習作  4


  田才益夫著

     ――対話体による即興的小品―― 『わたしをソーニャと呼ばないで』

 人物=男、 女


   ある架空の街路。歩道にそって高級婦人用品店のウインドが並んでいる。
夕暮れ。まだ、日は落ちていない。
  

  もうすぐ、日が暮れますね。人通りもまばら。一日の中に、こういう時間ってあるものなのですね。(あたりを見まわす)何か、すべてが一息ついているという感じの、ある、こんな時間が……。ある一瞬の空白。白々しさ。ぼくは一日のこの時間、一人でやり過ごすのが、すごくつらいんです。それは、まさに、人生のちょうど、ぼくくらいの年ごろになるのかな……、何か、無我夢中でやってきて、ふと顔をあげて、周囲を見渡すと、おや、なんだか、世の中のすべてが、ちょっと違った感じ。俺はいったい、どこにいるんだろう……と、あたりかまわず大声だ訊ねまわりたいような、ある、索漠とした孤立感。   

  (一瞬、怪訝な面持ちで男の方を見やるが、再び、ウインドの中を覗き込む)   

  いやですねえ、ぼくは……この時間。僕に人生の今なんだな。もう少し、もう少し待てば、すべてがはっきりする。すべてに、あきらめもつくというのに。この時間。今になって、まだ、何か、やり残したことがあるような、何とも言えない、そんな気持ち。日が暮れるまでの何十分かの間に、何か大急ぎで、やり終えなければならないことがあるような……そんな……気がして。 そのくせ、何をやっていいのか、さっぱり、わからない。何にも手がつかない。 結局、何もできずに、この時間は過ぎてしまう。昨日もそうだった。その前も、その前も……。(体中の力が抜けてしまったように、呆然として立ちすくむ……)   

  ええっ? 何かおっしゃったのかしら、わたしに?   

  (少しどぎまぎして)いや、別に……。いや、別に、ただ、ぼく――ときどき独り言をいう癖があるらしくって……、ひょっとしたら、またその癖が出たのかも……。でも、もし、なんでしたら、そのう……、少しぼくとおはなしでも――   

  あら、ごめんなさい、わたし、これから予定がありますの。   

  ああ、そう、わかります。デートですね? そんなに若くて、かわいい娘さんに、恋がいないほうがおかしい。当然です、当然です。   

  いえ、そんなんじゃありません。デートなんて……。わたし、恋人なんかいません   

  (大げさに驚いて見せて)へえ!   

  (強がりを見せる)そりゃ、ボーイフレンドの一人や二人、いないわけじゃないんですけど……、そんなの……、ただのお飾り、ステッキ代わり。それに今日、私はボーイフレンドなどと約束もしていないし、会いたいという気分でもないのです。   

  おや、それは残念。でも、それじゃ、予定って? ああ、女の友達と会うんですね。そう、日ごろの欲求不満を、気の合った同性の友達とおしゃべりしあうことで開放する。それも、若い娘さんには必要な生理現象といえますね。   

  あたしには気の合った女の友達なんかいません。わたし、女って嫌いなんです。   

  ほーう? とすると……、何か一人で、映画でも観るとか、音楽会に行くとか……それもいいなあ。なまじ誰かと一緒だと、お互いに感じあったり、がっかりしあったり、何かとすべてが面倒だ。その点ひとりの方が心行くまで作品が味わえますね。昔は、ぼくも、よく一人でえいがにいったり、音楽会に行ったりしましたよ。今ではライブですか、あれはいいな、体を思いっきり動かして発散できます。あのころはねえ、そりゃあ、もう、楽しかった。映画という言葉を聞いただけで、体中がぞくぞくするような期待感があったものです。今に比べればね。今じゃ、テレビのスイッチをひねりさえすれば、すべてがただで手に入ります。そのくせ、何の感動も得られない。何の緊張もない。だって、寝そべったまま、ビールとかジュースを飲みながら、タバコだって遠慮なしに吸いながら観ていられるんですからね。途中で眠くなって、そのまま眠り込んだところで、損をしたような気分にもならない。   

  ねえ、失礼ですけど、あなた、わたくしに何をおっしゃりたいんです? わたくし、以前に、あなたにお目にかかったこともなければ、今だって、別に、わたくし、あなたとお近づきになったわけでもないつもりです。ずいぶん、なれなれしいと思うんですけど。わたくし、予定がありますの。それに、わたくし、お買い物もしなくてはならないし……(男が自分を疑っているのではないかと、ちょっと気にして)現に、今、わたくし、このウインドの中のあのハンドバッグ、買ったものか、ほかのものにしようかと迷っているのところなのです。わたくし、買い物って、とても真剣にするんです、だって、いちど買ったら、それがずっと、わたくしの手元にあることになるんですもの。もし、せっかく買ったものが、後になって、嫌なものになってしまったら、わたくしどうしたらいいんですの? きっと、そんなものに限って、いつまでもなくならずに、ずっとわたくしのそばに居続けるんですわ。そうなったら、わたくし、どうしたらいいんです? ね、お願いですから、わたくしの気を散らさせないでくださいません? わたくし、あなたが私に話しかけたいという気持ち、わからないではないのです。だって――、わたくしって、よく男の方に声をかけられるのです。たまには、とても変な人から声をかけられることもありますわ。とっても変な人……。(また、男を意識する)でも時には、とても素敵な人のこともありますのよ。そんな時、わたくし、ついぽーっとなって、胸がドキドキしてくるんです。でも、わたくし、そんな時、決して気を許したりしません。ただ、だ、会って通り過ぎるんです。よほどのことがないかぎり、大概はそれっきりです。でも、あなたみたいに、こんなにくどくどと話しかけてくるひとって、そんなにいませんわね。わたくし、はじめて……。   

  いや、これはどうも失礼。ぼくだって、いつもこうだっていうわけではないのです。でも、今日だけは、いつもとちがう気がするんです。 なぜか? それは僕にもわからない、ただ、何となく。 一目見たときから、すごく、懐かしく感じられたものですから……。   

  懐かしく? って……、あたくし、あなたと、以前、お会いしたことなんかありません。あなたって、相手が女の方なら、だれにもそうおっしゃるんじゃありません?   

  とんでもない、決してそんなことはありません。だって、最初だって、ぼくはあなたに話しかけたつもりではなかったのです。ただ、つい、つい、いつもの癖で、独りごと言っていただけなのです。独りごとって、ぼくにとって、一種の精神的開放の手段なのです。自分でも何をしゃべっていたのか思い出せないくらいですが、それでも、そのあと、何となく気分がすっきりするのも確かです。 (開き直った感じで) それなのに、その独り言に、あなたの方から、勝手に答えられたんじゃありませんか。   

  あら、これはまた、とんだ言いがかりですわね。わたしの方から勝手に答えたなんて……。わたくしがあなたのへんな癖なんか知るはず、ないじゃありませんか。ですから、わたくしのそばで、大声で何か言われたら、そりゃあ、わたくしが話しかけられたと思って、それに答えたって、仕方ないことでしょう?   

  (急に力なく)そう言われれば、まったく、その通りです。(さびしさがにじみ出る)でも、これまで、ぼくの独りごとに答えてくれたひとなど、かつて一人もありませんでした。ですから、ぼくは、あなたの方から、わたしに話しかけてこられたのだと思いました。   女 まあ、なんてひどいことを……。あなたって、本当に少し変ですわ、おまけに、独りよがり。(言葉とは裏腹に、女の気持ちに、男にたいする好奇心が生まれてくる)   

  ああ、ぼくだって、初めっからこんなんじゃなかったのです。もう少し若いころは、こんな風じゃありませんでした。ぼくにだって、ちゃんとした、打ち込める仕事がありました。(女を意識して)もちろん今だって仕事はあります。以前は、ぼくだって自分の仕事に生きがいを感じていました。そのころ、ぼくは自信にあふれていました。同僚はもちろんのこと、上役だって、ぼくに一目置いていました。そりゃあ僕の仕事ぶりを見ていれば当然ですよ。(少し、気を取り戻し)誰よりも会社へ早く来て、だれよりも会社を遅く退ける。ただ、会社に早くきたり、遅くまで残業をするなんてことなら、ちょっと努力すれば誰にでもできます。その上、ぼくは仕事ができた。いや、出来過ぎたと言ってもいい。だって、同じ課での営業成績は、いつだって、ぼくがトップだった。上役にしてみりゃあ、部下にぼくがいるというだけで、自分の出世は保証されたようなものだった。 最初の上司は、今では、もう重役に収まっている。その次のは、部長です。ところが、どうしたことか、一番仕事のできるはずのぼく自身は、いつも平社員でした。それも、若い頃だったら、そして昇進するのが先輩であるうちは、まだ、なんとか、自分で自分を慰めることもできました。でも、ぼくの同輩が係長になり、課長になる。そのうち、ぼくの後輩までが、ぼくの先を越していってしまうようになりました。そうなると、ぼく自身も、疑いの目を周囲に向けるようになりました……。
 ぼくが独りごとを言うようになったのも、きっとこのころからなんですね。ふと気が付くと、デスクの女の子が、「えっ?」というふうに、ぼくの顔を見上げているのに気づくようになりました。でも、まだそのころまでは、独りごとの自覚はありませんでした。今にして思えばということではありますがね。   

  (女の男にたいする、一般的な警戒心から、つい、男の話に引き込まれるのを拒否するかのように……、男の話にたいする好奇心と、周囲の人の目を気持ちとが拮抗しあっている)わたくし、なんだか、あなたがお気の毒な方という気がしないでもないのですけど、はっきり申して、わたし、迷惑していますの。だって、あたし、さっきから言っていますように、予定がありますの。それに買い物もしなければなりませんし、ひょっとしたら、家の方にボーイフレンドから電話が入っているかもしれません……。ほんとに申し訳ありませんけど、今日のわたくしには、あなたの身の上話を聞いてあげられる時間がありませんの。   

  ええ、わかっていますよ。あなたのような可愛いお嬢さんが、わたしみたいな胡散臭い中年男の話に耳を傾けるような暇も興味もないことはね。それに、ぼくだって、あなたをひきとめようとおもって、こうやって話しかけているわけではないのですよ。ただ。あなたに、ぼくが、こう、なんというか、いやな男だと思われたまま、このままお別れするのが、何となく心残りなもので、、ただ、そのことをはっきりさせておきたいと思っているだけなのです。実際、ぼくは本当に、よく、人から変な目で見られることがあるのです。ぼく自身は決して変ではなく、ごく普通の、平凡でださい、中年男に過ぎないと信じているのですがねえ。   

  (少し、うんざりしたような表情。でも、ウインドの中のハンドバッグのことがどうしても気になり、どうしてもその場から離れられないといった風情。そして男を無視したように、一心にウインドの中を覗き込んでいる)   

  ぼくだって、最初からこんなんじゃなかった。ぼくにだって若い頃も、傷つきやすい青春時代もありました。いや、もっと小さい、子供の頃だってあったのです。あの頃の僕は、未来にたいして、すごく大きな夢を持っていた。それに、あの頃のぼくは学校の成績だって、かなり良かったんです。小学校のときは、全員を代表して卒業証書を授与されました。総代ってやつですよ。中学のときも、高校のときも、いつもトップグループから外れることはありませんでした。大学だって、私立でしたけど、一流の大学に、志望どうりストレートで入ったんです。大学のゼミでだって、ぼくのレポートや発言はいつも注目されたものです。教授はぼくに、大学院に行って、研究室に残らないかとも言ってくれましたっけ…… でも、ぼくには野心がありました。こんな薄暗い、黴臭い蔵書の並んだ書棚に囲まれた研究室にうずもれて人生を過ごすのは、ぼく自身がもったいないような気がしたのです。実社会に出れば、一流の商社にでも入れば、ぼくには、きっと、もっと大きな、やりがいのある仕事があるにちがいない。もっと、ぼくの能力を発揮する場があるに違いないと確信をもっていました。ぼくは誰もが憧れる一流企業に難なく就職できました。しかも、会社のなかでもぼくはエリートでした。仕事がバリバリやれるし、どんな難しい取引も、ぼくが出ていけば難なく解決するということも、幾度もありました。上役もぼくの将来に大きな期待を持っていました。   

  (依然として、ウインドのなかを覗き込んで、男の話など気にもしないといった様子)   

  でも、自分でもわからないのです。夢中で仕事に没頭しているうちに、いつの間にか周囲の様子が違っているのに気が付いたのです。あるとき、ぼくは課長に呼ばれました。ぼくはいつものように上役にたいして示す、へりくだった態度で課長の机の前に立ちました。課長はぼくを無視したような態度で、配置換えになったことを告げました。それは資料部という、どちらかというと会社の活動と直接関係のない暇な職場でした。以前は、その部にいる人たちを軽蔑さえしていたものです。たしかに、課長の口から出た言葉は、まさに、その部署の名だったのです。ぼくは、なんだかわけがわからずに、しばらく、次の言葉を待って立っていました。でも、課長はそれ以上、何も口に出そうとしません。ぼくの様子を、何となく、胡散臭く感じたのか、ふと険しい目つきで顔をあげました。その時、ぼくはその課長の顔を改めて、まじまじと見つめました。すると、その顔に見覚えがあるのです。それは驚いたことに、大学の後輩でゼミのなかでも、あまりぱっとしない、名前も知らなければ、気にもとめとこともない男だったじゃありませんか。びっくりして、ただ茫然と立ちつくすぼくを見返すその男の表情に、ちらっと、憐みの表情がかすめました。
 ねえ、お嬢さん。もし、ぼくが変になったとしたら、たぶんその時からなんですよ。この事実を理解するのに、ずいぶんと時間が掛かりました。いや、実際には、今もって理解できないでいるのかもしれません。あなたなんか、まだ若いし、未来もある。これからいろんな素敵な男性と巡り合える可能性もある。だからぼくのこんな話、結局、通りすがりの中年男のたわごとにしか聞こえないでしょう。でもね、可能性なんてものは、結局、あって無きがごときものなのですよ。それを期待しながら生きていくうちに、いつの間にかその可能性は、霧みたいなものだとわかってくるのです。
ねえ、その課長がその後どうなったか、お教えしましょうか。首をくくったんです。汚職の責任を取らされてね。わかりませんね、人の一生なんて。ぼくなんかこうやって生きているだけ、まだ幸せなのかもしれない。   

  ねえ、ずいぶん長いお話ですのね(男、話の腰を折られて、鼻白んだ感じ。女はそれを感じて、とりなすかのように、男に話しかける)それはそうと、こんな機会ですから相談に乗っていただけません?  (音の表情に明るさが戻る)   

  はて、わたくしに? もちろん、喜んで、わたしにできることならば……。こう見えても、あなた方、お若い方たちよりは、多少の人生経験は積んでいるつもりですよ。ええ、何でもどうぞ、どんな類のことであれ、ご相談には応じますよ。悩みこと? それともうれしい迷いごと? なんたって、かわいくて、若い娘さんのことですからね。自分一人で決めかねていることだった、たんとおありでしょう。ところでなんですその相談ごととは?   

  いいえ、そんな大それたことではないの。あたくし、いま、迷ってるの。(ウインドを覗き込みながら)ねえ、どうかしら、あのハンドバッグ。ほんとは、わたし、あの右側のわに革のハンドバッグがすごく気に入ったんだけど、でも、何となくあたしの年齢には地味なような気がして……。それでね、その横の……、そう、あの濃いグリーンの、なめし皮のバッグ、あれなんかどうかなと、デザインもちょっとおしゃれだし。でも、ダークグリーンって、あたしに合うかしら。あたしってどちらかというと、明るい感じが合うんじゃないかと、自分では思っているのだけど……、どうを? そんなら、あっちの反対側に下がっている、あんなバッグ。ちょっとスポーティーだし、あたしの今日みたいな軽装にすごくピッタシって感じじゃないかしら。でも、ちょっと形式ばったお呼ばれのときには、あのわに革のほうがいいなって感じもするし……。 だって、あたしだって、時には、ちゃんとしたお席にお呼ばれすることだってあるんですよ。この前だって……   

  いや、ちょっと待ってください。そんなバッグのことなんか、ぼくにわかるはずありませんし、あなたがどんな席に呼ばれるとか、第一、ぼくはあなたがどんな服をお持ちなのかも知らないんですよ。それに今日のあなたの服装は、ちょっと軽装過ぎて、あなたがちゃんとおめかしいなさったときを勝手に想像するの、少し危険かもしれない。だって物事の選択のためには、出来うるかぎり多くの情報を集めなければならないというのは常識です。たとえそれが、ただのハンドバッグにしたとしても、それが一つの選択である以上、やはり慎重にすべきです。   

  へえ、あなたって本当に慎重な方ですね。でも、それじゃ、少し慎重すぎて、何にもできなくなるんじゃありません? あたしは反対に、わたくし、選択は無責任にすべしと考えているんですの。むしろ、その選択をする時期が問題なのです。わたくし、今、あのバッグが欲しいんです。だから重要なのは今その選択をするということなのです。でも、今のわたくしは、その選択がつけかねている。だからといって、その全部を選ぶわけにはいかないのです。わたしって、その点、すごく潔癖なのです。 ボーイフレンドのことにしても、わたくし、必ず、選ぶんです。あの人とも、この人とも、いい加減に付き合うということができないのです。この人とお付き合いすると決めたら、あたくし、この人とだけおつきあいします。そんな時、だれを選ぶかで情報だ、資料だと言っていたら、あたしの気持ちが決まった時には、もう、とっくにその彼はどこかに行ってしまっていますわ。選ぶときって、あたくし、すごく直感を大切にしますの。そう、一目見て、あっ、この人、素敵と思ったら、あたくし、その人を選びます。 あら、あなた、わたしが矛盾しているっておっしゃりたいのね? それじゃ、ハンドバッグ、なんで自分の直感で決めないのかでしょう? ほんとは、わたくし、ハンドバッグなんて欲しくないんです。ただ、見ているうちに、欲しいなという、なにか、もやもやっとした気持ちになったことは事実ですわ。ですからね、もし買うとしたらどれにしようかなっていう気持ちで、見ていただけですわ。それに、そばで、あなたがひっきりなしに話しかけてくるし、通りがかりの人が変な目で見ているのがわかるんですもの。あの二人、連れなのだろうか、他人なのだろうかって目つきですわ。
あの娘、あんなに話しかけられているのに、何で、口も利かないんだろう。二人は恋人なんだけど、何かのことが原因で喧嘩でもしているのかななんて、ほかの人に勘ぐられるの嫌じゃありません。だから、せめて目立たない程度に会話を成り立たせようと、体裁を装っているだけなのです。   

  いやあ、なるほど、わかりました。それならばぼくとしても相談に乗りやすい。仮に、買うとしたらでいいんですね。   

 でも、あんまり無責任でも困ります。だって仮にであっても、いちおう、想像の世界で、わたくしのものになるんですからね。よく、いうじゃありませんか、思ってみただけでもぞっとするって。想像だからって、やっぱり、その人の想像力に対する責任はあると言えませんか?   

  わかりました。では、こうしましょう。ぼくたちの関係を、仮に決めましょう。   

  関係を仮に決めるって?   

  たとえば、あなたにとって、ぼくが何者であるかです。ボーイフレンドであるか、恋人であるか、許婚者であるか、あるいは……。   

  おもしろそうだわ。そうね……、あなたの年恰好から言って、ボーイフレンドというのもありそうにないし、恋人ってのも、変だわ……   

  すみませんが、その変だわって言うの、やめていただけませんか。ぼくはその「変」という言葉を聞くと、妙に不安になってくるのです。何か、こう、いらいらするというのか……、まあ、そんな感じ。   

  ごめんなさい。わたし、あなたの気持ちのこと、考えもしないで言ってしまって。   

  なあに、そんなに謝っていただかなくてもいいんですよ。それで、ぼくがあなたのボーイフレンドでも恋人の柄でもないとしたら……。そうだ、ひょっとしたら、伯父さんというのはどうです。   

  そうだ、それがいいかも。あなたは、わたしのワーニャ伯父さんよ。   

  そうすると、あなたはソーニャちゃんてとこだな。   

  (女の表情に、意外なものを発見したときの驚きと、ある種の親しみがその時、初めてよぎる)あら、あなた、あのお芝居ご存じなの?   

  知っているどころではありませんよ。ぼくは昔、ワーニャを演じたことがあるんですよ。学生時代に。ああ、そうだ、やっと思い出した。その時、ソーニャをやった、なんと言ったっけ、あの女の子の面影にあなたがそっくりだったのだ。だからぼくは、最初にあなたを見たときに、とても懐かしいって言ったでしょう。   

  そうだったのですか。あなた、その人のこと好きだったのですね。   

  (ぶっきらぼうに)忘れました。もう二十年も昔のことですよ。

(二人は向き合って、しばらく顔を見合わせている。そのうち、どちらからともなく微笑みあう。その時から二人の間には、ある種の温かい感情の流れ愛が感じられるようになり、会話は現実とも芝居ともつかない感じを帯びてくる)   

  伯父さま、あたしって、ほんとは、とってもさびしがり屋なの。そして、とってもわがままなのよ。   

  わかるよ。君は、実は孤独で、そのくせ、だれかと親しくなるのをすごく警戒している。   

  そうね、あたしって、本当は、伯父さまみたいな、ずっと年上の男の人が欲しかったの。若い男の子って、我がままで、見栄坊で、そのくせ、見かけ倒しで内容が伴わないでしょう。   

  そんなに若い男のことを見くびっちゃあいけないよ。若い男には、若い男の良さだってあるんだから。   

  無いわ(きっぱりと)   

  おや、馬鹿にはっきり言うね。何か、若い男のことで、嫌な思い出でもあるのかい?   

  無いわ。あまりにもなさすぎると言った方がいいのかしら。これまでだって、いろんな男の子と付き合ったことはあるけど、みんな疲れさせられるだけ。こっちの気持ちをいたわるなんて気さらさら無いんだから。自分の主張ばかりして。   

  そんなもんですかね。ぼくはまた、若い者同士という言葉もあるくらいだから、若い娘さんは、若者の方を好むのかと思っていた。
  

  伯父さまって、意外に女心ってものご存じないようね。あたしだって伯父さまみたいな年輩の方を、結婚の対象として考える気は毛頭ありませんわ。   

  いや、これはどうも。   

  あら、ごめんなさい。でも、女って、優しくって頼りになる、男性を意外と欲しがるものなのよ。   

  つまり、何を言っても、どんなわがままでも、黙って聞いてくれる、年寄りの男をね。それでいて危険のない。   

  あら、その危険のないって、どんな意味? もしかして、伯父さまはもう危険のないお年頃かしら?   

  いや、仮に、ぼく自身は危険でないとしても、危険があるかないかは年齢に関係ないんじゃないかな。   

  ふーん、そんなものなんですかねえ、男って。そうすると伯父さまも意外と危険な存在なのかも……。   

  いやあ、ぼくは大丈夫だよ、これまでだって……。   

  あら、これまでだって……なんですか?   

  うん? いや、つまりね。女性にたいして、ぶしつけなこと、したことないってことですよ。   

  へえ、伯父さまって案外、慎み深いのね。そんなんじゃ、女の子をものにするなんてできませんわよ。あら、ごめんなさい、あたくし、伯父さまに奥様がおありかどうか、お聞きしていませんでしたね。   

  ……結婚しましたよ。   

  それで、愛していらっしゃる?   

  愛していました。   

  その「いました」ってのは、どういう意味なのですか?   

  消えちゃったんです。   

  え?   

  いま、流行りの蒸発ってやつですよ。   

  あら、逃げられちゃったんですか。   

  たぶん。   

  たぶんって、ずいぶん自信なさそうですわね。まだ未練おありのご様子ですのね。   

  (吐き出すように)未練なんか……あるもんですか。   

  本当に?   

  本当に!   

  あら、それはガッカリ。   

  どういう意味だい。   

  奥さんがおありの方だったら少しは張り合いがあったのに。所帯持ちの、害のなさそうな中年男を誘惑するのって、ちょっとスリルがありそうじゃありませんか!   

  おいおい。ぼくは君の伯父さんのはずだぞ。   

  あっ、そうだ。もう、忘れていた。それじゃ、伯父さま、その消えちゃった奥様って、どんな方だったの?   

  言いたくない。   

  思い出したくないのね。わかるわ、その気持ち。思い出せば、昔の甘い愛の記憶がよみがえる。だから、心に封印をして、閉じ込めて……。   

  よしてくれ! 今じゃ何とも思ってはいないんだから。   

  本当? だとしたら、冷たい方。男って、意外と、みんなそうなのかもしれない。   

  (急に激しく)馬鹿! お前なんかみたいな娘っこに、男の気持ちなんかわかるはずない!   

  あら、これはおどろき。男の人の気持ちって、そんなに複雑怪奇なのかしら。それに、奥様のことなんか、何とも思っちゃいないと、たった今、伯父さま自身がおっしゃったのですよ。   

  ……   

  やっぱし、奥様に未練がおありのご様子がうかがわれますわ――。   

  よさないか。人を馬鹿にするのもいい加減にしなさい。   

  馬鹿とおっしゃったのは伯父さまの方よ。あたしの方は、伯父さまの方を客観的に観察した結果を申し上げているだけ。   

  (少し冷静になり)よそうよ、その話。ね、ソーニャ。   

  (素直に)ええ、ワーニャ伯父さま。   

  ところで、君は、いったい、いま何をしているの? お勤め、それとも、花嫁修業……?   

  残念でした。どちらも外れ。でも、どちらも少しは当たっているかな。だって、未婚の女って誰もが、毎日の生活が花嫁修業みたいなもんじゃありません? それにわたくし、夜、アルバイトをしていますの。ちょっとしたスナックでね。   

  よくあるケースだ。あげくの果てに悪い男にだまされて、操を奪われて……   

  操だなんて、ずいぶん封建的な発想だこと。女の操って発想は、要するに男のエゴイズムに過ぎないのじゃありませんか? 操、操、要するに処女とおっしゃりたいんでしょ。中世のヨーロッパの王侯には、結婚する娘の初夜権が与えられていたと言いますわね。女の初物を頂戴したいという、男の勝手な、願望の体裁のいい表現に過ぎないんだわ――操なんて。   

  いやあ、これはおどろいた。近頃、新聞や週刊誌の客寄せの話題に過ぎないのかと思っていたら、現実に、そういう思想をお持ちの女性を目の当たりにするとは、なーるほど、これはまさに信じがたいことだ。   

  やれやれ、男の人ってどうしてこんなに単純なのかしら。だからと言って、口でこう言ったからって、すべての女性がそうだとは限りませんわ。わたくしだって、そうはいっても、まだ男性を知りません。   

  おや、これはまた意外。   

  意外とは何よ。当然じゃありませんか。これでも、わたくし、未婚だし、躾は厳しい家庭に育ったのですよ。   

  いや、別に、あなたを疑ったわけではありませんよ。ただ、言葉の弾みというやつでね。

   (沈黙。お互いに顔をそらしたまま。それぞれ、いまも痛々しく思い返される出来事を思い返しているかのよう)   

  伯父さま、何か言って。なんでもいいの。でも、苦しくなるような深刻な話はいや。何か吹き出したくなるような、おかしな話をしてくださらない?   

  そんな話、ぼくにはないよ。むしろ、ぼくの生き方そのものが滑稽かもしれない。   

  伯父さまって、本当は言い人なのね。最初は、わけもなく、べらべら話しかけてくる、いやな中年男だという気がしたけど、こうやってお話していると、なんだか、とても懐かしいって感じ。伯父さまって、孤独なのね。もしかしたら、さびしがり屋なのかな。あたしも、本当はさびしいの。一人でいるのがとても苦しいときがある。そんな時、こうやって、この町のショーウインドをのぞき込みながら、あれこれと想像するの。でも、これまで一度だって買い物したことはない。いいえ、いちどだけあったわ。でも、わたしのもの買ったのではないの。男物のライターをかったわ。誰かにあげようと思って。   

  (女の話を黙って聞いている)   

  だけど、結局、だれにもあげなかった。今でもこのバッグの中に入っている。   

  可哀そうに。   

  なぜ? わたし、本当は、上げようと思ったら、いつだってあげる人はいるのよ。   

  でも、だれにもあげなかったんだろう、なぜ?   

  わからない。最初はいつも、この人にあげようと思うの。でも、最後にはなんだか、そのライターを手放すのが惜しいような気持ちになる。そのライターって、実は、そんなに高いものではないの。買おうと思えば同じものがどこにでも売っているわ。でも、誰かにあげようと思って、こうして持ち歩いているうちに、何となく愛着が出てきて……   

  わかるような気もする。今じゃ、きっと、君にとって大切なものになってしまったんだよ。   

  ――かもしれない。   

  僕にだって、そんな経験があるよ。学生の頃、ぼくが猛烈に好きになった女の子がいたんだ。だから、何か彼女にプレゼントしたいと思ってアルバイトで稼いだ金を少しずつためて、やっとの思いで、彼女の誕生石の指輪を買って、誕生日にプレゼントしようと思って身につけて持ち歩いていた。今でも覚えている。ぼくは彼女が教室から出てくるのを待っていた。そしたら彼女はあのMと、ぴったり寄り添うようにして出てきて、彼女の方に近づいて行ったぼくに、ちょっと目で挨拶したまま通り過ぎて行ってしまった。あのMと楽しそううに話しながらね。そしておかしさをこらえるように口に手を当てた左手の薬指にはこれみよがしに、見事なオパールの指輪が輝いていたとわけさ。 その後、彼女はMと結婚しましたよ。それで、ある時期までは、とても幸せそうでした――Mが首をくくるまでは――。で、ぼくの方はと言いますと、今でも、その指輪を肌身離さず、後生大事に持ち歩いています。今じゃ、ぼくのお守りのようなものだ。でも、あまり幸運は運んできてくれなかったな。
  

  なんだか、伯父さまの気持ち、わかるような気がする。その彼女がソーニャを演じた方なのね。そして、Mさんというのが、あの首をくくった課長さん。   

  (苦しそうな沈黙)   

  どうなさったの。顔色が悪いみたい。   

  半分は本当です。だけど、重要なことが二つだけ違う。最初に結婚したのは、ぼくなんだ。そして、彼女が本当に愛していたのはMだった。彼女はぼくと別れた後、Mと結婚した。そしてMが責任を取った汚職事件は、実は、ぼくが起こしたものだったのだ。   

  …… あたし、その話を聞いても、伯父さまを軽蔑する気にはなれませんわ。もし、この話を新文化週刊誌で読んだのなら、あたし、伯父さまみたいな男の人、きっと軽蔑していたに違いない。でも、今は違う。だって、伯父さまは、もう十分その罰を受けたのですからね。それに、今の伯父さまを見たら、もう、罪の償いを終え人間の清らかさが感じられる。   

  ありがとう。ぼくのこと、そんなふうに言ってくれたのは、君がはじめてだ。……、そして最後かもしれない。   

  伯父さま、これからどうなさるの?   

  行くあてのない身の上さ。二度目の妻とも、今日離婚が成立した。子供は妻が引き取るという条件で……。   

  お勤めは?   

  先月末で、首になった。それ以来、ずっと安宿を泊まり歩いている。今夜も、行くあてはない。   

 (突然、変わる)あたしと同じようなものね。今まで行ったことはみんな嘘。あたしま、親兄弟に見放された天涯孤独の身の上なのよ。こうなったら言うけど、あたしも、今夜、行く先はないのよ。きょう、ムショから出てきたばっかり。危険ドラッグ使用でね。本当は、いいカモはいないかと見張っていたところなの。それなのに、伯父さまみたいな野暮天に引っかかって、いいカモ、逃がしたみたい。(自嘲的な笑い)でも、いいや、この世の中に馬鹿なのは、あたしだけじゃないってわかっただけでも……。   

  (女に何と呼びかけていいか、ちょっと迷うが)ソ、ソーニャ!   

  あら、まだ芝居の続き? いいわ。なーに、伯父さま。   

  (ためらいがちに)これ、君にプレゼントしよう、どうか、受け取ってくれ。(そう言って、内ポケットから小さな箱を取り出して、娘の手に押しつける)   

  なあに、これ?(と、言いながら箱を受け取り、開ける。中には、見事なオパールの指輪。女の顔に真剣な驚き)じゃ、さっきの指輪の話、本当だったの? でたらめじゃなかったの……?話半分というから、どうせいい加減な話かと思っていた。   

  本当さ。この指輪の話だけは本当だよ。   

  そう。でも、これまで大切にしていたのに、なぜ……? なぜ、私みたいな、通りすがりのあばずれに。あたし、この指輪、この足で質屋に持っていくかもしれないのよ。今晩のドヤ代にすために。   

  いいんだよ。それだって、現に、ぼくが持っているより役に立つじゃないか。ぼくはただ持っているだけだもの。それに、ぼくの話を聞いてくれたことにたいしてだって、お礼をしたい。おかげで、ぼくの胸のつかえがさっぱりしたような気もする。   

  そんなものかなあ。   

  君は若い。だから、何かのきっかけがあれば、また、ちゃんとした人生を送れる。   

  伯父さまだって、まだ、取り返しが……。   

  いや、ぼくの寿命は、もう、わかってしまったんだ。余命、六か月。   

  ええ?   

  脳に大きな腫瘍があるんだと、だから……。だから、こうして町の中を歩き回って、なにか、感動を探していたんだ。   

  感動……ですか!   

  ぼくはね、君の中にあのソーニャの、そしてMの後を追って逝ってしまった妻の面影を見たんだ。それは余命いくばくもないぼくにたいして、神さまが最後に与えてくれた、最大の感動だったのだよ。だからこの指輪を受け取ってくれ、ソーニャ!   

  いや、あたし……、いや。あたしをソーニャと呼ばないで! あたし、そんなに綺麗じゃない。あたし、あなたにたいして女になります。それは正直な気持ちです。   

  (戸惑いながら)しかし、ぼくはもう……   

  いいの、あたし、はじめて男の人を愛せそうな気がする。ね、だから、わたしを女と呼んでください、女と! よかったら、亡くなった、あなたの奥さんの名で……   

  (思わず、女の手を握る。ささやくように)ア・ツ・コ!   

  そう、あたしはあなたのア・ツ・コよ。わたしは、はじめて、やさしい男の人に出会えたのだわ!

   (男と女、手を取り合い、じっと顔を見つめあう)





――後記――この作品は最近身の回りを整理しようと片付け始めた紙屑の中から出てきたものである。当時(さて何時のことだろう? すでに結婚はしていたが、まだ、新劇の劇団の裏方として働いていたころだから、もう半世紀(50年!)も前に書いたものか……。
 当時、私も何か書いてみたいというぼんやりとした欲求から、ある作文の通信講座を受けていた。その時受け取った『わたしをソーニャと呼ばないで』(習作の三作目か四作目)の作品講評が出てきた。
 私としても半世紀も前に書いた自分の未熟な作品についての客観的? 評価に興味があったので読み返してみると、どうやらまんざらでもない。と、いうわけで作品の末尾にその講評を、ご参考のために、書き加えることにした。

(ところで、ここで新劇の裏方という言葉がはしなくも出てきたが、そのころの体験を総括したものを本ホームページに掲載しているので、ご覧いただけると幸いである。)


   [作品講評(手書き)] (この前に1ページあったかどうか、記憶はない)
また、”女”の言動にしても、男の正体をさらけ出す前提となる男の告白の****(4文字不明)が問題となります。
次は、女が ”ソーニャと呼ぶのは止めて” と ”女と呼んで”との間にある心理的変化を どのようにして出すか、そこに変化する必然性は何か? ということも考えることになるかもしれません。
ということが感じられますが、とにかく良い作品でした。

* 発見などの五の使い方、つまり選択についても、もう少し時間をかけてみてはいかがでしょう。
* 会話はあくまでも話し言葉(続く3文字不明)。前半はすごく感じが高められたが、後半に行くに従って、盛り上がりと、語の使い方に慣れが感じられる。
(アンダーライン部分はは原文では傍点)



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