X.美的対象

X-1 美的行動の三つの型  p.157

 これまでの美的受容の分析において、いろいろなケースがあることに、そして受容の対象がどのように意識に提示されるか、同時に、主観的美的行動のきわめて多様な段階があることについてほとんど触れてこなかった。
 これらの受容の多様な種類は、受容者の多様なタイプには結び付けられていない。そのくせ、相互に浸透しあい、美的受容の一つの経過(プロセス)の中で発展している。

  1.  第一グループは現象的である。
我々は提供された感情または想念を直接的感情的な特徴とともに受け入れる。それは純粋に観照ないしは瞑想の単なる現象である。決して何が提示された対象であるかではなく、どのように我々に現象したかである。たとえば、その輝き、色、周辺に描かれた線、光と影の相互作用など、あらゆる種類の質、そのものの表面に現れる質的なもの、純粋に、現象するもののすべてが、その受容の内容である。
 しかし同時に、我々は想像や空想、自分の心中の出来事の強さや豊かさ、苦も無く体験される極限も体験する。161 
 それは美的印象の領域である。無限に広がりと、無限の交錯によって、それ自体の美の領域の中に、そして、我々の知覚のほとんどすべてに浸透し、ほとんど毎秒、やがては微細な要素として、また排他的な嗜好として存在する。我々がドアの方へ行く。すると、鍵の光は我々の行為の美的データとなり、記録する。紙の清潔さは意識のどこかの片隅で、我々を美的に喜ばせる。単なる現象から受ける喜びは純粋な快感であり、まだ評価ないし不評価、以前の問題である。感覚をリードする感情の強調によって、我々は、あるものについての賛成、反対を表明しない。評価もしなければ、否定もしない。我々の快感は対象にたいする立場の偏見からくるものではない。162  我々はいかなる追加的反応なしに、快楽主義的に、与えられたものだけに、単純に、没頭する。
  2.  純粋な受容の対象となるのは現象の持続である。しかし主観は、この持続のある一定の内容に触れるやいなや、選択と決定、低評価と高評価を行う。それによって、印象の集合から、優越性を与え、評価する、ある一定の対象を準備する。それはもはや現象ではなく、事象である。自然を受容(または観照)することは、光線、運動、汲みつくすこと不能なデータを、ひとまとめにできない途方もない印象を受容することである。そこで私はこの現象の多さを、至急なる集中化をさせることができるのである。私は自然をエンジョイし、そのすべては自然であると意識する。それによって、光線に、木の葉に、無数の、個々の(ばらばらの)、急激な、ほとんど情け容赦ない、格付けをし(従属させ)ある種の具体的展望と確実性に接近する。
私の体験は新しい単位にまとめられ、それが私の自然への関係となる。つまり、認識と感嘆の行動である。
ここでも、それは単なる受容である。しかし、その受容の対象はもはや現象ではなく、具体的対象であり、この場合は、無限の対象、つまり“自然”である。そして、それに反して、私こと「主観」は、心の中で、自然の美しさについて語り、評価し感嘆をするのである。
 現象は無選択に、承認も拒否もなく、単純に、精神に与えられるものである。
 だが、ここでは選択し、判断し、物にかんする、ある程度の確信に至り、物にたいする個人的な関係を取る。我々の個人的性格は美的調和関係に足を踏み入れることになる。
 そこで、美的受容の第二段階では、判定をくだす主観にたいして、対象が提示される。ここには美的評価と選択、個人的趣味と判断、好き嫌いの問題が含される。
同時に、判断する主観(主体)は純粋な美的直観の境界を踏み越えた個々の人物(個性)である。いろいろの性格、経験、教養の人間であり、かつ、道徳的、社会的、宗教的、その他に関心づけられた、人間である。
 美的感情が強くなればなるほど、また素朴になればなるほど、それだけ全主体は個性のあらゆる側面、とともに美的感情の中に引き込まれてしまう。
 この要因に対する美的反応を弱めすことに、さしたる意味はないだろう。美と価値にかんして、それを決定するのは個性であり、決して、抽象的な“純粋な”美的主観ではない。“純粋性”の喪失は強い感情で代用される。評価と受容は等価ではない。
 ガイガー(Geiger)が証明する。美的受容は対象の受容や鑑定なしにも可能である。『美についての判定(鑑定、評価)は受容そのものと共に供与されるのではない。』163 評価は、実事、受容とは本質的に区別される。それ(評価)は単純な、連続した記録に植えつけられた個性の反応であり、行為である。もし快感から判定へ行くまでの間がたったの一歩だったとしても、それはきわめて多様な、二つの領域の間に横たわる境界である。
 受容の対象は現象の経過である。受容者は自らの対象を消費し、それが提供するものすべてを受け容れる。受容者は漂い、憔悴しつくすまで、その行き着く果てを知らない。その反対に、鑑定者(判断、判定) は唯一不変の限定的対象に関心を持続させるが、同時に、鑑定された、すべての対象にも関心を向ける。
 いかなる評価もあるグループとは一致するし、それゆえ、自分の評価を証明し、強調するのが難しいのである。
我々は、何かが気に入ったか、気に入らないかをすぐに決めてしまう。しかし、“なぜか”という質問が我々を当惑させる。だから、そこで初めて、そのものの何が好きか、嫌いかを確かめる。しかし、そんなことをしても、既に、最初の反応の単一性も、本来の対象の全体性も手放している。
受容された現象は主要でもなければ副次的でもなく、実質的でもなければ、補足的なものでもない。すべての物は、同じように、我々に所与され、同じように、我々から受容される。
感覚は、直接、事物の核心ないしは本質へとは向かわない。我々は、その評価とは逆の選択と格付けを行なおう。事象の性質に価値を書き加える。それは、こういうことだ。それは事象に関連するもの――つまり、その物にたいして、本質的、基本的、規則的、ないしは、主要なもの、それに関連する持続的かつ客観的なもの、の自律的全体性のなかに構築されたもの、その物のすべての部分に相通じるもの――なのである。
絵画を鑑定するとして、我々の目にどう映るかが価値あるとは思わないようにしよう。そうではなく、実際には、本質的には、実際的にどうなのかを考えよう。我々は視覚的質、想像、感情を鑑賞したが、しかし、突然、事物の全体性と本質を評価する。
評価とは認識的冒険である。同時に、非批評的、直観的でもある。
  3.  したがって、受容に際して、所与されたすべてのものを汲み尽すや否や、我々の対象に対する準備は完了しているのである。評価に関しては、その価値を印象した途端に完了する。しかし、受容され、評価された美にたいする、依然として続く興味が残る。受容され、評価された対象は我々の関心をひきつけるのを止めず、それに拘り、それのことを思い続ける。この場合、我々の意識のなかでの対象の新たな展示がなされることになる。
 しかし、最初の直接的受容のなかで、残っているのは、すでに、不連続の、ばらばらの沢山なデータがあるだけだが、それにもかかわらず、評価の中で持続しているのは、価値の保持者である客観的統一という前提だけである。
 そういうわけで我々は、一つには、感情的、感覚的な正真正銘のデータ、そしていま一つは、美的対象の統一的性格の利点、ないしは前提条件を持つことになる。その二重性――美的対象の統一的性格――によって新しい展示の主題が提示される。多様性と条件とされる統一(融合、全体性)である。
 受容は材料、すなわち、美的データを提示するが、評価は問題ないしは課題を提示してくる。すなわち、美的対象の全体性と統一、そして最後は本質である。
 そこで、新たな提示のなかに美的対象が置かれる。つまり、解決への課題、作業のための問題は与えられてはいないが、受容の美的データに基づいた、美的価値が提示す指針に即して探索する。
 これは、もちろん、思索的論文の説明としてはきわめて図式的である。その論文は実際にはごく自然で、単純である。だから、たとえば、なんらかの物との直接的接触を通して、つまり、あるデータの入手を通して、その人間が、気に入るとか入らないとか、彼は善人だとか、悪人だとか言った情報を通して、だが、その後になって、何故あの人物が気に入るのか入らないのかを反省する。そして、彼に関する個々の詳細な事実について、何かの彼の言葉、その行動の一貫性とかを思い出し、彼の「真の」性質を暴露するのである。
 我々は原則として、ある人物を、一旦、評価した後で、分析する。しかし、我々はこの分析によって、入手した彼の行動のデータを持ち込み、提示された評価に関連づける。このすべての説明と判定の理由づけに際しては、全体的判定と、対象の本質に対して、個々の判定済みのデータの関連づけを試みる。こうして、はじめて、我々は人間ないしは事象を理解したと言うのである。
『理解』については、固有性、格下要因、固有性、事象の性質について触れたすべての個所で語っている。受容も評価(鑑定)も理解ではない。
 受容は常に私の受容であり、あまりにも密接に私jaと結びついている。164 対象は、いわば、それ以外の興味なしに、私によって消費される。対象は決してそれ自体ではなく、好悪であり、目的cilである。
 それに対する評価の際しては、対象を観照する。なぜなら、わたしはその対象にたいして個人の立場をとるからである。しかしここでは評価の目的(対象)cilである。すなわち、対象との比較、私と対象との間の関係の設定であり、だが、決して、対象それ自体ではない。
 そうして、理解は、はじめて、完全かつ基本的に対象そのものに向けられる。そして、すべての視線、すべての意思、すべての注目は対象に向けられる。 理解は感覚での対象の提示である。それゆえに、理解の中でおみすなわち理解の過程でのみ、対象をその最高の明確さで『対象』を発見することができるのである。
 したがって、すべては、これまで美的対象の展示または設定としてまた、観察と定着、管理、比較、記述、等々として表記されてきたものすべてが理解の過程上にある・・・、と言うよりも、むしろ、そのすべてこそが理解である。
 理解は、その本来の目標である対象を目指して進む、あらゆる種類の思考作業である。それはその責務を果たす過程であり、(美的対象受容の)方法、美的対象の方法論的受容である。  
美的受容の第三型の総括として、最も差し迫った提示の対象が浮かび上がってくる。決して所与としてではなく、むしろ課題としてである。その対象は感覚に訴えるのでもなければ、理性にも訴えるのでもない。それは美的対象である。つまり、私の全人格の関与によってのみ、遂行できる感情の対象である。
しかし感受する個性(人格)は、ここではもはや、反応の克服、共感ないしは反感のためではなく、むしろ理性のための、理解の器官にならなければならない。
この詩に何か本質的なものがあることを理解するために、悲しみを経験しなければならない。すると、それはもう私の悲しみではなくなる。それは芸術作品の悲しみであり、その性格の一部、そして、その価値の要因である。
なぜなら、知覚可能な対象は自分(知覚者=受容者)の芸術作品の断片にしかすぎないからである。それを受容する者は(その断片を)自分の内面から、想像と感情という精神的素材によって補てんしなければならない。この補てんされた断片が、はじめて、全体および統一体として、自分の美的対象として、自分の芸術作品になるのである。
この美的対象は、理解の対象である。
しかし、まさに、美的対象は主観の個人的参加という状況のもとzaに、たとえ、主観は無限に多様であるとはいえ、生まれるという事実が、主観性と相対性(の問題を)美的対象にも問いかける(投げかける)。それでも、美的対象のすべての補てん、および、受容ではなく、いずれにしろ「一部に」である。
 したがって、重要なのは、どのようにして、対象にとって重要なもの、それ(対象)を適切に補てんするもの、その本当の質(性質)は何かを探し出すことである。
 それを発見することができるとしたら、それは、対象そのものをじっくりと観照する以外に方法はない。そんなわけで、美的対象は理解の方法の問題となる。

 X-2 要約

 ごく最近、スタニスラフ・ヴィターシェクの対象論の観点から見た美的対象に関する著作が出版された。165
主な推論(論旨)は以下の通り、感覚的印象は我々に対象「青」、対象「冷たい」その他を現前させ、美的感情は対象「美しさ」、つまり美的対象の美的特質を提示する。
 そして今、ここに問題がある。美的特質(美)は単に我々の意識に内在するだけの、つまり主観的なものなのか、それとも、現実と先験的実在がそれに依存しているのかどうか? だ。 ここでは、すでに、我々にはたどることができなくなっているが、その広範な対象論的分析を通して、ヴィタセクたどり着いていたのは、以下のような結論である。
『例の特別の、ほとんどすべての対象の中に存在し――我々が美的性格の中に認める――“美”および、その他の対象の絶対的、明瞭な特質は、対象論的本質に関する限り対象の他の系列に繰り入れることはできない。要するに、まったく特殊な構造の対象だということである。
 美的特質の絶対的に明確な対象性の認識は、適切な客観的有効性と、美的なものの気質への問いに対して、まったく何の回答もしていない。美的特徴は、まさに、内在的対象であり、自分からは、決して、何らかの卓越性に拠りどころを求めようとはしない。
 この問題にとどまるな・・・、美の王国は極端に内在性のなかに納まっている。なぜなら、美的特質――その登場によって、はじめて、何か美的に適切なものが創造される――は内在的存在の中で完全に消耗される。その実体(つまり、偏愛の、所与的対象)は美的特質と結合してのみ美的対象となる。そしてまた、実体は内在的対象としてのみ、量りに乗ることができるのである。したがって、美的対象は排他的に内在的対象である。
 受け取る主体が、美的対象となり、その結果、どのような美的質を示すかどうかは、主観の感情的体験の経過に依存している。なぜなら、美的特徴が現れるか現れないかは、美的感情に通じているか、それとも欠如しているかに依るからである。
 諸法則zakon――したがって、すべての美なるものにとっての規範となるもの――は、ただの心理学的法則にすぎない。その意味で、美的なるものは、徹底して主観的な性格であり、ただ、ひたすら主観に根差したものであると言うことができる。』166
 我々の立場からは疑う余地もないのだが、美的性質(属性)は本来、内在的対象である。  
 しかし、もし、ヴィタセクのように「これは美しい」の美的判断にその出発点を置くとしたら、167 容易に見通すことができる。この判断が志向し、判断し、関係し、捉える対象、したがって、この判断の本来の対象168 は、“それ”であって、決して対象“美”ではない。
 美的感情と美的判断とは意識に提示(投影)された対象“それ”toである。もし美的判断の対象的関心が、内在的、ないしは完全に内在的ではない、だが、まさしく、この現実的かつ実在的対象の方向に向きを変えるなら美的領域の全体を、内在的かつ主観の王国と見なすことを完全には正当化されない。
 しかし、ウィタセクは美的対象の客観的特徴を美的とはみなさない。
「客観的対象の定義は美的質そのものではなく、色、形、音、音と音との関係、その他である。このような、多分、美的価値の保持者として、だが、美的質と同一(共通)性を有するものとしてではなく、また、そして、美的な質は、また、それによって、客観的、先験的対象との関連付けするのでもない。」169

 それとも、我々の言葉で言えば、美の要因は美そのものではない。そうでななく、まさに美的価値が付与される美的対象なのである。
 美的記述、批評その他のテーマは、独特の方法で他のテーマから分類される。それは特徴znakでもなければ、その特殊な性格、つまり美的性格のを形成する特徴でもない。
 美的理解の中で色は物理その他の中で言われる色とは全く異なるものである。物理にとっては測定可能な運動であるが、美学にとっては、まさに色であり、表現ある。つまり、まったく客観的にである。
総括すれば、結局、美の内在性からは、美的対象の内在性も主観性も出てこないということだ。しかし美的対象の客観性は所与されるのではなく、客観的提示の経過を経て、起こり、成長するものである。