舞台監督論

田才益夫     



  (三) 舞台監督の実務



 舞台監督の職能についての前章での検討に おいて、舞台監督の資質について芸術性と技術(実務能力)、人間性(信頼感)の三点を 挙げたが、実務遂行能力によって演劇創造の仲間を納得させなければ舞台監督としての信頼をかち得ることができないという指摘があるように、舞台監督のプロパーな職能領域としては、やはり技術ないしは実務という問題はどうしても重要であると思われる。技術という側面については前章で触れたので、この章では実務という点について考えてみたい。
 この点に関して「舞台監督」第十二号に小川幹雄君のイギリスのろアージ・マネジャーの業務についての詳細な報告があり、松坂哲生君のアメリカ、筆者のチェコの報告かあるので、それらを参考にし、簡単に比較しながら検討してみよう。 小川君の報告によると、他のヨーロッパの国々と比べても、イギリスの舞台監督の機能がわが国の舞台監督に最も近いように思われる。
 イギリスのステージ・マネージング・スタッフの編成は、ステージ・マネジャーを頭に、デピュティ・ステージ・マネジャーと呼ばれる代理ないし副舞台監督があり、他に舞台監督助手(アシスタント・SM)がある。そしてこれらのメンバーの業務分担はステージ・マネジャーが総括責任者としての立場にあり、キュー関係はデピュティ・SMが担当、アシスタント・SMは通常小道具の配置などを受け持つことになっているようだ。日本風に言えばデピュティ・SMが舞台監督助手のチーフに相当するような印象を受ける。勿論、日本のチーフよりもステータスはちゃんとしているものと思われる。またこれらのスタッフが稽古の段階では、その進行実務を担当する。この辺の事情はわが国と大差はないようだ。
この他にプロダクション・マネジャーというものがあるが、業務の内容から察すると仕込み班のチーフのような役割りだ。他にカンパニー・マネジャーがあるが、これは、例えば、「旅班の制作部」とでもいう役割りと察せられる。その他諸々のマネジャーがあるが、日本との演劇制作事情の違いから生じて来るものが多い。
 こう見て来るとイギリスの舞台監督の実務進行の実状は一見わが国の場合と大差ないように思われるがどうなのだろう。詳細は「舞台監督」第十二号の小川君の『英国の演劇界と舞台監督の仕事』を参照されたい。
一方、松坂哲生君によるアメリカの場合を見ると、ブロードウェーの場合で舞台監督スタツフは芝居で二名、ミュージカルで三名というのが標準だとある。また「舞台監督は本公演になれば俳優に駄目出しをする」権限を与えられているため、稽古場では演出家に密着し、雑務は助手が処理する。
 また、道具の仕込み関係は小道具も含めて主に装置家の領域のようだ。本番での各パートヘのキュー出しは助手の仕事である。アメリカの舞台監督は女性が多.いそうだ。
ところでヨーロッパの方はどうだろう。私がしっているのはプラハ国立劇場の場合だが、ここではエヴィシュトニー・ミストル(ドイツ語のビューネン・マイスターと同義一がいて、その配下に六〇人の大道具係がいる。
 そのうちの四〇人が二勤一休システムで勤務している。彼らには稽古場での道具の飾り代えの責任もある。だが本番も含めて進行には一切タッチしない。本番のキュー出しはインスピツィエントが当る。この役割りは系統的に舞台技術関係とは全く別である。仕込みに関しては大道具、小道具、衣裳、かつら等を含めて「技術部」が受け持つ。「テクニカル・ディレクター」を持つドイツの場合もこれと同様と思われる。
 フランスについては「舞台監督」第五号の研修報告座談会での大野さんの話によると「俳優の動き、出のキッカケ」等すべてレジスールと呼ばれる進行係が司るとのことである。ヨーロッパ大陸の他の国々ではレジスールは演出家のことだが、この言葉の発生の国と思われるフランスでは進行係、つまりドイツやチェコでインスピツィェントと呼ばれているものと同じ役割リである。(フランスでは演出家のことはメチュラン・セーヌ)と呼ばれているそうである)
 こう見て来ると演劇創造の現場における作業というのは、究極の目的が舞台上演である以上、また、その舞台がよほどの例外的なものでない限り、それほど大きな差異があるは、ずはない。従って実務面から見れば、その作業をどのように分担するかの方法の違いに過ぎないように思われて釆る。そしてその作業の分担はその各々の国がもつ演劇創造の条件が必然的に要求するものとして作り出されたものであるだろうから、現在のわが国における舞台監督をはじめとするスタッフの創造作業の分担の在り方は、わが国の現状には最もふさわしいものと言えるのだろう。
 従って、実務という点に関して言えば、舞台監督協会の今後の問題として、一つの演劇公演に対して当然要求され、また、予測される業務内容の項目を抜き出して、それに対応する方法論的マニュアルを、一つの範例として、作成するという試みもあっていいのかも知れない。
 例えば、プラハ国立劇場の場合で見ると、「国立劇場技術部長提案」として、舞台公演の演出プラン実現のための十三の段階が明文化されている。
@演出全体会議、A技術部門に対する演出プランの提示、B模型舞台による検証、C予算の作成……等々である。そしてまた、稽古の種類と回数まで決められている。(「舞台監督」第十二号、P・シェフチーク『プラハ国立劇場歴史館における芸術・技術的舞台運営について』参照)
 勿論、これらは活動の拠点としての劇場を持ち、夜は常に本番を抱えている演劇団体であるため、キッチリと段取り、ないしスケジュールを決めないと身動きが取れなくなるという事情もあるだろう。
 日本の場合、こうまではいかないだろうが、何らかの目安みたいなものはあっても良いのではあるまいか。



四、演劇史の中の「舞台監督



@「舞台監督」の名称

 さて、この機会に「舞台監督」という名称、また「演出家」という名称がいかにして生まれて来たかについて、少々考察してみたいと思う。
 築地小劇場以前のわが国の演劇の世界では現在我々が演出家として呼びならわしている役割りは舞台監督と称されていた。それではいかにして舞台監督という名称が出現したかという点を尋ねていくと、それはゴードン・クレイグの『劇場の芸術』 The Art of theTheatre という演劇論にたどりつく。
 クレイグの『劇場の芸術』は一九〇五年にロンドンで出版された小冊子であり、二年後の一九〇七年(明治四〇年)に小山内薫が雑誌「歌舞伎」で『演劇美術問答』として解説的に抄訳したものを紹介している。
 この本は「ステージ・ディレクター」と「プレイ・ゴーアー」という二人の人物の対話という形で書かれており、小山内はその「ステージ・ディレクター」を「舞台監督」と訳したのである。
 この『劇場の芸術』は当時、新しい演劇を模索していた小山内薫に大きな衝撃を与えた。大正十一年、築地小劇場発足の二年前に書いた『舞台監督の任務と権威』という論文の中で述懐している。

 「近頃、私は偶とゴオヅン・クレイグの第一の対話(『劇場美術』)を又繰り返して見た。これは初めて私に「舞台監督」の何たるかを教えてくれた本である。……私は偶然これを神田の中西屋で買って、読んで見て驚いた。初めて「劇」の本質が掴めたような気がしたのである。・・・・・・私は何度この本を読んだか分からない。紙の表紙がもう切れて、半分取れている。・・・・・・この本が世に出てから「舞台監督」に関する本は沢山出た。・・・・・・それ故、フランスのでも、ドイツのでも、イギリスのでも、アメリカのでも自分にはまるで読めないロシアのでも、凡そ「舞台監督」に関する書物は集めている。勿論、自分に読めるだけのものは読んだ。
 併し、いつでも私の帰って行くのは、このゴオツン・クレイグの第一対話一初めは第一対話を称えられたのではない、後に劇場経営に関する第二対話が出来たので、今は第一対話というのである)である。幾百幾千の「舞台監督論」をしても、要はこの第一対話の外には出ないのである。総てはこれからは生れている。総てはこれから延びている」

 この文章からも分かるように、小山内薫がいかにこの書から大きな影響を受け、彼のその後の演劇活動の導きの星としたかが分かる。ゴードン・クレイグを知ってからの小山内薫はまるでクレイグ熱にでもかかったかのように、その警言にも、また活動にも絶えずゴードン・クレイグの影がつきまとう。
 それでは小山内薫がクレイグの教えを忠実に実行し得たかというと、必ずしもそうはいかなかったようだ。それは、たとえ彼がクレイグを完全に理解し、それを当時の日本の演劇界において実行しようとしても、時代的にも環境的にも、それを可能とする状況が日本には無かったからである。そして何よりも小ステージ・デイレクター山内薫自身が、クレイグが舞台監督に要求するところの条件をそなえていなかったことに一番大きな原因がある。そのことを最も痛切に実感していたのが小山内薫自身であった。
 大正三年一一九一四一十月、自由劇場第八回公演アンドレーエフの『星の世界へ』の公演に対する小宮豊隆の完膚なきまでの酷評と、それに引き続く論争に意気消沈した小山内が発表した『小さき新しき劇場へ』(一九一六)という対話体の文章の中にそれをうかがうことができる。
 つまり、小山内薫はゴードン・クレイグが要求するような意味で「劇場の子」ではなかった。彼は劇場内の現場の仕事に無経験だった。確かに彼は大学一東京帝大一を出たあと、伊井蓉峰の一座に出入りしていたことはあるが、既に歌舞伎の劇評の筆を取り、外国戯曲の紹介などで名を知られている学士様が、新派の舞台裏で何か仕事を手伝ったとして、それが芝居の現場を経験したといえるほどの仕事をまかされたとは考えにくい。彼は蓉峰の一座を去ってからは、演劇評論家、小説家、劇作家、そして演出家としての多忙な生活に追われるのである。
 彼は『小さき新しき劇場へ』の冒頭で、或演芸記者の「もう芝居はなさらないのですか」という質問に対し、小山内薫自身と思われる「B−或舞台監督」は次のように答える。

 B 当分したくないと思います。芝居をしたくないと思うばかりではありません。当分芝居のことについては何事も言いたくありません。三、四年書斎へ閉じ篭って、静かに読んだり、考えたりしたいと思っております。

 そして、ここでもゴードン、クレイグに触れたあと、書斎にこもって舞台の写真や役者一の扮装写真を見たり、絵画、彫刻の写真を見たりしたいという。
 書斎の次には研究室で模型舞台を用意して、光の実験をし、背景の色と光の関係、人物の位置や家具の按配などを研究したいと言う。
 これに対し、質問者の演芸記者は「丸でゴオヅン・クレイグのような事を考えているのですね」と言い、舞台監督は「いいえ、私はこの日本で出来るだけのことを考えているのです。クレイグの考えているような事が、連もこの日本で出来ようとは思いません」と答える。
 小山内薫は演劇について考える時、絶えずゴードン・クレイグのことを念頭においていた。そして、クレイグの教えに対して出来うる限り忠実であろうとしたことは確かである。だが、その一方で、クレイグの言う通りのことが日本で出来るはずがないと断念してもいる。その結果、劇場の中に身を置いてはなすべきことを、箱庭的な実験室で代替しようとしたのだ。
 それとて、小山内の口とは裏腹に実行はされなかった。小山内としてはクレイグの教えに、たとえ箱庭的方法であれ、従うべき、おそらく最後のチャンスをも逸し、試行錯誤をくり返しながら築地劇場時代へと進むのである。

  A「演出家」の誕生

 現在、私たちが用いている意味での「演出家」「舞台監督」各々の役割が明確化されたのは築地小劇場においてである。孫引きで申し訳ないが、その事情を記した久保栄の文章を引用しよう。

「外国語のレジイに当る仕事を、新劇の初期から"舞台監督"と言い慣らわしていたが、築地小劇場では、小山内の提案で、開場以来これを"演出"と呼び改めた。演技を導いて、戯曲の内容を舞台にしみ透らせる大事な創造者を、実務家めいた監督という名で呼ぶことを、とかくそう見られやすかった自分の過去に踊らして、小山内は不当としたのである。
 築地が仕事の上で演出者の職能を明らかにしてゆくにつれて、自然名称も普及した。だからその後は演出者の担う創造面を除いたあとの実務を執る者、築地の場合で言えば、プロンプタアボックスにはいって役者にセリフをつけながら、稽古の間に受けとった演出上の指示に従って、舞台の進行に注意をくばる者を、改めて舞台監督と呼ぶことになった。」(原文は久保栄『小山内薫』、『小山内薫演劇論集』(未来社) 菅井幸雄『解説』より引用。)

 築地小劇場における演出と舞台監督の職能領域をこのように形而上的なものと形而下的なものとに分断することを、ゴードン・クレイグを信奉してやまない小山内薫が提案したのだとしたら、それは小山内のクレイグに対する背信にほかならない。何故なら、クレイグは演出家(ステイジ・ディレクター)と舞台監督(ステイジ・マネジャー)を一つの連続したものと考えており、ステージ・マネジャーをステージ・ディレクターの前提であるとさえ言っているからである。
 一方、小山内薫自身も、自由劇場第八回公演アンドレーエフ作『星の世界へ』(大正三年)に対する小宮豊隆の批評に対する反論として書いた『解嘲』(大正四年)の末尾において次のように述べているのである。

「小宮君は舞台監督に甚しく『職人』を嫌っているようであるが、演劇にとって Craftmanship はそう必要ないものであろうか。若しそうなら理想的舞台監督に、"A master-craftmanship を要求しているゴオヅン・クレイグは問違っているのだろうか」『小山内薫演劇論全集T・177頁。

 要するに頭では分かっていても、観念的にしか演劇創造の綜合性(トータリティー)をとらえていなかった、つまり肌身で感じてはいなかったために、本未、不可分であるべき芸術の形而上的創造部分と形而下的創造部分とを劇場の組織上、あっさり分離させてしまったのである。
 そして、このことの持つ重要な意義は、これによって、以後、日本の演劇界に特有とも言える、演技をも含めて劇場技術に対して何らの経験をも持たぬ形而上的演出家の出現を認める根拠を与えたということである。
 かくしてわが国の演劇の世界には、わが国独得の演出家と、また世界にその類を見ない極めて柔軟性に富んだ、自らの職能を自ら定義することに困惑を感じるような広範な守備範囲を有する舞台監督の誕生を見るにいたったのである。
 しかし築地小劇場におけるこのような決定がゴードン・クレイグの演劇理念を信奉してやまなかった演出家小山内薫の到達した結論であったとしたら、それはまた極めて皮肉な結果だと言わざるを得ない。それというのも、これによってゴードン・クレイグが最も嫌悪した演出家の存在を劇場芸術の世界に認めることにもなったからである。

 これも築地以来の伝統であろうか、ある時、舞台監督は演出家になるためのステップであると言われていたそうだ。そして築地以来、多くの舞台監督が未来の演出家を夢見つつ、悪条件に耐えて仕事を続けて来たとも聞く。その数は恐らく数え切れないほどであるだろう。
 だがその反面、それらの舞台監督の中から真に優れた演出家が出たという話はあまり聞かない。概ね、演出家は最初から演出家であり、舞台監督は最後まで舞台監督だったのである。
 では舞台監督は演出家になるためのステップだという論理は何だったのだろう。実は、この論理はまたゴードン・クレイグの『劇場の芸術』のメインテーマでもあるのだ。
 ゴードン・クレイグは将来演出家(ステージディレクター)になるためには舞台監督(ステージ・マネジヤー)を経験していなければならないと述べている。そして、その間に学ぷべきことをも指示している。ただ、もしその当人に才能とチャンスがあればという付帯条件をつけることを忘れてはいない。当然といえば当然だが、その才能を一体誰が判定するのだろう。本人に出未るだろうか?演出家を夢見た多くの演劇青年の悲劇はここに原因があったのだ。
 わが国の演劇界において舞台監督は将来の演出家を約束された職能ではなかった。演出部を解消し、舞台監督の部署を舞台部とすることによって、そのことを組織上明確にした劇団もあった。

 その一方で、かかる形而上的演出家を歓迎する風潮もあった。もともとわが国の新しい演劇の運動は知識人主導で行われてきた。それは明治以降の海外のものを学ぶというわが国の文化指向に添ったものだった。海外のものを学ぶには外国の言葉を知っていなければならない。そして当時、外国の言葉の分かる人は学者であり、学生であった。従って初期の新しい演劇運動指導者のことごとくが学者であり、学生であった。坪内遣蓬、森鴎外、島村抱月、小山内薫、小宮豊隆、等々。そして芝居を見たという以外に何らの演劇的実体験を持たぬ、頭でっかちの権威や新進気鋭に指導されたのがわが国の新劇運動だった。
 その伝統は戦後も、それから更に四〇年も経った現在も、依然、保たれているのではあるまいか。海外で評判になった外国戯曲文学の紹介者は鄭重に劇団に迎えられ演出まで依頼される。劇作家も然り、小説家も然りである。
 こうして、わが国の演劇界では実務体験の殆どない極めて形而上的演出家が重宝されるという伝統が依然続いているようだ。
 演出という創造的仕事は、舞台監督がその職能とする技術、実務的業務とは無関係である。ゴードン・クレイグの弟子は、かつて、こう選択した。

 世界的視野から見たわが国の劇場芸術の後進性は、演劇創造の根拠地としての劇場が存在しないこと一つまり、演劇活動の殆どが貸小屋で行われている)と共に、劇場機構、また、その技術的機能をトータルに、有機的に取り込んだ形で演出を発想し得る演出家が極めて希であることと無縁ではないと思われる。(第二国立劇場にそれを期待したが、そうはならないようである)
築地小劇場はかつて日本に存在した唯一のそれが可能な場であったと思われるが、演出家を先験的に実務作業から切り離すという発想におちいったため、事実上、現場の仕事を経験せずともなり得る演出家の存在を許す結果となってしまった。そして日本の古諺に言う「餅は餅屋へ」というような、照明は照明家へ、効果は効果家へ、装置は装置家へという分担が徹底し、演出家はそれぞれの専門家へ簡単な注文をつけるだけで全権を委任してしまう。
 演出家は自分の演出する作品をトータルに発想し、構想する能力を失ってしまった。その結果、劇場芸術を総合芸術として発想するものがわが国には存在しなくなったのである。何故なら、照明家は照明家の発想でしか劇場を考えない。音響家も装置家も・・・・・・。
 では一体、誰が劇場芸術をトータルに発想し得るのだろう。また、そのようなトータルな発想なしに成り立っているわが国の劇場芸術とは一体何なのだろう。

  Bゴードン・クレイグと舞台監督

 エドワード・ヘンリー・ゴードン・クレイグは一八七二年、女優エレン・ケリーの子としてロンドン近郊に生まれ、ブラッドフィールド大学とハイデルベルク大学で学んだ後、一八八九年に母親の属するヘンリー・アーヴィングの一座で俳優としてデヴユーした。一八九八年、同一座を止める。
 以上の部分は小山内薫の『ゴオヅン・クレイグの手紙』の中に当時の人名辞典からの引用によって紹介されたものの引用だが、それ以後の部分にっいてはケネス・マックゴウアンの『明日の劇場』 Kenneth MacGowan, The Theatre of Tomorrow, 1921 から紹介しよう。

 ゴードン・クレイグは四年間の沈黙の後、一九〇〇年から一九〇三年の問にロンドンで七本の興行に舞台監督(ステージ.マネジヤー)として関わる一方、舞台装置及び衣裳のデザインをも手がけた。しかしイギリスでクレイグは受け入れられず、多く外国で仕事をするようになる。
 さて、ここで注目したいのは一九〇〇年から三年までの間、ロンドンでステージ・マネジャーとして働いたとある点である。
その当時のイギリスの舞台監督(ス一テージ・マネジャー)がいかなるものであったかは興味をそそられる問題である。幸いなことにゴードン・クレイグ自身がステージ・マネジャーについて書いたものがある。
 『未来の劇場の芸術家』 The Artists of the Theatre of the Future と題されたこの論文は、ある演劇青年に宛てて書いた手紙の形で書かれたもので、当時のイギリスにおける一般の演劇に対して、また演劇人に対する考え方もほの見えて面白い。
 例えば、俳優になりたいという青年に対して、「君が俳優になりたいと言うよりは、空を飛びたいと言った方が御両親には理解しやすいのではないだろうか」というところなどである。
 そして彼が俳優になり何年かの経験を経たら、今度はステージ・マネジャーになるべきだと忠告する。
「君がある程度俳優の経験をつんだら、今 度は舞台監督(ステージ・マネジヤー)にならなくちゃいけない。ところがこの名称というのが実に食わせものなんだ。というのは、君が舞台監督になったとマネージころで、君が舞台を監督するなんてとんでもない話なのさ。全く、こいつは不思議な身分だけど、この経験から大きな恩忠を得ることはうけあいだ。とは言ってもそれが君に大きな喜びを与えるとか、君が働いている劇場に大きな成功をもたらすというもんじゃない。
 舞台監督というこの称号、なんと素晴らしい響きじゃありませんか!その意味は『舞台技術の統領(マスター)』という意味なんだ。L君が舞台監督に任命された時「君は夢にまで見た輝かしい、素晴らしい日が遂にやって来たと思うだろうね。そして一週間ぐらいはほんの心もち鼻を高くして、君の眼前に開けたかのように見える広大な領地を展望するだろう。
 ところが、その後に起ったことは何かと言えば、劇場に早く釆て大道具係たちの世話をやくこと、釘の在庫はあるか、楽屋割りはちゃんと出来ているかを点検することだったというのは言い過ぎかな?君は再び舞台へ来ると、そこらに立って、準備万端つつがなく進行しているか、大道具は時問通りに搬入され、吊りこまれているかどうかを監視していなければならない」等々。
 すると今度は衣裳係がやって来て、誰かが勝手に他人の衣裳を持って行ったという苦情。間に立って解決してやっても感謝されるどころか恨まれるのがおち。
 次はある俳優がやって来て、自分の都合のいいように小道具の位置を変えてくれという注文。すると別の俳優が釆て反対のことを頼む。
稽古が始まると、注意をされた俳優は椅子のせいにする。別の椅子が使用されていたのだ。その原因を追求するために小道具係の老人が呼び出される。結局、原因は演出家の奥さんである主演女優のわがままで、奇麗な飾りのついたその椅子を自分の出る場で使うよう勝手に決めたのだった。そして、その指示をしたのは主演女優の助手(おつき)をしている彼女の娘だった・・・・・・という具合である。
 この辺の事情はどうやらクレイグ自身の経験したことでもあるようだ。例えば、主演女優が座長の奥さんであること。その娘がおつきをしていることなのである。
 主演女優はクレイグの母エレン・テリーとも考えられるし、その娘はクレイグの姉エディスとも考えられる。彼女は母のエレンがアメリカ公演を行った時にも付添い、ステージ・マネジャーを勤めている<注・彼女は後にイギリスで最初の女性の演出家になった人物でもある>。
 こう見てくると、舞台監督の実情に関しては日本とイギリスではあまり大きな差異はなかったようだ。

註・小山内薫『舞台監督の実際』前掲全集T参照。 なお、その中で小山内はエディスをゴードン・クレイグの妹として扱っているが逆である。

C「演出家」の語源学


次に「演出」ないし「演出家」の概念の発生について考えてみよう。
そもそも、「演出」という概念はいったい何時、どのようにして生まれて来たのだろうか? 私は小山内薫の演劇論文の中にその言葉が何時頃から用いられるようになったかを調べてみた。『小山内薫演劇論全集』(未来社)によって見ると、小山内薫の文章に最初に出て来るのは『内的写実主義の一女優』(明治四一年)というカアロッタ・ニルソンの談話を紹介した文中においてであった。(これは小山内がゴードン・クレイグを知って以後であな点に注意する必要がある一例えば次のような文脈においてである。

 妾が或一つの役を研究してこれを演出する際には自然を師といたします――自然は模擬的芸術で生きている妾ども総ての大きな手本で御座います。少し気の利いた役者なら決して他人の真似は致さない筈でございます。併しながら二人の役者が同じ自然を研究した場合にはその結果が同一になることがございます。劇評家がよくあれは誰の型だとか、あれは誰の真似だとか申して攻撃する場合にも、今述べたような理由で、演出法が同一になった場合もある事かと存じます。どんな技芸家でも荷くも多少の向上心を持っているものなら決して他人の真似はいたしません。・・・・・・一つの演技法と申すものは作者の描いた人生の型を写し出すに努めると共に、又その演出者の性格の印象・・・・・・演出者の個人的精神の影というものを帯びて出て来なければならないものでこさいます。(太字強調・筆者)


 この文脈から読みとれるように、この文中に用いられた「演出する」「演出法」「演出者」は現在、私たちがこの言葉によって意味するところとは違っていることが理解されるだろう。むしろ「表現」という言葉と置き代えてもよいようだ。
 その他の例も幾つか挙げてみよう。

・・・・・・土曜劇場の『群盲』・・・・・・が私達の待っていたような気分を一つも出してくれなかったのは……その責の九分九厘はその演出を監督した私にある。(「マアテルリンクの『内部』大正二年)

 ここでは「上演」あるいは私たちが比喩的に用いる「舞台」と置きかえて読む方が自然である。

 吾々の野心ある脚本家なり、演出者なりが、その天才を向けなければならないのは第四の壁に対してではなくて、他の三つの壁に対してでなければならぬ。(『四つの壁』大正二年)

「日本人が西洋の芝居を演じようとするなら・・・・・・成るべく地方色の薄い、世界に共通なコスモポリタンな作を選ぷようにしなければならぬ」というようなことが何かに書いてあった――演出の困難という点から見れば何如にも尤もな説である。・・・・・・「翻訳劇の演出も既に第一期を劃した」などという人がある。(「演劇と地方色」大正三年)

 舞台監督はいかなる戯曲を如何に演出しても構わないのである。結果が芸術になるかならぬかが問題である。(「模型舞台の前で」大正三年)

 絵画的の背景を作るべき童子の群、行人の群・・・・・・などにはレジイが全く欠けていた。これはレジッセウルを持たない狂言座にとって已むを得ない事であろう。(『南蛮寺門前』と『俳譜亭句楽の死』大正三年)


 同じ大正三年の文章のうち三番目の文章にのみ「演出」「演出家」に相当する部分がことさらにレジイ、レジッセウルとなっていることに注意する必要があるだろう。つまり、小山内薫の中で「演出」の概念が外遊後明確になったことを意味する。しかし、レジイの訳語として「演出」という言葉がはっきり意識されているところまではいっていないのではあるまいか。もう幾つか年代順に挙げてみよう。

 それに、この芝居には声楽の素養のある役者が要るので、その点から言っても、この戯曲の演出に多くの望みをかけることは出来なかった。(「解嘲」大正四年)

 私は吉井勇君の『夜』を土曜劇場の為に演出して、今まで僅かにその渇を癒して来た。(同上)

 私達に依って演出された、劇としての『星の世界』・・・・・・。(同上)

 ロシアでは総てが原作通り印象的に、かつ暗示的に演出されたのに、ドイツでは・・・・・・廓大して演ぜられた。(「『生ける屍』についての論議」大正六年)

 この頃になって・・・・・・新劇運動の多くは・・・・・・創作を創作をと心がけているようである……併し、それが為に芸術的な翻訳劇の演出が全く跡を絶つような事があってはならない。(「翻訳劇の運命」大正八年)

 諸君が諸君自身の持っておられる偉大なものを用いずしてかような偉大な作品を演出し得ようとは信じられません。(「『ハムレット』演出に際して」大正十二年)

 演出者は現在自分の持つ俳優の力量と現在自分達の持つ観客の理解力とを考慮に入れ・・・・・・(「表現主義戯曲の研究」大正一四年)


 以上、小山内薫の文章の中に「演出」という語の用法を見て来ると、築地小劇場発足以前に書かれた大正一四年の文章中の「演出者」は明確に現在の意味と同じであるが、それ以前の文章では「上演」とか「出演」とかの意味を含みながら、現在の「演出」という意味あいが徐々に加味されて来ているのが読みとれる。
 このように見て来ると「演出」という言葉の意味内容が明治の末年から大正十年頃の問に少しずつ変化して来たことが分かる。この言葉が最初に用いられた頃は、「演ずる」「表現する」「上演する」「出演する」などの意味に用いられていたようだ。
 では、この「演じて出す」あるいは「演じて出る」というこの言葉はいかにして生まれて来たのだろうか?
 音楽には「演奏」という言葉が既にあった。明治四三年に小山内薫が発表した『自由劇場第二回試演後の対話』の中に「私共は舞台監督でも役者でも一斉に脚本の人形にはなっているのです。また常になろうと努めているのです・・・・・・どうか将来共に出来るだけ明確に、出来るだけ精確に脚本の『演奏』をして戴きたいのです」というくだりがある。勿論この「演奏」は当時であれば「演出」と置きかえてもいい所である。
 ゴードン・クレイグの『劇場の芸術』の中で舞台監督(=演出家)の職能(クラフト)について述べた部分に次の一節がある。それを小山内訳で紹介しよう。

 劇作家の戯曲の表現者としての彼(舞台監督=演出家)の仕事は、およそ次のようなものです。舞台監督(=演出家)は劇作家の手から戯曲のコピーを受け取り、台本の中に指示された通りに忠実にそれを表現すると誓います・・・・・・」(傍点並びに括弧内は筆者)


 この太字部分は原文で、インタープリテーターであり、インタープリットである。私の手元にある昭和十一年版の岩波の英和辞典の interpret の項には「説明する、解釈する、戯曲・楽曲等の作意を演出者が自已の解釈に基づいて仕活かす、通訳する」とある。(太字強調筆者)
 想像するに「演出」という語は、音楽における「演奏」(インタープリツト)に対応する演劇用語として用いられるようになったのではあるまいか。そして大正年代の新劇運動の試行錯誤のうちに徐々に単に「出演する」とか「上演する」という意味の他に、「舞台監督(=演出家)がある戯曲を演出する」「解釈表現する」というような舞台監督(=演出家)の職能を特に指す意味も含むようになって来たのであろう。しかしそれが一般に普及するのは劇場組織の一部門として築地小劇場が明確に演出というものを打ち出してからだと演劇史書は語っている。
 松本克平氏の『新劇貧乏物語』によると、

 小山内が初めて演出という文字を使ったのは大正十二年二月の研究座の第八回公演『鴨』(イプセン作、於有楽座)の監督を依頼された時であった。つまり築地開場の前年である。この時「演出小山内薫」という活字を見た人には、小山内がこんどは出演するそうだと早合点したほどまだめずらしい言葉であった。(傍点筆者)

 このように「演出」という言葉は一般にはまだ明確な概念としては受けとられていなかった。つまり「芝居に出る」とか「芝居を上演する」という意味とはっきりと分けて理解されていなかったのである。従って、松本克平氏が同書において挙げておられる、「演出監督伊庭孝」(大正三年一や「演出者踏路社」(大正六年一の用例における「演出者」「演出監督」の演出の概念にしても、必ずしも現在私たちが理解している意味とは同じではなかったのではあるまいか。前者は「上演」の監督であり、後者は「出演者」の意である。<BR  従って、レジーまたはレジッセールの意味での「演出」「演出家」がはっきり意識されて用いられたのは小山内薫の研究座の例が最初だったと私には思われる。<BR なお、大笹吉雄氏の『日本現代演劇史 明治・大正編』(白水社一九八三年版三二頁)には更に古い用例として、「明治四十三年十月の帝劇二階試験舞台での帝国劇場附属技芸学校の第一回月次試演会でズーダーマンの『遠くの皇女』が上演された時に「二宮行雄訳並びに演出」という表記が見える」とあるが、以上、挙げた「演出」という語義の推移と考え合わせると、時代的に見て、現在意味しているところの「演出」と同義とは考えにくい。<BR 最初の「演出」の用例として挙げた明治四一年の小山内薫の文章の場合「表現する」「演技する」という意味であったことと考え合わせると、「演技の指導」をしたという程度であろう。勿論、演劇指導も演出の一部には違いないのは確かだ。実際に二宮行雄なる人物がいかなる役割を演じたかについて調べる資料が私の手元にないのでこれ以上のことは言えない。<BR<BR<BR<DIV<FONT face="JK 明朝" color=maroon size=4<B<A name=5<U(五)とりあえず結論</U</A</B</FONT</DIV<BR<BR<P<FONT face="JK 明朝" color=maroon size=3 さて、再び本題の舞台監督の問題にもどろう。私はこの問題を考える時、過去の経験的実例を収集し、帰納的にある定義を得るというのは無駄な気がする。確かにある程度の概念規定は可能かも知れないが、舞台監督の職能は未だ流動的であり定着していない。それどころか、むしろ、今後大いに変化するだろうという気がする。<BR そのことは一つの演劇プロデュースにおいて舞台監督の存在理由が流動的であるというのではない。舞台監督はその本来の業務として、もっと他に大切なことがあるのではないかという間題も含めて、定着していないというのである。舞台監督の業務は今後我々が明確にしていかなければならないのである。<BR 例えば、劇場が一つの機械であるという発想は既にゴードン・クレイグが述べているが、劇場芸術の創造におけるこの機械との関係は基本的に変らないとしても、その機械の内容が科学の進歩と共にまるで変っているのである。そこで、この高度なメカニズムをどう使いこなすかが問題になって来るのは当然としても、それ以上に重要なのは、そのメカニズムの持つ可能性をいかに芸術的表現手段にまで高めるかということである。<BR 高度なメガニズムを使いこなすには、それに相応する技術と知識が必要である。それは舞台監督のプロパーな仕事領域ではないだろう。しかし、そのメカニズムの持つ可能性を創造的表現へ適応させる方法論を知っていなければなるまい。土岐さんの言葉を借りれば、「分かって」いなければなるまい。<BR つまり、演出家がイメージするところのものを、そのメカニズムによっていかに表現し得るかという可能性に対する判断力である。<BR 今後、演出家には一層の創造力と独創性が求められて来るだろう。そして彼が何を構想し、何を表現せんと意図するかが問題となる。それが高まれば高まるほど、舞台監督の能力も問われて来るという関係が将来出て来るとも考えられる。<BR 結論として私が言いたいのは、舞台監督は今後、劇場芸術の表現手段としての劇場をトータルにとらえ、発想し、具体化しうる能力を獲得するよう努力すべきだということである。そして、その具体的方法の発見は今後の我々の課題である。そのヒントを以下に紹介するゴードン・クレイグの劇場芸術論の中に見出していただければ幸いである。<BR<BR</FONT</P<DIV align=right<FONT face="JK 明朝" color=#804000 size=2(初出・舞台監督協会機関誌「舞台監督」No.14, 1989年)</FONT</DIV<BR<BR<div<A HREF="craig_jo.html"ゴードン・クレイグ『劇場の芸術』への訳者メモ</A</div<div<A HREF="artofth.html"G. クレイグ『劇場の芸術』</A</div<div<A HREF="bukanron01-02.html"本論文の冒頭にかえる</A</div<div<A HREF="index.html"フロント・ページへもどる</A</div</BODY</HTML