エドワルド・ゴードン・クレイグ著・田才益夫訳

劇場の芸術― 第一の対話 ―


*** ある専門家とある演劇愛好家との対話 ***



 演出家 さて、私たちは今、劇場の中をひとめぐりして、劇場の一般的な構造、舞台や舞台装置を操作するための機械設備、照明器具、その他の諸々のものを見て回りました。そして私も、一つの機械としての劇場についての、これだけは知っておいて頂きたいと思うことをお話ししたわけです。そこで、ここらでちよっと客席にでも座って一息入れながら、劇場とその芸術について話し合ってみようではありませんか。
 ではお尋ねしますが、「劇場の芸術」とは一体何だとお思いですか?
 観劇家 私には「演技(アクテイング)」が「劇場の芸術」ぞあるような気がしますがね。
 演出家 すると、部分が全体に等しいというわけですか?
 観劇家そうじゃありません。じゃあ、あなたは戯曲(プレイ)が「劇場の芸術」だとおっしゃるのですか?
 演出家 戯曲は文学の作品です。そうでしよう?そうだとしたら、どうして一つの芸術が他の芸術でもあり得るなんてことになるんです?
 観劇家 なるほど、「劇場の芸術」が演技でも戯曲でもないとすると、私としては舞台装置とダンスがそうだという結論に到達せざるを得ないのですが、まさか「そうだ」とおっしゃるおつもリではないでしょうね。
 演出家 勿論です。「劇場の芸術」とは演技でもなければ戯曲でもありません。舞台装置でもなければ踊りでもないのです。そうではなく、これらのものを構成しているところの全ての要素から成つ立っているものなのです。動き(アクシヨン)はまさに演技(アクテイング)の精神(スビリツト)であり、言葉は戯曲の肉体(ポデイ)であり、線と色はまさに舞台装置の心臓(ハート)であり、リズムはまさに舞踊の精髄(エツセンス)です。
 観劇家 動き、言葉、線、色、リズムですって! じゃあ、その劇場の芸術とやらにとって、最も重要なものは、そのうちのどれなんです?
 演出家 どれがより重要なんてことはありませんよ。例えば画家にとってある色が他の色よりも重要だということが言えますか? 音楽家にとってこの音よりもあの音の方が大切だということがあるでしようか? ただ、見方によっては、動きが最も重要なパートだと言えなくもありません。動きは「劇場の芸術」にとって、絵画における描くこと、また、音楽におけるメロディーと同じ関係を持っています。「劇場の芸術」は行動(アクシヨン)――運動(ムープメント)――舞踊(ダンス)から発生したのです。
 観劇家 私は「語り(スピーチ)」から発生したものだとばかり思い込んでいましたよ。だから劇場(シアター)の父は詩人だと……。
 演出家 一般にはそう思われていますがね。でも、ちょっと考えてみてください。詩人イマジネーションは美しい言葉を選んだら、今度は、その言葉の中に声を求めます。そこで詩人はこれらの言葉を私たちに朗読したり、歌ったりして聞かせてくれます。でも、それだけです。その詩は歌い、朗読されることにより、私たちの耳を楽しませ、また、その耳を通して私たちの想像(イマジネーシヨン)を駆り立ててくれます。詩人が歌や朗読に身振りを加えようとしても余り役には立たないでしょう。それより、かえってぷち壊しになりかねません。
 観劇家 なる程、その点はよく分ります。つまり、完壁な抒情詩に身振りを加えることは不調和な結果を招くことにしかならないということですね。でも、劇詩(ドラマテイツク・ポエトリー)についてもこの結論は当てはまるとお考えなのですか?
 演出家 正に、その通り。ただし私が言っているのは劇詩についてであって、劇(ドラマ)についてではありません。この二っは別物なのです。劇詩は読まれるべきもの。劇(ドラマ)は舞台の上で見られるべきものです。従って、身振(ジエスチヤー)は劇(ドラマ)にとっては必需品であるのにたいし、劇詩には無用です。この両者、身振りと詩とが、相互に何か関係があるかのように言うのは馬鹿気ています。そこで今あなたが劇詩と劇とを混同されたように、今度は劇詩人と劇作家とも混同しないで頂きたいのです。つまり、前者は読者ないしは聴衆(リスナー)のために書くのであり、後者は劇場の観客(オーデイェンス)のために書くのです。劇作家の父が誰だかおわかりですか?
 観劇家 さあね、分りませんね。もしかしたら劇詩人ですか?
 演出家 違います。劇作家の父は舞踊家(ダンサー)です。じゃ今度は、劇作家は彼の第一級の作品をどんな素材から作ったとお思いですか?
 観劇家 多分、抒情詩人と同様、言葉を用いてじゃないかと思いますがね。
 演出家 また、外れです。それは劇芸術の本質を学んだことのない人が誰でも考えることですが、違います。劇作家は彼の第一級の作品を行動、言葉、線、色、リズムを用いることによって作り、この五つの要素フアクターを駆使することによって私たちの目や耳に訴えるのです。
 観劇家 すると、第一級の劇作家の作品と現代(モダーン)の劇作家の作品との違いは何なのです?
 演出家 第一級の劇作家は劇場(ザ・シアター)の子供でした。現代の劇作家は違います。第一級の劇作家は現代の劇作家がまだ理解していないことを理解していました。つまり、彼や彼の同僚が観客の前に姿を見せた時、観客は彼らが語ることを聞くよりも、彼らがすることを見ることにより一層熱中するものであるということを知っていました。また、他のどんな感覚器官に対してよりも、眼には、よりすみやかに、より強力に訴えうること、眼は言うまでもなく、人体の中で最も鋭敏な感覚であることを知っていたのです。
 俳優が観客の前に現われて最初に遭遇するのは、熱心な、飢えた沢山の眼でした。舞台の上で言われていることがよく聞きとれないほど遠くに座っている紳士淑女にしても、眼を凝らし、注意深く見てさえいれば直ぐ近くにいるようにも思えてきます。彼らに向って、また観客全部に向って、語られるのは韻文か散文かによってです。しかし動きはいつもです。詩的な動き、それはダンスです。散文的動き、それはジエスチャーです。
 観劇家 これは面白い。続けて下さい。
 演出家 いや――その前に、問題を整理しておきましょう。私は第一級の劇作家は舞踊家(ダンサー)の息子だと言いました。つまり、劇場(ザ・シアター)の子供であるが、詩人の子ではないと。そして、現代の劇詩人は詩人の子供であり、いかに聴衆に聞かせるかは知っているが、その他のことは知らないということを、ちょうど言ったところでしたね。
 でも、このような事実があるにもかかわらず、現代の観客は昔の人たちのように、聞くためにではなく、見るために劇場に来ているのだと言えませんかね? もちろん、現代の観客は、耳だけを働かせて聞いてくださいと詩人が訴えたとしても、見ること、そして眼をも堪能させることにこだわるでしようよ。そして、今度は、誤解しないで頂きたいのですが、私は、詩人が劇(ドラマ)の下手な書き手だとか、演劇に悪影響を及ぽしていると言っているのでもなければ、ほのめかせているのでもないのです。ただ私が理解していただきたいのは、詩人は劇場とは何の関わりもないし、また劇場から詩人が生まれたことなど、かつて一度もなかった。つまり、詩人は劇場的ではありえないということです。そして諸々の著作家(ライター)のなかで劇作家のみが劇場(ザ・シアター)にたいする多少の出生権(パース・クレイム)――それとも、ほんの細かなものですが――を持っているに過ぎないということです。
 しかし、続けましょう。私が指摘したいのは、大衆は依然として劇を聞くためにではなく、見るために集って来るということです。でも、この事が何を物語っているかお分りですか? ただ一つ、観客はちっとも変ってい一ないということです。彼らは無数の眼をもってそこに座っているのです。まったく昔さながらにです。そしてこの事は、劇作家も変り、戯曲も変ってきたことから考え合わせると、真に奇妙なこと生言えます。芝居(プレイ)は今では、動き(アクシヨン)、言葉(ワード)、舞踊(ダンス)、舞台装置(シーン)の調和ではなく、すべて言葉、さもなくば、舞台装置になってしまいました。
 例えば、シェークスピアの戯曲は、全面的に劇場用に作られた非近代的奇跡劇(ミラクル)や宗教劇(ミステリー)とは大いに違うものでした。『ハムレット』は舞台上演への適性を備えていません。『ハムレット』やシェークスピアの他の戯曲もそうですが、読む時には確かにスケールも大きく完壁ですが、舞台化されて上演されるとなると、あなかなかうまく行きません。それらの作品がシェークスピアの時代に演じ(アクト)られたということを証明するものは何もありません。
 一方、その時代、演劇のためにどんなものが作られていたかを申しましょうか――仮面劇(マスク)、野外劇(ページエント)です。これらは「劇場の芸術」の素晴らしい、見事な実例です。もし戯曲(プレイ)というものが見られるために書かれたのなら、読んだ時には、それが未完成であることがわかるはずです。ところで、『ハムレット』を読んで、それが退屈で未完成だったと言う人は一人もいないでしよう。それでも、『ハムレット』が上演された舞台を見て、「違う、あれはシェークスピアの『ハムレット』じゃない」と言って慨嘆する人は大勢います。
 すぐれた芸術作品について、もうこれ以上手を加える必要がないとき、その作品は「完成した(フイニッシユ)」と言われます――それは完壁(コンブリート)なのです。『ハムレット』は、シェークスビアが無韻詩の最後の言葉を書いたとき、完成した――完璧になったのです。ですから、私たちが身振りや、舞台装置や、衣裳や、踊りによって手を加えようとすることは、その作品が不完全で、これらの付加物を必要としていると言わんとしているのに他なりません。
 観劇家 と言うことは、『ハムレット』は決して上演すべきではないということですか?
 演出家 私が「イエス」と答えたからって何の意味があるのです? 『ハムレット』はまだ当分は上演され続けるでしょう。だから、上演者(インタープリーター)の義務は全力を尽くして良い仕事をするということです。しかし、私がすでに言ったように、劇場はいつまでも上演すべき戯曲を得ることにあくせくすぺきではありません。逆に、早晩、劇場芸術自身の作品の上演を心掛けるべきです。
 観劇家 となると劇場のための作品は、じやあ、本の形で印刷されたり、朗読されたりするには不完全であるということですか?
 演出家 そうですしかも、劇場の舞台の上以外のいかなる場所でも不完全です。読んだり、単に聞いただけではどうしても不満が残り、味気ないものであるはずです。何故なら、その作品の動き、色、線、リズムが運動と場面という形で表現されない限り完成されないからです。
 観劇家 面白くはありますが、あなたの考えには面くらいますね。
 演出家 たぶん、この考えが少々新しいからじゃありませんか?あなたが面くらうって、とくにどんなことか言ってくれませんか。
 観劇家 そうですね、まず第一に言えることは、私自身、これまでに劇場の芸術が何かち成り立っているか考えたこともなかったという事実です――私たちの多くの者にとって「劇場の芸術」とは単なる娯楽でしたからね。
 演出家 あなたにとってもそうですか?
 観劇家 ええ、私にとっては常に魅惑的なものでしたよ。半分は楽しみ、半分は知的訓練です。舞台はいっも私を楽しませてくれました。演技者たちの演技はしばしば私を教育してくれました。
 演出家 本当は、一種の不完全な満足です。それは不完全なものを見たり、聞いたりすることの必然の結果です。
 観劇家 しかし、私を満足させてくれたと思える芝居を多少は見たことがありますけどね。
 演出家 もしあなたが、どう見ても凡庸としかいいようのないものに完全に満足されたのだとしたら、あなたは凡庸なもの以下のものを求めておられた。なのに、あなたは御自分が期待されたものより、ほんのちよっぴりましなものを発見されたからだということになりませんか? ある種の人たちは、今日、退屈するのを覚悟の上で劇場に出かけています。これは至極当然のことで、彼らは既に退屈なものを求めるように教育されているからです。あなたが近代劇に満足したと私に話された時、あなたは、退化したのは芸術ばかりではなく、観客の何割かも同様に退化したことを証明されたのです。
 でも悲観しないで下さい。以前、私は非常に偏った生活をしている人物を知っていました。彼は辻楽師の手廻しオルガン以外の音楽を聞いたことがなかったのです。彼にとって、手廻しオルガンの音楽は、音楽たるべきものの理想でした。でも、世界には、御存知の通り、もっとましな音楽もあるのです――実際、手廻しオルガンの音楽ときたら全くひどいものですからね。だから、もし、あなたが劇場芸術の本当の作品を一度でも御覧になりさえしたら、あなたがいま劇場芸術の代りに押し売りされているものに、二度と我慢ならなくなりますよ。
 何故、舞台上に真の芸術作品を見ることが出来ないかという理由は、一般大衆がそれを欲していないからでもなければ、それに対応できる優秀な劇場技術者がいないからでもありません。それは劇場が芸術家を欠いているからです――劇場の芸術家です。いいですか、それは画家でもなければ、詩人でもなく、音楽家でもありません。私が前にも言った多くの優秀な劇場技術者にしてもが今の状況を変化させるのには何の助けにもなりません。彼らは劇場支配人の要求することを実行するよう義務づけられており、彼らもまた唯々諾々とそれに従っています。劇場の世界への芸術家の出現が全ての状況を変えるでしよう。彼は自分の周囲に私の言う、これらの優秀な技術者を徐々にではあるが、しかし確実に集めるでしょう。そして彼らは協力して、劇場の芸術に新しい生命を与えるのです。
 観劇家 他の連中は無しにですか? 
 演出家 他の連中? 現代の劇場には、その他の連中がごろごろしているのですよ、腕もなければ能もないという技術者が。でも彼らは弁護の余地がない訳じゃありません。彼らは自分の未熟さに気づいていないのです。私はそう信じます。それは自分の役割に無知でイノセントあるというより、白紙状態なのです。この連中にしたところで、劇場技術者としての意識に目覚め、技術の習得にはげんでくれたら、まだいいのでしょうがねポ私は、大道具師や、照明係や、かつら師、衣裳係、背景画家、俳優等にっいてだけ言っているのではありません(これらの人々が色んな意味で、最上の、そして最高に協力的な劇場技術者であるのは論をまちません)――私が主として言っているのはのは、演出家(ステージ.デイレクター)のことなのです。
 もし、演出家が劇作家の戯曲(プレイ)を演出(インターブリツト)する任務を果すために、技術的修練にはげむということになったら――ゆくゆくは、そして着実な進歩によって、劇場の失われた基盤を回復し、遂には、自らの創造的才能によって、その活動の拠点となる劇場に「劇場の芸術」を復活させるでしよう。
 観劇家 それじゃ、俳優よりも演出家を重視されるのですか? 
 演出家そうです。演出家と俳優との関係は、指揮者とオiケストラ、出版者と印刷屋との関係と全く変りがありません。
 観劇家 じゃあ、あなたは演出家は芸術家ではなく、職人(クラフツマン)であるとお考えなのですね? 
 演出家 俳優、背景画家、その他の職人(クラフツマン)という手段を通して、劇作家の戯曲を演出しようとする限り、彼は職人です――しかも職長です。もし、彼が動き、言葉、線、色、そしてリズムの使用をマスターした暁には、彼は芸術家になるかも知れません。その時には、我々はもはや劇作家の助けを必要としません――何故なら、我々の芸術はその時には、自立しているでしようからね。
 観劇家 あなたの劇場芸術ルネサンスの信念は、演出家ルネサンスの信念に基づいている? 
 演出家 その通り、正にその通りです。どうやら、私が演出家を軽蔑しているんじゃないかと思われたんじゃありませんか? そうじゃなくて、演出家の義務を完壁に遂行することを怠る者を軽蔑するのです。
 観劇家 その義務って何です? 
 演出家 彼の職能(クラフツ)は何です? ――じゃ、申し上げましょう。劇作家の戯曲の表現者としての彼の仕事は、およそ、次のようなものです。演出家は劇作家の手から戯曲のコピーを受取り、台本の中に指示された通りに忠実にそれを表現(インタープリツト)すると誓います(私が問題にしているのは最良の演出家についてだけだということをお忘れなく)。そこで彼はその戯曲を読み、最初の一読の間に、その作品が取るべき全体の色、音、動き、及び、リズムが目の当りに浮かびます。
 作者が台本の中に挿入したであろう舞台の指示や場面の記述等に関して言えば、それらは彼によって等閑に付されます。何故なら、彼はこの職能(クラフツ)の精通者ですから、彼としてはそれから学ぷものは何も無いのです。
 観劇家 どうもあなたのおっしゃることがよく分りません。男女の人物たちが動いたり、話したりする場面のことを、劇作家がわざわざ描写しているというのに、その演出家はその指示に対して何の注意も払わない――事実上、無視すると、そうおっしゃるのですか?
 演出家 尊重しようと無視しようと、それは同じことです。彼が配慮しなければならない事は、彼の作ろうとする動きや場面を、韻文または散文に、そしてその美しさに、その感覚にマッチさせることなのです。劇作家がどんな場面を我々に見せようと望んでいるにもせよ、彼はその場面を、人物たちの会話の、進行の過程において描くでしようからね。
『ハムレット」の第一場を例に取ってみましょう。それは次のように始まっています。 

ベルナルド 誰だ
フランシスコ お前こそ名乗れ。出て来い。
ベルナルド 国王万歳!
フランシスコ ベルナルドか?
ベルナルド そうとも。
フランシスコ 時間厳守だな。
ベルナルド 十二時を打ったばかりだ。さあ行って寝るがいい。
フランシスコ この交替は有難い。ひどい寒さで滅入ってたとこだ。
ベルナルド 異常なしか?
フランシスコ 猟一匹、コソともしない。
ベルナルド ホレイショとコルセラスに会ったら急げと言ってくれ、見張の相棒だ。

 演出家ならこれで十分分ります。彼はこの対話から、時は夜の十二時、野外、ある城の歩哨の交替、非常に寒く、非常に静か、そして非常に暗いということが分ります。これ以上どんな「舞台の指示」も劇作家が加えることは無意味です。
 観劇家 それでは、作家たるものいかなる舞台指示も書くべきでないとお考えなのですか?しかも、そんなことをするのは侮辱だと思っておられるようですね?
 演出家 じゃ、あなたはそれが劇場の専門家に対する侮辱ではないと思われるのですか?
 観劇家 どういう風に侮辱なのです?
 演出家 まず第一にお尋ねしますが、劇作家に対して、俳優が与え得る侮辱とは何でしよう?
 観劇家 自分の役を下手にえんずることですか? 
 演出家 いいえ、それは、その俳優がまずい技量の持主であることを証明するだけの話です。
 観劇家 じゃ、言って下さい。
 演出家 俳優が劇作家に与えうる侮辱の最たるものは、劇作家が書いた言葉や文章を省略したり、「ギャグ」と言われている余計なものを挿入することです。つまり劇作家固有の領域を侵犯するという侮辱になります。普通、シェークスピアを演る時、ギャグは入れません。そんなことをしようものなら、非難されずには済まされないでしょうからね。
 観劇家 それにしても、どうしてそれが劇作家の舞台の指示と関係があるのです? それに、そのような舞台の指示を書き記したとして、どんな侮辱を演劇に対してすることになるのです?
 演出家 それは彼らの領分を犯すことだからです。もし、詩人の詩行をカットしたり、ギャグを入れたりすることが侮辱なら、それはは演出家(ステージ・テイレクター)の芸術に対する干渉だからです。
 観劇家 すると、世界中の戯曲の舞台の示指は全て無駄だというわけですね?
 演出家 読者には無駄ではないでしようね。でも、演出家や俳優にとっては無駄です。
 観劇家 でも、シェークスピアは――
 演出家 シェークスピアは殆ど舞台監督(ステー-ジ・マネジヤー)に指示を与之ていません。『ハムレット』『ロメオとジュリエット』『リア王』『オセロ』など、主要作品のどれでも手に取って御覧なさい、一部の歴史劇に持物その他についての記述がある以外に、何か発見できますか? 『ハムレット』の諸場面はどのように記述されていますか? 
 観劇家 私の持っている版には明確な記述が見えます。例えば、「第一幕、第一場、エルシノア。城の前の高台」。
 演出家 あなたが御覧になっているのはメイロンとかいう人物の補註のある後世の版でしよう。しかし、シェークスビアはその種のものは一切書いていません。彼の記述は、第一幕、第一場(アクトウス・プリムス スツエナ・プリムス)です。……次に『ロメオとジュリエット』を見てみましユう。あなたの本には何と書いてありますか?
 観劇家「第一幕、第一場、ヴェロナ。公共の場所(パブリツク・プレイス)」とあります。
 演出家 で、第二場は?
 観劇家「第二場。道路」です。
 演出家 第三場は?
 観劇家「第三場。キャプレットの家の一室」です。
 演出家 じゃあ、今度はシェークスピアが実際に書いた場面指示をお聞かせしましょうか?
 観劇家 どうぞ。
 演出家 彼が書いたのは「第一幕。第一場」です。この戯曲を通して、幕と場に関する言葉は外にありません。次に、『リア王』にはどうです。
 観劇家 いや、沢山です。もう、分りました。シェークスピアは彼の記述から舞台を完成すべき舞台関係者の知性(インテリジエンス)を信頼していたのは明白であると……。でも、動きに関しても同じことが言えるのですか? シェークスピアは『ハムレツト』の中で多少の描写をしているじやありませんか。例えば「ハムレツト、オフェ一リアの墓穴に跳び込む」とか「レアティーズ、ハムレットと取っ組み合う」そして、その後に「従者たち二人を引き離し、墓穴から出て来る」と。
 演出家 いいえ、何も書いていません。舞台指示は始めっから終りまで全て、メイロン氏やキャペル氏、テオバルド、その他色々な編者の不粋な思いつきなのです。そして彼らは戯曲作品に手を加えるという無礼を犯し、そのお陰で我々劇場人は非道い迷惑をこうむっているのです。
 観劇家 それはどんな?
 演出家 どんなって……。仮りに、我々の誰かがシェークスピアを読んだとしますね。すると、これらの紳士方の「お説」にまるっきり反する色々の動きも思い浮かんで来ようというもんじゃありませんか。そして仮りにそのアイディアを舞台に再現させたとしますね。すると途端に、某物識り博士の非難叱責をこうむるというわけです。シェークスピアの指示に従っていないと。それどころか、もっとひどいのになると、まさにシェークスピアの意図に反したとかね。
 観劇家 でも、あなたの「物識り博士」と称する人たちはシェークスピアが舞台指示を一切書かなかったことを知らないのですか? 
 演出家 生半可な知識で批判をする場合もたとえあるというたとえですよ。とにかく、私が言わんとしていることは、我々の最も偉大な近代詩人たちは舞台指示が全く無用であり、それが野暮なことを知っていたということです。そういうわけで、何れにもせよ、劇場技術者(シアター.クラフツマン)― 舞台監督(ステージ.マネジヤー)の仕事の何たるかを、そしてまた、その戯曲の演ぜられる場面(シーン)を案出することが劇場技術者(シアター・クラフツマン)― 舞台監督の職能の一半を成すことをシェークスピアが理解していたということは確信できるのです。
 観劇家 分りました。ところ。で、あなたは各パートが何から成立しているかをお話しになっていましたね。
 演出家 そうでした。そして作者の指示が何かの役に立つという誤った考えにケリをつけたので、今度は、舞台監督が劇作家の戯曲を忠実に表現する仕事を始める方法について話を続けましょう。
 舞台監督は書かれたことに忠実に従うことを誓い、最初の仕事は戯曲を最後まで読み通し、強い印象を受けること、そして読みながら、既に申しました通り、その作品の全体の色、リズム、動きの確認にかかります。それからしばらく戯曲を脇へどけ、心の中でその戯曲の印象が喚起する色調を(画家の表現を用いると)パレットの上で調合するのです。その後で、彼が腰を下ろし、二度目の通読にかかる時には、彼が確かめてみようと思うある雰囲気に包まれます。
 二読目の終りには、比較的強く残っていた印象が今度はより一層明確に、動かしがたい確信となり、暖昧な印象は消えてしまっているのに気づくはずです。そこで彼はそれらの点をメモに取ります。もしかしたら、彼はこの時、早くも、頭の中にある幾つかの場面やアイディアを線や色で示そうとするかも知れません。でも、通常はもっと後になるはずです。少なくとも十回以上は読み返した後に……。
 観劇家 私はまた、舞台監督は戯曲のその方の部分――装置のデザイン――は装置画家(シーンペインター)に任せているものとばかり思っていましたがね。
 演出家 普通はそうです。近代演劇の大失策の第一に挙げられるのがこれです。
 観劇家 また、どうして大失策なのです?
 演出家 それはこうです。Aが戯曲を書き、Bがそれを忠実に表現すると誓います。戯曲の精神(スビリツト)なんてうっかりすると直ぐにも見失いかねない頼りないものです。そんな頼りないものを表現しようというのですから、それはまた、この上ない微妙な技と言わざるを得ません。そんな時、この精神の統一を保守する最も確かな方法はどっちだと思いますか? Bが一人で全ての仕事をやるか、それとも、その仕事をCやDやEの手に委ねるか――CもDもEも、BないしAと違った考えを持っでいるのですよ。
 観劇家 もちろん、前の方法が一番でしようね。でも、一人の人間が三人の仕事をすることが可能でしようか?
 演出家 芸術の創造作業に統一が不可欠であるなら、その統一を達成する方法は他にありません。
 観劇家 なるほど、じゃ、舞台監督は舞台画家を呼んで、舞台装置をデザインするよう求めない。それどころか、自分でそれをやってしまうと?
 演出家 その通りです。そして、このこともお忘れなく。彼は机の前に座り、歴史的に正確な、美しいデザインを描き、絵画的に適切な場所に必要なドアや窓を描き加えて行くわけですが、それよりも何よりも、彼は真っ先にある色を選びます。彼は不適当と思われる色を排除しながら、戯曲の精神にぴったり調和のとれていると思われる色を選ぷのです。次に、彼はデザインの中心として選んだ対象と関連させながら、一定の対象――アーチ、泉、バルコニー、花壇――を配置します。それから、戯曲の中で触れられている対象、また、その場面になければならぬ対象を加えます。これらのものに彼は、一人ずっ、この戯曲に登場する人物を加え、徐々に各人物の動き、各々の衣裳を加えて行きます。
 彼は場面の配置の中で幾つか問違いを犯している場合もあり得ます。もしそうだとしたら、彼は、言わば、編み上げたデザインを解いて問違いを正さなければなりません。たと之、出発点にまで戻って配置をやり直すことになろうとも――場合によっては、全く新しい構図で始めなければならなくなっても、労を惜しんではならないのです。とにかく見る者の眼を満足させるように、全てのデザインはゆっくりと、調和的に改善されて行かねばなりません。パターンこの視覚に訴えるべき構図を考案している問でも、装置のデザイナーは戯曲の意味や精神ばかりでなく、韻文または散文の響きからもそのアイディアを得なければなりません。そして、間もなく全てが準備されると、そこで始めて具体的な仕事がスタートすることになるのです。
 観劇家 具体的な仕事って何です? 舞台監督は既に具体的仕事と言われるべき可成り沢山の仕事をしていたように思えますがね。
 演出家 たぶん、そうかも知れませんね。でも、難事業はやっと始まったばかりなんです。私が具体的仕事と言うのは、装置用のキャンバスの巨大な空問に実際に絵を描いたり、実際に衣裳を作ったりする熟練労働を必要とする仕事のことです。
 観劇家 あなたは、舞台監督が自分の装置に自ら色をつけ、自分が描いた衣裳を裁断し、縫い上げるのだと、そうおっしゃるんですか?
 演出家 そうじゃありません。舞台監督がどんな場合にも、どんな芝居のためにも、そうするのだと言うつもりはありません。ただし、彼の修業時代のある時期にそれを体験するか、または、一これらの複雑な技能(クラフト)の技術的要点をつぶさに勉んでいなければならないのです。それだからこそ、それぞれに異る部門の熟練技術者を指導することができるのです。そして、舞台装置や衣裳の具体的製作が始まると、各々の俳優に役が振られ、俳優はリハーサルが始まるまでにせりふを勉強します。――ご想像の通り、これが普通だというのではなく、私の言う演出家(ステージ・デイレクター)の常々心がけるべきことなのです。そうこうしているうちに舞台装置や衣裳はほとんど揃います。だからと言って、公演準備に必要な興味ある、苦労の多い作業がこれで全て完了というのではありません。むしろ、一旦、装置が舞台の上に飾られ、俳優が衣裳をつけた段階においても、難題は依然解決されていないのです。
 観劇家 演出家(ステージ・デイレクター)の仕事は未だ終らないのですか?
 演出家 終らないって? どういう意味です?
 観劇家 いえね、舞台装置や衣裳は出来上がったのですから、あとは俳優たちがやるだろうと、いま、そう思ったものですから。
 演出家 とんでもない。舞台監督(ステージ・マネジヤー)の最も興味ある仕事が今、始まろうとしているんじゃありませんか。彼の舞台は飾られ、登場人物たちは衣裳をまとっているのです。要するに、彼の目の前には一種の夢の情景(ドリーム・ピクチヤー)があるのですよ。彼は芝居の口火を切る一人か二人、あるいはもう少し多い人物たち以外は皆、舞台の上から退かせ、この人物たちと舞台とを照らす照明の具合を当たり始めます。
 観劇家 何ですって! この部門は照明主任と彼のスタッフの判断に任せるんじゃないんですか?
 演出家 それをするのは彼らに任せます。しかし、そのやり方(マナー)を決めるのは舞台監督(ステージ・マネジヤー)の仕事です。何度も言うように、彼は知性(インテリジエンス)と現場経験の持主ですから、この芝居のための舞台照明の独特の方法を、場面や人物の衣裳を描いたのと同様に、工夫するのです。もし、彼にとって「調和」という言葉が重要な意味を持っていないなら、勿論、彼は手近かな所の誰かに、その仕事を任せるでしよう。
 観劇家 すると、舞台監督は、太陽がある高さで輝いている時とか、月の光が部屋の中にこれこれの強さで注いでいるというのが、どうすればそう見えるか照明係に指図できるほど自然研究にも怠りないのだと、本気でお考えなのですね?
 演出家 どういたしまして。そんなこと言うつもりは毛頭ありません。だって、自然光の再現(リプロダクシヨン)が舞台監督の意図じゃありません。そんな不可能なことをやろうはずがないじゃあリませんか。自然の模写(プロデユース)ではなく、自然の最も美しく、最も生命力にあふれた、そのあり方を幾分なつとも表現(サジエスト)すること――それこそが舞台監督の意図すべきものなのです。でなければ万能の驕慢を自他共に吹聴することになります。
 舞台監督たるもの、あるいは、芸術家たらんと努めるのもいいでしょう。しかし、そのような高尚な名誉を得ようとするのは舞台監督には似合いません。このような野心(アテイチュード)は、自然を捕まえようとか、真似ようとかいう試みを一切断念することによって避けられます。なぜなら、自然は決して捕えられるものでもなければ、また、誰かが真似ようとした所でうまく行くはずはないからです。
 観劇家 それでは、舞台監督はどんな具合に仕事を始めるのですか? 私たちが話題にしている舞台装置や衣裳に照明を当てる仕事の手掛りは何です?
 演出家 何を手掛りにするかですか? だって、舞台装置があり、衣裳があり、韻文なり散文なり台詞があり、また、戯曲の主題があるじゃありませんか。私空言ったように、これらの全てのものの間に調和が保たれて来たのです――全ては順調です――だから簡単明瞭でしょう? 仕事はそういう風に進むはずだし、監督のみが、いま作り出そうとしているこの調和を保つ術を知っている唯一の人間だということは……。
 観劇家 舞台や俳優に照明を当てる具体的方法というのをもう少し説明して頂けませんか?
 演出家 勿論です。でも、何がお知りになりたいのです?
 観劇家 じゃ、どうして舞台の床に沿って明りを点けるのでしよう? ――たしかフットライトと言うんでしたね。
 演出家 そう、ラットライトです。
 観劇家じゃ、どうして床の上に明りを点けるんですか?
 演出家 それはあらゆる劇場改革者たちを当惑させている疑問で、誰もその答えを見つけることができずにいます。それと言うのも、答えは無いからです。答えは今までにも無かったし、これからも無いでしよう。ただ一つなすべきことは、あらゆる劇場から全てのフットライトを一刻も早く取り払い、以後は、それについて何も言わないことです。これこそ、誰も説明出来ない、常々子供をも驚かせる不可思議なものの一つです。小さなナンシー・レインちゃんは一八二一年にデュアリー・レーン劇場に行きました。ぞして彼女の父親は、彼女もまたフットライトに驚いたことを語ってくれています。彼女は言いました。

「私の眼の前ランプの列、なんてこと!
 とてもギラギラ輝くの
 どうしてなの床に照明を並べるなんて」
             『拒絶された証言』

 これは一八二一年のことです!そして私たちはまだ不思議がっているんです。観劇家私の友人俳優が以前、語ってくれたことによると、フットライトが無いと俳優の顔が暗く見えるのだということでしたがね。演出家それは俳優の顔や姿を照らす方法が、フットライトの外にもあるのだということを知らない人の言い種です。それは至極簡単なことなのです。でも、他の職能分野にっいて多少の知識を得るために、いささかの時間も割く気のない人にはとても思いも及ばないことでしょう。
 観劇家 俳優は劇場の他の職能については勉強しないのですか?
 演出家 通常はーしませんね。しかも、ある意味では、俳優の生活と相反するものですからね。もし、頭の良い俳優が劇場芸術の全部門の研究に多くの時間を捧げたら、彼は段々と舞台に立つことを止め、最後には舞台監督になるでしょう――それほど、劇場芸術の全体は、演技という単一の職能分野に比べて興味深いものなのですよ。
 観劇家 友人の俳優はこうも言いましたよ。もしフツトライトをみんな取っ払ってしまったら、観客は俳優の表情を見ることが出来なくなるだろうと。
 演出家 ヘンリー・アービングだったかエレオノーラ・デュゼだったかも同じことを言いましたがね。でも、それには別の意味があったんだと思いますよ。一般の俳優の顔ってのは恐ろしく表情たっぷりか、恐ろしく無表情かのどちらかですからね。フットライトなんか無い方が、それどころか、まるっきり劇場に明りが無い方がいい位のもんでしょう。
 それはさておき、フットライトの起源についての優れた見解なら、ルユドヴィク・セレル氏が『十七世紀の舞台装置、衣裳及び演出』の中でその先鞭をつけています。一般に行われていた舞台照明の方法は、円形か三角形をした大シャンデリアによるもので、それは俳優と観客の頭上に吊られていました。そしてセレル氏の意見によれば、フットライトによる照明法はその起源を、シャンデリアを備え得ない、従って舞台前面の床の上に油灯を並べざるを得なかった小さな、簡素な劇場に負っているというのです。この説は正しいと思います。何故なら、常識をもってすればこんな芸術的失策をやらかすはずはあつませんからね。ところが切符の売上げはいとも簡単にそれをやらかすのですよ。切符売場(ボツクス・オフイス)には芸術的良心なんてカケラもあり.やしません! このいまいましい劇場芸術の王位簒奪者、切符売場(ポツクス・オフイス)については時を改めてお話しすることもあるでしょう。しかし、こんな言語道断な奴とかフットライトみたいなものより、もっと重要でもっと面白い問題に戻りましよう。
 私たちは舞台監督の色々の仕事、舞台装置、衣裳、照明について検討して来たわけですが、ここで私たちは、人物たちの動きやセリフを決めるという最も面白い部分に到着したのです。びっくりされたようですね。演技、つまり、俳優のセリフと動きは俳優自身が自分で決めるよう任されていないのかでしよう? でも、この作業の性格をほんのちょっと考えてみて下さい。すでに一定の統一を持った構図(パターン)にまで成長しているものを、ある偶然的なものを加えることによって損なってもよいというのでしょうか?
 観劇家 どういう意味です? おっしゃることは分るのですがね、でも、俳優がどのようにその構図(パターン)を損なうのかもう少し正確に説明して頂けませんか?
 演出家 無意識に損なっているのですよ! だからといって、彼らが周囲との調和を意図的に乱そうとしていると言っているのではありません。ただ、それに気がつかないのです。この点について、正しい勘を持っている俳優もいれば、その辺のことにはまるで無頓着というのもいるのです。しかし、どんなに鋭い勘を持った俳優にしても、舞台監督の指図に従わずに構図(パターン)のなかに留ることも、調和的であることもできはしません。
 観劇家 では、主役の男優や女優も自分の直感や理性の命ずる通り動き、演技することをあなたは認めないのですか?
 演出家 認めません。むしろ彼らこそ、率先して舞台監督の指示に従わなければなりません。それでこそ彼らはしばしばその構図のまさしく中心に――感情的(エモーショナル)デザインの心臓(ハート)に――なるのです。
 観劇家 で、その考えは俳優たちに理解され、認められているのですか?
 演出家 もちろん。ただし、彼らが同時に、戯曲と、その戯曲の正しく、しかも正確な解釈表現(インターブリツト)が現代演劇(モダーン・シアター)において最重要課題であることに気づき、正しく認識した場合に限ます。
 この点をもう少し詳しくお話ししましょう。上演される戯曲は『ロミオとジュリエット』です。私たちは戯曲を研究し、舞台装置と衣裳を準備し、照明も入り、いよいよ俳優のための稽古が始まります。最初の場面、ヴェロナの無軌道な市民の群衆シーン、喧嘩、口論、殺し合いは我々には衝撃的です。恐ろしいことにバラと歌と恋の清楚な小さな町に、驚くべき、世にも恐ろしい憎悪が住みつき、教会の門の前であろうと、五月祭の真只中であろうと、新しく娘が生まれた家の窓の下であろうと、今にもそれが破裂しそうな勢です。
 キャピュレットとモンタギュー両者の顔に刻まれた醜悪さがまだ念頭から消え去る間もなく、モンタギューの息子、やがてジュリエットと相思相愛の仲になる我らがロミオがぷらぷらと街路を下って来ます。従って、誰がロメオとして動き、話すように選ばれようと、選ばれた者はその場のデザインの中心人物として動き、話さなければなりせん――このテザインというのは、先程、あなたにも申しました通り、最終的に決定された形(フオーム)のものです。彼はある一定の照明の中で、ある一定の態度を保ちながら私たちの眼前のある点を通り過ぎなければなりません。ある角度に保たれた頭、眼、足、全身がその戯曲と調和していなければなりません。そして (これはしばしば起り勝ちなことですが) 自分だけの発想とだけ調和していても駄目で、そんなものは戯曲とは不調和です。何故なら、俳優の思いつきなどというものが(偶然に、優れていることがあるにしても、監督(ディレクター)によって慎重に準備されて来た表現意図(スピリツト)や構図にかなうはずがないからです。
 観劇家 じゃ、ロメオという人物を演ずるのが誰であっても、その俳優の動きを舞台監督の指揮(コントロール)下に置くとおっしゃるのですか? たとえ、それが名優であったとしても――
 演出家 まったく、その通りです。それに、名優であればある程、それだけ優れた知性と趣味の持主でしょうからね、だから、それだけコントロールも容易なわけです。実は、私がお話しているのは、特に、そこで働く俳優が全員洗練された俳優であり、監督(デイレクター)もまた独特の技能を身につけた人物であるような、そういう劇場のことなのです。
 観劇家 でも、これらの知的俳優たちにたいし、操つ人形になれζ言わんばかりのことを要求されているんじゃありませんか?
 演出家 それこそ、自分の力に不安な俳優が神経を尖らせてたずねそうな質問だ! 操り人形は今のところは単なる人形です。人形芝居(パペツト)のときには、まったく楽しいものですがね。しかし、劇場のためには、人形以上のものが必要です。でも、舞台監督と自分たちとの関係についてある種の俳優たちが感じる気持ちはそんなもんでしょうね。彼らはヒモで操られると感じ、憤慨し、自尊心を傷つけられた侮辱されたと思うのです。
 観劇家 その気持は分ります。
 演出家 じゃ、今度は俳優たちが自発的にコントロールさるべきだという点についても御理解いただけませんかね? たとえば、軍艦上での人間関係とちょっと考えてみてください。そうすると、劇場のなかでの人間関係について私が考えていることがご理解いただけると思うのですがね。軍艦ではどんな人たちが働いていますか?
 観劇家 軍艦ですか? そう、艦長がいて、副艦長がいて、一等、二等、三等士官、操舵士等々がいて、それから一般の水兵ですか。
 演出家 軍艦を導くのは何でしょう。
 観刺家 舵のことですか? 
 演出家 そう、で他には?
 観劇家 操舵手。舵のハンドルを握っています。
 演出家 他には?観劇家操舵手を指揮する人。
 演出家 それは誰です?
 観劇家 航海士官です。
 演出家 航海士官を指揮する人は?
 観劇家 艦長です。
 演出家 じゃ、艦長から発せられたのではない、または、艦長の名によらない命令があった場合、皆はそれに従いますか。
 観劇家 いえ、従わないでしょうね。
 演出家 じゃ、艦長なしに軍艦は安全に航路を進むことが出未ますか?
 観劇家 普通は出来ないでしょう。
 演出家 じゃ、乗組貝は艦長や士官に服従しますか。
 観劇家 原則として、イエスです。
 演出家 自発的に?
 観劇家 もちろん。
 演出家 それを規律(ディシプリン)と言いますよね。
 観劇家 そうです。
 演出家 で、規律――どうすればそうなるのです。
 観劇家 規則や原則に忠実にかつ自発的に服従することによってです。
 演出家 その規則や原則の第一に挙げられるのは服従です。ですね?
 観劇家 その通り。
 演出家 よく出来ました。じゃ、大勢の人間が仕事に携わる劇場は色んな点で軍艦に似ています。したがって、ある種の管理を必要とするのです。この点はあなたにも容易にご理解いただけると思うのですがね。そこで、どんな些細な不服従の兆候も不幸な結果を招くだろうこともお分りいただけますね。海軍では上官への反抗に対しては細心の配慮がなされています。じかし、劇場では無しです。海軍では明確な表現で、艦長は王であり、しかも専制君主であると定義づけるほど、この点には気を配って来ました。艦上での反抗は軍法会議にかけられ、重罰が課せられ、投獄され、軍務から追放されるのです。
 観劇家 まさか劇場にもそんなものが必要だと言うおつもりではないでしようね?
 演出家 劇場は軍艦とは違い、戦争を目的としたものではありませんからね。だから、どんな部門の仕事でも、同様に規律は重要なはずなのに、色々の理由から、それほど重要には考えられていないのです。でも、私が一言いたいのは、規律とは監督(マネジアー)つまり艦長(キャプテン)にたいする自発的かつ心からの服従であるということが劇場のなかで理解されないかぎり、大きな成果は達成できないだろうということです。
 観劇家 でも、俳優や、舞台係、その他の人たちは協力的な作業員ではないのですか?
 演出家 なんてこと、おっしゃるのです。劇場の人たち、男女を問わず、これほど素晴らしい人たちは他にありませんよ。彼らは熱烈といって言いくらい協力的です。しかし、ときどき彼らの判断には狂いが生じ、従順であったのが途端に無統制になるし、軍旗(スタンダード)を高く掲げたかと思うと、とたんに、今度は引きずり下ろそうとするのです。妥協に対して旗色を鮮明にするという点に関しては到底、夢想だにできないことですが、敵との妥協という悪しき主張をする奴が劇場海軍の士官のなかにいるのです。我々の敵は、俗悪を売り物にすること、次元の低い評判、それと無知です。これらのものに対し我らが「士官」たちは、私たちが屈服するのを望みます。劇場人が依然どして理解しようとしないことは、高い目標(スタンダード)とそれを支える監督(ディレクター)の価値です。
 観劇家 で、その監督は、なぜ俳優か装置画家でなくてもいいのですか?
 演出家 あなたは皆のなかから指導者を選び指揮官にします。で、その後で、彼に銃やロープを操作しろとでも言うのですか? 否です。劇場の監督(デイレクター)はどの専門職からも切つ離されているべきです。彼はロープの扱い方も知ってはいても、もはや、自分でそれを扱う人間であってはならないのです。
 観劇家 しかし現実には、劇場の多くのリーダーたちが俳優であり同時に舞台監督(ステージ・マネジャー)でもあったと思いましたがね。
 演出家 そう、その通りですよ。しかし、そういう連中の支配下でまったく反抗が無かったとは、あなただって言い切れないでしょう。この職能(ポジション)の問題は、劇場芸術、その作業(ワーク)の問題に直結しているのです。もし一人の俳優が舞台の監督(マネージメント)もしたとします。そして彼が他の同僚よりも良い俳優だったとしたら、本能的に、彼は自分自身をすべての中心に置くようになるでしょう。彼こうしなければ、舞台は希薄な不満なものになると感じるようになり、戯曲によりも、自分の役の方に一層注意を払うようになります。そして事実、彼は段々と舞台を全体として見なくなります。
 これは舞台作品にとってはまずいことです。これは劇場で芸術作品を作るのに適した方法とは言えません。
 観劇家 でも、そのような大芸術家を見つけることは不可能なんじゃありませんか? 監督として、今あなたが言われたようには決してしない。自分を常に他の俳優と同じように扱うというそんな芸術家は――。
 演出家 なんだって可能性としてはあり得ます。しかし、第一に言えることは、あなたがおっしゃるようなことは俳優の自然に反するということです。第二に、演技することは舞台監督の自然に反します。そして第三に、一人の人間が同時に二つの場所に存在しうるということはあらゆる自然の法則に照らしてありえません。俳優の場所は舞台上のある位置です。そして舞台装置や他の俳優たちに取りまかれながら、どんな感情表出にも即応できるよう気を配っていなければなりません。
 一方、舞台監督の位置はこの手前。つまり、その全体が見渡せる場所です。だから完壁な舞台監督であるような完壁な俳優を発見し得たとしても、彼は同時に二つの場所にいることは出来ないことがお分りでしよう。勿論、第一バイオリンを演奏する小さなオーケストラの指揮者を時々見ることがありますが、それとて好んでやったのでもなければ、また満足な結果を得られるものでもありません。また、大オーケストラでの常識でもありません。
 観劇家 つまり、あなたは舞台監督以外に舞台を支配するものを認めないということですね。
 演出家 この仕事の本質が、それ以外は許さないのです。
 観劇家 劇作家にも駄目ですか? 演出家その劇作家が演技、装置画家、衣裳、照明、舞踊の技術を実習し、研究していればですが、そうでなければ駄目ですね。劇場の中で育った劇作家でなければ、これらの技術をほとんど知らないのが当り前です。ゲーテは劇場にたいする新鮮な美しい愛を持ち続けたステージ・デイレクター人で、色んな意味で偉大な演出家の一人でした。しかし、彼がワイマール劇場に関与したとき、彼の後から現われた大音楽家さえ気づいたことを見落していました。ゲーテは劇場内に自分より高い権威の存在を許してしまったのです。つまり、劇場のオーナーです。それに反しワーグナーは劇場の所有者(オーナー)になることに細心の注意を払いました。そして彼は自分の城の一種の封建領主になったのです。
 観劇家 劇場監督(シアター・デイレクター)としてのゲーテの失敗はそのせいなのですか?
 演出家 明らかにそうです。と言うのも、もしゲーテが全てのドアの鍵を管理していたら、あの恥知らずの小さなプードル犬は楽屋から決して出られなかったでしょうし、主役の女優もまた、劇場をも自分自身をも永遠の笑いものにしなくてもすんだでしょう。そしてワイマールはかつて劇場内で起った最もショッキングな失策を犯してしまったという伝説をも免れたでしよう。
 観劇家 たしかに、色んな劇場の裏話を聞くと、舞台の上で俳優はあまり尊重されていないように見うけますね。
 演出家 なるほど、劇場の困った点や、芸術にたいする無理解についてあげつらうのはいとも易しいことですがね。でも、倒れたものを鞭打つのだって、そのショックでもう一度立ち上がるかも知れないという希望があればの話でね。ところが、私たちの「ウェスターン劇場」は落ちるところまで落ちたって感じです。東部地区(ザ・イースト)にはまだ健在な劇場が一つありますがね。ここ西部地区(ザ・ウェスト)の私たちの劇場は息も絶えなんとしています。
 でも私はルネサンスを待望しています。
 観劇家 それはどういう風に来るのでしょうね?
 演出家 それは、劇場の主人(マスター)となるに相応しい資質の全てを備えた、ある人物の出現によって。また、一つの機械(インストルメント)としての劇場の改造(リフオーム)によってです。それが叶えられ、劇場がメカニズムの傑作となり、その劇場が一つの技術を編み出した暁には、劇場は何の苦労もなくそれ自身の創造的芸術を現出させるでしょう。しかし、技術(クラフト)を自立的かつ創造的芸術へ発展させるという全体の問題は、その実現までには長い長い時間を要するはずです。
 すでに劇場の建築に従事している劇場人もあります。またあるものは演技の改革に、またあるものは舞台装置の改革に――。でも、このどれも、ほんの小さな価値しか持ちえません。劇場のたった一つの技術(クラフト)を改革しても、その成果はほとんど無いか、あってもほんのわずかです。だから、やるのならばすべての技術を、同じ劇場で同時にやらないことには駄目だということを、まず第一に認識しなければなりません。「劇場芸術」の完全なルネサンスはこの認識の程度に依存しているのです。私がすでに申しました通リ、「劇場の芸術」は極めて多くの技能(クラフト)に分割されています。
 演技、舞台装置、衣裳、照明、大道具、歌、踊り等々です。だから、先ず最初に、部分ではなく、全体の改革が必要であること。そして、二つの部分、一つの技能(クラフト)は劇場の他の技能の各々と直接的に結びついていること。場あたり的な、不均等な改革ではなく、、体系的(システマティック)な進歩(プログレッション)でなくては何の成果も得られないという認識が必要です。ですから、「劇場の芸術」の改革は劇場の全ての技能を学び、訓練を受けた者にとってのみ可能なのです。
 観劇家 それは、すなわち、あなたの理想の舞台監督ということですね。
 演出家 そうです。あなたは覚えておいででしょう。この会話の最初に述べた私の信念を。「劇場の芸術」のルネサンスは演出家のルネサンスに依存する。そして、俳優、舞台装・置、衣裳、照明、そしてダンスの正しい使用法を理解し、表現の技術をマスターした時はじめて、行動、線、色、リズム、及び言葉、これらのすべてから発展する究極的な力を徐々に自家薬篭中のものとするだろう……と。
 そしてさらに私は言いました。「劇場の芸術」はその権利を取りもどし、その作品は創造芸術として自立し、もはや単なる再現の技法ではなくなるだろうと。
 観劇家 ええ、で、そのとき、私はあなたのおっしゃる意味が理解できませんでした。そして今、あなたのおっしゃることの大意はつかめたものの、詩人のいない舞台など、どうしても思い浮かべることができません。
 演出家 なんですって? 詩人がもはや劇場のために書かなくなるというのに、何か不足でもあるのですか?
 観劇家 戯曲が欠けてしまいます。
 演出家 本当にそう思いますか?
 観劇家 書くべき詩人や劇作家がいなければ、戯曲は無くなってしまうに決ってますよ。
 演出家 あなたがおっしゃる意味での戯曲は無くなるでしょうね。
 観劇家 でも、あなたは観客に何かを見せるおつもりなんでしょう。そんなら、その何かを見せる前に、その何かを持ってなきゃいけないんじゃないかと思うのですがね。
 演出家 ごもっともです。でも、あなたは肝心の点を捕えそこなっています。あなたの間違いは、その何かが言葉から出来ていなければならないと、まるで金科玉条ででもあるかのように思い込んでおられることです。
 観劇家 でも、この何かが言葉から出来たものでないなら、一体、それは何です。観客のためのものではないのですか? 
 演出家 じゃ先ず言って下さい。アイデアは何かではないのですか?
 観劇家 何かではあリますね。でも形が無いじゃありませんか。
 演出家 でも、そのアイディアに何らかの形を与えることは芸術家の選択に任されてもいいんじゃありませんか?
 観劇家 ええ。由演出家そして、劇場芸術家が詩人のものマテりアルとは異る別の材料を用いることは、許しがたい犯罪ですか?
 観劇家 いいえ。
 演出家 じゃあ、もしある材料があまり役に立たないということになれば、何か他の材料を探すなり、発明するなりして、その材料で、あるアイディアに形を与えてもいいわけですね。
 観劇家 はい。
 演出家 大いた結構。じゃ、私がこれからお話しすることをしばらくの間聞いて下さい。そして家に帰ってからもう一度考えてみて下さい。あなたは私が申し出たことをすべて認めてくださったので、今度は私があなたに、未来の劇場の芸術家はどんな材料からその力作を生み出すかをお話ししましょう。それは運動(アクシヨン)と舞台場面(シーン)と声(ヴオイス)です。
 簡単でしょう? 私が運動と一言うとき、身振り(ジエスチヤー)と踊り(ダンス)の両方を意味しています。運動の散文(ブローズ)と詩(ポエトリー)です。私が舞台場面(シーン)と言うとき、舞台装置だけでなく照明や衣裳などの視覚に訴えるものすべてを意味します。私が声と言うとき、話される言葉、歌われる言葉という意味で、読まれる言葉ではありません。何故なら、話されるべく書かれた言葉と、読まれるべく書かれた言葉とはまったくの別物だからです。
 私は、この対話の最初にお話ししたことをくり返しただけなのに、今度は、もう、それほど戸惑ったような顔もなさっていない。安心しましたよ。(ベルリン・一九〇五年)