Y.美的理解 (p.49)
理解というのは、魅惑的な言葉であり、経験はさらに魅惑的だ。時に、芸術の虜になった者はある特殊な事実を知る。多くの場合、彼はしばしば、ある(所与の)作品を観察し、賞味(エンジョイ)するpo?iva。評価することによってそれ(作品)に反応する。それを調べstuduje je、ある物o v?ciについて、それをどう捉え、どう説明するか、何を言うことができるかわからないまま、遂にはそれv?cに飽きる。
それから一定の時間を経た後になって、やっと、単なる思索的提示に際して、求めていた解決が手に入る。作品の構造strukturaと構成orgznizace、その個々の法則性と性格がいま発見される。
理解は、極めてしばしば、受容recepceよりも、創作invenceの性格を持つことが多い。別の場合では、我々は感情citと推理tu?eniによってのみ、直接、対象(v?c)の内部に浸透(侵入)vnikali jsmeする。そして同時に、思考の過程を経るよりも深く、より明瞭に内面に浸透する。それゆえに、理解rozm?niと解釈(表現)interpretaceのために、魔術的能力に頼ることになる。そこで我々は「直観的intuitivniに頼る以外には術のない不可知なるものへの結論」を発見する。170
しかし、ここで「理解rozum?ni」には一定の思考方法metoda my?leniが考案されている。したがって、方法は、国家経済が神頼みにできないのと同様に、魔術のようなものを頼りにすることはできないからである。
理解とは、対象の質(性格)povaze p?edm?tuに向かうsm??uje思考である。だから、その対象の質に支配され、かつ、それに対して、できるだけ最高の完璧さで適応しようとする。たとえ所与の問題に対するこの適応が直観的であれ、推論的であれ、結局は、そんなことはどうでもいいのである。理解は評価ではなく、美について判断できないし、名誉にとっても恥にとっても最上位ではない。
しかしながら、(それは)発見者的であり、これまで認識されていなかった客観的集合体ないしは関連性を発見するのだから、主観の
主観の新しい反応に対して――絶え間なく接する機会p?ile?itost、評価、そして、それによる価値の増大と変動に対して――絶え間ないチャンスp?ile?itostを与える。しかし、理解それ自体は評価せず、我々のために現実を再現し、構成organizujeする。
その(結果、得た)拾得物vyt??ekは価値の領域における知識v?d?niであるが、それは評価されたものの認識である。
美的理解は美的受容の一般的型typである。その目的は美的対象の、できるだけ客観的な提示である。その際、「美的対象」とは、具体的に支持された、美的データの統一と関連を、したがって事象v?ciの現実の性格を意味する。171 そして、その場合の『客観的』提示とは、実験、管理、比較といった、あらゆる手段を通して対象を目指し、それによって、方法論的客観化方法に向かって主観的美的受容の境界を踏み越えるのである。
この最終的論点は重要である。主観的理解porozum?niにとって、所与の対象に関心をもつだけでは不十分である。それ(所与の対象)に戻る必要がある。それをくり返し観察し、それにかかわる自分の発見とそのもののデータとを比較する必要がある。この作業の間にデータそのものが取り替えられないようにすることが極度に重要である。つまり、そういうことが、美的理解の際には間違いの、最大の源泉になる。このような検証zkou?ekによって、偶然的nahodile(nahodile?)要因faktoryと対象p?edm?tuの複製されたデータを排除できる。それによって理解の確かさが増大する。
さらに対象の性格的特殊性が理解されるか、その度合いは他のあらゆる他のものと区分けされる。だから、比較slovnaniは理解のきわめて自然な手段なのである。同時に、比較によって一定の、ごく自然な、類似のグループを発生させる。したがってこれらの類似性はまた、研究の対象にもなりうる。例えば、一人の芸術家、一つの流派、あるいは一つの様式の作品、さらに、記念碑彫刻や、レリーフ、ドラマ、その他のように具体的に(共通目的で)v?cn?結びついたvazane集団sukupiny、あるいは、リアリズム、クラシチズムその他のような主義主張(概念)pojmov?で結びついた集団の作品である。
第二(のグループ)としては、しかしながら、大多数の美的対象に共通し、それらに何か同じ印(名称)をつけるという、こんなふうな、ある一定の目的が見えてくる。これによって理解は美的名付け親(estetickych p?edm?t?)になる。
そこで、我々は、いよいよ美的対象の全領域の学問的整理に取り掛かることにしよう。「理解」はここでは、曖昧で暗示的な言葉rozplyvavym a sugestivnim slovemになる。それは慎重に、性格な定義ur?enimと取り替えなければならない。
Y−1 美学の客観的方法――OBJEKTIVNI METODA ESTETICKA
『理解rozm?ni』は、何よりも関心が徹底的して美的対象そのものに向けられている、だから、その対象に即して訂正されるという意味で、美学の客観的方法である。それに対して、主観的、ないし、主観主義的方法は、美的対象を主観的美的受容recepceの心理学的(構成)要素としてしかとらえないから、受容po?ivaniの経過procesしか研究しない。
デュソワールDessoirによれば、美的客観主義とは、研究領域にとって特有なものを受容する主観の行動の中にではなく、対象の性格(有様?)の中に探求する理論の全体である。172 あるいは、『美的自然、文化、芸術の領域が全体として、対象の特殊性p?edm?tne zvla?tnostという客観的特徴objektivni znaktoiuを持っているという学問naukaである。その中には、一定の性格現象jevy ur?ite povahyは、美的感情や判断を呼び起こすという、とりわけ強力な能力を持っているという断言(主張)tvrzeniが含まれている。173
『自然、文化、そして芸術の中の事象v?ciまたは事件d?jeは、具体的v?cneな特徴znakyを持っており、それによって美・枠外の対象を区別する。美的対象それ自体の中に、美的に把握されたいという要求する必然性が根ざしている。』174
それにしても、何によって、美的対象と、枠外の美的対象とを区別するのだろうか?
気に入られる“特別の強力な能力”を持っているということによってか? しかし、ほとんどすべての物は時には誰かに気に入られるし、時には気に入られないこともある。したがって、枠外の美的なものmimoestetickeも、もしかしたら、わずかな人には気に入られる対象なのかも知れない。だから、美の客観性については、多分、デュソワールも言及しなかった支配的に優勢なvladnouci趣味vkusが決定するのかもしれない。
それとも、第二の美的対象としてはza druhe esteticke p?edm?ty、一定の特別の客観的特徴znzkをもったもの、明らかに、特に美的なものと広く認められたもの、そして、その反対物よりも常に気に入られているもの、たとえば、シンメトリーやリズム、その他のように・・・だ。それにしても、すべてのシンメトリーなものが、必ずしも枠外の美的なものではない。非均衡性は、多くの場合、平凡な均衡よりも美的である、等々。
要するに、これとか、あれとかいった、普遍的記号(性格)obecne znakyは美的なものv?ciと枠外の美的なものとの分離器ではないのである。さらに重要なのは次のデュソワールの美的客観主義の定義だ。客観性のすべての基準は、いわくpravi、
それに対する基盤の中で、言い残しているodkazovat、
『すべての客観的なものは、心理学的でない自分流の法則性に従うといことによって受容する主観に反発し、それに依存することなしに現れる stav?t se。ある一定の価値が、他の価値が変化している一方で、同じのままで留まっているなら、そして、規則正しく(価値を)示すなら、しかし、意図的に製作された結合spojeni作りあげることではなく、現実を作ることである。
全体に関連し、切れ目のない、特別の法則性が我々に、その構成要素?len?メンバーの独立したneodvisou存在を保証する。』
そういうわけで、そのことは美的対象の場合にも当てはまる。
『絵画の中には、たまたま向けられた偶然的な物の堆積kupuへの視線がそのまま反映されているのではなく、そこには個々のものがすべてのものを支配する法則性zakonitostが表現されているのである。部分部分の間には、明らかに必要不可欠な種類の関係が働いている。美的な、諸部分?asti
の価値とは結合の価値spojova?i hodnotaである。しかし、この美的法則は決して、絶対に、心理学的法則と一体化してはならない。逆に、美的存在の客観的性質として認められなければならない。
美的存在は自らの中に美的存在を保持していなければならない。それによって客観的現実objektivni skute?nostを持つのである。』175
もちろん、芸術の“法則”zakonitostというものには、幾分、特殊な意味がある。(それに対して)自然の法則は次のように述べる(主張する)。――ある現象、または、記号aがあるときは、常にb が在らねばならない(という主張である)。しかし芸術の中には、このような部分結合にたいする普遍的等式は存在しないし、まったく、求められてもいない。このことは、特性(記号znak)についても言えるし、記号x も結合されることもありうる。ただ、結合の性質次第である。ただ、ドグマティック(独断的)な批評のみが、芸術作品の構造konstituceの不変の規則pravidlaを処方するのである。
芸術作品の“法則性”zakonitostは、ある程度、内面的、個人的、ないしは、記号znzkの様式的、関連性sovislost以外の何ものでもない。だから、統一体jednotaであり、美的対象の内面的組織体vnit?ni organizace esteticke objektuである。
そうなると(したがって)、 芸術作品は、ある程度、つまり、我々がその構成organizaceと合法則性ukazn?nostを把握するか(の)、(その限りにおいて)程度において我々の美的対象となる。
しかし、この法則性は美的受容の対象ではなく、理解の対象である。もちろん何かによってこの法則(性)が破壊されるや否や、受容(お能力)は低下するか不可能になるだろう。受容においては、我々はそれが何に依るかは全く関係ない(感知しない)。
美的客観性は最初の印象の中では与えられず、対象の方法論的研究の過程で発見される。しかしそこに、現れるかもしれない。(―?―)
直接的印象から対象の合法則化にいたる過程は、同時に、具体的現実から抽象的構造(構想)へいたる過程でも現れる。体験za?itekは充実plnostと奔放volnostそのものであるが、かの想像上の(イメージされた)対象は概念的な創造物であるとしても、(それでも、)それは自分流のやり方(手続き)でpostupem生の現実から遠ざかっていく。直接的印象の中で、美のみが十全な現実性plnou realituをもっている(満たしている)。
もちろん、我々は客観的通路を通って、美の直接的特(有)の性質vlastnostから遠ざかるが、しかし、現実からではない。理解とは、高度に、発見性heuresutickeのものである。実際、客観的なのは、ただ、我々を真実へk skute?nostem、すなわち、新しい関係や事実に、そうでなければ、近寄ることのできない事実に導く通路へ導く。
しかし、具体的な対象の十分さにもかかわらず、客観的方法に直面しても、意気喪失することはない。なぜなら、理解は限界を知らず、尽き果てることはない(無限だ)からである。美的客観主義においては、具体的問題(受容対象)としてjako?to konkretoni problemの芸術作品をたんまり持っているからだ。
Y−2 INDIVIDUALIZUJICI METODA ESTETICKA――美学(美的方法)の個人化の方法(メソード)
芸術作品は――と、ウォルフ・ドールンは書いている――二通りの方向にで認識可能である。一つは、その中に普遍的法則の効果(作用)p?sobnostを証明するという目的である。この点が証明vynalezenされるや否や、個々の作品についての興味は失われる。これは個々の法則の場合に起こる。これは法則の下位におかれ、それで決着する 。
法則の認識poznani zakonaは究極の目的cilであり、芸術作品はその目的に達する手段である。これが心理学的美学の手続きであり、それは美的体験とその他の心理的事実とを分別し、美的体験の性質znzkyと型typyとを定義する。それpsychologicka estetikaにとって芸術作品は単なる証拠資料dokladであり、その中に何か共通するものをすべて探し出すのである。\\\
しかしながら、第二に、芸術作品は、その各々の構成individuaalni struktu?eにおける独自の形式utvarとして、または唯一無二の芸術作品um?leckou udalostとして、興味をつなぐことがでできる。したがって、美的対象についても同じことが言えるのだ。
芸術作品とは――と、ドールンは続ける――美学が美術作品を芸術的表現vytva?eni (Darstellung)の問題として捉えたとき、そして各々の作品のなかに、この問題に対する独特のかつ独創的解決(処理)法を考慮しながら、その作品を美的分析の対象にするとき、はじめて 固有の形(作品)utvarとして関心の圏内に登場してくる。
この分析、同時に、このような分析の基本原理の定立(または提示、stanoveni)は個別化(個人化)する美学individualizujici estetikyの課題である。
『個別化する美学にとって、芸術作品は客観的条件の複合体komplexでり、また、受容するapercipujici主観には何らの依存関係なしに存在する統一体である。』また、(芸術作品とは)ある一定の方法によって、私とは無関係に、私に何ら依存することなしに、主観から適切に受容され、美的現象が作り出す何物かである。
(ドールンの場合は『美的対象esteticky p?edm?t』。ドールンは『美的対象esteticky p?edm?t』を受容の中でv po?itku 与えられた対象p?edm?tであり、体験された内容po?ivany obsahであるが、それにもかかわらず、諸要因fakto?の効果の客観的かつ主観的関連性souvislostを芸術的対象と呼ぶ。
ドールンの『芸術的対象um?lecky p?edm?t』を私はこの論文中で、しばしば、『美的現象esteticky jev』と称しているが、それは、受用された内容po?ivany obsahは現象jevではあっても、適切な意味では、決して『対象p?edm?t』ではないからである。これは単なる、用語法上の注記に過ぎない)
『それは官能的領域ve smyslnem material(素材の意味で)内での、美的消化esteticke za?iti(受容)の客観的条件の、色々に構成された複合体komplexである。』176
しかし、この客観性がまさしく、ドールンのいう単純な反撃ではない。芸術的対象の分析は主観的体験(受容、観照、鑑賞)を前提としている。
芸術的対象の評価決定(鑑定)ur?enihaは、それを美的受容発生のためpro vznik estetickeho po?itkuの客観的条件の結合関係souvislost objektivnich podminekukonoketugouha と単純に見なすことができるなら、簡単だろう。
しかし、この結合関係は一定の受容ur?ite apercepce、つまり美的(受容)を前提としたときに限ることが明らかにされる。美的受容がどのように変わるかによって、受容者の個性による大きな変動の前に立たされ、瞬間的な好悪の変化の前に立たされるかによって『客観的条件の』関係性souvislostが変わるのである
あらゆる種類の受容apercepceのほかに、客観的条件の関連性はない。芸術的対象は――の中にのみ実現する。そしてただその中においてのみ効果的関連性のなかへv efektni souvislost 踏み込むことができる。この関連性を観察するzkoumatことが個人化する美学individualizujici estetikaの課題なのである。研究対象の、かかる主観的生起(現象)に際して、『客観的』条件の関係についての発言(見解)re?はどんなものでありうるのか?
ここには真の客観性、すなわち、上述の『客観的』対象の完全な現実化にとっての(対応するところの)、決定的、完璧な主観性は存在しないのか?
そうなると、真の客観性とは、つまるところ、完全な主観主義と同じの、己の受用への無際限の没入ということになるのだろうか?
ここから脱する糸口は、客観性の前提条件として、ここでは、超個人的有効性を設けるか、何か究極的な物、さらには解決不能の物としてしまう以外に無い。177
そんなわけで、ここでは認識論的矛盾解決の機械仕掛けの神deus ex machinaとして、例の超個人的有効性に登場してもらう。
しかしこのような矛盾konflictは本当に避けがたいものであろうか?
たとえば、私はインド建築が好きである。もちろんそれは私の主観の問題だ。驚嘆すべきもの、かつ、逆説的な物として見るか、それは私の主観の問題である。・・・インドの住民の印象とは全く違うものだ。
しかしこの感じ取られた矛盾の中で、客観的提示(接触)に際してp?i objektivni prezenntaci、何かが事象v?ci sameそのものに対応しているのである。たとえば(たくさんある中の一つの要因faktorとして)支配的なインド・ホリゾンタリズムindiccky horizontalism(水平主義?)であるが、ほとんどその地面から階層的壁が積まれた仕切り壁があり、均一な部分が独自の機能の中に納まっている。したがって、全体の中で無限の巨体に面して、建築における何か独特の物、逆説的な何物か、それは連結的な物か、集合的な物か、両面で均衡を保った物か。
この性質charakterが美的であり、私の評価にとっても、私の特別の受容にとっても適切である。しかし、同時に、それは完全に客観的であり、現実的であり、超個人的有効性に訴える必要がない。主観的印象dojemからの判断の発生vznikはその客観性をいささかも減じない。これや、あれやの特徴znzk?の土台の上に、私はあえてインド芸術の美的独自性を評価する。それは主観的ではなく、むしろ仮説である。
徹底的に客観的な提示に際しては、主観主義、客観主義の問題が欠落し、対象objekt の問題だけが残る。感情、想像、感動などは、もちろん主観的である。しかし理解においては、感情もまた客観的創造への導きの糸である。事象の上に現実に存在するもの、客観的である。したがって、客観的普遍性は自明の現実の結果に過ぎない。
そもそも、ドールンの疑念は『美的受容esteticka apercepce』は一つには自らの美的印象と、美的対象の客観的提示を含むという考えに基づいている。彼の主観主義は、したがって、この方法(論)的受容teto metodicke recepceの理論的性格を不可避的に曇らせる。ドールンにおいて重要なのは個人化する(方法論としての)ものとしての、客観的方法という名称である。
理解rozm?niは事象の性質を志向するk povaze v?ci。そして、個人性と自律性(の名のもとに)対象に目を向ける。つまり対象の内面的統一性と全体性を捉えようと努める。それを他のものと区別し、その具体的な充実性plnostから目をそらさない。そのすべては個別化の特質rysyである。
だがもちろん客観的方法objektivni metodaは、同時に、創造的pojmotvornaであるし、それによって普遍化zobec?ujiciするメソードmetodaである。ある部分的内容がより正確に設定されればされるほど、具体的に提示されるところではどこでも、それによってむしろ、気付かれnalezen、正真性を認定されるidentifikovan。
客観的手法はobjektivni metodaは分別し、比較する方法であり、孤立させるのではなくneizoluje、逆に、関係を発見する。まさにそれは手法であり、道具ではない。だから個々の作品の境界を越え、あらゆる対象を渉猟し、自分の好みの方向に捉えるのである。こうして、それらの作品に一定の共通する質kvalifikaceniに仕分け、それらを『芸術』にする。
芸術は美学の客観的方法を理想的に充足させた内容(実体)obsahだと定義することができる。美的理解の対象となりうるものすべての総合体uhrn v?eho co m??e byt p?edm?tem estetickeho rozum?niである。
それでもこれは、いささかの衰えも知らない、個人化individualiza?niの方法である。
たとえ、その方法metodaの対象が比較的普遍的で抽象的な物、たとえば『ゴシックgotika』だったにしても、それは単なる一般化generalizaceではなく、博物学における種druhとか類rodとかいったものでもない。それはむしろ、ゴシックそれ自体が一定の具体的性質であり、シャルトレ(仏)、アミアン(仏)、ウルム(独)、その他の都市における大聖堂が持っているような、一人の人物の性格表現、その発現として、それぞれの都市の性格表現に資している。
しかし本質的なのは、我々は多くの行為からその人間の性格を認識するとしたら、各個人の行動のちょっとした衝動やヒントからだけでも、その個人を一層よく理解することができる。そして、比較と普遍化によってゴシックの性格を把握し、個々の記念碑を、そればかりかその部分と、その細部をもよりよく、生き生きと理解出来るのである。理解の本来の傾向は常に個別化する。
美的理解の対象として、これまで芸術作品だけが引き合いに出されたが、美しい自然、その他が引き合いに出されることは決してなかった。それは偶然ではない。
客観的または個有化する美学は、事実、徹底的に芸術の美学であり、学術的に深められた芸術の批評kritikaである。それゆえにその批評を批評的方法と命名することができるのである。
美的問題領域内で何が客観的であるかの探求する際に、我々にとって、二つの重要問題があることが分かった。第一に、芸術的創作とは美的客観性の実体験だということである。そして、第二には、芸術家の評価に際してはどんな場合でも、観客は、芸術家に依存しない、美意的客観性を要求する。
しかし、さらに、示すだけで十分な別な状況okolnostもある。
まず、第一に、芸術の批評があり、芸術の美に対する理論的関心があるが、それは決して自然の批評ではない。
第二に、芸術は、したがって、他の物たち、自然のもの、実用的な物、その他の物とは区別される客観的に特殊な物たちveciの領分である。
それらは芸術的生産物に対する特別の、専門的関心を得るための実質的に十分な動機である。芸術作品のみが客観的に美的であるという断定は美的対象の性質からか、または美的理解の方法の性格からっ出てくるかいなかによる。8/8 page/8176文字 2015/08/31