即興的小品  op 2.  「池のほとり」

 

  晴れた日、吉治老人は近くの武蔵原公園の瓢箪池にひなたぼっこがてら、子犬のヤンをつれて出かける。瓢箪池を半周ほどしたところで、ヤンに声をかける。
  「おい、ヤンや。このあたりでひと休みするか」
   そういって、近くの日当たりのいい池の縁の空いたベンチに腰をおろす。ヤンはベンチの端のところにちょこんとすわって、老人の顔を見ている。そして老人がタバコを一本取り出して煙をふかしはじめると、ちょっと困ったなというような(それとも人間にそう見えるのか)表情をして、別のかなたの鳩や小鳥たちがくちばしで地面をつついて餌の虫か、釣り人がこぼしていった釣り餌のくずかをついばんでいる様子をしげしげと見つめている。
   ころあいを見てヤンが老人のほうをふり向くと、老人はちょうどタバコを吸いおわり、備えつけの灰皿の上でタバコの火をもみ消しているところだった。ヤンはいつしかそのタイミングも覚えたらしい。ヤンはしっぽを振り、あるいはしっぽに振られながら体中をくねくねさせ、こんどはぼくが甘える番だといわんばかりに、にこにこしながら老人のほうに体をすりつけ、匂いをかぎ、ぺろぺろとなめる。(犬はにこにこしないと思われる方は、犬がこんな風に飼主に甘えるところをご覧になるといい。犬はほんとににこにこしていますよ)
   そこで老人は立ち上がる。すると、ヤンはおとなしく老人のあと先になりながら、わが家のほうにもどっていく。こうして毎日の日課の一つが終わるのである。
   老人の本職はもともと指物師だったが、いまのように何もかもが機械で、自動的に大量生産される時代になってくると、吉治老人のように手間ひまかけて一つ一つ手造りをするような物造りの方式はとっくに時間にたいしても、技術にたいしても間尺にあわなくなっていた。
   また世の中の流れが実用本位となれば、物にたいして付加された形のない職人の心意気とか精魂といったものの価値もなんら金銭的な価値評価の対象にならなくなってしまっている。だから、老人は手すさびがてらに孫のおもちゃを作ったり、ヤンの犬小屋をつくり、それに合ったミニチュアの戸や障子をつくり、それを庭――庭というほどの広さもない縁側と垣根とのあいだの隙間――の片隅において子犬の住家にしていた。
   子犬のヤンは、近くにすんでいたチェコ人の外交官の家族が飼っていた雌犬の子供だったが、その外交官が急に本国に帰ることになり、親犬のほうは同じ大使館の同僚に引き取ってもらった。何匹か生れた子犬たちのうち一匹だけ手元において育てていたこの子犬にも引取り手は何人も名乗り出たが、彼にはこの子犬の引取り手として、すでに心にきめた人物がいた。もともと大型犬だから親犬は老人の手には負えないということがわかっていたから、その子犬を吉治老人に引き取ってもらおうと思ったのだ。
   チェコ人はもともとが器用な民族で、家のなかのいろんなものを作ったり、手入れをしたり、直したりするのが得意だが、あるときたまたま母犬のマリエを連れて、日曜日の散歩に、吉治老人の家の前を通りかかったとき、老人が、源治襖(ふすま)のはめ込み障子という、本来の職能領域とは少しことなるが、久々の注文に精魂をかたむけて仕事に取り組んでいるところだった。その姿を見かけて、足をとめて眺めているうちに、いつしか外交官と老人は挨拶をかわすようになり、言葉も、最初は一言二言だったが、そのうちに親しく話をかわすまでになったのだ。
   チェコの外交官の名前はハラーシェクといったが、老人の耳にはどうしても「原しゃん」としか聞こえなかった。こうして吉治老人と「原しゃん」との友情は芽生えた。
   原しゃんは吉治老人の家の床の間や、かつて仕事場だった板の間のうえに無造作にほうりだされている大小のいろいろな形の箱や、木を組み合わせた細工物をめずらしそうに見ているうちに、だんだんとそれらのものがほしくなった。その様子をなんとなく感じ取った老人は気前よく、そこらの適当なものを外交官にプレゼントした。原しゃんは大喜びで、意気揚揚と引き上げていった。
   日曜日の昼下がりなど、原しゃんことハラーシェク一等書記官はよくセッター犬のマリエをつれて散歩に出かけたが、そんなときにはいつも、「こんにちは」といいながら吉治老人の家をのぞいてみるのだった。老人が家にいるときは、犬をつれて縁側に腰をかけ、日本茶をご馳走になりながら、もちろん日本語で話をした。そして老人が手入れのために広げた指物師の道具の一つ一つ手にしては、「これはめずらしい道具ですね」といって興味しんしんと見入っていた。それらの道具は日本人独特の感性によってみがきあげられていった道具の伝統をはっきり示していた。
  「この道具は何といいますか?」
  「ああ、それはわき取鉋ですよ」
  「これは?」
  「みんなはコテ鑿(のみ)と呼んでますな」
  「ああ、コテというのは日本のお裁縫でつかう、わたしたちがアイロンと呼んでいるものですね。形が似ている」
  「ほほう、原しゃんは日本のことを本当によく知っておられますなあ」
  「いえ、たいしたことではありませんよ。いつか図鑑で見たことがあるだけです」
   原しゃんはさらに珍しそうにいろいろな細かな道具を手にしては興味深そうに見ていた。
   そうやって見ていると日本の道具は手に触れる部分はみんな木で出来ている。そして、その木部は人間の手で使い込まれた艶を見せ、あめ色に光っている。原しゃんは感嘆の溜め息とともにそれらの道具をていねいに元にもどした。
   そのとき老人は何を思ったか一本の木切れをもってきて手の中に入るような小型のカンナで、その木片をなでた。するとカンナの刃を止めた木部の隙間から、薄い美しい鉋屑の帯が飛び出してきた。老人はさも照れたように、自分の傑作の透き通るように薄い鉋屑をつまんで原しゃんのほうに見せた。
  「クラースニー・プロウジェク・ドジェヴァ!」
   原しゃんの口から思わずチェコ語の感嘆の声がもれた。原しゃんは老人の名人芸に感服したように、いずまいを正すかのように縁側で上半身をのばした。
   一方、原しゃんはプラハのカレル大学で日本語を学んでいたから、老人との会話程度なら楽にできた。それでもときどき老人が聞き返すことがあるのは、たぶん、老人のほうの耳のせいだろう。
   吉治老人は「日本それ自体」であったが、日本についての知識は吉治老人よりも原しゃんのほうがはるかに上だった。吉治老人は原しゃんからいろんな日本についての話を聞いて、その知識の豊富さにすっかり感心し、原しゃんの親日感情に感動した。だって、日本人である自分でさえうろ覚えにしか記憶にない日本の偉人や政治家のこと、また、日本の近代史におけるいろんな事件についてもよく知っていたからだ。
   こうして、原しゃんの吉治老人宅訪問は半年ほども続いただろうか。そんなある日、原しゃんは背広にネクタイをしめた正装で吉治老人を玄関から訪ねた。老人の家の前には黒い乗用車が止まっている。
   「どなたですか」 と老人はすわっていたのを、急に立ち上がったように、やや上体を前屈みにしながら玄関に出てきた。そこに見慣れぬノッポの外人を見たとき、一瞬、誰だか見分けがつかずにとまどった。
   原しゃんはにこやかに、いつもの調子で「おじいさん、ボクです、原しゃんです」とにっこりして手をさしだした。
   老人はそこに立派な外国人――外交官――を見て、いつもの調子を取り戻せずに、やや、かしこまって、「やあ、原しゃんですか?」と目をぱちくりさせた。
   「ぼく、今度、急に本国のチェコに帰ることになりました。それで、ご挨拶に来たのです。長いこと、仲良くしてくださってありがとう。このことはボク、チェコに帰っても忘れません」
   「そうですか、お国へお帰りますか、それはうれしいですね」
   原しゃんの日本語につられて、吉治老人も変な日本語で言葉を返した。
   「うれしいと同時に、ちょっとさびしいです。おじいちゃんに会えなくなりますからね。ボクはおじいちゃんから、おじいちゃんの仕事の話を聞くのがとても楽しみでした。おじいちゃんのお仕事には、ボク、心を感じます。ボクはいつかまた日本に来て、おじいちゃんの仕事のような日本古来の技術の研究をしたいとおもいます。それではおじいちゃん、お元気でいてください。それから、これ、もらっていただけないでしょうか? ほかにも、たくさんもらいたい人いましたが、この子犬だけはおじいちゃんにもらっていただきたいのです」
   原しゃんはうしろに立っていた部下の事務官から小さな籠を受け取った。籠のなかから茶色の毛の子犬が首を出していた。
   吉治老人は一瞬、「うっ」といって言葉につまったが、やがて大きな声で笑いだした。
   「そうか、原しゃんの身代わりか。なんという名じゃ?」
   老人は子犬に問いかけたが答えたのは原しゃんだった。
   「ヤンです。ヤンというのは日本の太郎さんのように、チェコにはよくある名前です」
   ヤン・ハラーシェク一等書記官は説明した。しかし、自分のファースト・ネームもヤンであることは言わなかった。
   「そうか、ヤンか、よし、よし、おまえはチェコの太郎じゃな」
   老人は茶色の子犬の体を抱き上げた。子犬は老人のほっぺたをぺろぺろなめた。老人はうれしそうに犬に顔をなめさせながら、原しゃんを見あげた。原しゃんもうれしそうにその様子を見つめた。そしてやがて言った。
   「それでは、おじいちゃん、これで失礼します。どうかお元気に長く生きてください」
   原しゃんは老人に握手の手をさしのべ、それから子犬の頭をなでた。
   「ヤン、おじいちゃんを大事にするんだぞ」
   ハラーシェク一等書記官は部下をうながして車に乗り、去っていった。
   吉治老人は子犬をだいて、板張りの仕事部屋に入った。そこらにほうり出してあった段ボール箱を仕事場の隅にもっていき、蓋を押し込んで四角な入れ物を作り、ぼろ布をしいて子犬を入れた。子犬は箱のなかにすわってめずらしそうにあたりを見まわしていたが、やがて箱のなかにふせた。
   それから老人は仕事場のなかの使い残りの木片を集めて仕事にかかった。寸法を測って切り、けずり、作ろうとするものを頭のなかに描きながら仕事をつづけた。やがて、その輪郭が見えてきた。それは家の形をしていた。屋根があり、一方の側にだけ入り口があり、側面にははねあげ式の窓がついた。
   「おい、ヤン、ちょっとこのなかに入ってみろや」
   子犬はいやがってすぐに出てきた。しかし、老人と子犬がお膳にむかって昼ご飯をたべ、犬も老人もお腹がいっぱいになったとき、子犬は自分から小屋のなかに入っていって、ふせて眠りはじめた。老人は目をほそくしてその様子を眺めていた。
   つぎの週の日曜日に息子夫婦が五歳になる孫をつれて訪ねてきた。孫の健は思いもかけず、おじいちゃんのうちに子犬がいるのを見て、目を丸くしておどろいていたが、やがて、大喜びして、犬のほうに飛んでいった。
   健と子犬はちょうどお似合いの年頃だった。いつのまにか子犬と健は板張りの仕事場の上をころげまわってはしゃいでいた。
   息子は犬をどうしたのかとたずねた。老人はチェコの原しゃんとのいきさつを話し、犬を飼うにいたった事情を説明した。
   「でも、この犬はセッターといって、かなり大きくなりますよ。お父さん、散歩が大変ですよ」
   「なあに、まだまだ大丈夫だ。散歩には武蔵原公園がちょうどいいし、わしも一人でいるよりは、こいつがいると気がまぎれる」
   「でも、そんなことより、お父さんもそろそろ、ぼくたちと一緒に住んだらどうです。通勤にはちょっと遠いところだけど、お父さんとその子犬にはいい環境ですよ。周囲には林もあるし、空気もいいし、小川もながれています。それこそ、釣りもできますよ」
   「そう隠居扱いをせんでくれ。これでもたまに仕事の注文があるんだからな」
   「そういえば、その犬小屋、仕事場におきっぱなしというわけにもいかないでしょう。ぼくが来たついでだから、外に出してあげますよ。お父さんにはちょっと骨でしょう、もちあげるの……」
   「そうですよ、お父さん、犬を家のなかにおいておくとくせになりますよ。いまのうちに外で飼うくせをつけておかないと」
   嫁も、自分の存在をアッピールするかのように口をはさんだ。
   「しかし、ヤンはまだ子供だからなあ……」
   「それがいけないんですよ。飼犬を甘やかせてはいけないんです」
   息子も嫁に同調した。
   「ねえ、あなた、ついでだから、いま庭に出してあげれば?」
   「そうだな、じゃあ、いますぐ庭に出すか」
   息子は腰をあげ、犬の家をもちあげて縁側まで運んだ。
   「犬小屋にはもったいないなあ……」
   息子はつぶやきながら、庭下駄をはいて、庭の隅のほうに犬小屋をすえた。
   「このあたりでどうです、お父さん」
   「ああ、もうちょっと戸袋のほうにつけてくれんか、せめて屋根の下にかかるまで」
   「ここですか?」
   「そうそう、そうしたら、雨が降っても、あんまりぬれずにここまで来れるからな。ようし、こんど屋根をすこし伸ばすか……」
   「なんです、お父さん、もう犬のことばっかり気にして……」
   嫁がやっかみ気味に言う。
   そのとき仕事場のほうで、ドンと言う音がして、孫の健が泣きだした。犬とふざけているうちに、板の間で足をすべらせたのだろう。犬のほうは、そんなことに頓着せずに健の涙の顔をぺろぺろなめていた。
   「ほうら、ごらん、あんまり調子にのるからよ」
   嫁はそういいながら健をだき起こした。