W.美的価値

(1)価値の相対性

 美は我々にとって単に快感の対象であるばかりでなく、我々にとって永遠不変の意味をもっている。我々がある物を美しいと判定するなら、それによって、他の物よりもそのものに優位性を与え、重要失するということを意味する。
物美は我々にとって願望と愛、容認と称賛ということになる。したがってにとって価値である。価値そのものの問題は本質的に、評価の基盤が何であるかには関係ない。価値ある対象を獲得に向けられた欲求128か、またはこのような対象の現在か、不在を刺激する快感か苦痛か。129 
求められているものが価値であるにせよ、または喜びを呼び覚ますものであれ、常に個人の欲求または満足に依存する何か、情動的性質、瞬間的必要、または評価する個人持続的気性に依存している。
故に、同じ対象がいろんな人々にとって、または一人の人にとって様々な状況の中で、ある時は善であり、ある時は悪である――つまり、価値が典型的に相対的である。したがって、ある物が有価値か無価値かを宣言する判定は、我々の感情、物にたいする我々の立場の単なる表現である。だから対象にたいする我々の知識には何らの寄与をしない。130 
(価値)評価は完全に、我々の主観の問題である。131 
もともと経験にしろ、歴史にしろ、十分に、様々な時代、社会、民族、その他において価値は、相対性と不安定性を示している。しかし同時に、価値の競合と矛盾をも示し、つまりはそれらの価値の間の選択の課題も示す。これによって、どの価値判断が他のものよりもいいか好いか、どれが“正しいか”、あらゆる状況にたいして、また、あらゆる可能な選択肢の中で、そもそも究極的に実現可能なのはどれかという問題が提起される。
したがってそれは、価値の有効性の正当性、超人間的有効性の問題である。価値ある諸物は我々にとって重要であり、我々がそれを獲得しようと望むものであり、価値の確保が、その価値の認識が重大事になればなるほど、それ故に、より高い価値の認識であれ、不認識であれ、気まぐれや、不安定性、個人の感情的反応を相続(移譲)させてはいけない。
したがって、それは本来、それ、つまりもともと公理的な問題であり、この評価を個人的な主観の上にではなく、信頼に値する土台の上に築くことが肝要である。そして、肝心なのはより高い、より有効な、たとえば、絶対的かつ普遍的に有効な価値の選択のために見出すことである。
この過程は二通りありうる。第一は、諸価値は主観的であるばかりではなく、同じく客観的に評価された対象においても裏付けられている。それとも逆に、価値は、同じく、評価する主観の中にのみ形成されるものだが、この主観は、必ずしも他の人には通用しないというふうな個人的ではなく、だが、超個人的な、いずれにもせよ普遍的な主観である。
1.形而上学的に言えば、価値の客観性は、世界の客観的目的論的秩序ないしは普遍的目的の体系に基づいて築かれている。132 形而上学はさておき、価値の客観性はむしろ以下のことから理由付けはなり立つ。価値は確かに感情の問題ではあるが、感情は完全に対象に無関係ではありえず、感覚による認識と無関係ではありえない。そんなわけで、マイノンクによれば、確かに感情は認識手段として、想像力のはるかに後方に留まるが、相違は単に緩やかのものに過ぎない。感情は心理的加工に追加(提示)する自分独自の対象を持っている。
「この飾りは美しい」という判断は、いかなる判断の場合でも正しいか正しくないかである。もし正しいなら、好きになるのにふさわしいと我々は言う。したがって対象は主観の関心が自分に向けられる限り、もはや価値をもたない。しかしながら、その関心が自らにふさわしいものならば、価値にたいする体験によって提示されるものが、したがって、このケースでは、美は、事実、その対象に属している。
 このような価値は確かに体験によって得られるものかもしれないが、しかし本質的に体験との関係はなくなっている。それは個人的でもなければ相対的でもなく、むしろ、非個人的、絶対的である。133 しかしながら、どのようにして、何によって、対象が提示された価値に実際に値するか否かを決定するのかが問題となる。 
 同じく、ランドマン-カリシェロヴァー夫人によれば、認識論的視点からはいえば、感情cityと感覚とは区別されない。それは主観的に、また客観的に条件づけされた感覚が区別されるように、主観的、客観的条件と同じように区別されないのである。
 それでは、なぜ、感情の客観的認識の可能性を締め出すのか?
 認知に対する価値の要求は、認識されること以外に拠りどころがないからである。それにまた、認識に対する感覚的質の要求以外の根拠を持っていないからである。あれとかこれとかの色を見る(主観の)気まぐれを放置しないのと同様に、あれ、または、これの価値を対象に付与することにはほとんど依存していない。ある物を美しいまたは醜い、善であるまたは悪であると呼ぶとしたら、それは青いと称するのと同じくらい、その物にとって無縁ではないものとなろう。134
 したがって、これにより、決して証明することはできないが、少なくとも価値の超主観的有効性は護って見せたことになる。――しかし、ここでも何よりも規範が重要問題となってくる。つまり何によって対立する価値判断のうち、どれが正しい価値判断に対する対象の要求を満足させるか? を決定するかである。他の判断その一致ないし不一致に即して、カリシェロヴァー夫人は答える。
 だから、確かにそれには、次のようなものがある。
(1)同じ人物の、同じものに対する異なる時間における、異なる環境における判断である。なぜなら、価値の客観的判断は正に感情の総体によるものであり、決して好き嫌いの唯一のケースによるものではないからである。最高の感覚器官の中では客観的に信頼できる人による判断が初めて証明する
様々な人生のエポックにおける判断一の致によって証明されるかもしれない。
(2)したがって、その評価は同じ人物の他の対称に関する評価である。――したがって、価値の比較である。
(3)他の人の判断である。しかし、ここでは、多数の人が不決断であることを覚えておく必要がある。もともと、恒常的間違いは時代が一挙に排除する。
(4)つまるところ科学的認識である。もちろん、これらのものとの価値判断の一致は、我々には目下のところアプローチ不能とのことである。それが正当化された価値評価の客観性の規範kriteriaである。――しかし、多くの判断の一致から、判断される対象、ないしは、一定の評価に対する要求との一致はどのようにして可能なのだろうか?
 同じ対象にたいする、同じ個人の諸判断の一致は習慣、機械的(無意識的)反応、記憶、その他に依存していることもありうる。大勢の人々の一致は社会的習慣や伝統に条件づけられていることもありうる。結局、多くの対象に関するおなじ人物の一致は、不変の評価について証明していることもありうるが、それ以上ではない。価値判断の一致からは、彼らの客観性を肯定するものは何一つ出てこない。
 エーリッフ・ベルンハイマーによれば、客観的価値は客観的結果の比較である。たとえば、褐色炭と黒色炭である。芸術の中にはこのようにして、同じ媒体によって作用しようとする
比較可能な作品がある(しかも観察の同種のものにたいして)。135 ――しかし、ここで比較可能なのは我々の中の上記の効果のみである。したがって主観的効果だ。
〔上記の作品が我々の中に喚起する効果だけが比較可能であるとするなら、結局それは主観的な効果である〕
 しかしながら、もし、その効果が恒常的でもなければ普遍的でもないとしたら、それら(効果)の比較は客観的結果ではありえない。――ベルトルト・カーンによれば、美的価値は芸術作品と我々の感情生活との一致に基づいているという。
 しかし、客観的価値は、我々個人の感情と一致するばかりではなく、「その発展の最高段階において、客観的体系としての感情生活とも一致するものである。それは正に、客観的価値がその普遍的認識に達するかぎり、我々の芸術作品の財宝に加わるのである。
 芸術作品それ自体から、それらの(作品の)分析によって、芸術的価値を条件づける規範
を確かめることができる。136 この立ち位置から見ると芸術作品は、普遍的に認知された芸術の規範に一致している限りにおいて客観的に評価されるはずである。だが、評価されていないか、または主観的にしか評価されていない芸術は、その物については別種か、比較不能である。
 また一方で、いかなる規範が決定的重要性をもつのだろうか? いかなる様式も、いかなる想像的個人も(芸術家も)、“規範”の特別の体系を代表する。カーンの“客観的価値”は芸術の一つのタイプ、古典主義に当てはまるに過ぎない。その基本的意図(綱領的)としては“最高の発展段階”として提示された芸術との一致を探求することである。――そして、もう一つの批評のタイプ、ドグマティズムとの一致である。
 これらのあらゆる異見によれば、客観的価値はただ比較によってのみ得られる。それとも、多くの評価的判断、または多くの評価された対象を比べることによるかである。
 しかしながら、実際には、いかなる本当の価値も自明のこととして体験される。なぜ我々はそれを有効だ、本当だ、客観的とか評価する理由は、まさにわれわれの中にある、我々の確信と気持ちの奥底にある。
 我々が自分の評価を見直(再検討)してみると、それが(社会や、権威、その他との)矛盾の圧力のもとに起こっている。しかし決して、比較に基づいたものではない。
 ゆえに、最高価値の保証は、むしろ、評価する主観の中に求められる。
価値の普遍的有効性は、主観の中において普遍的に有効なもの、または、非個人的なもの、または超主観的なものの上に設定できる。それはもう一つの、別な言い方をすれば、それは解決の、きわめて多様なる型である。