舞台監督の部屋


[報告] 舞台監督の視点 ===ある舞台事故の場合(2)==



 昭和48年6月、舞台事故が起こった。
   某タレントが舞台のセリ(迫り)から転落し重傷を負ったのである。そして、その損害賠償請求訴訟の一審判決が提訴以来十年を経て、昭和60年10月にやっと下りた。結果は原告のほぼ全面勝訴となり、被告の四者、つまり、女性歌手およびそのG・Aプロダクション、会場の所有者K市、この公演の企画を請負ったH興行社のいずれもが賠償責任あり認定され、7千万円の賠償金を支払うようにと判決された

(1)事故にいたるまでの経過
(2)事故の責任−−裁判官の認定
(2)―1 K市の責任
(2)―2 歌手Yの責任
(2)―3 H興行社の責任
(2)―4 被告らの行為の関連

(3)この判決の問題点----舞台監督の視点から

(4)事故は何故起こったか?



(5)退けられた証言



 ◇ 舞台監督の第一の推理

   では、何故この四回目のセリ操作には、そのチェック機能が働かなかったのだろうか? 
   私はこの裁判記録のなかにきわめて興味ある原告X氏の証言を発見した。だが、この証言は会館側からも否定され、裁判官からも却下された。
   それにもかかわらず、私はこの証言は真実であるように思われる。そしてこの証言をもとにこの事故を見なおすと、この事故の輪郭がある種の整合性をもって浮かび上がってくるのである。
   以下に述べる私の推理は、権威ある裁判において否定された証言に基づくものであるから、単なるフィクションだと思って読んでいただきたい。


   原告X氏の証言によると、先に述べた、歌手Yの見習いマネジャー小池と原告X氏との打合せ<小池がその内容を会館側へ伝えなかったとして罰金刑を言い渡された>と前後して、会館職員石井が「原告の控室を訪れ、原告に対して出演中に本件セリを使用するので、そのセリ下げ時機の要望を訊ねた。そこで原告は石井に対して小池に述べたのと同様に、三曲目唄った後に花束贈呈があり、その後でハンドマイクに切り替えて『月の砂漠』を歌うので、『月の砂漠が』が始まってからセリを下げてほしいと述べ、石井はこれを了承した」というのである。
   ただし、この証言の事実を、原告x氏は事件の六年後の昭和54年(1979年)11月に行われた現場検証のときに、事故後初めて現場に立ち、当時と同じ状況において石井と対面して思い出した。そして実際に法廷で証言されるのは事件発生後10年を経た昭和60年1月、判決の出る9ヶ月前だったのである。
   そして思い出された記憶に基づいて原告タレントXは、当日セリ下げのキューを操作盤に出したのは石井ではなく、谷沢であろうと推理している。
   この証言は裁判において退けられた。その理由は、原告本人が見習いマネジャー小池の刑事事件の公判において石井と会ったことがないと明確に否定していること<筆者注・記憶をとりもどす以前だから当然>----記憶をとりもどした後、彼の弁護士にそのことを伝えた点にあいまいな部分があること<筆者注・私の手にした資料からは何を指しているか不明>----原告
X氏のマネジャー<筆者注・原告の実兄>の供述記載にもそれを裏づける記述が全くないこと<マネジャーもまた多忙であるから、タレントの傍らに常にいるとは限らない>----石井<筆者注・会館の舞台係>が小池マネジャー助手の刑事事件公判以来、一貫して原告との接触を否定していること<これを認めることは会館側にとって決して有利ではない。しかも、原告自身が否定していた>。
   また、石井が原告と打合せをしてセリ下げの時機を花束贈呈のあと、四曲目が始めってからと認識していたら、原告の出演直後にセリ下げのキューを出すことは「経験則上」ありえないこと<筆者注・裁判官の論理>などの理由である。だが、これらの根拠はこの重要な証言を否定するものとしては極めて薄弱である。
   私は、むしろ、この原告X氏の証言は真実であるように思われる。
   何故か----。
   私が思うには、この日、舞台裏で最も舞台進行の実務を遂行していたのは、たぶん、石井であったろうと想像されるからである。それというのも、石井とともに舞台の袖でインカムをつけて指図していた係長の谷沢は、石井の上司であり、舞台管理の責任者ということにはなってはいるものの、事務職から横すべりしてきた、舞台経験のあまりない人物だったそうである<よく聞く話だ>。だから名目上、この日のそう責任者は谷沢だったにしても、実質的な進行は石井がおこなっていたという状況が、私には容易に理解されるのである。
   舞台経験の豊富な石井にとって、歌手Yの言うセリ下げは、原告タレントXにとって非常に危険なことは十分わかっているから、十一時を回った頃、会社の式典のはじまるまえ、石井は楽屋に行き、第二部歌謡ショーの出演者を訪ねた。タレントXはまだ来ていなかったが、もう一人の歌手石野おさむはちょうど楽屋にいたので、石井はこの歌手に対して、彼の出演中にもセリの上げ下ろしがあると「周到な注意」を与えた。
   石井は袖に戻る。十一時半、式典がはじまる。式典がはじまれば裏方はしばらく暇になるし、係長もいるkとだからというわけで、再び楽屋を訪ねた。タレントXは到着後、大急ぎで楽団との打合せをおわったところだった。
   石井は言う。「歌手のYさんはXさんがマイクの前に立ったら、すぐセリをおろしてくれって言うんですけど・・・」
   それにたい対してタレントXは「そりゃ、ちょっとヤバイんじゃねのか。オレの、十五分あるんだろう? 終わりのほうでいいんじゃない? さっき、あの人んところのマネジャーにも言っといたんだけど・・・」とかいって、小池に言ったのと同じ内容を告げ、石井はこれを了解する。


   原告タレントXの証言による石井の行動は舞台経験をもつ者として、きわめて自然である。むしろ当然である。だいいち石野おさむには「周到な注意」を与え、タレントXにはまるで注意をしないというほうが不自然ではないか。私の推理はこの打合せはあったという前提に立っている。

   では、何故、このタレントXと石井の打合せと違うところでセリはおりたか----。やはり「経験則上」セリ下げのキューを出したのは石川ではないからであろう。
   判決文のなかから、四回目のセリ下げの状況を述べた個所を引用しよう。
  「石井は、舞台下手袖から舞台を見て、原告がセンターマイクの前に立ち舞台が明るくなったところを確認して、舞台上<筆者注・上手>のセリ担当者の樫山に対しインターホンにより『そろそろおろそうか』といった言葉でセリ下げの合図を」送ったと記されている。
   われわれは何か舞台機構操作上のキッカケ(キュー)を出すとき、「そろそろ下ろそうか」などというキューを出すだろうか? しかも本番中である。たとえそのキューが舞台の進行とタイミング上、厳密な関係にないときでも、このようなキュー出しはしない。つまり、ここから推測されることは、このキュー出しをした人物は舞台経験があまりないということである。
   それからもう一つひっかかるのは、このキューを受けた操作盤係が『警察の捜査段階では、合図を受けた際は谷沢か石井のいずれであるかはっきりしなかった』と述べ、後になって『石井から自分が合図をした旨をきかされ、石井であることがわかった』と証言している点についてである。
   これもおかしい。私はこれらの一連の会館側の証言に明らかな作為を感じる。
   われわれがこのようにチームを組んで仕事をするときには、あrかじめ仕事の分担を決める。とくにキューを出す係は必ず決めておく。しかもその役はある程度の舞台経験を積んだベテランでなくてはならない。誰がキューを出すかを決めておかないことには、誰も出さなかったということにもなりかねないし、またキューというものは生身の舞台上の役者の動きと一体のものであるから、ある程度の経験がないと、とっさの状況の変化に柔軟正確に対応できないからである。<例えば、キッカケのせりふを間違えたり、飛ばしたりする役者もときにはいる。つまり、キューというのは単に機械的なものではないということだ>
   そしてこのキューだしの係が一旦決まったら、何人たりとも----たとえ上司でも----無断で代行することは許されない。これは舞台の仕事の掟である<この係長なる人物が、このような舞台の仕事の基本的約束事に疎かったということは十分考えうる>。これが第一。
   次に、われわれはインターホンでキューのやりとりをする際には、神経を聴覚に集中するのはもちろんだが、実際には視覚の方もはたらかせている。キューを出すとき一番不安なのは、キューを受ける相手がちゃんと待機しているかどうかである。だから、キューを出す前には必ず何らかの方法で相手の存在をたしかめる。
   またキューを受ける側でも、できるかぎりキューを出す相手をたしかめようとする。たとえキューを受けるのが耳であっても、視覚的にとらえられるものなら、キューを出す相手の姿をめでたしかめておこうとする。
   この会館の操作盤の位置は上手袖の最前部、舞台額縁延長壁面に設置されており、操作ボタンを手に当てた姿勢で、十分舞台内部が展望でき、下手でセリ下げキューを出したであろう位置<センターマイクとセリを同時に視野に入れうる位置>はほとんど一直線に見通せるのである。
   そしてさらに、いざキューを出す際には相手のスタンバイを確認するために、必ず相手を呼び出す。「操作盤さん」と呼ぶか、「○○ちゃん」と呼ぶか、「○○」と呼び捨てにするか、それによっても相手を推測することができる。それから操作の準備をうながすために『セリ下げ、用意(スタンバイ)」と声をかけ、そのあと「はい、スタート」という具合にキューを出す。その言葉そのものは人によりことなるかもしれないが、要するに「用意」があって「ドン」である。
   相手を呼び出しもせず、用意のことばもかけずに、いきなり「そろそろ下ろそうか」は絶対にない。あったとしたら、そのキューを出した人は素人である。だから、キューを出した相手が誰だったかわからないということは、ほとんどありえないはずである。
   では、何故、どちらとはっきりわからなかったのか----? それとも言えなかったのか? 言えなかった理由は何か----。ここからも大きな疑惑が生まれてくる。


     ◇舞台監督の第二の推理

   では、もう一つの私の推理を述べてみよう。われわれ自身も舞台袖にいるものとして、歌手Yさんの舞台をみているのである。
   歌手Yが小節をきかせて最後の一節をうたい納める。万雷の拍手。彼女は深々と頭を下げ、客席の拍手に応えると、その頭を半ばたれたまま、視線を客席のほうに残しながらピン・スポットの輪に導かれて下手袖に駆け込んでくる。歌手Yが袖幕の陰に見えなくなると同時にスポットは絞られ、舞台は瞬間、闇となる。
   たった今まで、ピン・スポットの強い光を正面からあびていた歌手Yにとって、舞台裏の薄明かりは闇と同じである。彼女は手さぐりで付人を探す。だが、それまでのんびり構えていた付人も、急にあたりが暗くなったのでまごついてしまった。その上、袖幕の近くには主催者側の役員風の人などが、群がっていて、付人は歌手Yの手を引いたまま、先へ進めずにいる。
   このとき、歌手Yの退場を袖幕の裏で待ち受け、袖幕の介錯をしていた舞台経験豊かな石井は、すばやく袖裏のラッシュをくぐりぬけて、歌手Yと付人を楽屋口のほうへ導いていった。セリ下げのキッカケまでには、まだたっぷり時間がある。タレント研太が三曲うたって、花束贈呈があって、研太が舞台上手に寄り、司会者からマイクを受取り、四曲目の前奏がはじまって下ろせばいいのだから・・・。
   だが、このとき、上司の谷沢の胸のうちに、ある種の功名心がよぎらなかっただろうか。
   いま、石井は、こともあろうに大事なセリ下げのキューだしを前にして持場をはなれたのである----ベテランともあろうものがキュー出しを忘れるなんて・・・。たしか、あのときの打合せではタレント研太が出て、マイクの前に立ったら下ろしてくれと言っていたな。部下の失敗を補うのは上司の役目だ。じゃ、オレが出してやろう。ヨシ・・・。
  「そろそろ下ろそうか----」
   歌手Yを楽屋口まで送って舞台袖までもどってきたとき、石井はすでにセリが下りていようなどとは思いもよらなかった。彼は袖幕の奥からタレント研太が舞台の床に吸い込まれていくのを見て、わが目を疑ったことだろう。そして次の瞬間、事態の重大さに気づき、奈落へ駆け下りていったのである。
   以上が私のフィクションである。次に、このときの状況を判決記録のなかに見てみよう。
  「石井は、舞台下手袖から舞台を見て、原告がセンターマイクの前に立ち舞台が明るくなったところを確認して、舞台上手のセリ操作担当者の樫山に対し、インターホーンにより『そろそろ下ろそうか』といった言葉でセリ下げの合図を送り、樫山は原告がセンターマイクの前に立ち、舞台が明るくなっているのを現認してセリ下げが行われた。このころ原告はセンターマイクの前に立って前口上を述べていたものであり、そのあと『ピンカラトリオの女の道を歌いましょう』と観客に向かって口上を述べ、後方の楽団の指揮者に目で演奏開始の合図を送り、左手を上げて調子をとりつつ二、三歩後退したところ、既に下げられていたセリ穴に転落した。石井は、右合図のあと控室の被告歌手Yにセリ下げを連絡すべく舞台下手から歩き初めたところ、原告が歌を歌うことはなく、従って楽団も使わないと考えていた前記5月28日の打ち合わせの際の認識に反して楽団が鳴り始めたため意外の感を抱き舞台の方を見たところ、原告が転落する一瞬を目撃した。また、谷沢も楽団が使われることを意外と感じ、舞台下手袖から原告が転落するのを目撃して奈落へ走った・・・」<下線筆者>
   下線の部分の石井の動きを注意していただきたい。もし、舞台経験豊かないしいがこのキューを出したのなら、舞台人(あえて言えば、裏方)の生理として、キューを出したばかりの現場からこんなに早く離れることに抵抗を感じるはずである。何故なら、彼は今、舞台の上で演技しているタレントの直ぐ後ろのセリを下げたのである。しかも、彼は歌手の石野おさむには「周到な注意」を与えたほど、セリの危険性を十分認識しているベテランなのである。更に、このタレントXには何らの注意も与えず、打ち合わせもしていないとしたら、なおさらである。
   それに第一、そのような危険な状況をうっちゃって、セリを下げたことを、何故、そんなに急いで歌手Yに報告しなければならないのだろう? 今、舞台の上にいるタレントXの持ち時間は15分もある。たとえ歌手Yを楽屋から奈落のセリまで案内しなければならないとしても、そんなに急いで楽屋に行ったところで歌手Yはまだ衣装換えの真っ最中だろう。十五分近くもの間、楽屋の前で待つ必要がどうしてあるのだ? 
   それに、仮にもし、歌手Yが何らかの理由で、そのセリ下げの報告を急いでほしいと要望し、その報告を石井がしなければならないのだとしたら、仕事分担の常識として、この回のセリ下げのキューはもう一人の会館職員上司の谷沢が受け持つのが自然である。
   それからもう一つ、石野おさむにはセリの危険性について「周到な注意」を与えた石井が、もしそれまでタレントxと会っていなかったとしたら、何故、タレントXが袖で出を待っているときに、「周到な注意」を与えなかったのか、これも不思議である。
   また、原告タレントXの証言によると、タレントXと司会者の吉岡が花束の贈呈、ハンドマイクの受け渡し、その後のセリ下げについての打ち合わせを袖(上手)でしていたとき、会館の職員がそばで聞いていたことが認められるのである。ただし、この証言の目的は、会館の職員も少なくともその時点で話を聞き、打ち合わせ内容を知ったはずであるということの主張にあったのだが、その点に関しては裁判で拒否された。
   しかし、会館職員がこのじてんっでタレントXと接触しえた。つまり、セリのキッカケについて確認しようと思えば、できたということを少なくとも証明している。そうだとしたら、石野おさむには楽屋を訪ねてまで、セリに関して「周到な注意」を与えた石井が、肝心のタレントXにはその「周到な注意」をこの時点でさえもしないというのは不自然である。<たとえ、たれんとXのスタンバイが石井の待機する下手ではなくても、上手の樫山にインターホンで連絡できる>
本番の一週間前に、この四回目のセリ下げに直接関係のある原告タレントX不在のまま決められたキッカケが、いかに不確定な要素に基づいて決められているかは会館職員だって<少なくとも舞台管理のプロであるなら>見抜いていなければならないわけだし、見抜いていたからこそ、その部分には、「タレントX、15分→セリ注意」の暫定的記入しかなかったのである。
   この点に関して「判決理由」のなかの記述によると、この「進行表に四回目のセリ下げ時機を記載しなかったことについて」会館の谷沢及び石井は「それは被告歌手Yとの話に熱中していたためであり、「5分→セリ注意」の記載により、右打ち合わせに出席していた会館関係者は、原告出演後すぐセリを下げるものと理解できる旨一応の説明をしている」のだが、この説明に説得性があるかどうかは読者の皆さんの判断におまかせする。
   では、何故、石井は原告の出演前のこの時点でタレントXとセリ下げの確認をしなかったのであろうか?
   何故なら必要なかったからである。前にも紹介した、裁判で拒否された原告の証言どおり、楽屋でその打ち合わせは済んでいたからだ。そして、原告と司会者との打ち合わせを傍らで聞き、先刻の打合せと変わりのないことを無言で確認すればよかったのである。実際にそばにいたのが操作盤係の樫山であったとしてもおなじである。
   ただ、惜しむらくはこのことを上司の谷沢に伝えるのを怠った。だってこれまでずっと石井が出していたものを、何故に、このときにかぎって谷沢がキューを出すなどと予想できるだろう? <また、別の考え方をすれば、樫山がどちらからキューをもらったのかわからないと証言したのは、予期せぬ時機にキューが来たので、とっさに誰の声だか判断できかねたのだとも解釈できる。さらにつけ加えておくと、歌手Yのもう一人のマネジャーの証言では、会館の石井から「原告出演中の『後半』にセリが下がるので、この旨を被告歌手及び司会者に伝えてくれと頼まれた」というのである。この証言も退けられた>


   それでは、何故、石井がこんなに早くキューを出した場所から離れたと証言する必要があったのだろう? ―それは、離れたことにしなければツジツマの合わないことがあるからである。つまり、石井がタレントXの転落を目撃した場所である。彼はおそらく一ソデ(幕)の奥で目撃した。私のフィクションによる、畠山を楽屋口まで案内して戻ってきたときだ。
   彼はその前の尋問で正直に答えた目撃の場所にいたことを正当化するために、こんなに早い時点で歌手Yにセリ下げを報告に行こうとしたと証言したのであろう。
  「あなたは原告が転落するのを見ましたか?」
  「はい」
  「それはどこからですか?」
  「あなたはセリ下げの合図をしたと言いましたね。合図をした位置はどこですか?」
  「舞台の額縁の裏です」
  「では、一ソデの裏で目撃したというのはおかしいじゃありませんか」
  「いえ、キューを出して、すぐ、歌手Yさんに・・・」
   こういうやりとりがあったかどうかはともかく、彼はキューを出した後、すぐに、歌手Yさんにセリ下げを知らせに行こうとしたと証言しているのである。
   しかし、考えてみるとこの石井の行動には明らかに矛盾がある。
   第一、何故、セリが下りたことを歌手Yに知らせる必要があるのだ? しかもそんなに急いで? 歌手Yにしても、石川からそんな連絡を受ける必要はまったくないではないか。約束どおりコトが進行しているのなら石井の報告がなくてもセリは下りているわけだし、また、奈落にはもう一人の会館職員が待機している。
   要するに、石井は期せずして、ここでもタレントXとの打合せがあったことを暴露してしまったのである。つまり、セリ下げのキューを出した後、歌手Yの楽屋にそのことを伝え、セリまで案内するというのは、タレントXとの打合せどおりタレントXが舞台の上手で司会者からマイクを受取り、楽団の前奏開始でセリのキューを出した場合の石井に予定されていた行動だったのである。
   それならわかるのだ。舞台の上に既に危険な状況はないのだから、あとは上司の谷沢に任せておけばいい。それからなら、楽屋に行って歌手Yを奈落まで案内するというのがタイミング的にもピッタリである。このセリ下げが歌手Yの奈落へのスタンバイのキッカケを意味している。
   石井はあるタイミングのもとでは必然性をもつ行為が、ほんの少しタイミングがずれただけで、なんの必然性ももたなくなるという事実に気づかぬまま、別の条件のもとで予定されていた行動を自白してしまったのである。


  ここまで書いてきて、私は、私のフィクションのなかの石井という人物が気の毒になってきた。彼は自分の舞台経験のなかで多くのショーとつき合ってきたから、場合に応じて、いかに行動すべきかを十分心得ていたのである。おそらくこの「Y歌手ショー」でも彼は彼なりの誠意をつくして職務を遂行していた。彼は再三にわたり楽屋を訪ね、セリのキューの確認をおわるまでは安心できなかった。
  もし、それにもかかわらず石井がこのキューを出したのだとしたら、それは俗に言う、魔がさしたとしか言いようがない。そして歌手Yのマネジャー助手が受けた罰金刑は、この石井が受けるべきものであった。しかし、私には宗は思えない。石井でない人物がキューを出したとしか私には思えないのだ。


  そうは言うものの、進行責任にかんして一方的に、会館がわに責任ありとするのは少々過酷な気がする。先に紹介した会館側の主張にも一半の理はあるのである。つまり、会館側が使用者と打ち合わせをするのは、進行責任を引き受けるためではなく、使用者の希望する会館使用法に危険な個所はないかという点を事前にチェックして舞台進行の安全性をほじすることにある。  進行とは、使用者がその会館(舞台機構)をもちいて表現しようと欲する芸術行為にかかわる問題であるから、それ(進行責任)は本来、使用者側の責任領域に属するものである。だから、進行責任者を置かぬこのショーで、会館側が舞台機構の操作を引き受け、その結果として、直接的に事故に結びつくセリ操作を行ったという点に問題があるのであり、その点では過失責任を問われても仕方がない。  したがって、このショーにおいて会館側が進行の責任を負ったか負わなかったかという問題ではなく、なぜ、進行責任者をおかずにこのショーが行われたかと言う点に、むしろこの事故との関連した責任の追及がなされなくてはならないと考える。
  この点において、この日の第二部歌謡ショーを含む行事を総合的に企画したH興行に責任がないとはおもえない。つまり、H興行社は興行主(プロモーター)、企画者としてのけじめのある役割を果たしていないのである。


    

6・プロモーターの役割

  次に、H興行社の主張を紹介し、その内容を検討してみよう。  歌手Yは、従来、自分のショーの公演を行う場合、その企画、構成、演出、進行のすべてを独断でやり、他人に口出しを許さなかった。したがって、H興行は今回の「Y歌手ショー」の公演を依頼するにあたり、「本件セリの使用時機、方法も含め、ショーの企画、構成、演出のすべてを、被告歌手Yと同歌手所属のG・Aプロダクションの決定にゆだね、同被告らも本件ショーの一切を取り仕切ることを承諾していた」のだから、H興行は今回のセリ使用をふくむ舞台進行に一切関与しておらず、このショーの進行上の責任は、「出演者の生命、安全を守る義務も含めて右被告歌手Y及び同所属G・Aプロダクション両名及び舞台装置の管理責任者としての被告市に帰属していた」し、「このショーの進行責任者の選任監督についての責任も、右被告らに帰属していたものである」から、H興行には「本件セリ使用の時機等を原告に連絡したり、関係者の連絡調整を図る義務はない」と主張する。
  また、このショーは「個々の出演者と別個に出演契約を結んで行う、いわゆる”裸ショー”の寄せ集めではなく、中心となる出演者のショーに他の出演者を組み込んで一体として編成されたショー」であるから、このショーの場合、「ショーの進行の手順等を決めるのはショーの中心となった主演タレント側であり、特別の取り決めのない限りは、プロモーターは直接関与しないのが興行界の慣例であり、実情である」。その証拠として、歌手Y側は直接会館と進行について打合せをしているではないかというのである。
  また、H興行のマネジャー佐藤は、当日、原告タレントXがKエキに到着した時点で、タレントXのステージは「Y歌手ショー」のなかの「十五分の漫談コーナーの出演者であることを告げたところ、原告はこれを了承したのであり、原告の出演が独自性をもたず、『Y歌手ショー』と一体となることを同意した」。しかもタレントXはタレントとして、歌手Yが「自らショーの構成、演出を担当し、プロモーターに意見をさしはさませないやり方」を知っていたのだから、タレントXは自分が「本件ショーに組み込まれた形で出演することを承諾した」以上は、タレントX自身が「舞台上の危険帽子措置を含めた舞台進行に関する一切」を、歌手Yや会館と「その責任において打合せ決定すべき」であった。だからH興行としては、原告タレントXに対しその打合せをするのに「必要にして十分な機会を与えていた」。しかも、H興行の佐藤は「K駅で原告らを出迎えた際に原告に対し、念のために、会館到着後直ちに打合せをするように注意を促した。これによって、現に原告はその主張によっても、会館到着後、被告G・Aプロの池田、被告市(会館)の石川、司会者の吉岡と、セリ下げの時機等について打合せをしており」、さらに、H興行のもう一人のマネジャー木村は「原告が舞台に出る直前、……原告に対し『セリが降りますから気をつけてください』と注意を促し、これに対し原告はうなずいて、充分これを承知している旨の態度を示したと」と主張する。


H興行の主張のポイントは、@ このショーは歌手Y をメインとするパック・ショーであった。A タレントX はこのパック・ショーの単なる一出演者になることを承認したのだから、歌手Y の演出・指揮下に入ったことになり、進行などについてもH興行には口出しをする余地はなかった。だからタレントX はG・Aプロの池田や会館の石井等と打合せをした<この点では、私のフィクションの前提となった石井とタレントX の打合せを認める立場を取っている>。B タレントX 自身、自分の出演中にセリが下がっていることを一応知っていたのだから、セリに落ちた責任は自分にもある<この点ではこの判決も原告タレントX に五分の一の責任を認めている>。主に以上の三点であるようにおもわれる。

  さて、このなかで、私に一番興味があるのは、@ の主張である。この点に関して先にも紹介したH興行のこのショーは「個々の出演者と個別に契約を結んで行う、いわゆる裸ショーの寄せ集め」ではないと言う認識はどうであろうか?現実には歌手Y とタレントX は別個に契約されているのである。石野おさむの契約については、判決文の中では具体的には触れられていないが、これを仮に歌手Y のパックの中に含まれていたものとしても、当時売り出し中のタレントX を単に歌手Y のパックの中に便宜上挿入した従属的な出演者という解釈には問題がある。H興行にはこの点の処理に対する「逃げ」の姿勢が感じられる。
  冒頭に紹介したタレントX の出演の景気を思い出していただきたい。最初、H興行がタレントX と契約したとき、出演時間は二十分だったのに、歌手Y の横槍で十五分に短縮されたのである。目下売出し中のタレントとしては、自己顕示の場を五分間とはいえ、単なる一歌手の意思で短縮されたということが面白いはずがない。この経緯がタレントX の自尊心を傷つけなかったとは言い切れない。そのしこりがタレントX と歌手Y 側とのあいだの意思疎通をさまたげ、セリの正確なきっかけを伝わりにくくしたと言えなくもない。事実、判決記録を読んでも、本番当日の出演前に両者が何らかの形で顔を合わせたという記述には出くわさない。(通常は、共演者は、一応、その公演の座長ないし座頭格に挨拶をするのが慣例)。この辺の心理的なを、総合企画者としてのプロモーター側はどうとらえていたのだろうか? 逆に避けていたのではないかという印象すら受ける。
  常識的に考えれば、その辺のとりなしをするのもプロモーターの役目とおもわれるのだがどうなのだろう。要するに、取り方によっては、H興行としては手におえなかった。したがって、タレントX の出演が「Y 歌手ショー」 のなかの「十五分の漫談コーナー」であることを告げ、原告タレントX もこれを表面上了承したことにより、「原告の出演が独自性をもたず『歌手Y ショー』 と一体になることに同意した」のだときめこみ、「原告はタレントとして、被告歌手Y 主演するショーでは、同被告が自らショーの構成、演出を担当し、プロモーターに意見をさしはさませないやり方をしていたことをかねて知悉 &ltちしつ&gtし ていたから、原告が本件ショーに組み込まれた形で出演主ることを承諾したことにより、舞台上の危険防止の措置を含めた舞台進行に関する一切は、被告歌手Y 、同G・Aプロ、及び管理者である被告市と原告とがその責任において打合せ決定すべきことを十分認識していた」と完全に原告及び他の被告に下駄を預けているのである。
  さらにこの点がH興行からタレントX に明確に伝えられるのは、当日の十二時三十六分着の列車からタレントX がK駅に降り立ったときである。しかも当日の第二部歌謡ショーの開演が午後一時に予定されていた (実際には十分遅れ)ということを考えると、会館に入って楽団と打合せをし、その上、もろもろのうちあわせをするとして、H興行が主張するように、「原告が本件ショーに出演するにつき、被告歌手Y 、被告G・Aプロ側及び被告市と打合せをするのに必要にして十分な機会を与えていた」 とは考えにくい。
  タレントX が会館に入ったのが、H興行側の証言どうりであるなら、それ以後の時間をすべて打合せに費やしたとしても正味に十分そこそこである。これが何で「必要にして十分」な機会といえるだろう。第一部の演芸ショーはすでに進行中なのである。一方、歌手Y は出演準備に追われている (しかも板ツキは奈落のセリである)。
  G・Aプロのチーフ・マネジャー(小池) は照明操作室でライト・キューを出すことになっている。もう一人はまだ見習いマネジャーである。このような状態がいかに「必要ではあるが不十分な機会」であるか、このプロモーターにはまったくわかっていないとしか言いようがない。だからタレントX 、歌手Y の思惑が、もともとどうであったにしろ、H興行は、実際問題として、本番前に両出演者を引き合わせるという最小限の「機会」すら与えていないのである。これで「必要にして十分な機会」を与えたと言えるだろうか?
  さて、問題となるのはH興行の主張する、このショーはいわゆる裸ショーの寄せ集めではなく、「中心となる主演者のショーに他の出演者を組み込んで一体として編成されたショー」 であり&lt:パッケージショーと言い切っていないところはさすがである >、このようなショーの場合には「ショーの進行の手順を決めるのは、ショーの中心となった主演タレント側であり、特別の取り決めのないかぎりは、プロモーターは直接関与しないのが興行界の慣例であり、実情である」という点についてである。
  この主張はきわめて当然である。だが、タレントX の「十五分の漫談コーナー」を含んだ第二部のショーが「一体として編成されたショー」とするのにはH興行側の独断がある。つまりそのための具体的な手続きを踏んでいないということである。H興行は打合せのための「必要にして十分な機会を与えた」と言っているが、それが「必要にして十分な機会」ではなかったことはすでに述べた。もしそう言いたいのなら、H興行は少なくとも本番当日の時点で、歌手Y のリハーサルに間に合うようにタレントX を呼び寄せ、リハーサルに立ちあわさせるべきだったのである。しかも、十二時三十六分茶くの列車で来いという支持は、一体となるショーの主演歌手に何らの了解を取ることもなく、H興行側によって一方的に決められていたのである。
  H興行は原告タレントX の出演部分をもふくめて、企画、構成、演出、進行の一切を歌手Y 側に任せたと言っている。だが、歌手Y がタレントX のために十五分の時間を空けることを了承したことによって、歌手Y がその十五分をも自分の構成、演出、進行の中に含みこむことを承諾したときめてかかるのは思い違いもはなはだしい。
  第一、タレントX の出演部分にまで歌手Y の構成、演出の影響力が及ぶなどということを、タレントX が受け入れるはずがあるまい。現にH興行側も、文字通りそのような言葉では伝えていない。また、歌手YにしてもタレントXの「漫談コーナー」を構成、演出しようなどとは思ってもみないだろう。そのことは歌手YがH興行側との電話で、タレントXの出番をどうしても二十分にするのなら別枠にしてくれ、さもなければ十五分に短縮してほしいという趣旨の意思表示をしていることからもうかがわれる。要するに歌手Yには自分のステージの舞台効果のことしか念頭になかったのである。
  すると、さっきまで一括して用いられていた企画、構成、演出、進行という言葉のなかから進行と言う言葉だけが浮き上がってしまう。もともとこのショーは「一体として編成されたショー」ではないのだから、「そのショーの中心となった主演タレント」の企画、構成、演出の影響力は、タレントX主演の「漫談コーナー」にはおよばない。とすると、この「漫談コーナー」に主演タレント(歌手)の進行だけが及ぶとする理論は成り立たない。つまり、二部構成の「歌手Y ショー」の間に」はさまった独立の「タレントXショー」と見るのが妥当である。
  また、この見方を裏付けるH興行側の行為が判決記録のなかに見いだされる。すなわち、H興行のマネジャー佐藤はタレントX の控室を訪れ、「原告の出演中に、当日たまたま本件会館に来あわせていたタレントの”T・K ボンド”を< 客席から >引き出してほしい」と依頼しているのである。
  この行為は明らかにこのショーの演出にかかわる行為である。なぜなら、T・K ボンドという人気タレントが一枚くわわることによって、このショーの中間部分はある種の盛り上がりを見せるだろうが、それは歌手Y の前半部分の印象を薄めることに大いに作用する。このような観客受けを宛て込む演出を、一体的な「歌手Y ショー」のなかに組み込むことを主演タレントの歌手Y が好ましく思うはずはない。  したがって、これは主演タレントY の意思をまったく無視した演出であり、H興行自身が主張するような、主演タレントの構成、演出には関与しないという立て前と明らかに矛盾する。しかもH興行はこの演出にかんする了解を歌手Y から取っていない。もし、この一体として編成されたショー」の進行をふくむ、構成、演出の権威を主演タレント・歌手Y にみとめているのなら、この行為は構成演出にたいする越権行為以外の何物でもない。  結局のところ、この事故が起こるまでは、この両者の出演部分が「一体として編成されたショー」であるといういしきなどH興行にはまるでなかったのである。
  H興行には「舞台」と言うものが、一つ間違えばどんなに危険に満ちたものであるかと言うことにまったく意識が働かなかった。だから歌手Y と会館との間に打合せが行われたあとも、その内容を十分チェックして対策を講ずるというところまで肝まわらなかったし、また、それが自分の職業の守備範囲のなかに含まれていると言うことにも気づかなかったのである。
  このショーは、タレントX の出番を組み込んだ段階で、専門の舞台監督ないし進行責任者を絶対に必要とするショーに変質したのである。その対策を講ずるのはプロモーターとしてのH興行の職務である。ということは、自ら進行をやれというのではない。しかるべき進行責任者をプロモーターの責任において配置するべきであったと言っているのである。


  先にも述べたように、進行責任にかんして一方的に会館の責任を問うのは気の毒である。ただし、会館には現実に、危険を内包するタイミングにセリを下ろしたという安全管理上の技術的ミスがある。これは会館側の責任であり、進行責任とは質的にことなる安全管理上の責任であると、私は考える。

  このように、この事故の経過を見てくると、「タレントX さんだってプロだから大丈夫よ」という不用意な発言が、仮に、人気歌手Y の高慢から発せられたものであったとしても、この一言で事故の責任を問われると言うのは、やはり理不尽と言わざるをえない。

     7. 進行責任と安全管理

  さて、ここまで話が来ると、舞台監督と会館職員との関係にも触れないわけには行かない。
  会館職員は歌手Y と打合せを行ったことによって、このショーの進行責任を引き受けたことになるのだろうか? わたしはと答えたい。先にも述べたように、進行は芸術表現にかかわる行為である(もちろん、段取り屋と称される次元の低い進行係もなくはないが論外である。また、そういう舞台監督もなくはないということにご注意を!)。したがって私の言う進行責任者(舞台監督)は芸術表現主体に、より密着した立場において目を配り、発言・主張を行う。それゆえ、この職務を遂行する者に要求されるのは、技術的熟練と同時に、何よりも表現主体の芸術的意図を感受しうる芸術的感性である。
  だからといって会館の職員にこの感性が欠けているというのではない。芸術行為の進行責任者には職能として、それが要求されると言っているのである。念のために言っておくが、会館職員の管理機能のなかにこの要因は含まれていないし、原理的に要求されてもいない。ここがあえていえば芸術的舞台監督(舞台進行係)と、会館職員が規模の小さな講演会などで便宜的に引き受ける舞台進行係機能との重要な相違点である。
  そこでいま一度、この舞台事故のケースを検証してみよう。  まず歌手Y (芸術表現主体) はセリによる舞台への登場という舞台効果を自己の芸術表現のためえの必須の手段として要求した。セリが危険を内包するとしても、その使用自体は決してきけんではない &lt どんな用い方をしても危険であるなら、そんなものを劇場に設置するはずはないし、もしそうだとしたら即刻、排除するべきである > 。ここで問題となるのはその用い方である。たしかにタレントX の証言(私のフィクションの前提となった) にある、会館職員石井の取った行動は安全管理の点から当然である。だが、セリの用法の処理はタレントX によって提案されたものである。舞台監督の立場から言えば、この処理は当然、進行責任者(舞台監督)解決し、タレントX にたいして指示すべきものである。
  なぜなら、 このような安全措置は具体的な舞台の動き(芸術表現)にかかわり、純粋な意味での舞台機構の安全管理とは質的にことなるからである。
  おそらく、舞台管理職員石井がタレントX にたいして言ったのは私のフィクションのなかの対話のようなものであっただろうと推測できる。それにたいしてタレントX は舞台経験をつんだタレントであったから、このような処理を即座に提案できたのであろう。もし、タレントX が未経験のタレントであったら、そう忠告されたのをそのまま受け取り、セリ穴の前で気もそぞろの演技を行っていたかもしれない。
  それでは、安全管理上での舞台監督と会館職員との役割はどう違うのであろうか?  もし、舞台監督がいてこの事故が起こったのだとしたら、これは百パーセント舞台監督の責任であり、会館側には何ら責任はない。言いかえれば、単に一出演者との打合せだけでこのセリ操作を全面的に引き受けたと言う点に、残念ながら、会館側の軽率さがあったのであり、結果的に進行責任という、本来ならばお門違いの責任までも背負わされる羽目になったのである。
  だが、会館側が負わされることになった進行にたいする責任は、本来、H興行の手抜かりによるものである。くり返し言うが、このショーはタレントX の出演を組み込んだ段階で舞台監督を必要とするショーに変質したのである。つまり、H興行側がいかに強弁しようとも、これは歌手Y が主導する「パッケージ・ショー」ではない。もちろん、H興行側は文字通りこの言葉では言っていない。だが、意味するところは「パッケージ・ショー」について言われているところの意味内容と同じことを言っているのである< ここに巧妙な概念のすり替えがある&gt。
  だから、このセリ操作には芸術表現主体の側から安全を管理する視点(舞台監督)がどうしても必要だったのである。


  では、舞台監督がいればどんな場合でも、会館側には責任が免除されるのだろうか? ――その事故が管理する機構の欠陥にもとづくものであれば、当然、会館側にその責任は問われるだろう。(この点に多少かかわる問題を、このあとの『フェイル・セイフの視点』で取り上げる)
  それでは会館職員とわれわれ舞台監督の立場はどうあればよいのか? ――私が理想とするこの両者の関係を舞台の安全管理の観点から言うならば、その両者がダブル・チェックの機能として働くようなものであってくれればいいなと思っている。なぜならわれわれ(舞台監督)の立場は、時に、あまりにも芸術的表現要求(少しキザに聞こえるのをお許しいただきたい)に密着しすぎているかもしれないからである。また、ある劇場で可能だったことが、別の劇場では貴工場、危険であることがあるかもしれない。
  その劇場にかんしては、その劇場を管理する職員が一番よく知っているはずだから、その観点から適切なアドバイスをしていただけるのは非常にありがたいことである。ただそれらのアドバイスが頭ごなしに、いきなり禁止条項として提示されるとき、会館側と後援者側との軋轢が生じる。そのへんのところを頭ごなしではなく、きちんと使用不能な理由を伝えていただきたいと希望したい。そして舞台進行の安全を芸術的側面(舞台監督)と機構的・技術的側面(会館職員)との両面から管理することができるのが理想である。


  私はこの報告のなかで、とくに会館側の責任を厳しく分析したが、それはわれわれ舞台監督の職能と重なるところが大いにあるとおもうからである。この事故、及び裁判事例はわれわれにとっても大きな教訓であった。現にわれわれの協会には劇場の管理にあたっている会員も何人かいるからなおさらである。
  「人間は過ちを犯しがちなものである。だから、一度起こった事故からはできるだけ多くの教訓を学び取らねばならない」とある本で読んだことがある。会員その他の読者の方々のなかには、この文中の私の記述に独断と偏見を見て取られる方もおられることだろう。それならそれで批判なり意見なりをおおいに発表していただきたい。この文章の目的は一つには会員のみなさん(もしかしたら、全国の市民会館の職員の皆さんも)を挑発し、異論百出を期待するというところにあるからであり、そして同時に、それを舞台監督の職能と地位の確立の問題と同時に、会館のみなさんと、われわれとの協力関係のあり方についても考える契機としたいからである。< 私はこの報告を書くにあたって、当該K市市民会館に電話をし、舞台平面図を依頼した。そのときの会館職員の方の反応はきわめて好意的で、好感のもてるものであったことを付言しておきたい &gt;


   8・ フェイル・セイフの視点

  最後に、この事故をフェイル・セイフ(過失救済)の観点から考えてみよう。つまり、過ちを犯してもそれが事故につながらないように、また、事故が起こったとしても、せめて損傷をより小さく食い止めようという発想である。< この点にかんしては柳田邦男『死角』(新潮社・1985)に大いに啓発された &gt;。
  この視点からこの事故を見ると、歌手Y の板付きのために、セリを奈落の一番下までおろして使っていたと言うことに問題がある。大概の劇場の小ゼリには中間の停止位置がある。舞台前面の床下部に上手・下手への通り抜けの通路があり、通常そのつうろから、セリへの昇降が可能になっている。俳優の板付きなどはここからなされるのがふつうのはずである。ところが、この事故の場合、歌手Y さんの板付きは奈落の底でなされることになっていた。もし、この板ツキが通常の中間位置でなされていたら、たとえこの転落事故が起こったとしても、タレントX さんはこれほどの障害を受けずにすんだはずである。
  では、なぜこのセリが一番下までさげられることになったのか、それを裁判記録のなかにみてみよう。
  なお、奈落係の某は「歌手Y ショーの開始の前に被告歌手Y の付人と思われる人物を奈落に案内し、本件セリのための前記仮階段の状況を確認した同人から、後刻、仮階段はぐらぐらするからつかわないこととし、奈落の底までセリを下げてほしいとの連絡を受けていた」
  この記述によると、この会館のセリの中間位置までは仮設階段、しかも不安定なものが設置されていたことがうかがわれる。そしてその不安定さ< 設備管理の不十分 &gt;が歌手Y をして、仮設階段にたいする不安感からこれを回避し、奈落の最下位での板付を選択させていたのだとしたら、この仮説階段の不備がこの事故をいっそう大きくした要因の一つとなったと言わざるをえない。そしてもしこのセリが中間位置< 舞台面から2.26メートル下 &gt;デスクトップ用いられていたら、原告の障害は単に打撲か、軽い骨折程度ですんでいたかもしれないのである。もし、そうだとしたら、この点に着いても会館側の管理責任、危険にたいするチェック機能が十分働いていなかったと言われてもしかたがない。
  裁判ではこの問題についてはそれ以上追及されていないが、われわれとしては仕事の場において、このような点についても気を配る必要がある。だって、もしタレントX さんの墜落がもっとあとで、そのとき歌手Y が板付きしているときだったら……、事故は歌手Y さんをも巻き込んでいたかもしれないのである。
  そして、今後建設される劇場についての提言だが、このように俳優などの登場に用いられることの多い小セリにかんしては、中間位置以下に下がるときには、舞台面と中間位置との間に安全ネットのようなものが自動的に閉まるような設備をつけることにしたらどうだろう。下りたセリ穴の近くで演技を続けなければならない芝居もあるかもしれないのだから。
  その他にも、フェイル・セイフの観点から劇場設備にたいして目を光らせる必要がずいぶんあるのではあるまいか。


  舞台で起こった事故はすべて舞台監督の責任である。舞台監督にはそう言い切れるだけの自負と裏付けがなくてはならない。それはけっして生易しいことではない。われわれの求める舞台監督の職能、地位の確立も、この前提なしには空論にすぎないのである。

おわり     


< なお、被告四者はこの判決を不服として控訴した >

*付記 この裁判は第二審がはじまって間もなく、裁判所の和解勧告によって、第一審の結果をそのまま承認すると言う形で決着した。


[参考文献]

*判例時報・昭和61年1月1日号「畠山みどりショー」セリ転落事故損害賠償訴訟第一審判決(東京地判60.10.15)>

*舞台監督協会機関誌
舞台監督No.11(1986)舞台監督の視点=ある舞台事故の場合<本文>
舞台監督No.12(1987)「ある舞台事故の場合」アンケート集計報告
舞台監督No.13(1988)「ある舞台事故裁判の結末」 八代英太氏訴訟代理人・山田尚典弁護士に聞く

*これらの文書は舞台事故問題と真正面から取りあげたものであり、折をみて紹介するつもりである。

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