カレル・チャペックの大衆性
                                              田才益夫

   チェコが世界に誇るカレル・チャペック(1890-1938)がなくなってから今年でちょうど五〇年になる。チャペックという名をロボットという言葉と結びつけて思い出す人があったとしても、それ以上のこととなると、なかなかむずかしいのではないだろうか。

 現在、わが国でもすぐにでも読めるチャペックの作品は『山椒魚戦争』(栗栖継訳・中公文庫)と『園芸家12ヵ月』(小松太郎・中公文庫)くらいであろう。『学研版世界文学全集第34巻』に栗栖継氏の訳による『ロボット』(正式には『R・U・R・6サム・ユニヴァーサル・ロボッツ』)が収められているが、全集だから簡単には入手しにくい。その他は短編が断片的にあちこちの全集や選集に納められている程度である。(筆者注・この論文が書かれた時点 1988.5 時点のデータであることにご注意。現在 2016年の時点ではコラム等を除くチャペック作品のほとんどが翻訳紹介されている)

 本国のチェコでは無条件に大衆に愛され親しまれ、その作品は何度も版を重ね、くり返し新しい編集で出版され、世界的にも高く評価されているのに、なぜ日本では紹介されずに放っておかれるのだろう。

 カレル・チャペックは――誤解を恐れずに敢えて言うなら――チェコの偉大なる大衆文学の作家である。しかも、その活動の領域は、およそ信じがたいほど多岐にわたっており、それが作品の多様さに反映されている。
 彼は「まず小説家であり、ジャーナリストであった。そして更に劇作家、エッセイスト、童話作家、翻訳家、また詩人、美学者、文学・美術・演劇の批評家、哲学者、映画のシナリオ・ライター、また劇場のドラマトゥルク(演出部員)で演出家、素描家、社会活動家、多くの領域について知識豊かな愛好家であり、その愛好家は、自らのの『余技』を方法論的(メソディカル)に培い、文学領域での専門家は教養ある愛好家の謙虚さ(熱心さ、絶えずその中に新しさを発見することのできるナイーヴさ、偏見のなさ)、何にでも興味を持つという普遍的精神を失わなかった」とチェコの批評家イジー・オペリークも舌を巻いている。

 チャペックが小説家であったことはいまさら言うまでもあるまい。彼がジャーナリストとして日々新聞に書いたコラムや評論等はあまりの膨大さにいまだにその一部しか整理されていないと聞く。また、彼のジャーナリストたるの所以は、戯曲はともかくとして、ほとんどすべての作品が一旦は新聞に掲載されていたことからもうかがわれる。

 童話作家としては『九編の童話とヨゼフ・チャペックのおまけの一編』1932 がある。
 翻訳家としてはアポリネールをはじめとする今世紀初頭のフランス・アヴァンギャルドの士を翻訳紹介している。〔現代チェコの代表的詩人V.ネズヴァル(1900‐58)はその編著になる『現代詩の諸傾向』1937で、この翻訳が第一次世界大戦後の若い世代の詩人に与えた影響について証言している〕

 美学者、批評家としての彼について言うならば、彼は『造形芸術鑑賞における美学の客観的方法』という論文で博士号を得ているし(1915)、彼の文筆家としてのキャリアは美術評論家として踏み出されている。* 哲学者としての思想は著作のすべての基礎にあるはずだし、比較的そのプロパーな成果は『ヨナサンの立場』(1970)というタイトルの本にまとめられている。

 映画のシナリオ・ライターとしての成果は近々出版されることが出版予告マガジン(Czechbook in print)に出ていた。 * 今のところ、この面に関して特に論じた論文は見当たらない。(拙編訳『カレル・チャペックの映画術』2005 青土社刊参照)
 劇場のドラマトゥルク〔演出部員〕としてはヴィノフラディ劇場で仕事をし(1922−)、同時に、この劇場で自作をはじめとする戯曲の演出もしている。〔自作の演出『マクロプロス事件』(1922)は日本では『マクロプロス家の秘法』として戦前の『近代劇全集』鈴木善太郎訳・第一書房・昭和2年〕に収録〕。

『何がどう出来るか』(1938)というユーモラスなエッセイ集の中で、映画・劇場での仕事の体験が語られている。

 素描家。彼のギムナジウム時代(11歳から18歳までの一貫教育。ギリシャ・ラテン語教育に重点が置かれる)の図画の成績は全学年を通して「1」の最高成績(5点評価、日本とは逆)だった。その隣の習字の成績が「3」というのがほほえましい。二学年以後この習字はなくなっている。
 彼の絵の腕前については、中公文庫の『園芸家12カ月』を参照されるといいだろう。またこの作品は「知識豊かな愛好家」の「余技」の成果の一つでもある。

 社会活動家としては、一九二〇年代の半ばごろから、チェコ国内でも急激に盛り上がりを見せてきたファシズムにたいする、反ファシスト戦線に参加したこともその一つであるが、もう少し平和的な面では、彼は一九二五年に創立されたチェコ・ペンクラブの創立メンバーの一人であり、チェコ・ペンクラブの初代会長でもあった。

 さて、チャペックが大衆文学の大家であったという理由を述べなければならない。先のオペリークはまた、チャペックの作品につけた解説の中で、チャペックが「叙事性と娯楽性の新しい評価によって、近代的大衆読み物の独自の形式を創造した」と評し、さらに、フランティシェク・ブリアーネクが言うには「チャペックは高い思想的使命と芸術的目的をもったロマンを構想しようとするときでも、低い文学的種類のジャンル形式を用いることを恐れなかった。このことはさらに大衆的(リドヴィー)な作家であろうとする明確な願望の表れである」と述べている。

 同様の趣旨の評価は他の批評家の指摘の中にも見られる。たとえばミロシュ・ポホルスキーはもう少し具体的に、その点にかんして触れている。カレル・チャペックは「大衆性(ポピュラリティー)をも軽視しなかった。だから、たとえば、面白さという点にも大きなウエートを置いた。彼はいろいろなジャンルやスタイルの使用をも恐れなかったし、それらをいろんな方法で混ぜ合わせたのである。彼は小説(ロマン)がひたすら一気に読まれるためには、冒険小説的荒唐無稽をもあえて辞さなかったし、読者とのコンタクトを絶えう刺激して、まるで読者と対話でもしているのだと言わんばかりに、読者を引きつける独自の文体を編み出した」。

 このような証言を集めるときりがないくらいだ。私はチェコ人たちがチャペックのことを語るときの表情を知っている。それはある一種独特のもので、私が接するようなごく普通の、いわゆる大衆的チェコ人でさえもそうである。そして何よりもっチャペックの文章の、言葉の素晴らしさを強調し、その誇らしい気持ちをさりげない表情のうちに隠している。

 この点に関しては、チャペックの思想(主にプラグマティズムと相対主義〔レラティヴィズム〕)に批判的な態度を示している『チェコ文学史案内』(Pr?vodce po d?jinach ?eske literatury, 1978)でさえも手放しである。  チャペックの言葉は「自然に流れる。そして滑らかな快いイントネーションの線をもっている。その中に無理な切れ目はない。彼はいかにして退屈にならないか、疲れさせないかという技巧をよく心得ていた。それゆえ、客観的語りと対話、半ば読者への直接的な語り掛けとを交代させる。彼は対話の名人である。……彼は勿論、ウイットやエスプリにたいしては目がなく、時には乱用のそしりを免れないほどである。」

 このような点にかんしては直接チェコ人の意見を聞いた方が信憑性がありそうだ。なるほどチャペックの人気、大衆性の一端がうかがえる。

 チャペックはある雑誌の質問に答えて、自分が受けた影響について「子供の読み物、大衆の言葉、ラテン語の散文、その他、良いものも悪いものも含めて私が読んだものすべて」(『チャペック自分を語る』1925)と答えたことがあるが、先の引用と併せて考えると、それもうなずける。
 子供の読み物は空想と遊び心、そして何よりも簡潔でわかりやすい文章に通じ、大衆の言葉は対話の巧みさ、または対話による人物の性格付けなどに(彼は劇作家でもある)、ラテン語お散文は文体に、文の格調にも通じるであろう。筆者の学生時代のわずかなラテン語体験から推してもそう思える。 

当時、チェコではギリシャ語とラテン語はギムナジウムの必修科目であり、チャペックの卒業時の成績はいずれも最高点「1」だった。これらの教養は、ある時はチャペック流のジョークとなって作品の中に飛び出してくる。
 たとえば、『クラカチット』1924 という長編小説の中では『オディッセウス』からの原語(古典ギリシャ語)のままの長い引用が、ギリシャ文字はチェコ語に音訳されているとはいえ、長々と出てくる。
 話の筋は、クラカチットと称する原子爆薬を発明した技師プロコプが爆弾製造の秘密を盗まれるが、波乱万丈の冒険と恋の試練を経て、人類の滅亡を将来しかねないこの爆弾の戦争への利用を未然に防ぎとめるという尾のである。
 このロマンこそエロもグロも、ナンセンスさえもかねそなえた、荒唐無稽かつシリアスな作品でえあり、チャペックの大衆性が存分に発揮された「女中さんたち」でさえ読み始めたら、もう読み終えるまで止められないほど面白い作品なのである。〔『最近の女児文学または女中たちのためのロマン』1924という評論の中で、チャペックは大衆文学の問題を論じている〕

 このようにチャペックは、見方によればペダンチックと思われそうなことを平気で、しかも「女中たちの」ために書いた作品の中でも行い、それで逆に爆笑を誘発するのである。それは状況としてはまったく思いがけないところに、思いもかけない人物の口から、情況的に思いもかけない言葉が飛び出してくるからだ。読者がどうにも鼻持ちならんと感じるいとまさえ与えない見事さである。  だが、チャペックが面白いだけの作家でないのは勿論である。チャペックの大衆性の持つインパクトが、例えば、政治的敵にとっていかに看過しがたいものであったかは、ナチがチェコを占領後、直ちにチャッペックの逮捕に向かったという事実がその事実を物語っている。
 その時、幸いにもというべきか、不幸にもと言うべきか、チャペックはすでに亡くなっていた。家のドアの前に立ちふさがり、ナチスの兵士たちにそのことを告げる妻であり、女優でもあっあったオルガ・シャインプフルゴヴァーがその時選んだ言葉は、きわめて悲劇的、かつシニカルであったそうである。

「チャペックは高い思想的使命と芸術的目的をもったロマン作品を構想するときでも、より低い文学的種類のジャンル形式を用いることを恐れなかった」作家であった。だからチャペックの作品の面白い側面にだけ目を奪われていると彼の作品の本当の創作意図を見逃してしまうことになる。
 たとえば人間に奉仕するために作り出されたロボットによって人間が滅ぼされるという戯曲『RUR(ロボット)』1920の提出した問題は、たとえ異なった形であったとしても、現代技術の最先端領域で、人間と機械との関係の場で未解決であり、「絶対子」という人間を極端に信心深くする不思議な放射能を放出する無限エネルギーのもたらした結果は、人間が徹底的に殺し合うという諷刺とパロディーに満ちた小説『絶対子工場』1922は一面では原子力エネルギーの平和利用の問題として、また他方、思想的な面では「絶対的真理」の有効性の問題を投げかけてもいる。(現在の米ソのイデオロギーの対立などまさにこれである)

 小説『クラカチット』は核爆弾を戦争目的に使用することの危険に対する予言であると同時に、それを作り出したものの倫理的責任をもとうものである。事実、一九二四年に書かれたこの作品の主人公がたどった物理学者が、それから三〇年後のアメリカに実在するのである。それは、かつては原爆製造の中心メンバーであったにもかかわらず、水爆製造に反対し、平和運動に身を投じて非米活動委員会の糾弾を受けることになったJ・R・オッペンハイマー博士に代表される一連の物理学者たちである。それはアメリカだけの問題ではない。ソ連の水爆の父とさえ言われている反体制物理学者サハロフ博士についても同様のことが言えるのではあるまいか。

 その他にも反ファシズムの信念を痛烈に(だがパロディーとして)打ち出した『山椒魚戦争』1936では、プラハでの公演のとき、毎回、劇場の中が反ファシズム運動キャンペーンの場と化したと伝えられる戯曲『白い病気』1937。外国の暴力的侵略には断固として立ち上がるべきだと主張した戯曲『母』1938、B・ブレヒトの『カルラールのおっかさんの銃』と結末はまったく同じ――ただし初演の時の劇評でコミュニスト批評家は両作品を比べ、チャペックの態度の柔軟さを批評しているが――)。

 このようにカレル・チャペックの作品は、その一作一作が何らかの形で問題提起であった。そして彼によって提起された問題は五〇年後の今日、どれ一つ解決されてはいない。

 もしチャペックがチェコ人でなかったら、あるいはカフカのようにドイツ語で作品を書いた作家であったら、きっと彼の文学は世界中でもっと広く読まれていただろうとはよく言われることである。だがその代わり、これほど『わが祖国』(スメタナ作曲の交響詩、チェコ人の愛国心の象徴)の国民大衆にこれほど愛され親しまれる作家ではなかったであろう。

 一九三八年の初め、フランスの文学者グループがチャペックをノーベル賞候補に推薦した。だが、彼がその結果を待たずにこの世を去ったのは、まことに残念なことであった。

               (初出・大衆文学研究会報No.50 1988.5 特集=世界の大衆文学U