――このページに紹介するのは、もう、50年も前になるだろうか、私の物書きとして修業時代の練習作で、文章作品など書いたこともない手探りの時代、いろいろ思いあぐねて、文章作法の通信講座のを受講して、文章の練習を始めようと心に決めたばかりで、まだまだ幼い作品である。いまでこそ、チェコ文学翻訳家を自称しているが、この頃はチェコ語の習得どころではなく、まだ芝居の裏方をしながら、自分なりに、悶々と思い悩んでいたのである。――



  

習作―1.

   妻の海外旅行


 謙太郎と保子は、結婚以来、ずっと共働きである。謙太郎の職業が、なんといっても金にならない、新劇の裏方であるので、収入が一定せず―― 一定していてたとしても、その絶対値が低く、二人の生活を保つには少なすぎることから、保子は、結婚以前から勤めていた会社に、ずっと居続けてしまった。しかも十年以上も勤めていると、給料の方も相当に高く、今や生活の支えは、主として、妻の収入によっているといった方が正しい。
 保子は、謙太郎の気の弱さ――実は人の良さ――に比べると、ずっと勝気で、仕事の上でも、今やその会社に無くてはならない存在になってしまった。その会社というのは法人組織のもので、少し変わっているのだが、初生雛、つまり、孵化したばかりのひよこオス・メスを鑑別する技術者(通称・鑑別師)を海外の養鶏所に派遣するエージェントのようなところなのである。したがって海外に出る鑑別師たちは、大なり小なり、保子の世話になっているというわけである。
 ところが、今年に入って間もなく、保子の所に一通の招待状が舞い込んでいた。海外で活躍している鑑別師達の間で、急に、これまで世話になってきた保子を、海外にいる鑑別師の有志が中心になって、金を出し合い、現状視察をかねて招待しようということになったのだ。
 これまでも、保子は海外旅行に行きたいとは思っていたのだが、いまこうして、それが急に実現してみると、色々と不安やら、もっと色々なところを見物したいという欲などが出てきて、自分でも収集がつかなくなってきた。もともと外国旅行とはいっても、海外の各地に派遣されている鑑別師たちのいるところ、どうせ、養鶏所やら孵化場のある所だから、都会とはほど遠い田舎の方なのである。でも、半分は公的な招待やら視察旅行とやらいう名目になり、一か月近くも公休をとって行く以上、結局は、自分の思い通りにはならなくなってしまった。
 フランス、イタリア、ドイツ、ベルギー等、それぞれに、訪れるべき名所旧蹟はあるだろうに、そのうち希望通り、訪れうるのは、ほんの数か所になってしまった。それに、もう一つの難関は言葉である。迷子になったらどうすればいいんだろう。「まあ、行って見れば何とかなるさ」と夫の謙太郎はきわめて暢気である。
 保子はもはや追いつめられたような気がして、夫の言動の一つ一つが、なんだか自分の不安に対する無関心の表れであり、ひいては愛情の希薄さの証拠であるような気がしてくるのだ。それにまた、一か月も謙太郎を放っておいたら、何やら、よからぬ事件でも起こしはしないか、またまた心配が起こってくるのだった。(一応、了)




[添削指導](概評)その話が突然舞い込んでくるあたりから書き出した方が、興味がそそられていい。文章は書きなれていますね。原稿用紙の使い方も申し分なく、段落の取り方もよい。歯切れのよい文で、軽快なタッチで、ユーモラスな保子の海外旅行に仕上げてほしい。一応了の結びは、その作品への伏線だろうか。M








習作―2.


    筋腫


 徹が残業で、少し遅く勤めから帰ってくると、妻の恵子が、食卓に肘をつき、熱っぽい頬をかかえるようにして座っていた。
「どうしたんだい?」と迎えにも出てこない妻に、やや不満を感じながら、徹は言った。恵子はさもしんどいというように、
「今日、病院に行ってきたの、そしたら……」
「そしたら、あたし、出来てるんだって」
「え? 何が。まさか、子供じゃないだろう?」と、徹は、もしかしたらと思う一方で、そんなこと間あるまいと思う一方で、そんなこともあるまい、と強いて平静をよそおいながら言った。「もう一人位、子供が欲しいな」と話し合ったのは、つい数日前のことだった。
「だけじゃないのよ」
 恵子の声は、欲しがっていた、二人目の子供が出来たというにしては、元気がなかった。
「だけじゃないって、何かあるの、他に?」
「それがね……、あたし、癌かも……」
「え? 癌? まさか……」
 恵子は日頃から、「あたしの母は、癌で亡くなったのだから、あたしも、きっとがんで死ぬんだわ」と、口癖のように言っているので、徹は、またかと、心の中では少々うんざりしながら言った。
「で、子供の方はどうなんだい?」
「それが、二か月の終わりなんだって。でもね」と、恵子は、そこで一度、言葉を切ってから続けた。
「子宮の外側に、何か出来てるんだって。まだ、よくわからないけど、筋腫じゃないかって」
「キンシュ? なんだい、そりゃ」
「なにかよく分らないけど、おできみたいなものらしいわよ」
「じゃ、子供はだめなのかい?」
「子供には、全然影響ないんだって」
「なあんだ、子供に影響がないんだったら、いいじゃないか。でも、母体の方はどうなんだ?」
「それがね、放っておいても、子供を産んでしまうと、また小さくなって、そのままにしといても、心配ないって、先生は仰るの」
「医者が、そう言うんだったら、まあ、心配はないんだろう」
「でも……」と、恵子は、まだ不安げだった。
 徹にとっても、それは気がかりなことでなくはなかった。それは、「あたしも癌で死ぬんだわ」という、例の妻の口ぐせが、その時、妙に胸につかえてきたからだった。徹は上着を脱ぐと、黙って冷蔵庫からビールを取りだして、栓を抜いた。コップについで、ぐっとあおると冷え切ったビールが喉を刺した。




[指導講評]ちょっと短すぎる感じですが、会話のやりとりは十分、その場の空気が出ているように思われます。
 ただ、子宮筋腫のような重苦しい病のフンイキが、これだけでは物足りないようにも感じますが。もう少し長文をやってみてください。M