舞台監督の視点 (2) ある裏方の死――ピーターパン過労死労災裁定の問題点――




T 舞台株式会社&nbspの大道具係山川定義さんが「心筋梗塞」で亡くなられた。山川さんは新宿コマ劇場の大道具操作係として、かの有名な『ピーターパン』のフライング(俳優を空中に吊り上げる仕掛け)を受けもっておられたベテランの大道具さんだった。山川さんの死亡後に書かれた「榊原記念クリニック」のH医師 (生前の山川さんを診察して「労作性狭心症」の診断を下された方) のかかれた診断書によると死因は「過労によるものと考えられる」とある。この診断書の日付は平成元年12月20日となっており、山川さんの死が同年7月25日早朝であることから察すると。浜本医師の診断書は、その後、求めに応じて診察カルテの記録に基づいて書かれたものと思われる。
私の手元には資料として、この診断書のほかに新宿労働基準監督署に宛てた「意見書」の(1)と(2)、『山川労災認定闘争の経過と現状』(T舞台労働組合/T舞台労組支援共闘会議・1993年4月22日)、『週刊朝日』昭和56年8月14日号『ピーターパンで榊原郁恵を空中遊泳させた世界の飛ばし屋ピーター・フォイのテクニック』などのコピーがあり、これらの資料によって山川さんが死亡されるにいたるまでの事情を一通り知ることができる。


それによると、山川さんは昭和22年生れで被災当時42歳。20歳のときにT舞台株式会社に劇場の大道具操作係として就職して以来、宝塚劇場、芸術座をへて、昭和52年から新宿コマ劇場で仕事をしておられた。とくに、新宿コマ劇場の『ピーターパン』ではフライングの担当者として昭和56年(34歳)以来この仕事に携わってこられた。この仕掛けはピーター・フォイ氏の考案になるもので、二人のスタッフによって操作される。その仕掛けの概略は昭和56年8月14日号の「週刊朝日」に上記の表題で紹介されているが、ちなみに、その記事のなかには山川さんも登場する。
「大変なのは郁恵ちゃんを動かす二本の綱の引き手。一人はフォイ氏が連れてきたが、もう一方のを担当するT舞台の山川定義さんには『病気してもケガしても絶対に休むな!』の声が飛ぶほどだった」とある。
このように山川さんは郁恵ちゃん飛ばしの技術者として裏方には珍しく脚光をあびることになったのである。だが当時、34歳という若さでこなしてきた「人間飛ばし」の重労働も年齢を重ねるにつれて、本人が意識するとしないとにかかわらず、だんだんと肉体的に負担になってきたようだ。こうして八年のあいだに少しずつ蓄積されていた疲労が、ついに平成元年7月(42歳)に「労作性狭心症」という決定的な形になって現われたのである。


ところが、このような病気の診断をうけたあとも山川さんの勤務ぶりはいささかもゆるまなかった。「労作性狭心症」というその決定的な診断を受けた7月20日、山川さんはその足で「東京ディズニーランドに出かけて『フライング』作業の指導および点検をおこない」帰宅は「翌21日午前一時ごろ」であったという。
7月21日は夏期休暇、一日自宅で休息。買い物に出かけて途中で発作、ニトロ服用で五分くらいでおさまる。
7月22日、八月の夏休み「ピーターパン」の公演準備リハーサルが始まるため通常どうり出勤。同日の昼夜公演につき、公演終了後に『フライング』作業のリハーサルを行った。勤務時間は朝11時2分から23時20分退勤まで。フライング・リハーサルは23時まで。
7月24日は通常出勤。昼夜の公演につき、終演後フライングの準備、打ち合わせ、21時半から0時30分までフライング稽古、ミーティング、入浴(風呂桶には入らず)、食事をしたあとタクシーで帰宅。
7月25日早朝4時30分ごろ帰宅して就寝。4時45分頃発作救急車で「総合高津中央病院」にはこばれたが、同日7時10分に『心筋梗塞で死亡した。
以上が「労作性狭心症」の決定的診断を受けたあと、「心筋梗塞」で亡くなるまでの山川さんの勤務状況である。


もちろん、このように症状が急激に悪化するにはその前提がある。山川さんは昭和62年(40歳、『ピーターパン』七回目)ごろから体力の限界を感じてか自分からフライングの担当はやめたいと奥さんにもらしていた「意見書」(2)との山川夫人の手記にある。
たしかに40歳という年齢はにんげんにとっていろんな意味での転換点なのかもしれない。おそらく、山川さんはこの時点で少なくともフライングのような力仕事は若い世代の大道具さんに引き継ぐべきだったのだ。
しかしそうはならずに山川さんは自分でもコマ劇場のフライングを担当しながら、その一方で東京ディズニーランドにフライング担当者の指導のため出向もしていたのである。また公休日にも一ヶ月に二回くらいは東京ディズニーランドの補修点検に出かけていた。また「通常勤務をおえて帰宅後電話で呼び出され」深夜、ディズニーランドに出向くことも何度かあったそうである。
このように、自分の健康がかなり危険な状態にあるということを知りながら、山川さんはかなりハードに仕事を続けていた。なぜか? なぜなら仕事は職場でのその人の存在証明なのだから。とくに特殊技能となるとそれは生きがいである。それは自負でもあっただろう。誇りでもあっただろう。だから、自分からその持ち場を他人にゆずるということは、やはり、つらいし、さびしいし、何よりも耐えがたいことだっただろう。自分の持ち場を人にゆずらなければならないということは、職場での自分の存在理由をなくさないまでも、軽くすることにはなるだろうし、自分から自分の持ち場の放棄を口にするのは、一種の「敵前逃亡」のコンプレックスを意識せざるをえないだろう。過労死で倒れる人たちの多くの意識の底に、かつての「日本陸軍の突撃精神」が依然としてくすぶっていなかったと果たして言い切れるだろうか? だから、何らかの理由で自分の持ち場を放棄した人は、きっとある種の疎外感を覚えるだろう。それは、たとえば、定年を間近にして窓際に追いやられた人の悲哀とおなじものであるにちがいない。
山川さんはそんな悲哀に絶えるには、まだ若かった。年齢的には働き盛りである。しかし健康状態はもはやそのような意地を許さないところまで来ていたのだ。
そして平成元年4月の『SFX=OZ』の公演でもフライングを担当したが「初日前後から精神的にも肉体的にも弱っていたようで」、帰宅してからも「疲れる疲れるといいだし、横になることが多く」なったと山川夫人は記している(「意見書」2)。
しかもこの公演で3月24日から5月6日までの44日間、一日の休日もない連続勤務であった上に、仕事は単なる大道具関係機構の操作ではなく、フライングという人命を、つまりタレント俳優の命をあずかる心身ともに緊張を強いられる仕事であったのである。


このように見てくると、私たち舞台裏の仕事の経験者ならこれらの経過を読んだだけで、残念ながら山川さんは「過労」によって体調をくずし、そのしわよせが心臓に集中することになり、その結果、痛ましい死となったということが理解される。
ただ、このような労災問題の認定にさいしてむずかしいのは「もし」との比較である。「もし」これが山川さんでなくてX氏だったらこういうことにはならなかった。こうなったのは「山川さんにこうなるべき肉体的欠陥が先天的にあったからだ」という論理である。しかも、これは絶対に実証できない。あくまで「推論」である。
しかし、たとえ「もし理論」によっていかなる「推論」がなされようとも、山川さんの直接の引金になったのが平成元年四月をあいだにはさんだ44日間の連続公演と、その後のやはり過重な勤務状態であったことは否定できない。とくに同年7月20日に「労作性狭心症」との診断をうけてからの勤務状態を見ると、とくにそのことが言える。


そこで、どうしても疑問になるのは、こういう早急に安静治療を必要とする「社員」の健康状態をチェックする機能は、この会社では一体どうなっているのかということである。たとえば、先に資料としてあげたT舞台労組の文書『山川労災認定闘争の経過と現状』のなかには次のような証言がある。
それによると「山川さんの死はT舞台においては決して特殊なケースではありません。その前後にも過労が原因と思われる在職死亡が続いており、仕事中の労災事故も多発しています」というのである。
これは恐ろしい。本当なのだろうか? もし本当なら山川さんの悲劇を職場においてこれ以上くり返さないためにも、この発言の署名者はこの事実をデータによって証明する義務がある。なぜなら、そのような非人間的な労働環境が放置されていていいはずはないからだ。
つまり労災問題において一番大切なことは、より有利な、より多額な保証を得ることではなく、なによりも労災事故を起こさないことだからである。


たしかに、このような「芸能の現場」に目を向けると、いろんなジャンルで、ほとんどの関係者が過労状態で仕事をしているのではないかという状況が思いやられる。だからテレビの領域からも映画からも演劇からも事故がしばしば報告されている。その原因がどこにあるのか一概には言えないだろうが、その原因の一つに関係者の過労(過重なスケジュール)といったものが何らかの意味で関与しているということは否定できないのではあるまいか。
過労はあらゆる事故の原因となる集中力の散漫をまねく。過労による障害事故、過労による死亡。その認定はむずかしい。なぜなら人間には一人一人絶えられる限度がことなるからだ。だから過労で亡くなった人に他の人の「過労の尺度」を一律に当てはめるのは間違いである。
もともと人間の体はバネのようなものだ。バネには大きいものも小さいものも、強いものも弱いものもある。それにどんな強いバネにも限界がある。だからそれらのバネが能力の範囲内で適切に使用されるかぎりバネは何度でも復元する。しかし一度でも限度を超えて引き伸ばされたら、そのバネはもはや元にはもどらない。だからその人が耐えられる限界のなかで「ドクター・ストップ」をかけられなかったのは、やはり会社側の労務(人間)管理に落ち度があったと言わざるをえない。
そして、さらに疑問は続く。
「労作性狭心症」の診断をくだした医師はなぜもっと厳しく患者に患者自身の症状の緊迫性を告知しなかったのか?
周囲の仲間はなぜもっと強く、少なくともフライングだけは交代するようにと説得しなかったのか?
労働組合はなぜもっと以前に状況を把握し、組織的に対処しなかったのか?
会社(T舞台)はなぜ労災を認めないのか?!
それにしてもT舞台N社長(現会長)の「何が過労死だと思われる、ふざけるな!」(前記、労組文書)という発言はやはり非人間的である。
少なくともここでは、妻も子もあるひとりの人間の死という厳粛な事実が問題になっているのだから――。



<*この過労死問題は第二回目の審判で労働基準局により労災と認定された。>


[初出] 芸団協 1994.3/No.254.