Z.美的客観主義の領域=序

 美の領域は無限である。物質的な物も精神的な物も、何一つ、その領域から切り離されては存在しない。自然と芸術の間の美の領域が切り離されたたとしても、それは単なる言葉の綾だ。美なるものは夢であり思索である。美なるものは機械、音響、祝祭である、等々。
 いま指摘した対語『自然と芸術』が、その両者の間に、ある種の緊張があることを証明しており、しかも、『自然性』と『人為性』という相対立する定義の間にある緊張を先鋭化している。もともと、ここでは、芸術と自然の関係が問題となるべきではなく、むしろ、芸術の美と自然の美が問題とされるべきなのである。
 この両者の美は質的に同じなのだろうか? 美に関する思想の歴史は極めて明確に、それに対する反対意見を証明している。まれに、両者は同様に受容されていはいるが、それは同じ価値の量りによってではなく、釣り合ってはいない。時々刻々に自然への回帰と、ないしは反対に、芸術をいたあるところに植えつけようとする努力との間を行き来している。
 そして、この両王国の比較の不適切さへの警告が、このすべてにおいてある。
 1.
 芸術と自然との関係は、芸術の美が自然美の模倣として有効である限りは単純に見える。したがって、いずれにしろ自然は気に入られる。音楽もまた、自然の感情を模倣する。ただ、建築だけは何物をも模倣しない。だから、「建築と木工業、機械技術にとって共通の表現があるとしたら、そして、もし建築を”芸術”と呼ぶ習慣がなかったとしたら、それによってあらゆる種類の投機はなくなり、我々の認識も現在と同様に事実にたいして適切な関係を保つだろう・・・。少なくとも現代の正常に成長したドイツ人にとって比類なき、最強の「美的」受容(体験=歓喜―快感)は、開放的自然から得る喜びだろう。178
 だからといって、芸術は無駄ではない。
『いわゆる、すべての芸術以上に、どんな言語的、絵画的、彫刻的迷妄以上に、あらゆる人工的美や異端的趣味以上に、この大地が私には(芸術)作品となるだろう。
 私は、絵画やそれらのジェスチャーや誇張を必要としない。醜悪な、無器用に描かれたものを欲しいとは思わない。そんなものは、私の眼前に新鮮なままある。私はいかなる絵画も欲しない。すべては私の周り在るすべての物が、かけがえのない、素晴らしい絵画である。これまでも私は、いかなる建築の、そのどれも必要としなかった。私の山々の展望も、森たちの茂りも、わが家のトタン屋根もが――ポンペイの世界的建築から、奴隷や犯罪者、人民を被搾取し、その犠牲のもとに築かれた、あらゆる宮殿やビルディングにいたるまで――この素晴らしきものすべてを、私のために代用してくれる。
 わが庭のリンゴの木の枝にとまって囀るマネシツグミは、私の知らないどこか遠く離れたところで、プリマドンナやテノール歌手によって上演された、どんなオペラにも劣らない、私には最高のアリア、森の音楽だった・・・。
 その中のどれ一つとして、私には必要でないし好まない。 
 私は自分の故郷に、自然の中に、私を取り巻く、すべての活発な生活の中にこそ、最も大きな、最も魅力的な、最も真実な、あらゆる芸術――輝ける、純粋な、克服不能なs芸術、それこそが自然であり、生命そのものであるような芸術――の源泉を持っている。』179
 これはもちろん極論である。しかし、極論は軽率に導かれた結論である。ここには、芸術の自然への従属は、芸術と自然との間の矛盾の解決ではなく、芸術の不成功に帰結する、矛盾の先鋭化である。それは何が彼により強い受容であり、より大きな価値があるか、自然かそれとも芸術かという、誰かの個人的問題である。

 2.
 芸術は自然に追いつけないばかりでなく、自然から離れることもできない。したって両者を区別するものは、芸術の側の力不足ではなく、むしろ芸術の美的特権である。ゆえに両者の関係を逆転させ、自然の美を芸術の美に従属させることができる。そこで、たとえばソベスキは、自然の美は芸術の美と同列に観ることはできないと判定をくだす。自然においては、美は受容者の心が作り出すが、一方、芸術においては、美は、芸術家によって、客観的に実現される。自然の形式はきわめて豊かであるが、純粋に目的のための手段であり、純粋に想像的精神の道具である。180
 コンラッド・ラングによれば、自然の効果はそれが美的である限りは、芸術の効果に類似している。美的意味において自然の美しさは、上記の芸術発展の段階の尺度に従って、芸術的に表現されるものである。
 この考え方によると、自然の中の醜悪なものとは、芸術家からはまだ描写されていないもの、つまり、芸術という完璧な道具によっても、描写されえないものだということになる。結局のところ、自然が美的に美しいのは、神のおかげではなく、芸術家のおかげである。181
 同様に、コーエンKohenによれば『自然の美的受容はむしろ芸術の創造の隠喩(言い換え)にすぎない。』自然の美に対する感情は、美的意識に特有の自己認識であり、
 人間として、そして芸術家としての自己意識である。それは決して普遍的意味での自然ではなく、認識の対象としての自然でもなく、美的自然でもない。それはむしろ人間の自然さであり、自然の中の人間である。自然は、我々が純粋な愛によって愛するかぎり美しい。しかし、愛は芸術の基本的力であり、根源的な道具である。
 愛は美的感情である。ただ完全性を求める高い緊張の中でのみ真の芸術的愛は証明され、人間にたいする芸術の愛は証明される。この愛なしには芸術は生まれないし、それなしには、前進することもできないだろう。芸術こそが愛である。愛は芸術の中にだけ、自分固有の住処を持つ。182
 したがって、愛の芸術にたいする関係は、自然に対する芸術的関係である。これらの見解によれば、我々が芸術的、創造的に自然の前に立ち、それを自分の芸術作品に変化させる、そのかぎりにおいて、我々は自然を美的に受容する。
 いずれにもせよ、我々は原則として、自然の美にかんするかぎり、純粋に思索的観客である。自然の芸術的受容は、自然受容のほんの一例に過ぎない。183 純粋な受容の側面から見れば、芸術と現実との違いはほんのわずかである。

 3.
 それでも自然と芸術との間には、両者を同一平面で論ずることを許さない対立がある。自然の美について反対意見を持つ人は、芸術のみが美的であり、自然の受容は美の圏外であるという考えを忘れていないと考える。
 そこでCh.Laloは判断する。自然から受ける快感は、彼によれば、自然そのものにたいする感情は、何よりも、評価の単純な感情であり、したがって、純粋に非感性的な感情である・・・。

『自然の非感性的美は、つまり人間たち――少なくとも一定の文明、ないしは、一定の芸術学派の新人たち――が、これらの文明、または、学派の圧力からの逃亡を意識するとき、彼らを捉える力強い生命力の感情(感覚)である。
それはいかなる形においてであれ、生活と実存にたいする普遍的共感である。あらゆる事象の基本的連帯の汎神論的直観、または、こう言ってよければ、それは自然にたいする――あらゆる自然にたいする、少なくとも原則的には選択の余地のない、決して「美的自然」のためではない――感情である。
しかし、まさにそれだからこそ格差や判定の観念を徹底的に締め出す。それは審美家や世俗的愛好家の直観のなかにではなく、価値観念の痕跡の中にでもない。だからこそ美的美の名前にふさわしいのである。』
しかし第二に、美的自然や自然的存在と醜悪なものとを区別する感覚も存在する。
『自然のなかの美は、それがどんな対象であっても、それなりに正常な現象である。自然美にたいする感情は、大なり小なり、暗示的で混乱した・・・判断を含んでいる。それはまた、いずれにしても、それなりに正常で、健康で、典型的、または、大なり小なり巨大な、高度に洗練された、なんらかの存在または対象の性格についての判断である。
『したがって、それはこの場合、比較であり、位づけであり、したがって評価でもあるが、それは、むしろ多様な価値の総合syntezaであろう。とはいえ、それは、決して純粋に美的な価値ではなく、むしろ利用価値、等々と言うべきであり、偽美的価値である。
 しかし同時に、自然の美は自分とは無関係の芸術を通して、自ずと我々に身をさらす。教育された人間はあらゆる提示された現実を、芸術作品の可能(的)な対象として、観察(観照)することができる。
『自然そのもの、その無感覚な明晰さにおいて、人間性を欠いた自然は美しくもなければ醜くもない。それは非美的、「美も醜」も無関係、同じく「無道徳」、「非論理」・・・。
芸術を通して見ると、自然は美しさを得るが、正しくは、単なる偽美的な美と呼ばれるものにすぎない。』
――
『結局、(自然美は)芸術の美とはまったく別の物であり、創造はその存在の基盤を、無感覚な自然の中には見出せない人間的、かつ、社会的要因のなかに持っている・・・。
唯一、芸術だけが本来の意味における美と醜という美の価値概念に導かれる。
自然の美について語るという、この問題にさらにこだわるなら、自然の美が非美的か疑似美的か、芸術の美のみが美的なのかということに言及しなければならなくなる。
 芸術それ自体は技法、つまり、調和、様式化、装飾性、理想化、あるいは、その他のどんな同義語であれ、(その定義は)常に広すぎるか、狭すぎるかだ。その同義語は圧倒的な演出力を発揮するはずである。その創造精神は、自らが語り、自らが理解する言葉に書き直し、人間の美的意識の、新しい純粋に人間的法則に従わせることによって、あらゆる無知覚な存在の姿を美に変身させる。』184

同様に、モイマンMeumannは『自然から受ける我々の快感は、通常は、特に美的な物ではない。自然から受ける快感、自然のムードへの没入、多くの人々の場合に、ごくまれにしか美的性格を持たない。それは通常は、自然に結びついた人間の思考であり、感情であるとしても、とくに美的なものではない。』185
 いかなる美的印象もと、モイマンは、対象の我々の感情への直接的影響をはじめとして、広範囲にわたって解説する。
『しかしながら、この純粋な直接的印象は、常に、不完全なもので、美的受容と評価の低い次元を示しているに過ぎない。芸術作品の完全な理解と、その芸術的価値の真の受容を目指す人の誰もが、まず、第一に、直接的美的受容のこの段階に到達し、芸術作品の意識的分析を部分的印象ばかりでなく、それらの内容的、形式的原因(要因)ともども、意識にもたらさなければならない。
 芸術作品のこの意識的分解(分析)はあいまいな、一般的評価を美的評価に―― 一定の基準に即した、真剣な美的評価についての判定の場にもちだすのに役立つ。』
 しかし、評価が分析された印象に因るか、分析されていない印象に因るかいかんで、評価の差異は一つきりではないし、それは、評価する人の教養にも左右される。
 子供や素朴な人たちの場合、芸術家や芸術的展示物についての思索に没入することができない。作品はその(作品の)内容によって判定されるとはいえ、それは評価の「超美的」段階である。
『美的判断(評価)であるか、超美的判断であるかの境目は、思考が芸術家の上に及ぶところからはじまる。この判断の方向付けが決まるや否や、評価の純粋に内容的な、超美的な性格は消えてしまい、そして美的判断の次の段階においては、美的受容者が芸術家の意図を常に、より一層、理解しているという前提に立って、美的判断の次のより完成した段階にすすむだろう。
この重要な経過を我々は、その際、一定の意識が存在していなければならないというふうに考えるのではなく、あらゆる芸術家が人の美的受容と芸術家の意図との適合の中での、鑑賞者と観照者の直接的な意思疎通について考えていた。
しかしながら、美的判定の高さは、つねに、美的受容者が――たとえ、それが意識的で、分析的、あるいは、むしろ直観的で予感的であったとしても――芸術家の意図と、想像、そして感性的作品、芸術家が自分の作品のなかに込めた、その他の物を共有するということに基づいている。
この思索から、美的受容行動の、何よりも、特徴的性格を獲得することができる。それは――きわめて平凡な表現をすれば――(直観的、または意図的ないしは意識的)芸術家の絵画的、精神的作品の内面的反復であるというところで起こる。186
もちろん、これらの諸前提から、なぜ、モイマンは自然から受ける快感を超美的と見なしたのかは、もちろん理解できる。モイマンとラロについては、二つの問題の変更と同時にこの区別の重要性がみられるということである。
最初の問題は、自然は芸術と同様に美的受容が可能か? である。「イエス」というのが、しごく当然の回答である。それは疑いようもない感情の反応であり、内面的証拠である。それに異論を唱える根拠はない。実際問題として、我々は自然の中で美的感情を体験している。その感情は何物の下にも位置づけられない。
しかし、まったく別の問題もある。自然、あるいは、何でもいいでもいい、任意の対象が芸術作品と同様に美的対象になりうるかという問題である。そもそも、自然は客観的に提示されうるのだろうか?
そうでないことは証明されている。だから、自然は体験(受容)の中では美しいが、客観的に美的でないと言うのが適切である。客観的に提示されることができなければ、そこから、(自然が)客観的には受容され得ないという結論は出てこない。
まさに、ここで、ラロとモイマンは誤りをおかしているのだ。
モイマンの美的判断は、分析された印象と芸術家との結びつきに基づいているが、それは本来、客観的提示の評価である。ラロの『技術的感情』、それは彼にとって、唯一、美的であり、187 本来、美的理解の過程ではじめて現れる評価の感情と行為である。自然の美を自分の客観主義の指ではつかめないから、その両方を否定したのである。
しかしながら客観的提示は唯一の受入れ法ではない。美的受入れの領域は三領域をカバーしており、何であれ、美的受容は可能である。もっとも可能性がある状況はたまたま気に入ることもありうるということだ。子供たちは玩具やストーブ、その時、たまたま気を引かれた物は何でも好きになる。受容における美は、まさに、魂の至福の一瞬である。たとえ、(その対象が)それが鳥のさえずりであれ、バイオリンの演奏であれ、ティチアンの絵の、あるいは、夏の夕べの暖かい光線であれ、それは現象の持続と充実性への観照である。技術と自然との間には、快楽主義的視点からの、本質的な違いはない。  
美的に受容されるもの、そして個人的反応の対象になりうるものはすべて、美的に評価することが可能である。我々は芸術におけるのと同様に、自然のなかにも美しい物を評価する。あちらでもこちらでも、魅惑され、興奮した主観からであれ、自分の共感を分かち与える。
この熱中によって、文化的、社会的条件によって、我々の自然または芸術の評価は変化する。それによって、彼ら(自然と芸術)の間の、時には、反発や矛盾が生じるし、そうでないときは、最も密接に接近しようとの努力もされる。
しかし、この反発こそ、自然と芸術作品が、同等に、美的に評価され得ることを証明している。それと全く異なるのが美的理解の場合である。つまり、美的に理解できるのは芸術作品だけであり、芸術だけが客観的に美的である。自然は受容と評価odnotaともども、主観的に美しい。
芸術もまた主観的に受容され、評価されるが、しかしそれに加えて理解の主題にも、美的対象にもなりうる。
この問題にはさらに詳細な説明が必要である。
 

 芸術と自然