第一部 (その二)
演奏会のあとおこなわれたレセプションで、ドヴォルザークはカーネギー氏を見つけました。
「カーネギーさん、失礼ながら、あなたは蒸気機関車を製造されているそうですね。まだ、ピストン式の蒸気システムををお使いなのですか?」
鋼鉄王カーネギーは愉快そうに笑いながら答えました。
「実をいうと、その機関車というのがどんな格好をしとるのやら、わたしは知らんのですよ。機関車のことでわたしに興味があるのは、それが株価にどう反映しているかということだけでしてね」
そう言うと、彼は『富の福音』というタイトルの自著をドヴォルザークに贈りました。それには白人種の歴史的使命について書いたものでした。
ドヴォルザークが一度も口にしたことのないある事件の端緒が演奏会のあとの、この場でありました。それは、音楽院の同僚でピアノかの教授ヒューネカー教授のあからさまな敵意でした。彼はドヴォルザークのアメリカ滞在中、陰に陽に、絶えずドヴォルザークに意地悪をしたのです。そのときヒューネカーはマダム・サーバーに耳打ちしました。
わが音楽院は最高の二流作曲家を輸入しましたね」
そしてサーバー女史が驚いて口もきけずにいると、さらに自分の音楽評をつけ加えました。
「豊かな音に乏しい内容」
そこで女史は穏やかに諭しました。
「あなたは何でもおわかりになるわ。でも、あなたにもそんな批評をしようにも、あなたはご自分ではそんな批評に値するようなこと何もなさってないのが残念ね!」
ドヴォルザークはニューヨーク・マンハッタン島の南の方に住んでいました。はじめはクレアレンドン・ホテルに住んでいましたが、そこではプライヴァシーがありませんでした。そこは非常に騒音がひどいところでした。それにおおき
広告とともにピアノを彼の部屋の窓の方に置きました。そんなわけで十七番通りに住むことにしました。このあたりの家の正面は同じです。十段の階段をあがって家に入るようになっています。ドヴォルザークは左手の部屋をサロンにしました。その奥が仕事部屋です。上の階にも小さな部屋があります。裏手には庭がついています。その庭にドヴォルザークともあろう人が自分の好きな花、ケマンソウまで植えました。その花は彼がこの地を訪れてから百年後にもまだ咲いていました。
しかし一九九〇年になって、真向かいの大きな病院がこの一角全体を買い取る決定して完全に破壊されてしまいました。そしてこの文化的記念碑を守ることはできませんでした。その本当のドヴォルザークの家というのはこれですが、こちらにあるのはその一部といいますか……実は、左側の壁についていた通りの名を記した標識にすぎませんがね。
もともとこの家は"------" という名がつけられていたものです。この人物は自分のホモセクシュアル関係の愛人の写真を写したということで有名になり、裕福になったという人物です。現在はこの家はエイズ患者の救済所になっています。 このような歴史的変遷については必ずしも言及する必要はないのかもしれません……。
ドヴォルザークはこの家から音楽院まで歩いて通っていました。途中、Stuyvesant Park がありました。そのなかを通るときいつも銅像のそばを通りました――それはドヴォルザークに言わせると片足の海賊ということになるのですが――そうして公園を抜けるとユニオン・スクエアに出ます。ここには沢山の店がありアンナが大いに利用しました。この一角は劇場やキャバレーが四十二丁目やブロードウエーに引っ越すまでは、まさに芸術的な場所でもあったのです。そしてここには俳優の取引所までありました。ですからここは地上の天国、人生の乗り合い馬車が、昼も夜も、絢爛たる目眩めく人生の回り舞台(メリーゴーランド)のように走りつづけていたともいえるのです。
ドヴォルザークが教えていた音楽院は、もう、とっくになくなっています。その代わりに、その場所にはワシントン・アーウィング・スクールが建っています。音楽院の校舎はもともとは、剥き出しの灰色のレンガ造りの数階建ての建物でした。その向かいにはまったく正反対の外観をした建物がありましたが、そちらはいわゆる「下宿屋」で、同様に音楽院の所有物でした。そこには教授も数人住んでいて、一階で全員が食事をしていました。ドヴォルザークの家族も含めてです。
それでは、ドヴォルザークの教え方はどうだったんでしょう。そのことについては彼の弟子たちの証言がいくつもあります。ドヴォルザークの教授法は単純でした。自分のクラスの生徒たちにいきなり大きな課題を出すのです。つまり、シンフォニエッタ(小交響曲)を作曲させるのです。みんな一人一人、第一主題と副(第二)主題を提案しなければなりません。そしてそのなかから、一番みんなの気に入った旋律が選ばれます。次に、それらの主題からみんなで最高の音楽建造物(シンフォニー)が築き上げられていくのです。
ドヴォルザークは教科書というものを一切使いませんでした。それどころか世界的に有名な作品の総譜を記憶していて、クラシック音楽のどの曲がどういう和音進行を用いているかを、ピアノで即座に弾いて見せました。圧倒的な天才ワーグナーに敬意を払っていましたが、当然のことながら、ブラームスも重視していました。
「ブラームスはまったくのところ教養もあり、学者だ。彼は脳で感じることができる!」
モーツァルトはドヴォルザークにとって太陽でした。しかし一番愛したのはシューベルトではなかったでしょうか。「シューベルトがもし、もっと長生きしていたら、他のすべての者を圧倒していただろう。そう言って、彼はピアノを弾いて、実例を山のように積み上げました。そしてピアノのふたをばたんと閉めて、言うのです。
「いいかね、君たちが他人のいい実例に出会ったら、まだそこに欠けている何か自分独自のものをもって、それと対面しなければならない。 *** lynx of the bohemia forest ***(12頁)
ドヴォルザークはそれ以上何かヒントめいたものを与えることを拒否しました。新しいものは自分で見つけなければならない。「メロディー、発想、思想……それにはまだ何の意味もない。それは、天から降ってきたものだ。しかし、それから何かを作る。それを発展させ、加工する。そこではじめて芸術となる! 可能な方法はいくらもある。それもいいものがどっさりだ――しかし、最高のものは一つだけ、これであって、それ以外の何物でもないもの!」
もし、よく書けている数小節を発見すると、心からほめあげる。美が彼を無力にする。彼は感動に鼻をすすり上げながら、前後、つじつまの合わないことを口走る。
「君はどうしてそんな手をしているのかね……? 手だよ、どうしてだ? ほれ、赤いぞ……」
「夜通し、ホテルで皿洗いをしているんです……」
「なんだと? よし、じゃあ、君のために、わたしが稼いでやろう」
つまり、ほかのクラスはたった六〇ドルだったのに、ドヴォルザーク博士のクラスには三百ドル払われていたのです。そこで、その少年に奨学金が与えられるよう頼みに、マダム・サーバーのところに駆けていくのです。
生徒たちは、ドヴォルザークがびっくりするほど、あくせくと働いていました。
「君たち、君たちはまだ泳げもしないのに、もう、おぼれたいのかね?」
ドヴォルザークはアメリカ人たちが、はやくお金を稼ごうとしてやっきになっているのを自分の目で確かめました。でも、そんなときドヴォルザークは苦い顔をして言います。
「ドルがすべてではありませんぞ!」
そしてピアノの方にすごい勢いで突進すると、「いいかね、お金に替えられないものだってあることをしっておくんだな!」
そして、ベートーヴェンのソナタを弾きはじめ、恍惚として叫びます。
「ベートーヴェンがこの曲を作曲したとき、彼は一文なしだった! というのは、もってはいたがもっていることを忘れていた。五日間のあいだ、干からびたパンだけですごした! これこそ、干からびた硬いパンの皮から作られた超地上的美とは言えんかね!」
そして、おどろいて縮みあがっている、永遠の美の見習い工たちに向かって雷を落とすのです。
「どうだ、もう、わかったかね!」
もちろん、、ニューヨークに来たからといって、蒸気機関車にたいするドヴォルザークの好奇心がおさまるはずもありませんでした。そんなわけで、早速、プラハ中央駅、幹線鉄道のターミナルを訪れてみました。でも、なかに入いって見るでけでも、毎回、乗車券を買わなければなりません。そうでなければ追い払われるからです。そうなると、次に停車する百五丁目駅まで乗っていかざるを得ませんでした……。そして、ここで、彼の”サラブレット”(天才)の頭をめぐらしてシカゴ行きの急行列車がきっちり時間どおり通過するのを追いかけるのです。
ときには、弟子たちも一緒に同行させることがあります。すると弟子たちは、この子供っぽい、風変わりな趣味はいったいどうしたことだと、不思議がるのです。そのくせドヴォルザークはひどい機械音痴なのです。それに、どこか遠くの道の土地まで乗っていくというようなロマンチストでもありません。あとになって、やっとその秘密を漏らしたことがありました。
「あの機関車を見てみたまえ、どんなふうに……、どれほど沢山の種類の部品から、あの蒸気機関車が組み立てられているんだろうと。しかも、その一つ一つが、それぞれに重要な役割を果たしている。あの小さなネジでさえ、正確に決められた場所にあって、何かを支えているんだ。そしてすべてがそれぞれの意味をもっている。あんな小さなネジにしても、正確にその場所にあって、何かを支えている。すべてが自分の役割と役目を持っているんだ。で、その結果はどうだ、まったく驚異だ。機関車は線路の上にのっている。釜を焚く。あとは人間が小さなレバーをちょっと動か巣だけでいい。すると大きなやつが動き、車輪がまわりはじめる。たとえ客車の重さが何トンあろうとも、蒸気機関車はそれを引っ張って、まるで野ウサギのように走っていく……」
そして賛美とため息でおわります……。
「もし、わたしが機関車を発明していたのだったら、わたしのシンフォニーなんかみんなその代償にさし出してもいい」
彼は自分の好きな機関車を見にいくときは、大概、半日はつぶしてしまいました。そこでその代用としてドヴォルザークは船に気がつきました。しかし、船に乗るとさらに違った国に行き着きます。船で北の方に行くと、そこにはいわゆる財閥といわれる専制王国の君主たちの住家が並んでいます。そこには鋼鉄王――ヴァンデルビルト、カーネギーその他同類の人々の宮殿があります。その宮殿はヨーロッパから来たバイヤーたちが、かつてのベネチアの総督のような生活ができるように貢いだものです。彼らはオペラハウスやカーネギーホールに、いわゆるダイヤモンドの馬蹄(ギャラリー)もっていて、見るだけでなく、見られるために出かけていくのです……。彼らは殊のほかドヴォルザークを招待したがりました。それは彼にその豪華な宮殿を見せるためです。
ドヴォルザークは南のほうにも出かけていかざるをえませんでしたきました。そこはまた、別の世界、バベル、がありました。そこに移住してきた人たちは一部屋に十人ずつ押し合いへし合いしながらすんでいましたが、ここではそれが普通のことでした。家はお互いに重なり合っていました。日も差さない狭い通りは人間の喉を思わせます。子供たちの遊び道具といえば、火事のときの緊急梯子くらいしかありませんでした。
そこは絵空事と希望とが渦巻く、まさに、とほうもなく大きな人間の蟻地獄でした。手と足を持った者は、当時、よく言われていた格言――金持ちが金持ちであるのだから、貧乏人だって(いつまでも)貧乏人ではない――を唯一の頼りに勤勉に手足を働かせていました。こうして、さ迷い歩くうちに、アントニーン・ドヴォルザークはニューヨークのすべてを、それどころか、アメリカについてもっともっと多くのことを認識したのでした……。
この小さな居酒屋へヨーロッパから新しい情報が伝わってきます。それでドヴォルザークもよくここへ国民新聞(Narodni Listy)を読みに来ました。そして、怒るのです。
「このチェコの代議士どもときたら、まったく政治家ではないな。ただの雑貨屋だ!」
するとコヴァジークが「これはもう、四〇日もまえのふるしんぶんですよ……」となだめるのですが、ドヴォルザークは
「まったく、いつも、何にもかわりゃせん……」と、いつもの口癖を繰り返すのです。
ある日のこと、夕暮れ近く、ドヴォルザークが音楽院からもどってきたときのこと、きわめて有名、かつ、重要な小事件が起こります。がらんとした廊下を通っていたとき、彼の耳に奇妙な、耳慣れない歌が聞こえてきたのです。……正規の教育を受けてはいないバリトンの声が不思議なメロディーを口ずさんでいて、それがドヴォルザークの心をとらえてのです。その変てこな音階、特殊なリズム感、この巨匠が、その奇妙な節まわしに突然魅入られてしまったのです。
それで、廊下の角をのぞいてみました。すると一人の黒人が長い柄の先にぬれた雑巾をつけたモップで廊下を掃除しているのが目に入りました。歌はその黒人が仕事をしながらうたっていたものでした。二人は鉢合わせになりました。
「それをもう一度うたってくれないかね」とドヴォルザークは頼みました。
掃除夫の男はあわてて床面を見まわしました。
「おこか、まだ、汚れていましたか?」
「その歌だよ、君が、いまうたっていた!」
「えっと、それっ手、どんなんでした?」
黒人はすっかり仰天して、とっさに、何をうたっていたか思い出すことができませんでした。
そこで巨匠はメロディーのところどころ覚えているところを切れ切れに口ずさんで助け舟を出しました。すると黒人もやっと思い出しました。でも、その歌をうたいだそうとしたとき、ドヴォルザークはまた大声で言いました。
「バケツは逃げやせん。ちょっとわたしと一緒に来てくれ!」
そして彼を家に連れて行きました。そして応接間に案内すると、ピアノの前にすわり、その黒人の知っているかぎりのメロディーをみんな聞き出しました。この男は以前、ルイジアナ州のどこかで綿つみ労働者として働いていたに違いありません。農園で歌われる労働歌(work-song)をほとんどすべて知っていました。夕方の時間だけでは足りませんでしたので、その男を夕食に招きました。
ところで、みなさん、リンカーン以後、たしかに法律の上では市民的平等の権利を得ましたが、実際にはその後も、白人と黒人は「平等だが別々に」の原則に従って、差別的に生活していたのです。
そんなわけですから、すっかり困惑した黒人は、「わたしはまだ教会でしなければならないお勤めがあるからといって逆にドヴォルザークを夜の礼拝に招待しました。
「もし、旦那様が黒人霊歌(スピリチュアル)をもっとお聞きになりたければ、そこにいらっしゃれば、もっと、違ったものをお聞きになれますよ!」
そこで、ドヴォルザークは彼と一緒に黒人の聖マリア教会と聖イジ―教会に足を運ぶようになりました。そして、ここで現世の苦しみからの救済を叫び求める賛美歌を聞いたのです。彼は三曲の歌にまさに文字通り魅了されました。
そのころ、一方では、ドヴォルザークのサリエリ(モーツァルトに意地悪をしたといわれている)のように執念深い敵役、ヒューネカー教授がまたもや告げ口をし、『デーリー・ニュース』紙が奇妙な記事を載せたのです。その記事には「音楽家仲間のあいだで、それどころか、広く一般大衆のあいだでも、国民音楽院へのアントニーン・ドヴォルザーク氏の赴任は何らの評価を得るにいたらなかった。自分の不成功に著しい不快の念を覚えた同氏は、急ぎ、ヨーロッパへの帰国を考慮している……」というのです。
マダム・サーバーはすぐにピンときました。「この文章は私とドヴォルザーク先生とのあいだにいざこざを起こさせようとする意図が見え見えだわ」というわけで、公式の否定文書を掲載することでこの事件を乗り越えました。彼女は「ニューヨーク・ヘラルド」紙の記者を数人呼びました。そして公式の声明を発表しました。
「ドヴォルザーク先生は国民音楽院において、私自身が予想していましたよりも、もっと大きな成果をおさめておられます。先生は自分のお仕事において、並外れた学識と情熱をもって取り組んでおられます。先生と問う学院の同僚教職員や生徒との関係につきましても、まさに素晴らしいの一言あるのみでございます。先生は名実ともに学院長としてその名に恥じない方でございます」と新聞記者たちの前で述べてから、記者たちに紹介するためにドヴォルザークを呼びました。
するとドヴォルザークはショックを隠し切れない様子で、きわめて基本的な認識を記者たちを前にして読み上げました。
「私がアメリカに参りましたのは、あなた方の国の若い人たちのなかに、音楽的才能に恵まれた人がどれくらいいるか確かめるためにやってきました。そしてその才能を伸ばし、表現できるようなお手伝いができればいいなと思っております。アメリカは自分の国の土から成長し、その自然の風土の特質をもち、自由で進取の気鋭をもった人々から発せられた声をあらわしたような、そんな音楽を必要としています。ですから、わたしはみなさん方の注意を、どうか使ってくださいと言わんばかりに、この国にこに提供されているすばらしい財宝に向けていただきたいのです。
わたしはアメリカの黒人の歌のメロディーのなかに、大きく、しかも高尚な音楽に必要なあらゆる要素の萌芽(めばえ)とでも言うべきものを発見いたしました。それは悲愴であり、繊細であり、激情のほとばしりでもあり、メランコリックで、宗教的で、率直で、陽気で、生気にみちている。そして、何よりも――この国の産物であり、ほかの、どこの国にも存在しないものなのです。それは純粋にアメリカ的です。ですから、それを選び、それをもとに音楽を築き上げるのです。
最高に偉大な作曲家は、民謡や、民衆の愛唱歌を取り上げることを、自分の沽券にかかわるなどとはけっして考えません。わたしは、わたしの最も重要な作品のためのインスピレーションを得るために、半ば忘れられたチェコの田舎の単純なメロディーに戻っていったことがあります。ただ一つ、この方法によってだけ、音楽家は自分の民族の感情を忠実に表現することができるのです。未来のこの国の未来の、アメリカの音楽も、きっと、それらの歌にもとづいて作り上げられていくでしょう……」
その後しばらくして、マダム・サーバーは次の夢を大きく膨らませはじめました――彼女は、ドヴォルザークにアメリカのオペラを作曲するようにと、そそのかしはじめたのです。そして、注目すべき活動を発展させたのです。たとえば、彼女はドヴォルザークを、いわゆる「ワイルド・ウエスト・ショー」なるものに連れ出しました。このショーはもともと「未開の西部」開拓(征服)を題材にした一種のサーカス的見世物だったのです。峡谷を通る幌馬車の一隊、近くで聞こえる、血に飢えたインデアンたちの激しい戦争の踊り、激しい銃撃戦、しかし、まさにちょうどよいところにカウボーイを引き連れ、野生の馬(ムスタング)の背にまたがった若いバッファロー・ビルが登場。そして勝利の祝い。やがて彼らの馬の曲乗り、拳銃の名人芸の披露によってクライマックスとなるのです。
それから何週間かたちましたが、ドヴォルザークはいつも長い曲を書くことを嫌がっていました。サーバー女史はさかんに催促しますが、アンナがいつも彼の代わりにあやまりましたが無駄でした。
「どうかするとあの人は水道の蛇口をひねったみたいに音楽が流れ出してくるんですのに!」
ドヴォルザークはよくニューヨークの街を歩き、あたりを見まわし、どんなことであれたずねました。そしていたるところに助手のコヴァジークを連れてまわりました。酒場にもです。
「先生、また、ヒューネカーが先生の悪口を言っていますよ。肉屋がこわくて音楽に逃亡したような人間に何がきたいできるのだと言っ手いるそうです」
しかし、ドヴォルザークはただ手を振っただけでした。
「まったくいやなやつだ」
と、その瞬間、彼は身を硬くしました。真っ赤になり、洋服掛けのほうを食い入るように見つめました。
「先生、どうかなさったんですか? 何があったんです?!」
「紙だ! 紙っきれでいい!」
「ぼく持ってませんよ」
「じゃあ、この店の中のメニューの紙を全部集めてくれ! すぐにだ!」
そういうが早いか、もう鉛筆で五線を引き、そのなかに音符の頭を書き込んでいました。彼は嵐のなかででもあるように上半身を前にかがめていました。しばらくすると彼のまわりにはスケッチの紙がうずたかく積まれていました。音楽がドヴォルザークの全身を揺さぶってわれ先にとあふれ出てきます、そして足は床を踏みつけながらリズムを取っています。声は、個々の楽器の音に似せた音を出し、左手はドヴォルザークの想像のなかにあるオーケストラに向かってタクトを振っています。
巨匠の行為は彼の意識のなかからまったく消えてしまった周囲の人々には気の触れた人のように見えたに違いありません。もう店を閉めるからと注意をうながしに来たさかばの主人にたいしても、不機嫌に「ねえ、君、いまはちょっと邪魔をせんでくれ。ちょうどシンフォニーが出来上がりそうなんだ」
もう、ほかのことはどうでもよかったのです。たとえ地球が逆に回りはじめたとしても、音楽が湧き出してくるのならば……。
黒人のメロディーが非常に霊感に富んでいるという宣言は、「ニューヨーク・ヘラルド」の紙上で大きな論争を引き起こしました。マダム・サーバーはドヴォルザークのところに不安そうに、紙上に掲載された反論を持ってきました。たとえば次のようなものです。
「アメリカのオリジナルな音楽は、ドヴォルザーク氏の見解によれば、アメリカの原住民から出てくるものだそうである。そうなると、さしづめ、インディアンからということになる……。しかしながら、彼らインディアンの文化、とくに音楽は、もはや過去の遺産にしかすぎない。アメリカはインディアンの文化を受け継がなかった。同じく、ごく少数民族を形成するに過ぎない黒人たちにしてもが、音楽的に原始的段階から抜け出していない。全アメリカの精神を代表するなどとんでもない話である。したがってドヴォルザークの視線は狭いといえる」 もちろん、ここでヒューネカー教授に一言ないはずはありませんでした。
ドヴォルザークは言いました。
「あの黒人の音楽に触れるには、ほんの一歩踏み出せばいいのです。大事なのはその一歩です。彼らはそれを認めるのがこわいだけなのですよ」
指揮者のザイドルでさえ『アメリカン・レビュー』誌で「ドヴォルザークの考えには同意できない」と述べていました。
「ザイドルさんまでが疑っているんですか?」 ドヴォルザークは笑いました。そして面白そうにつけ加えました。「わたしはどうやら、みなさん方の頭を混乱させたようですね」
しかし、音楽院長は注意をうながしました。
「あなたへの異議のなかにも、ある程度の真実があることは否定できませんわよ」
ドヴォルザークはそれにたいして、「わたしはある道筋を示しておきました。彼らにそれが信じられないのなら、まあ、別の道を行くことですね」
「でも、先生、あなたはこれらの非難に反論されないのですか?」
そこでドヴォルザークはピアノの前にすわり、自分の証拠書類をマダム・アーバーに示しました。彼は自分のシンフォニーの一部分を弾き始めました。すると学院長はドヴォルザークの肩越しにそのスコアを食い入るように見つめました。ドヴォルザークのピアノによって表現される美しさは、フル編成のオーケストラに演奏される充実感と華麗さのなかに彼女を包み込んでしまいました。最後にはとうとうドヴォルザークのおでこにキスをしました。するとドヴォルザークはぼそぼそと聞き取りにくい声でつぶやきました。
「じゃあ、もしこれがうまくいったら、黒人の生徒も音楽院としては受け入れることになりますね」
マダム・サーバーはうっとりとしてうなずきました。「そうだわ、新聞にそのこと、発表しましょう」
やがて、ドヴォルザークが作曲に取りかかるや、彼はもはや休むことを知りませんでした。もっと正確に言うなら、毎日、ただひたすらここに、ハンガリー産のワインを出すレストランへ飛んでいったのです。ここに足しげく通う理由はもう一つありました。ここに来ると、指揮者のアントン・ザイドルと会えるからです。彼は音楽院の同僚で、指揮法を教えていました。しかし何よりも――二人でプラハの思い出を語り合うことができたからです。そして、やがてワーグナーについて激論を交わしはじめます。それというのも、ドヴォルザークはもちろんワーグナーの音楽を非常に愛していました。しかしあのワーグナーのゲルマン神話にはまったく我慢がならなかったのです。それに加えて、神についても議論しました。何故なら、ザイドルは教養のある無信心者でしたから、たえずドヴォルザークにチクチリ、チクリト皮肉を言うのです。そして議論は決まってドヴォルザークの「きっと、いまにバチが当たるからな」という叫び声で終わり、コートを引っつかむと、家へ逃走するのです。そして家に帰ってはじめてアンナが真っ先に、ドヴォルザークが大男ザイドルのコートと間違えて、かかとまで届くようなコートを着て帰ってきたことに気がつくのです……。もちろん、ドヴォルザークは翌日、またザイドルと会うのです。
「もし、ザイドルがここにいなかったら、多分、わたしは退屈で退屈でどうしようもなかっただろうよ!」
もちろん、いいことばかりではありませんでした。シンフォニーの作曲が進んでくると、ドヴォルザークはオーケストラ・スコアを誰かに盗まれるんじゃないか、盗んで火にくべられるんじゃないかと心配になりだしたのです。それでアンナのスカーフを借りて、そのなかにスコアをくるんで、いたるところに持ち歩き、いたるところに置き忘れてきました……。
そんなわけでアンナは、夫を音楽院の食堂で食事をさせるからいけないんだ、家で料理をして、夫の一番の好物の料理を作ってあげようと決心したのです。こうしてドヴォルザークのためにスープをつくり、プラムの入ったクネッドリーク(輪切りにしたチェコ風のだんご料理)、玉ねぎ入りスープつきのビーフ・カツレツなどを料理して出したのです……。 なんだ、たいしたことじゃないじゃないかとお思いですか? でもねえ、思ってもみてくださいよ――ドヴォルザークが大好物の料理の匂いをたっぷり嗅ぎながら作曲したんですよ。そしたら、その香りが彼の体のなかで変化して、あんな素晴らしいメロディーになったんだと思いませんか? 天才の場合はね、どんなことだって大切なんですよ。食事がどんなに楽しいか、それに、もしかしたら、奥さんが髪にどんなリボンをつけているかだって重要なことなんですよ。
いま、シンフォニーを作曲している最中に、かつて一度患ったことのあるアゴラフォビア、つまり広場恐怖症という病気が再発してきたのです。だから広場を独りで渡ることさえできなくなったのです。なにか広場が大きな口をあけた奈落のように思われるのですね。ですから生徒たちが先生と一緒に渡らなければだめなのです。
ドヴォルザークは彼らにスコアを開いて見せます。「天才がおのれの天才を証明するためには、あるとき、ふと浮かぶたった一つの秘密の音だけでいいのだよ」
学生たちはスコアのなかのどこにそれがあるかを探しまわります。
「先生、どれが、その神秘な音なのですか?」
すると先生は大きく腕を開いて、言うのです。
「ほうらね、まさに、それゆえに秘密なのだよ! だれも尋ねなければ、わたしにはわかる。いったいどうやってそれを説明したらいいのかわたしにもわからないんだよ」
そして申し訳なさそうに言葉を加えます。
「そもそも、どうしてわたしたちは何もかも理解しなければならないんだ? 日の出はわたしたちを魅惑する。だからといって、わたしたちは日の出の太陽の美しさを理解しているといえるかな? わたしたちは確かに、自分でも意識していないのに、いろんなことをしている。わたしたちは酸素が発見される前から、呼吸をしていたじゃないか。心臓は人間の脳が思いもつかないような存在理由をもっている」
言葉は話の途中で途切れました。それはまるで彼の魂がはるかかなたの天空上の軌道に沿って飛び立ったかのようでした。でも、そのころには生徒たちも、畏敬の念とともにその場を後にしていました。
シンフォニーはきわめて短期間に完成しました。ドヴォルザークがそのシンフォニーの作曲にかかったのが一月でした。それが五月二十四日にはもう完成していたのです。別の言い方をすれば、このシンフォニーは、ドヴォルザークがアメリカ大陸内陸部に向けて旅立つよりもずっと前のニューヨーク滞在中に全部書き上げられていたということを意味します。ですから、あとになっていろんな人がこのシンフォニーをコロラドの峡谷だとか、テキサスの砂漠だとか、北部の草原とか、祖国への郷愁だとかに結びつける解釈は、すべて天才を崇拝するあまりの願望です。だって、ドヴォルザークはアメリカでの生活をはじめたばかりなのですから、郷愁を覚える理由がありません。とりあえずはニューヨークだけしか知らなかったのです。
日曜日に日が照っているかぎり、ドヴォルザークはほとんどのニューヨーク人と同様に大西洋岸のコニ―・アイランドに出かけました。そこまではニッケル硬貨一枚で高架鉄道が彼らを目的地まで運びました。そして、ここにはいろんな娯楽施設(アトラクション)がありました。飛び込み台、巨大なジェットコースター、射的場、象の形をしたレストラン、キャンディーと貝殻の皿を買いました。そしてベンチにすわり、バージニア葉巻をくゆらせながら、「今日はヴィソカーの山の上から風が吹き降ろしているだろうな」と、もの思いにふけりました。
ドヴォルザークがシンフォニーを完成するのとほぼ同時に、学年のおわりもに近づいてきました。彼は休暇にはどこに行こうかと考えはじめました。もともとは祖国、チェコに帰るプランも会うには会ったのです。でも、走行するうちに、マダム・サーバーがニューヨークから北のほうにあるキャッツキル山の別荘に家族全員を招待するという案をもってやってきたのです。そこは金持ちや銀行家などの別荘のあるところです。
しかしドヴォルザークはあまり気が進みませんでした。何故なら、そうなったら、食事のときにはいつも正装でなければならないし、のべつくまなく英語をしゃべっていなければならないことがわかっていたからです。それにまた、同僚のザイドルからもいろんなことを聞かされました。
「君はアメリカに来たんだから、アメリカを旅行してまわらなきゃだめだよ。大峡谷を見る。世界的な博覧会のあるシカゴへも見に行くべきだ」と。
ドヴォルザークがいちばんいろいろと質問したのは助手のコヴァジークでした。彼については、スピルヴィルという遠くの村の出身であるということを知っていました。それにまた、この村に最初に住み着いたのはチェコ人であるということも聞きました。ソビエスラフスコとヴォドニャンスコの出身者たちだということでした……。
そんなわけで、最後には、子供たちもアメリカに呼び、一家そろってスピルヴィルに行こう、そしてそこで夏休みを過ごそうと決心したのです。
企画、シナリオ
ズデニェク・マーラー
このプログラムのなかで用いられた音楽作品
ANTONIN DVORAK
Stabat Mater
Te deum
Slovanske tance(スラブ舞曲)VII a X
Americky prapor(アメリカ国旗)
Karneval
Symfonie c.7 D moll, Scherzo
Symfonie c.8 G dur, Adagio
Ceska suita, op.39
Muj domov
Kvintet Es Dur
Violoncellovy koncert H moll
Rusalka
Hospin jest muj pastyr
Syfonie c.9 "ZNOveho sveta"
LUDWIG VAN BEETHOVEN
Sonata D Dur "Pastoralni"
WOLFGANG AMADEUS MOZART
Don Giovanni
JOHN SOUSA
Stars and stripes
ご協力に感謝します。
スピルヴィル同郷人コミュニティー
ズロニツェ・アントニーン・ドヴォルザーク記念館
ヴィソカー・ウプシブラニエ・アントニーン・ドヴォルザーク記念館
チェコ・フィルハーモニー
アントニーン・ドヴォルザークの友人会
チェコ音楽博物館
協力者:
スヴァトプルク・カーラ
ミラン・ジマ
ジャン・トリネル
オルドジフ・ハヴェルカ
イジー・ズナメナーチェク
イジー・クラティナ
ミラン・ヴィエットロヴェッツ
ヤクプ・ヴォヴェス
センタ・ミルデオヴァー
および
技術・証明スタジオ KH5
音楽協力
スタニスラフ・ヴァニェク
建築技術
ヤン・スカルピーシェク
監督助手
アンドレア・マホヴァー
監督代理
マルツェラ・ティーツォヴァー
音響
ミロスラフ・フジェベイク
制作主任
フランティシェク・カロフ
編集
ボリス・マヒトカ
演出
ズデニェク・ティッツ
チェストミーラ・コペツキ―の創造集団
copyright
CESKA TELEVIZE 1998