークへもどるのをなおも引き伸ばしました。「アメリカへ来たいじょう、ナイアガラの滝を見ないって手はありませんよ」と言って、みんなはドヴォルザークをナイアガラへつれてきました。ドヴォルザークは長い間、強大な水のあふれ落ちるありさまを見つめ、その水の騒音に聞き入っていました。そして急にインスピレーションがひらめき、「こいつはHモール(ロ短調)のシンフォニーだ!」と叫びました。

 残念ながらそれは、もはや、単なる構想として残ったに過ぎませんでした。ドヴォルザークはこのシンフォニーに全然手をつけていません。なぜなら、その間に、状況の大変化がおこったからです。この事態はアメリカ全土を襲い、ドヴォルザークの生活にも、作品にも深い痕跡を残したのです。ナイアガラはその作品舞台の、単なる、美しい幕となったにすぎません。

 つまり、大きな金融恐慌が起こったのです。いわゆる1893年の経済危機――パニック’93――です。急激な投資が不相応に膨大化し、もはや制御が利かなくなったのです。破綻の連鎖反応がはじまりました。銀行は破産し、何百という企業がつぶれ、好人物の音楽院長のご主人までが財政困難に陥ったのです。
新学期の始業式の日、サーバー音楽院長は同学院の教授たちとともに、音楽院のホールでメセナの来賓たちの到着を待っていました。


 でも、無駄でした。学院経営の財政援助者たちは、自ら出席しなかったばかりか、学院経営に必要な財源をさえ提示することができませんでした。すっり危機感を覚えた学院長の億万長者夫人は、口篭もりがちに、現在の金融状況の悪化についてふれ、説得に努めました。しかし、ドヴォルザーク先生は、せめて、自分の年俸がどうなるかについてだけは、はっきりさせておこうと思いました。
「契約によりますと、学期のはじめに年俸の半額、七千五百ドルをを先払いしていただくことになっておりましたが」
サーバー女史はそれにたいして、ここ当分のあいだ、月給の形での支払いで我慢してくれるように頼みました。


 当然のことながら、そこへ、フネカー教授が援護の口添えをしまし、ドヴォルザークにお説教をしました。
「困りましたな、ドヴォルザーク先生。あなたの独りよがり性格も、支援者の出し渋りを助長しているのですよ。それに、あなたのそういうお考えのなかには芸術的思想ばかりか、政治的視点までもが反映されていると見ざるを得ません。しかし、いまや肝心なのは、奴隷の音楽がアメリカを救うかどうかの問題ではありません。たとえあなたが、後戻りをしたいとのお考えだったにしろ、真の前進の道をお示しになることです。カーネギー氏はあなたが、お贈りしたあの本をお読みになっていないことを残念に思われていました。そこには、全世界のための文化の創造は、神が白人エリート課された使命であると書かれています」


 そして、フネカーは教訓をたれました。「何より如才のない外交と巧妙なる戦術ですよ」
 それにたいし、巨匠は「このくそ野郎!」とチェコ語で言いました。


 マダム・サーバーは一つの差し迫った提案をもってドヴォルザークのところに現われました。 「先生、わたくし、支援者の前で芸術の話をしますと、あの方たち自殺の話をはじめますのよ。支配者階級のサークルの人たちは耳も貸してくれません。打開の道はあなたのシンフォニーの演奏しかありません。

 どうか、あのシンフォニーの初演を発表してください。カーネギー・ホールのほうへはわたくしが話をつけます。すると、その日からすべてが変わります」
しかし、ドヴォルザークは真意を理解しかねて、抗議しました。「だって、わたしは、まだ、お約束のお金もいただいていないのに、シンフォニーまでが欲しいとおっしゃるのですか?」
すると、サーバー女史は提案しました。「わたくしたち、お互いに、具体的な形で善意の交換をいたしましょうよ。あなたのシンフォニーが上演された日に、あたくし、あなたに小切手をお渡しします。それでよろしいかしら?」そう言って女史は彼に手を差し出しました。


 ドヴォルザークも彼女の手をにぎりました。ドヴォルザークはちょうどそのとき精神的にいい状態ではなかったので、代わりに「新世界交響曲」初演の指揮をザイデルに頼むという、異例の事態が生じました。

 一八九三年十二月十六日土曜日、雨。その日、カーネギー・ホールのまわりには、雨の中に何時間も待つ人の列が出来ました。新聞もその第一面に、予告されたイヴェントについて書き立てました。しかし、それが成功のうちに終わるか、惨憺たる結果に終わるかは不明でした。ドヴォルザークの世界的に有名な交響曲「新世界より」の初演の準備がが着々と進んでいました。

 ドヴォルザークが家族といっしょに貴賓席のボックス席に座っていると、音楽院長サーバー女史が本当に約束の小切手をドヴォルザークに手渡しました。小切手の日付は一八九三年十二月十六日になっていますから、まさしく「新世界」の初演の日であることにまちがいありません。
初演の夜がどんなふうに進んだかは、いろんなリポーターたちが証言しています。たとえば、『ニューヨーク・ヘラルド』紙はその反響を、「アメリカ音楽史上の大事件、特筆すべき一日」という見出しではじめ、「新時代の始まりを告げるコンサート」「ドヴォルザークはその天才を証明した」と報じました。


 そして『イーヴニング・ポスト』紙は「ドヴォルザークのシンフォニーがまさしくその堂々たる構成によってぬきんでており、真実、ベートーヴェン没後、作曲された最高峰に位置付けれるシンフォニーの一つに加えられる値する」と評価している。

『ザ・サン』は次のように書いています。「アントニーン・ドヴォルザークの意見は同時代人の嘲笑をかった。しかしながら、論争者たちは、相手がシンフォニーを作曲するために生まれてきた巨匠であるとは思いも及ばなかったのだ」。 ドヴォルザークはアメリカ人のためにも、アメリカを発見してくれた。あの男はあのすばらしい作品を剽窃したのではないかという議論は一瞬のうちに吹っ飛んだ。これはアメリカという刻印をもった堂々たる芸術的成果だ。このシンフォニーはコロラド峡谷や、果てしなき草原、エロー・ストーンの間欠泉、海岸の町、内陸の町などから受けた印象に満ち満ちている。

 その他の人は否定的でした。「いいですか、このシンフォニーの雰囲気はアメリカ的だが、その心はチェコ的である」。そしてだんだんと、その論旨はピンとはずれになってくる。「この音楽のどこに黒人音楽からのインスピレーションがあると言うのだ? 白人のもの以外の何ものでもない! 新世界交響曲は、なるほど、白人の霊歌だと言うことは言える。つまりは、祖国へのホームシック・シンフォニーだ」

 一番重要なのはこれらの意見の中に見られる共通した、普遍的な見方だと思います。たとえば『アメリカ音楽の将来にたいしてドヴォルザークのシンフォニーはどんな影響をもっているか? もちろん未来のドヴォルザークがアメリカに出現したらそれはす.ごいことですア。わたしたちはとんでもないトロイの馬(ドヴォルザークのこと)を贈られたものだ。そのなかからまさか、こんな「新世界より」というような名曲が出てこようとは――この大傑作を凌駕するような作品を生み出せるアメリカ人は、はたして誰だろう?」

 やがて学生たちは出たばかりの「ミュージック・クーリエ」を持ってきました。この音楽雑誌はハンカーによって発行されていたものです。そこにはニューヨーク・フィルハーモニーのクラリネット奏者シュテーディックの手紙が公表されていました。シュテーディックはその手紙のなかで、ドヴォルザークのシンフォニーはまったくアメリカ的ではない。なぜならその曲は十三年前にすでにさっきょくされていたもので、そのクラリネット奏者自身が、当時、ハンブルクのオーケストラで演奏したことがあると書いていたのです。

 それは、かなり強烈なボディー・ブローでした。それは思いもかけない中傷でした。サーバー夫人はすべての新聞でそれらの汚名がそそがれるようにしようとつとめました。ドヴォルザーク自身はその問題に無関心でした。彼はすべて無視しました。とことが、幸いなことに先に名前のあがったクラリネット奏者シュテーヂック自身が名乗り出て、そのような手紙を書いたこともなければ、ハンブルクで演奏したこともない。ドヴォルザークが詐欺師だと言っている、その当人が詐欺師であり、わたしはそんな作り話とは無関係だと宣言したのです。そして、即座に、快くその作り話を否定しました。

 その後、アントニーン・ドヴォルザークはサーバー音楽院長のところへある提案をもって訪ねました。
「コンサートを貧しい人たちにも開くというのは、アメリカのいい慣例だと思います。しかし、今度に限っては入場料を取るのはとても無理でしょう。反対にわたしたちはその貧しい人たちのために、お金を集めるべきです。できることなら、コンサートを開いて、その売上を貧しい人たちの救済にあてるとか。募金の呼びかけを新聞にも出しましょう」


 そこでニューヨーク・ヘラルド紙は手稿の写真を掲載しました。それには、文字通りに、次のようにあります。

「わたくしたちの誰もが貧しい人たちの救済のための基金に協力するべきではないでしょうか。この大変な恐慌の時代に、何万人の人々が、あらゆる形の苦境にさらされているのです。そしてあらゆる側面からの援助をわたくしたちに求めています。国民音楽院院長として、わたくしは上記のごとき趣旨にもとづくチャリティー・コンサートをマジソン・スクエア・ガーデン音楽堂において開催することを支援者に強く要望するものであります。アントニーン・ドヴォルザーク」

 マジソン・スクウェア・ガーデンでのこのコンサートのとき、出演前のドヴォルザークは常になく落ち着きがありませんでした。アンナ夫人はその間、ずっと、ドヴォルザークの手を握っていなくてはならないほどでした。そして、いよいよ舞台に出るという段になるとドヴォルザークはアンナ夫人に「わたしの額に十字を切ってくれ」と頼みました。
 このチャリティー・コンサートは千四十七ドルの収入を上げました。しかし、ドヴォルザークがアンナ夫人のところへ戻ってくると、コンサートの前には口に出せなかったことを告げました。
 つまり、新世界交響曲の初演のときに受け取った七千五百ドルの小切手――それは当時にすればそれは莫大な額です。その小切手が空手形だったということです。
 アントニーン・ドヴォルザークは当然のことながら怒っていました。彼は音楽院の学長サーバー女史のところに急いで行きました。
「あなたは、この小切手が一文の価値がないことをご存知なのですか? あなたはわたしを馬鹿にされた!」
しかし、女史はいすから立ち上がると、ドヴォルザークに懇願しました。
「どうか、先生、怒らないでください。そして、どうか、わたくしを信じてください。そのお金はできるだけ早いうちになんとか都合をつけます。実は、あの悪党のフネカーが自分の同僚たちをけしかけて、わたくしを攻撃してきたのです。ですから、わたくしは、その連中に先に払ってあげなくてはならなかったのです。でなければ、わたくしを裁判所に訴えると言うのです」


 ドヴォルザークの置かれた状況は日増しに不利になっていきました。小切手のお金はまったく見通しもつきません。サーバー女史は毎月の支払いで頭を痛めている始末です。それにクリスマスも近づいてきましたから、ドヴォルザークはだんだんと足しげく教会にかようようになりました。とくにニューヨークにあるチェコ人の教会、その名も「プラハ・幼子イエス」教会でした。
ここでドヴォルザークはここで自分の聖書をめくり、ダヴィデの嘆きの頁に青鉛筆で、告白を書きつけました。それはドヴォルザークの悔恨の心情を証明しています。


神よ、わたしの心の叫びを聞いてください。わたしに目を向け、わたしにお慈悲をお授けください。なぜなら、わたしは一人ぼっちになり、心は苦悩にみたされているからです。どうか、わたしに鳩のような翼をください! そしたら、わたしは強風のなかをも、嵐のなかをも飛び立って、遠くへ逃れ、しばしの憩いを取るでしょう。ああ、どこか遠くへ飛んでいきたい。

 これらの詩は十曲の「聖書の歌」として作曲されました。そして、多分、イースターの週、正確には「聖金曜日」にもっとも感動的な歌を作りました。そのとき父の死を知らせる電報が届いたのです。

 この小さな教会に頼んで行ってもらった親のためのミサのあと、ドヴォルザークはオルガン席に上がり、オルガンの前に座って、「聖書の歌」を事実上、初めて演奏したのです。彼は父親のために演奏し、静かに歌いました。

主はわたしの羊飼い
だから、わたしの心は満たされている。
わたしを緑の牧場にいざない
静かな泉に導いてくれる。
そして、わたしの魂を洗い清め
わたしを正道へと教え導く。


 そして、悲しみをさらにつけくわえるかのように、海を渡ってきた、いまや死者となった父からの手紙を受け取るのです。

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