美学[

 (3)芸術に関する普遍学

 もし心理学的美学が、芸術に関連する問題をすべて有利用できないのなら、最近になって、芸術に関する特殊が学問を設立しようという試みが顕著になっている。その学(問)は普遍性という点では美学にも引けを取らない。しかし、同時に、その関心領域において、必ずしも完全に一致するわけではない。芸術に関する普遍学は芸術の本質の研究から出発している。246 
 ウティッツによれば、その他のいかなる視点も不十分だという。芸術の創造、芸術の由来の問題、あるいは家庭生活の中でのその(芸術の)位置づけ、様式の変化、等々といったものは芸術に関する学v?daに特有の問題である。
 確かに、芸術の学は、自らの存在を周知させるために広範な援助を、価値の理論、文化哲学、心理学、現象学、さらに歴史、何よりもまた、美学の側から受ける必要がある。しかし、これらの専門分野の中で自分を消耗させるのではなく、このすべての分野を自分の視点、まさに芸術の視点の下に位置づける(押し込む)のである。
 その(芸術に関する学の)諸々の目的は、おそらく、心理学的なものでもなければ、歴史的なものでもなく、むしろ、ひたすら芸術・学問的(科学的)um?lecko-v?deckeなもの(目的)であるべきだろう。
 我々の前には芸術の総合的現象が現前している。芸術に関する普遍学には、芸術の普遍的事実から流出する問題の全領域が属している。ここから芸術に関する普遍学の研究の目的と方向性が見えてくる。芸術の価値は単に美学的なものではなく、したがって普遍的美学によって汲み尽せるものでもない。
 芸術の基本的問題は、純粋に美学的問題ではなく、研究――ここでは美学的ではない――の適切な方向性である。247
 ハーマンHamannによれば、芸術に関する普遍的学は、芸術的に特殊な事実を概念(観念)的に捉え、体系の中に導入(配列)する。芸術的事実が全く正確に記録されるべきならば、まっさきに、その特殊性において認識され、概念として捉えられなければならない。しかしながら、芸術的内容は、宗教的、倫理的、ないしは美的価値を持つ場合もあるはずだから、芸術に関する美学と学とは、それを取り違えない(ごっちゃにしない)ようにしなければならない。248
 美的要因は、芸術の内容と目的を完全には把握しきれない、とデスワールは言う。故に、偉大な芸術的事実(作品)に対して、全面的にその要求を満たすというのは、芸術の普遍的学の義務であると。美学はこの要求に応えることはできない。249
 アロイス・フィッシェルは問う。芸術の本質について、起源について、効果について、目的についての学、以外の何ものでもない方向を目指そうとしているのだろうか? あらゆる芸術理論の疑問(問題)はすべて美的問題なのだろうか?
 たぶん、否だろう。人間は、自然に対しても美的評価の関係を持っているから、結局、芸術の理論が美学のすべてではない。しかし、また、芸術理論のすべての問題が、必ずしも、美学の問題ではない。
 そこで、一例だが、芸術の原因に関する思索は、我々を芸術家のほうヘ、彼の天才、個性、その他、の方へと導くが、我々は、それらの疑問は美学的範囲を越えたもののように感じる。したがって芸術の理論は心理学的、および、価値論的問題を提起するが、それらの問題は、美の理念の本質的内容の美学的問題とは何の関係もない。
 美学は芸術の理論ではない。なぜなら、美学は事実の広い範囲に目を向けるが、問題性に関しては狭い範囲にしか目を向けないからである。250
 もちろん、芸術にかかわる美学的でない疑問があるのも疑いない。それらの疑問を、関心単位によって結合された意識の一定の域(圏、範囲)に委ねることができるかもしれないが、それによって、美学的問題が芸術に押し付けられることになる。その質問は
「どこから」でもなければ、「何へ」でもない「何が」という主語(主体)の質問(問題)である。
 おそらく、これが「芸術に関する普遍学」ならば、これら、とか、あれらを一括して、どのように一つの計画課題に導くことができるのだろうか?
 そこに提起された学術部門v?d?に関する意見が、事実上細分化されるのである。
1.    デスワールの芸術に関する普遍学は芸術そのもの(音楽や身振り〔演技・身体表現〕、文学や造形芸術)の研究とともに、芸術家の創造行為、芸術の発生と分化(専門化)、そしてその精神的、社会的かつ道徳的機能の分担である。
ウティッツは(彼の膨大な著作の第二部で)まっさきに、芸術的快感の型と芸術の型、そして芸術家の創作について、そして、第二に、芸術の起源と、その発展の法則、その価値、総体的文化全般における彼(創作者)の地位について研究しようと待ち構える。
アロイス・フィッシェルは芸術の理論に本質について、起源について、原因と結果に関する疑問を書き加える。――それは勿論、美的主観主義の名のもとにも、客観主義の名のもとにも取り込めない美学圏外の問題、とりわけ、文化的、社会的、価値論的、その他の、全体として芸術哲学の問題であり、芸術を世界観の文脈の中に捉えようとする正しい試み、だが決して特殊な専門分野の学問ではない。
2.    それらは、しかし、あの学に書き加えられたのと別の対象p?edm?tではない。シュマルソウSchmarsowはその学を、心理学的に方向づけられてはいるものの、学術として評価し、実質的に芸術の普遍的な研究と位置づけている。(例えば、シンメトリー、プロポーション、リズム、多色彩《ポリクローム》、カラー主義、構造学記念碑、中央集中的及び長方形的区画構造、記念碑像、浮彫等々.251)
ヴルフWulff によれば、芸術に関する体系的学は一定の法則的、かつ美的効果の元となる(客観的)事実を確認するということを自分独自の課題としている。
この学が、芸術的諸作品について、その効果の客観的効果の原因究明を目指すなら、美学は全体的精神現象d?niのなかにこれらの効果の一貫性を設定するよう努めるだろう。もし、芸術についての学が創作者の芸術家よりは、むしろ芸術について問うとしたら、美学は直接的に受容者に問うだろう。そして、それは心理学的分析の記述の方法(道)となるだろう。252
 ハーマンは芸術に関する学v?d?に、芸術的内容を概念的に把握するようにという課題を追加する。たとえば、絵画的、古典的、記念碑的、旋律的、詩的、抒情的、劇的、等々の術語の中にいかなる解釈(理解、見解)が込められているかである。
 デスワールの、その後の意見によれば、芸術の普遍学は二種類の見方で、対象の構造を研究するという。つまり、芸術的意欲から立ち上がり、芸術的受容を指向する。構造への学naukaは全体から出発し、その各々の構成要素を追跡し、その統一(一致点)を結合的価値の機能的秩序の中に見出す。253
 ここでは、いたるところで、対象の美的研究、美的客観主義が研究の対象となる。ただし、ここで提案されるのは、ある種の体系と普遍性の範囲内においてのみである。ここで対象となるのは、ある特定の彫刻ないしは芸術ではなく、記念碑性それ自体、彫塑全体、芸術全体である。それにもかかわらず、「彫塑作品全体」について知るものは、個々の作品の美的監察によってのみである。
 しかし、普遍性は目的ではない。むしろ我々にとって重要なのは、すべての彫像を「造形芸術」というという普遍概念によって括ることではなく、各々の作品を、それらの固有の性質において捉えることである。美的概念と一般的情報は無限に異なる認識の仲介手段に過ぎない。この手段を芸術に関する普遍学は、自らの目的とする。そして、それと同程度に、芸術の普遍学は現実の美的客観主義と距離を置く。
 こうして、芸術に関する普遍学は、古来の体系的美学が「種族的美」の各部門に統括していたものの、現代の特殊化された代償となったのである。それはまた、たとえば、ドゥルディークが「広範な美、線的美、暗黒、色の美、形の美、韻律、響きそのもの、和声と旋律、抒情詩、叙事詩に劇」その他、その他。254
 同時に、新しい名目によっても古い欠陥が脅かす。完全な抽象性と、それによる美的現実性(リアリティー)の損失。または反対に、独断性、たとえば、「彫塑性全般」は、無意識のうちに、「本当の」か「本物の」かという、かすかなニュアンスが生じる。そこからの逸脱は完全性からの、同程度の低落(低下)を意味する。
芸術に関する学の要求は正当化され、不可欠とされる。ただ、「普遍的v?bec」への願望だけは経験科学を専門とする分野へ譲り渡した方がいい。芸術は認知されるべきだ、それはすべての芸術作品のことであり、絶対に「芸術全体」ではないということだ。それがまさに、美的客観主義の独自性だ。その「芸術に関する普遍学」は自分の損失を、安全な方法論的方向づけの喪失とともに解消することができる。


(4)客観的美学

 したがって、客観的美学は芸術作品の、美的、独自的、実際の性質に目を向けながら行う、理論的研究である。それによると、純粋に理論的水準に達した批評は、あらゆる形式的分析と芸術作品の単一研究は客観的美学に属している。255
 ここで行われた作品はとても一瞥できないほどの多さだ。その中の計り知れないほどの多くの作品が日々、失われている。それも一瞬の好奇心によって消費されているのだ。ただ、ほんの時々、芸術の批評もまた、自分の歴史もということが想起される。
 したがって、実際的に、科学的客観美学の最初の課題ukolは何かと言えば、それは芸術作品について認識する能力のある基金の設立である。その意味は専門的自意識、絶えない科学的手続きにたいする信頼、他のあらゆるところと同様、ここにも協力と、絶えざる進歩の過程によって常に完全な真実が獲得できるという確信である。
 この学はどのように見えるのだろうか。それは体系的、それとも、何倍にも専門化されているのか、個々の芸術作品についての個々の認識から組み立てられているのか、それとも、これらの認識の評価にも値しない一般定理論なのか。それは発展の問題であり、現実の研究作業の問題である。
 芸術に関するあらゆる、あらゆる学術的、美学的学問の基礎である思考の方向と方法が存在し、成長し、確かにするということで十分である。主観主義の前提から何一つ否定する必要はない。しかし、いたるところでも見られるのは、主観性から客観性への成長が、美的問題の範囲内でも存在するということだ。その方向は美的対象の理念によって決まる。これによって、心理学主義との論争は終わる。心理学は美的印象と評価の研究を占有するのであれば正しい。体験としての美は心理学的事実である。ただ、美的対象は心理学を漏らしている。
 だからといって、とくに正統美学が行っているように、美学外の現実へ偏向する必要はない。美は命令や判決のような、美的現実ではない。美は一般的な有効性とは無縁である。なぜなら、判決ではないからだ。
 正統美学は客観的美も、受容における美も扱わない。問題とするのは人間そのものだ。その人間は、あらゆる美の問題においても自分の相対性を克服する。だから残るのは別の道だ。
 もし、美的に、直接的に与えられているもののすべてが主観的であるとしたら、われわれに直接的に与えられていないものの全領域が、まだ残留していることになる。記録され、分析された判断、批評と理解、そしてこれらの知的活動の提示された内容、美的対象。
 したがって、ここで、非心理学的美学を設立することができる。それは、決して、独断的、ないしは、初歩的前提との協力によってではなく、客観主義の方法論的目標と協力することによって設立するのである。美的問題における客観性が前提されるのではなく、学問的に考察hledanaされることによって、これまで美的主観主義を逸脱しようとするあらゆる試行を束縛してきた認識論的難問が排除されるのである。
 それらのあらゆる努力にもかかわらず、まったく新しい学術分野を創設するという試みはうまくいかない。つまり、すべてを包含する客観的美学、それは美的問題を改善しようとするあらゆる他の試みを無駄にしてしまうだろう.
 ここに述べられた学問は、たとえそれがっどんなに細分化された形においてであれ、存在する。その認識的生産物は、その学問の客観性とその限界をも、おのずから示すだろう。ここではむしろ、主観主義美学から客観主義美学への実際的移行の問題である。この移行は無限の発展が可能である。
 芸術そのものには進歩はない。我々は我々の芸術が百年、千年前の芸術よりも良く、価値があると自慢することはできない。ただ、異なると言うことができるに過ぎない。
 しかし、主観的、美的生活が、より高い、より成熟した時代に起こるわけではなく、むしろその反対だ。美の、あらゆる美的問題の中で、唯一、進歩可能なものは理解である。(理解)それ自体は現代的データでありながら、絶えず未熟さを減じ、陳腐さを減じる。形式的分析は繊細さと、確実さを増し、規範は多数化し、細分化する。認識は徐々に詳細となり、体系的となる。おそらく、唯一、これまで芸術の規範が科学的に育ってきた、つまり芸術の現代史の中に見るべきである。発達のこの事実は我々の研究の総計のもっともよい確証である。


   

p.80 ---2015/10/06---