ゴチックのフェミニズム

   ゴチックのフェミニズム(女性レヴュー)   1908-04



 ある歴史時代のより深い心理学的説明をどこかに求めようとするなら、そえは芸術の領域をおいてほかにはあるまいと思われる。つまり、芸術は何にもまして感情的であるから、その時代の風潮や倫理をもっとも直接的に通訳するからである。もし、過去のある発展の方向を理解したいと思うなら、芸術創造の伝統の中に豊かな相互関係を見つけなければならない。古代のエロティシズムと原始キリスト教の乾いた精神のあと、女性の文化的発展がどのようになったかに興味を持つなら、何よりもゴチックがあなたを引きつけるだろう。ゴシックが女性史の中ではかなり特殊な、だが非常に美的な典型となっている
。 の中での古代の無責任な意見は、次の、華麗で愛らしく、てらいのない詩句の中に十分捉えられている。

 君がもし、教養があるなら
 君の才能の高貴なる贈物にたいして愛がふさわしい
 君がもし、無学なら
 君はその素朴さで、愛を掻き立てるがいい
                        Ovid: 『愛の手管』


 もともと古代の造形芸術はやわらかな肢体や美しく過ごされる瞬間の創造のみを呼び覚ますよう努め、女性の肉体にのみ関心を集中した。
 原始キリスト教――殉教の心理学的異常性を別とすれば――は女性を見ることを好まなかったし、冷淡だった。そのことは、ほとんど知られていない狂信者ペトロ・デ・サンクト・ガッロの奇妙な思索の中に見られるとおりである。

 Et vois,feminae, disit Dominus, ut liberos gigneretis: sed ne id quidem necesse est. しかして、汝、女たちよ、と神は言った。子供を産むがよい。しかし、それとても必ずしも必要とはせず。

だが、それにもかかわらず、いみじくも、みじめな感情的時代、北方の野蛮人たちの健康で強靭な血によって多産となった時代こそがゴシック精神を生むことができたのである。
 ゴシックのフェミニズムは、教会が生じたその時代のロマンチックな様式として特徴づけることはできない。むしろ、私たちはその中に二つの極への感情的努力の分裂を見る。つまり聖女マリア的高貴な女性もティーヴへ帰結する秘密への傾向性をもつ宗教的高揚と、騎士道的感情の充実から出て、われわれが今日驚嘆せざるを得ないほどの純粋な詩的性格を生み出した、かのエロティックな興奮へと開花した騎士道的精神のロマネスクの炎とである。それと並んで、もちろん市民家庭のフェミニズムの性格もここに指摘できる。
 これらのすべてのタイプの中で、まだ新鮮で、歪められていない若い高貴さと健康な血によって呼び覚まされた女性に対する熱烈な努力がはっきり現れている。まったく当然のことだが、この、かくも強烈な努力は人類発展の中の抒情的間奏曲という高度にロマンチックなムードをゴシックに付加したところの、詩化された形式に関心を抱いた。女性は、まず、第一にゴシック的ムードの産みの親であり、私たちが語ろうとする芸術の刺激要因である。

 ゴシック芸術は女性を見るときに持つ諸々の感情を私たちのために、ちゃんと記録している。最もすぐれた芸術家は膝を屈して仕えている。善意とやさしさの真の所有者であったフベルト・ヴァン・ダイクは不かい尊敬と、きっと、家庭的な感情をもってマリアを描いた。しかし、フゴン・ヴァン・デル・ゴエスの絵の中には夢見る、哀調をおびた吟遊詩人の女性賛美的性格が現われる。つまり中世の吟遊詩人たちは繊細な感情と節度ある敬意を抱いて、しかも祈りでもするかのように組み合わせた神経質な手と、胸を前方に突きだして、これらの魅力的な母性に接している。そしてまたほっそりした青白い横顔の女性の透明なやさしさの前に、男性の力と情熱が屈しているのだ。
 ステファン・ロクネルのマドンナは、その心底からの素朴さと、市民の娘の顔を染めた清純さで感動的でさえある。彼女のふっくらとした腕は特に子供を優しく世話できるだろう。垂直な細い肩、俯いた目をした彼女は優しい妻の理想像であり、彼女が望まずとも神聖なる母となるべく完全に運命づけられている。
 同型的で静かな夢想家ハンス・メムリンクは彼のマドンナたちの中に、この中世を離れて悲しくもまた厭世的な夢を追う、血の気のないメランコリックな表情の、病的なまでにデリケートな魔法を注ぎ込んだ。つまり宗教的感情の深みにおいて回転された女性に対する繊細な憧れ、肉欲も情熱もない愛の無限の優しさ、それこそが彼の女性憧憬の芸術において私たちを感動させるものなのだ。
さらに記憶に値するものは、未来の「花婿」懐胎告知を受ける敬虔な、羞恥をあらわにしたションガウエルの賢明な中年女マリア像である。それに画匠聖バルトロメイの驚くべき女性たちだ。彼女らの薄い唇は空しく、スフィンクスのような半ば円く半ばはにかんだような微笑をおごそかさの裏に、祈りの陰に隠しながらかみ殺している。

ご覧の通り、主にマリアだ。画家たちは自分のエロチィックな内心をマリアの上に仮託しているのだ。あの敬虔なる謙虚と優しい情熱は甘い抱擁のために開かれた両腕と同時に驚きの身振りによって如実に物語られている。このジェスチャーは文学作品の中にも忠実にきわめて明瞭に反復されている。
エロスの神はゴシックにおいていろいろな成人に急変化した。それらは禁欲的キリスト教徒たちの信仰心を絶対的な、ほとんど抽象的ともいえる聖母マリアの衣装をまとわされた女性的象徴にまで崇め奉られた幻覚的願望によって高揚させるものだった。愛のヴィーナスは神なる母と呼ばれ、慈愛に満ちた、非世俗的愛人となり、彼女に対してアシシの夢想家とスソは己の熱烈なる憧憬の祈りを、かの幻覚的な愛の告白を、また、かくも美しく神秘的フェミニズムと宗教における女性らしさの領域を表現し、さらに呪物崇拝(フェティシズム)にまで進んだ。

(O Salvatrix munndi, noblis, quia Mulier,amans, quia Mater, amata Virgo)
世界の救済者よ、高貴なるは女、愛するは母、愛されるは処女


それとも、ゼイエルの純粋にふぇみにスティックな作品『処女マリアの庭』Zahrada mari?nsk?を思い出してみようではないか。
ゴシックのもう一方の極は騎士道であり、さらに豊かに浸透した女性のアイドル化だった。女性とは、つまり貴婦人のことであり領主夫人であった。その優雅な優越性に対して、流血をも恐れぬ頑強な男たちが謙虚な恭順をもって屈服した。自負心の権化ギリシャ人タンダリアーシュは青白き王女から足の茎で撃たれるのをじっと耐えたし、彼の奴隷フロリべレは主人にたいする献身の感動的なタイプだった。
(おお、高貴なる愛人よ、お前はなんと力強いことか。それに比べ私はなんと意気地なしなのか。まるで意志を持たぬもののようだ)

 本来、ミンネジンガーという興味深い現象は、男が性的に強い能力を持ちながら、女性を一層強く崇拝できるように、また、彼のフェミニズムの儀式の祭壇に聖なる訪問にい依って行う口づけがより一層甘美なものとなるように、女性を理想の玉座にまで高めるということによって説明できる。女性に対する愛や尊敬が至らしめるところの、そして、ほとんど精神病的女性崇拝とも言えそうな、この不可解な騎士道は途方もなく興味深い。 次の問題として、女性的なものにたいする当時の考え方を検討するというのもきわめて価値がある。女性は優位にあった。男よりもはるかに高いところに立っていた。彼女の社会的地位は最高位であり、彼女の道徳的地位によって愛に値するものであった。女性には絶対的に感情の王国が付与された。

(男の精神は頭に宿り、女の精神は心臓に宿る)

女性の原理とはひとえに美しく、デリケートで、純潔であること。言うならば愛するに値するものだということだった。男は彼女の中に、自らのエロティックな偶像以上のものを期待しようとし、求めようともしなかった。そして女性は、彼らに、それを与えることができた。ゴシックにおけるように(感情的側面において)道徳的に美化され、尊敬された女性の格も完璧な開花を他のいかなる時代にも見出すことができない。ゴシックの女性はこのような女性らしさの頂点であり、典型だった。
(ここで言っておく必要があるのは、この結論は芸術の中に再現されたゴシックの理念から引き出されたものであり、現実の生活からではないということだ)
一定の結論を総括させていただくなら、ゴシックにおける女性の優位は、女性の性的支配に基づいてのみ感情の余白の中にありえたのである。性的情熱の領域では、愛は常に女性を膝まづいてあがめる男の上位に立たせたし、神格化さえもした。
女性が意図も易々と絶対的勝利を納めうる戦場はここである。