(W−2)36―価値の規範性
(2)価値の規範性
ここで取り上げるのは、評価する主観に内在する評価の基礎と原理の発見である。
そして、ここでは真っ先に、生命そのものがその原理であるように思われる。
したがって、リップス Lipps によれば、『人間はそれ自体において価値があり、その中で積極的なものが、彼の人間性に積極的に寄与するのである。自分に関して価値があるのは自分の中での、その積極的なるものの自由な体験であり、したがって、生存と個々人の積極的生活活動である。有効な価値を保有する者は、生命とその可能性を支持する者である。つまり、それは人間の中に、あるいは人間の外に、自由な生命活動を創造するとか、向上させるとか、寄与する何かであるということになる。その反対に、無価値なものは生命、その(生命の)可能性の否定と、あるいは、このような否定に寄与するものすべてである』137
ミューラーとフライエンフェルスによれば『評価の原理は生命であり、すべての現実的評価は生物学的評価である』138
あらゆるものの個人化にもかかわらず、生命は非個人的である。生命を、いかなる場所においてであれ、維持するか向上させるかするものは、絶対的かつ普遍的価値そのものである。しかしながら『生命』には多くの意味がある。一つには弱さに対する生命力であり、より強い、生存力である。いま一つは、単なる『ここに居る』というだけの存在への弱者の権利である。さらにいま一つは、世界における個人の置かれた状況、世界との関係と人間の相互依存関係である。そして、それらに対応するのは、個人主義、社会主義、モラリズムであり、理論的にはいろんな種類の価値の目録があり、実践的には価値の間での矛盾と葛藤がある。要するに、『生(命)』自体からして、その解決のための手段ではなく、いわば価値の問題なのである。
あらゆる価値は、評価する主観によって提示される。しかし、有効な、超個人的価値の主観が広げられ、相対的に普遍的、非個人的になるということもありうる。ミューラー−フライエンフェルスの言によれば、主観の全領域ということになる。
『純粋に瞬間的な嗜好の隣に、可能な限り一定のレベルをもった価値を提供できるところの……何か客観的なものが存在しなければならない。対象が効果を呼び起こすかどうか、瞬間的嗜好よりも多くの効果を呼び覚ますかどうかを、また反復的(嗜好)も、よりも多くの効果を呼び覚ますかどうかを数的に探してみなければならない。しかし、それだけで、もう判定は下っている。(その判断は)瞬間的、主観的効果を凌駕し、かつ、対象の持続的性質としての効果の可能性を暗示している……。
客観的評価について語るならば、私たちは、もちろん、瞬間的、偶然的、主観的嗜好に依存しない対象を考える。しかし、(その主観的嗜好とは)提示された、特定の、主観の他のグループの嗜好に合致している限りにおいてである。したがって、価値の客観性は決して主観的嗜好を排除するものではないとしても、偶然的、瞬間の嗜好から生じた対象のみを具有するに過ぎない、としても、それ(偶然的、瞬間の嗜好から生じた対象)をより広範囲な、より大きな、だが常に同じ主観的関係性へと導いていく。
私は、唯一人の嗜好よりも多くの人の嗜好を包含する対象、または、他の人間にも当てはまる、頻繁な持続的嗜好の可能性または信憑性が帰属する対象を、有意な対象として指摘したい』。139
しかし、もちろん『ここには、主観的なものは全く存在しない。ある程度の有効性の範囲内での、一般的な評価があるだけである』。140
いま少し、具体的に考えるならば、主観の例の範囲は、そのためには同じ評価が当てはまるが、同類意識、いみじくも、クリスチアンセンが有意な対象として本質的近親性と価値共有性‘Wesensverwandte und Wertgenossen’と命名した 141。その内面的一致であるか、それとも組織された集団、社会的単位、それによる評価と選択がその集団的基準に、時代の、社会集団の趣味に従属しており、その趣味は全体の精神的圧力として個人に圧力を加えている。
したがって、クリスチアンセンによれば、『美は普遍的に有効かつ無謬的とまでは言わないにしても、少なくとも集団の、組織的な基準を与える。142 より高い価値は超個人的性格であり、『それは、社会学的な性格である』143
美的価値の尺度は、成功、名誉、公共の集団意識である。『したがって、美的価値の程度は、古い表現で言えば「美観」であるが、もし、それによって、価値が客観的、歴史的現実ということになるとしたら、同様に、それによって社会学的現実ともならざるをえない。
あらゆる他の認定と同様、意識の内面的状態の外面への表象、つまり証明書である。ある作品の、総合的美的評価など在るはずがない。作品は生まれ、姿を現わす。つまり、絶えず、生きるか、死ぬかである。価値を考える個人の中にあるのは社会的環境が加える強制だけである。
公衆の目にほんとらしく見えるもの、それは正しく、公衆がそれを設定する。価値を考える個人の場合に設定するならば、それは、可能的な、未来または過去の理想的な公衆の想像の上に現れた、幻覚か、単に本当らしく見えるものに過ぎない。いずれにもせよ、公衆のイメージが存在しなければ、価値もまた存在しない。
ただ、組織と連帯のみが命令感情の根拠を提示しない。それが価値である。144
しかしながら、次のことは確かである。われわれは価値判断をする際に、集団全体、グループ、多数の者の名においてとは話しあわないし、判断もしない。理想的な公衆という観念はわれわれを動かさない。むしろ、ある一定の確信
提示された問題に関して、まさに、われわれはそのものに関して、正当に判断できると、自分の直接的確信のもとにそれを行う。われわれには個々人の気まぐれにすぎないように見える評価に反論する必要があると、クライビヒは語る。他の評価、より高い公理と、相対的な、普遍性と必然性である。そしてこれらの場合にしても、価値が客観化されるために、主観性をある程度圧縮することである。それゆえに、理想的な主観を確立する。それは超人間ではなく平均人間である。
通常、「客観的価値」と言われているものは、理想的な主観の判断による対象の価値であるという、正当な表現にたどり着くはずである。それは彼の対象の現実化、決定、決定のあらゆる段階の完全な知識をもちいて、あらゆる完全無欠なもの、感情の状態の時間的揺れのない感情的なあらゆる可能な反応を実行する(理想的主観の判断)理想的な主観の判断による対象の価値を判断する。このような判断は、元来、客観的ではなく、主観的である。145
だが、このような判断をするに際して、われわれは、こういった理想的な、仮定の主観を設定することはせず、まったく直接的に、自らが行う評価の、より高い有効性と必要性を確信する。
したがって、ヴィンテルバントによれば、我々が、それらの評価が有効であり、我々からばかりでなく、その他すべての人からも認められていると、われわれが確信している論理的、倫理的、美的評価についても同じことが言える。
したがって、我々自身が自分の評価の中で、我々はこのように判断すべきで、他であってはならないという理想的な必要性を見出す。「経験的意識が自らの中に、この普遍的に有効であるべき理想的必要性を認める場合、至る所で、我々は実際にはこうあるべきだと確信しているというところに、我々にとっての、それの本質があるという正常な意識を見出す……」。146
我々はより高いか、より低い価値の間から、価値の尺度をどこに置くかを選択するべきなのだろうか?
『現実的な価値の相対性から逃れるために、「自分自身に関する(価値)評価」を探さなければならない。何故なら、価値は、評価する主観との関係の中においてのみ存在するからだが、自分についての評価は正常な意識にゆだねざるをえない』。147
正常な意識は形而上学的現実(レアリティー)ではなく、むしろ要求である。もし、我々に理想が、真、善、美であるなら、我々はこの理想を手に入れるように思い、望み、行動し、感じなければならない。そして、あるがままの、然るべき、この思想、欲求、行動、感情は
正常であり、それによって、我々は自分の中に正常な意識実現するのである。
正常な(規範的、通常の)思考は、経験的(エンピリック)思考や、同様に正常な欲求や感情にとっても規範であり、基準である。
唯一の前提は、「普遍的に有効な諸価値が存在するということであり、そして、それが達成されるためには、創造行為と欲求と、感受性の経験的過程がこれらの規範の中で有効に働かなければならい。これ(規範)なしには目的の達成は考えられない。これらの普遍的に有効な価値とは、思考における真理、欲求と行為における善、感性の中における美であり、この三つの理想(理念)のすべてが、それぞれの領域における、普遍的認識の価値であるところのものへの欲求に過ぎないもの代表している』。148
絶対的価値とは、我々が無条件的に認証すべき価値である。この「すべきである」ないしは「義務がある」は、他のいかなる者にも譲渡できない我々の精神生活の基本的要請である。149
「それは我々の意図に反して、普遍的に有効なものとして(我々に)提示される精神活動である。普遍的に有効な価値の認定は、徹頭徹尾、個人的にのみ妥当する価値の認定とは裏腹であるということだ」。150
ミュンスターバ−グによれば、逆に、絶対低価値の有効性は、我々がその価値を承認するか否かに依存してはいないということである。我々が行うべきことは、我々はそれを行うことを好まないということも可能だが、それにもかかわらず、無条件的価値を、我々は全く好まないということは許されない。
「意志は、事実、不実、非美、不道徳に優位性を置くことはできない。しかし、もし、あらかじめ、選択、決定、何種類かの可能性が排除されていたとしたら、義務づけられているということの(4?)すべての意味が失われることになる。
価値を選択する意思は、しかしながら、個人には全く依存しない何物かとして、いかなる場合にも立ち会うことができる。それが純粋意志だ……。
絶対的価値を理解するということは、我々の意志があらゆる義務とは遠くにあり、超個人的な欲求となりうるといことであり、その欲求は個人的な好き嫌いとの関係なしに、真、美、倫理性、神聖性の中に満足を見出すことができるということである』。151
しかし、たとえ、価値の有効性の基盤が不可避的な規範ないしは純粋意志だとしても、本質的には価値それ自体が問題なのである。
『価値の本質とはその有効性である。そこから明確な理解のために価値のみに重点がおかれる。の価値にたいする有効性の問題が持ち上がってくる」。152
結局、ここに引用したすべての見解は、有効性という主題に基づく変奏曲である。たとえ、それがどんな経過を経たものであれ、ここには、いたるところ、非個人的、超個人的広がりに基づく「より高い価値」を導入しようという支配的な意図が、至る所に存在する。しかし、それは、かかる価値が存在うるということは、唯一の前提ではなく、さらに、他の、まだ未評価の前提があるということである。
(1) 超個人的に有効な価値は、純粋に個人的な価値よりも、それ自体、より高い
より価値のあるということが前提とされる。しかし、まったく個人的な、伝達(共有)不能な価値もある。それは全く他人の共感はないが、それでも、それを体験した人にとっては、最高の、最高に貴重な価値だったのである。だから、それらのものを「単に」主観的、より低いと称することは、自分によって体験されたものではない基準を押し付けることになる。それは、誰か他人の外部的基準である。その他人とは、自分の評価目的のために 他人の評価を判定し評価する人のことである。
(2) 誰かが無条件的かつ絶対的な価値を体験するとして、彼は同時に、必然的に、他人から認められるようにという要求を提示する。その反対に、いみじくもクリスティアンセンは言う。人間という存在的基盤の上に築かれる価値は、人間にとって完全に、無条件的に有効であり、そお有効性は絶対的である。しかし、まさにそれ故にこそ、それらの有効性は個人の自由な態度の中に設定され、それをはみ出すものではない。無条件的価値が完全に有効であるということからして、すでに、他の主観に対する配慮は除外される。
要するに自律的価値にとっての、主観相互に共通する尺度というものはなく、そして、それらに対する普遍的に有効性も、決して本質的ではない。153
(3) 第三の前提、ないしは、予断は、超個人的、または、普遍的に有効な価値は客観的であるということである。しかし、超個人的価値と普遍的価値との間には、身分の高下や階級制度にあるような差別はなく、それらの間には主観性とか客観性といったような対立もない。その点は、以下の章で簡単に示すことができる。
(3)価値の批評
個々、あるいは、個人の価値は、要するに、多種多様な例を包含している。
1. 価値には純粋に主観的なもの、伝達不能なもの、単一のもの、計れないものがある。これらはただの一つのケースであり、回復不能な状況に縛られている。それらのものを計測するための物差しはなく、比較不能なもの、偶発的なものである。しかしまた、それらの内面的な価値、大きさのための限界もない。
2. 我々が客観的と仮定する価値が存在する。たとえ、我々が、何時でも、それらを恒常的、不変と見なすことができるとしても、我々はそれを、対象物、客観的規範、その他、と見なすのである。だが、この算定の基礎となるのは価値の普遍的有効性ではなく、普遍的な、何時でも導入可能な状況(シチュエーション)であり、その中に価値が登場するのである。これらの価値は比較可能で測定可能な、そして、同様に、諸物についての我々の知見、したがって、我々個人の人生の防衛と修復の保障として、世界における我々の方向付けとしても同じく奉仕する。それらの前提と、同時に、結果は、個々人の生活の一定の同一性を示している。
3. 理想的な価値というものがある。それは、実現を望んでいる154 ものであるか、それとも、それにたいする普遍的配慮要求する。しかし、ここでは我々の評価が前提ではなく、むしろ目的である。
個人の理想的価値の基盤は価値の信仰であり、個人を信じるということであり、それを実行しようという願望は現実性である。実際にあるより多めの現実性である。
それらは人間の行為にたいする重大な指針であり、利己的な、自己犠牲を損なうも尾である。富、愛、名声、政治的かつ宗教的理念、世界観、現実化し、設置できるものすべてである。
このように理想的価値は何らかの現存の規範設定できるものではなく、むしろ反対に、我々がそれらを世界に在らしめるために、導入するのである。
外見上きわめて同一的に見えるものの価値の実例を挙げてみよう。つまり金銭である。したがって、金銭の価値である。それえは貧者の感謝と金銭を与えられた子供たちの喜びの中に、(価値の)表現を見ることができる。それらの現行の価値は彼らに呼び起こされた内面的事件と、まったく比較できないものである。
金銭の客観的価値は個人にとっては、期待される使用価値と喜びである。それは、価値の対価として手に入れることができるし、それは価値の代償として、いろいろな生活環境によって、いろいろな大きさになる。
金銭の個人または社会的分配が、個人の行為、または、信念の対象となった時、金銭の理想的価値は、計量されることになる。もし我々が個人相互間に設定された、また超個人的に有効な価値について考えてみると、そこでの関係はほとんど同じになる。経過的一瞬に共存する集団が体験する価値は主観的で、不変である。
(価値の)同一性、不変性、及び、信頼性が、社会や国家制度によって保障されるならば、その価値は客観的である。したがって、その価値を将来にわたって計算でき、それによって未来の(事態ないし)事件を調整(コントロール)することができる。
結局、あらゆる人たちの、想像されたか、現実の協力体、ないしは人々の文化的結合への信仰へ、または努力の対象としての価値は、理想的である。 -40-
したがって、個人的な価値にしても、超個人的価値や理想的な価値にしても、内面的有効性の色々なタイプについて語ることができる。つまり、主観的、客観的、理念的有効性である。
絶対的大きさも、理念も、客観性も超人間的価値の特権ではない。それによって普遍性も超個人性も内面的有効性(威厳)の尺度であることを止め、それらの外面的有効性のみを示す。それは、それらのものの背伸びの限界である。しかし、この相互主観的広がりは時間、空間において制限されており、したがって完全に相対的尺度になっている。
それに対して、内面的価値は、本来の意味で言えば、価値の原理的有効性はそれらの普遍的ないしは個々人性には全く依存せず、他人が認証するかしないかにも依存していない。価値の普遍的尺度ではなく、特殊なリアリティー表現であり、これか、あれかの価値が自分の存在をかこつ現実的状況の表現である。
美的価値もまた、純粋に個人的か文化的か、瞬間的か永続的か、個人的か一般の認知を求める権利要求かである。しかしこのすべてのものは彼らの内面的威厳においては全く差別がない、そして、これをもとにして、あれとこれとに優劣をつけて選択することはできない。
要求された、規範的または現実的、社会的または文化的嗜好はまったく個人的嗜好に優先するものではない。重要なのは感情の純粋性と深さであり、究極的には人間とその人物の生活も重要である。その感情をもって純化と深化にやってくる。
趣味に関しては議論の余地がある。つまり趣味の矛盾はどんな場合にも起こりうる。理論的には価値の高さの基準はない。だから価値論争解決の手段でもない。実際問題としては、この論争は、一種類の価値だけを取り上げて、他の価値を圧殺することによって解決することができる――いつも、うまくいくとは限らないが……。
したがって、理論的には、美的価値の評価と確定は不可能のようにも見える。だが、それでも美学や、その他の芸術に関する学問は美的価値を拒否できない。美について語る限り、我々評価をしよう。美的判断それ自体は対象の価値の判定である。
しかし、美的価値が認識できないとしたら、それが感情お問題であり、認識の問題でないとしたら、学術的美学、批評、最後に芸術史(他の歴史から分離されるもの)の課題はふのうということになる。ここで疑問が残る。客観的なものを何も語らなければ評価は不可能なのではないか?
芸術作品が、実際には、完璧そのもの、最も純粋な美としての評価が普遍に通用していたとして、その規範は何か。たとえば、ラファエル、彼の Sistina または Disputa を例にしてみよう。美を真剣に考えている者は誰もが、無条件に美しいと評価した。これはドグマティックだし、ナンセンスだ。ラファエルの作品が退屈で、アカデミックで皮相的だと感じる人々がいる。それは芸術をまじめに考えない人たちではない。155 このような無理解を見逃すわけにはいかない。もちろんラファエルは彼から償いを得ていない。しかし、彼の判定は、たとえ彼独自のものであったとしても、否定されることも、沈黙させられることもありません。したがって、実際には、ラファエル作品の価値は普遍的に有効ではなく、彼の価値について議論の余地のない何かが言えるかどうかの問題も持ち上がってくる。
ラファエルについて、ヴェルフリンかストルジオウスキーを読んでみると、156 いかに両者がラファエルを評価していたかが感じ取られる。愛をもって、明瞭に自分の趣味に即して。印象に重点を置き、それは、静寂と比較と調和と明晰の印象である。このすべてについて、(その印象は)主観性の土壌の上にとどまっている。
しかし、ヴェルフリンはこの印象を、アテナ学派から一歩一歩発展させている。Disputa については centralita と偽装された symetrie、さりげなく視線を中心に導く。前面には豊かな動きの同期(motivy)、背景には静寂のモティーヴ。線は切れ目なく接続し、人物のどれもその明瞭さを、他の人物によって曇らされていない。その結果、厳格な構成が個々の人物と結合している。彫塑的に支配している人物は――ストロジゴウスキがさらに示す――付け柱(ピラスター)のようなものとして切り離し、中心へ向かう動きを強調している。
これらの、そしてまた、調和の印象を提示するその他の、異なる要因は、 Disputy における、荘厳な平安、平穏なる秩序である。これらの要因のどれかひとつでも損なわれたら印象は壊され、統一感も失われる。したがってDisputy の価値はこれらの要因に条件づけられている。
我々は作品の美を認識するや否や、無条件的に、その美に対する、前述の形式的動員の有効性を認めるべきである。そこで、今や我々は、反対者のところへ来て、「ラファエルは私の気に入らない」と言うことができる。しかし、存在やそのモメントの客観的関連性を否定することはできないだろう。それに、他の人たちに認められた価値に対する有効性もある。
もともと、ヴェルフリンが Disputy の画面の上に、そこにない何かを発見したという誤りを犯していた、そしてそれは訂正されなければならない、または、それ(Disputy)の全体的評価に関係するもの、そして、そのあとで、補充することができるすべてのものを提示しないことである。しかし、いずれの場合においても、客観的、客観的に正しく完全な要因を想像すること、そのモメントは作品の美にとって、たとえその美が主観的に認識されているか否かを問わず、適切であるということである。
その一方、Desputy の場合、静謐さという価値の動因は、後期バロックにおいては、捕捉不能な運動であった。そこには明らかな混沌があり、ここには凝縮された灰色性がある。あそこには調和(ハーモニー)、ここには激情がある、等々。
それにもかかわらず、これらのバロック的特徴(性格)は美の動機(モメント)である。自らの反対者に対する美的有効性を排除するなら、その意味で、自らについての美なるものは無い。(つまり)自らについて評価する要因が無いなら、要因そのものが皆無だということにある。
したがって、美の要因についての記録は、美および価値についてのそれ自体についての勘定書き(一覧表)ではない。価値の要因(モメント)は価値そのものではない。芸術の分析に際して、きわめて頻繁に起こる理論的過ちは、モメントを価値の感情的な調味料として、例えば、「自然」「調和」など、その定義は無限であるが、そんなものとしてとらえる、とらえ方だ。
本来の価値とは分割不能なものであり、全体も部分もない。それは感受性と、経験である。その(価値)の‘諸要因’は、体験の中で識別されない限り美しい。体験なしには客観的で、遵法的、有意的、等々である。しかし、体験そのものに関しては価値評価はない。
美は感情であり、心内の出来事であるが、それらの要因は美に対して関係を持ち、美を条件づけ、その意味で美を成立させる。もし、心内の出来事が無ければ、または壊されていたら、体験の感情的価値もまた、破壊されるか、低下させられていることは明らかである。しかし、同時に、これらの要因は、美的体験に完全に依存している。我々が物事をどう体験するかによって、そこに何があるかを言うことができるのである。
スタンツェ Stanceを美的感動なしに観る者は、それらの美にとって不可欠な性質を理解することができない。それらの性質は、それ以上の本質的関係を築くことなしに、彼にとって壁となり、量となり、多数となり、人物たちとなる。
まさしくこの美的感情(emotion)のおかげでこれらのデータの相互関係が、そして美全体に対する関係が開かれるのである。しかしこの感情、価値、ないしは、美は手で?み取れるものではない。
それができる唯一の方法は、美を客観的な要因に結び付けること、そして、このモメントこそ、まさに、美を通して接近可能になる。
確かにそれは複合的価値であるが、そこから美的に偏向しない目を見出だすことはできない。それらは、いずれにもせよ、一旦、判断が決定するや否や、理論的に有効になる。
Desputy の調和的美に感動しないということもありうる。それでも、ヴェルフリンがそれについて触れたことを全面的に否定することはできない。ここではまさに恣意と相対主義が無効化されている。重要なのは、価値に対する「要因」の関係である。
(1) 要因は価値の部分でもなければ、構成要素でもない。価値は分解することも、分割することも、組み立てることもできない。
(2) 要因は価値の属性ではない。なぜなら、価値の属性とは別の系統のものだからである。例えば、深さ、内面的有効性、その他。
‘要因’は評価対象の要素であり、属性である。要因は対象の評価には直接手を出さないが、評価の対象には関わる。つまり、価値の体験において意識の対象的側面を創造するものにかかわる。
たとえば、経済的評価に際しては、美的評価の場合とは異なる要因の計りに、したがって、本来とは別の対象の計りに掛けられる。したがって、経済的な、また、美的その他の対象について正当に語ることができる。しかしまた、個々について言えば、同じ物について、それぞれに異なる美的評価が、いろいろな側面に対してもたらされる。したがって、本来は、異なる対象それぞれに対してもたらされる。157
それでは、美的対象に対して理論的に有効な判定をどう下すか? 評価や評価によって楽しんだ者は、Disputy の場合、気分の抒情的神聖性を感じ取り、その構成の形式的形式的結合性を楽しむ。評価される美的対象は各々の場合によって異なる。それでも、そこには二つの判断を足し合わすことを許す、美的対象の一定の、より高度な同一性(アイデンティティ)がある。
Disuputa は抒情的であり、構成(フォーム)的にも正確である。その両要因の総合によって、はじめて Disputa の現実性、つまり、本来の同一性に接近するのである。
したがって、美的対象を、様々な選択肢の中の同一性としてとらえることができ範囲で、それらの選択肢のいずれもが理論的に有効である。ただし、それが成立するためには、相互に補完的認識の無限の可能性の一つである限りにおいてである。
こんな具合に、美的体験の個人性と相対性は単なる、相対的な境界を提示するだけで、美的認識の完璧な質(適格性)を提示するものではない。これによって、一つの、可能な美的客観性の領域を、概ね、記述できた。美的対象が美的に客観的である、ということ、つまり、浮かんでくる想念predstava 、その想念は‘事物に属し’、体験された美に対して適切であるところの美的体験におけるすべての総合だということである。
この対象を展開し、そうすることによって有効な認識の中に定着させる、さらなる美的判断は、美的に客観的である。結局は、これらの対象的要因は美的に客観的であり、それらの現実的存在は明瞭である。しかし、それらのものの美的価値に対する関係は、真っ先に、美の体験によってのみ提示される。
美的客観性は直接的、個人の美的体験の上にのみ構築されるが、その中に取り込まれるのではない。何よりも、その発見のためには感動の直接的提示を断念する必要があり、判定と探索の途に就くべきである。
また、それと同時に、第二の理由は、いったん正確に、誰にも、客観的に真実であり、所与の対象の美的体験の誰にも当てはまる有効性として認定された場合である。
しかし、ここでは否定されなければならない。美的生活の独自性は、まさしく、無関心な、偶然的な対象である。実際、何であれ、時には、気に入られることもあれば、高く評価されることもある。それはただの感情、任意の現象の、まったく内面的理解に基づくものに過ぎない。
美的感情とはある限られた生活圏に制限された他の感情に反発しながらも、諸状況の一定範囲内に制限されてはいない。すべてのものは美的に思索することが可能である。美的対象は意志に左右されることなく、何物にも拘束されることなしに、純粋に感情的に、それら(美的対象)の感情的(情緒的)印象の中にとどまることによってのみ明確にできる。158
『我々は美的に積極的である。好むと好まざるとにかかわらず、我々の中にこのような感情が呼び起こされたら、それら(美的感情)の内容は連続して現れ、全体を認識しようとする努力も、受容されたものであれ、提示されたものであれ、ただその部分のであれ、いかなる目的への利用であれ、それらの行進は妨げられない。』159
この見解によると「美学性」なるものは、体験の純粋に主観的、感情的側面にのみ結び付けられることになるだろう。美的とは内面的状態それ自体ということになり、美的対象の問題は非合理的なものとなる。
それに反して、美的行動は、常に、対象に向けられねばならず、対象の(美的)対象の需要であることを強調するべきである。美的関心(興味)とは対象についての関心であり、決して内面への関心ではない。160
実際問題として受容の主要な、最も重要な部分は、受容される美的対象であり、ゆえに対象の問題も避けて通れない、原初的問題でもある。あらゆる美的受容において直接的に存在するのは、受容された対象である。確かに、これまで述べられたすべてのことに則って、美的対象は、端的に、何も我々に与えられてはいない。逆に、特別の理論的な行動によって設定されなければならないのだ。
それでは受容において直接的に与えられた対象、および、美的学問の対象との相互関係はいかなるものであるか? そもそも、『美的対象』はどのように、我々の意識に提示されるか? それは、もともと、美的対象を追及するに当たっての、究極的、かつ、最も基本的、かつ、普遍的問題である。
X.美的対象