V−3  美的判断 Esteticky soud

(3)美的判断の規範性
 

 この視点もカントに結び付く。
『真っ先に、我々は趣味の判断は各々の対象に嗜好をインプット(埋め込むように)しよう……そして、普遍的有効性への要求は、したがって、本質的に、何かを美しいと宣言する根拠である判断に依存している。もし、その際、我々が(普遍的有効性)について考えていなかったとしたら、その表現を用いるというところまでは思いつかなかっただろうし、むしろ、概念(何の観念もなく)なしに気に入ったものすべてが、お気に入りに加えられるだろう。その点を考慮しつつ、誰もが念頭に置くようにさせる……。
 ある服が、家、または花が美しいかどうか、その点にかんして自分の判断の根拠を、また規範を説得的に述べることは誰にもできない。誰もが対象を自分自身の目で詳細に調べたいと思う。それは、まるで彼の嗜好が感情に依存しているかのようだ。
 それでも、たしかに対象を美しいと呼んだとしたら、彼にとって、普遍的な声だと信じるだろう。そして、各人の同意を要求する。だから、ここで趣味の判断においてはこのような普遍的声以外の何も要求しないし、このことによって、同時に誰にでも通用すると評価されうる美的判断の可能性をも、要求できないということがわかるはずである……。
趣味の判断そのものは、あらゆる人々の同意を要求しない(なぜなら、それ〔趣味判断〕は理由を述べることができるから、論理的に普遍的判断しか行わないからだ)。ただあらゆる人々にたいして、規範のケースとして、この同意をインプットする。それ(その同意)に関して概念の証言は期待しない。そうではなく他人の同意である。その普遍的な声は、したがって、たんなる理念ideaに過ぎない。」119 
 ヴィンデルバントによれば、判断(裁判)と評価(判決)は区別するべきだという。これらのことには美的判断にもあてはまる。評価においては評価の内容説明も対象に書き加えられる。それによって対象の認識がなんとなく広げられるのではなく、同意か否かの感情が表現されるだけである。その感情とともに、判断する意識が提示された対象へ立ち向かうのである。したがって明らかなことは、評価はもはや評価された対象についての意見の表明には何の役にも立たないということである。この対象はよく知られたこととして、十分に提示されたものとして前提されている。
 しかし、それにもかかわらず評価は認識的ではなく、「我々は、たとえそれが揺るぎない認識にまでは至らず、また普遍的でもないとしても、絶対的に有効な一定の判断が存在していることを、一切の揺るぎもなく確信している。」
 それは論理的、倫理的、美(学)的判断である。ある個人が、本物である、よい、美しいと考えるものにこだわり続けるエネルギーは、すべての人にとっても有効であり、その考えを放棄すべきではないという確信の強さを示している。
 我々の誰もが、たとえそのことを常に、直ちに理解できないとしても、より高い意味において、必然的であり、すべてのものにたいして有効であるという権利が存在することを確信している。
経験的意識が、自らの中に普遍的に有効であるべきものの、理念的な必然性を発見する、普遍的に有効であるべきことにたいする理念的必然性を発見する、いたる所で正常な意識と衝突する。その本質は podstataは我々にとって、経験的意識の因果的必然性において実現されるかどうかのあらゆる配慮とは無関係に、実際にあるべきという確信において成立する。
 あらゆる(種類の)論理的、倫理的、かつ美的評価は、このような通常の意識が存在するという確信の上に築かれる。その通常の意識にたいして、我々の評価が普遍的有効性の権利を要求するとしたら、我々は賛成の手を挙げるべきだろう。
思考の規範(標準性)が真理であるなら、恣意の規範は善であるようにjako、感情の規範は美である。それゆえに、我々にとって美は命令、または規範である。現実的なものに抵抗する感情の正常な方法が美的感情においても築かれる。それは心理学的必然性に要求にたいする反発である。
美が個人の嗜好とは異なるものであることになれば、我々はそれ(美)を普遍的に有効な規範として認めるべきであろう。
 普遍的有効性が主観(たち)の経験的世界のために導き出された規範性の、単なる、必然的結果に過ぎない。120 
 したがって、たとえ美的評価が認識的なものではなくとも、普遍的に有効である可能性がある。ただし、その可能性は――我々が超個人的かつ美の永遠的価値にかんする自分の意識のなかで発見するところの、美的規範と一致するかぎりにおいてのみ――である。
 しかしながら有効な基準は何か、具体的なケースでどれが美の規範がどれかは明言できなければ、何が有効な規範であるか?121 
「もしヴァシェクとマシュカにとって有効なら、私にとって以上に他のものに有効であるか? 永久的な価値があるのか? たぶん論理的に推論(演繹)することができる、先験的な価値があるとするならば、(その先験的価値)の認識にたいする権利要求はあらゆる美的評価(価値判断)において体験される。しかし何位に価値があるか、それは、何を私が有効だと認識しなければならないか、それは他の人たちにも有効なのか、それをもってしては単に経験的に何かを整理できるだけなのかどうかを評価することである。122
――しかし諸々の規範の超個人的有効性はもちろん実際に表示することはできない。経験主義的には我々の中に、美とは普遍的認識に値する理念的(理想的)価値であるという揺るがぬ確信がある。そして、この信念を持っていない者に批判的哲学は同意しない……。重要なことと記憶している各人の中で、正常な意識が自分の認識の中に直積的証明(証拠)に適応することを信頼する必要がある。」123
 同様に、クローネルによれば、「規範的美学は個人的判断の正さについては問わない。先験的哲学もまた内容的に決定された美的形式の発展を否定する。認識論もまた同様、内容的に正しい判断を保証するように要求しない。(先験的哲学は)美的意識の要求を正当化し、価値の先験的関連性の中に配列することで満足する。」124
もちろん、それらすべてのものの中には、とりわけ、我々の中にある、より高い側面とより低い側面とを分離しようとする哲学、古来の、古い必要性と願望が反響しあっているということである。つまり、それは「単なる」経験、生来の性格、個人性から、理性、価値、普遍的有効性の領域を分離すること、普遍性を特殊性の上に、真の永遠性と絶対性を相対的存在の上位に定立することを意味する。
 この必要性の名において古いイデアリズム(観念論)は、実在する普遍的理念の世界を、実在的普遍的観念の見せかけの特殊な現象世界の上に築く。そして同様に、批判的イデアリズム(観念論)は、判断のみが普遍的でありうると認識しながらも、現実は絶対にそう(普遍的)ではないとし、現実とは反対のところに、有効性の観念的領域を定立した。実在するところのものとは反対に、在るべきところのもの、したがって、それは、規範か命令という形において有効なものである。
 それが、なぜ、近代の観念論が判断において現実を優越するか、なぜ、善が倫理的判断、「良心の声」に限定されるか、そして、なぜ、美の規範または普遍的に有効な美的判断を求めるのかの理由である。したがって、「美は存在すべきはずである」ということが各人にとって、直接的に確かなものである。たとえそれが経験論的に善であれ、そうでなかろうと、それとも何らかの形においてであれ、そのことは普遍的かつ絶対的に通用する。善の命令そのものは永遠的であり、現実に縛られない。
 観念(理念)または規範の、経験論的道徳行為への非依存性、それは現世的(世俗的)善によっても悪によっても、それどころか善の要求によっても悪の脅迫によっても変化しない。この善の完全な有効性は、勿論、不可欠要件である。p.28
 しかし、現実的には、我々がよく知っている・・・
我々は自分の行為(手柄)によってのみこの世に善を保っていること、貧困と破綻の大きさに伴って倫理的命令が増大すること、善行の十分なる基盤(十分条件)zakladは現実(生活)の悲嘆であり、ストレスtise?であり、かつ、この現実が絶対的に道徳的援助を要求する。これらのことを勘案すると、善の規範はなすべきことをなにも持っていない(無関係である)。
 あらゆる種類の善(の行為)は本質的に特殊であり、個別的である。人の手助けをしながら我々の誰もが、何か新しい、かつて無かったような善を実現化する。こうして、その善行によって救われる誰かの救済をする。その(救済)は善意や同情のようにそれぞれに固有であり、(その善意や同乗をもって)援助に駆けつける。それは我々の人生の新しい事実であり、我々が善行によって築き上げた星座である。それはこの世界において、二度と繰り返されることのない出来事である。
 いかなる善行も、常に、誰かに向かって、または誰かのために行われるもので、無目的な善行は考えられない。したがって、どんな善も、まったく非普遍的(特殊な)状況、個々の我をも含み、現に在る対象、または仮構の対象(それとも“身近な者”に対する善行、または、その他の必要性をも前提としているのである。
 この状況の各々の構成要素?lenは、このような状況においてのみ倫理的に適切である。“私”そのものは道徳的でも、不道徳的でもない。もし、人間のもし人間の苦難に立ち向かう必要が生じたとき、倫理的瞬間においてはじめて、私は倫理的となり、以前の関係性を回復する。
 どんな人間も、それ自体は単なる現実であり、しかし、我々が助けようとする、そして意志相通ずる彼(人間)は、道徳的現実であり、我々にとって好ましいものになり、価値あり、“身近な”者となる。
 彼の苦しみそれ自体は単なる自然的、または社会的であるが、しかし苦しみは同情と善行との関係の中では道徳と言われる事実である。だから、このことはどんな道徳的情況の中でも通用するものであり、善(行)のあらゆるケースにおいて、所与の具体的情況のすべての要因?lenyを増大させ、この有効性または、この高上を進展させる。
 このような瞬間において、すべての複合的現実は道徳的資格を獲得する。“良心の声”だけが唯一の善の所有者nositelではない。「良心は自分勝手な人間を道徳的近親者にすることも、その苦しみを道徳的体験にもしない。なぜなら、(良心は)気まぐれな人間に関係をもつことは全くできない、ただ、近親者にたいして接近することができるだけである。自然の現象としての苦痛ではなく、単に道徳的援助に対する要求として、である。また苦しみにたいしても、ごく通常の出来事として関連づけるのではなく、ただ、道徳的な助力に対する要求として関連づけられるにすぎないからである。
 良心、道徳的近親者、そして倫理的要求は、ある一定の普遍化不能な情況の内部で相互に担い合っている。それらの諸要因は、ただ、抽象化によってのみ孤別化される。」またあらゆる種類の美は状況に依存しており、その構成要素?lenyは“私”と対象p?edm?tである。だが、もちろんその対象は決して、何でもいいものではなく、まさしく美的、ないしは美しい対象でなくてはならない。それに対して美的主観は、それ自身、自らの内容についてもこのような状況においても美的に有効である。
 私が美を受容(体験)する瞬間、美的に無関心ではない。
私が誰であるか、どんな人間か。私の年齢はどれほどか、性格は、経験は、生活は。それは、その全てが私の体験を変容させるからだけではなく、何よりも、これまでの美の体験の中に実際に存在しているかぎり、これらの要因のすべてが、それ自体、美的に価値あるからである。
 回転木馬(メリー・ゴー・ラウンド)は子供の生活の中では大事件であるに違いない。おそらく子供の生活そのものと言えるかもしれない。その素朴さ、安価さ、等々。これらは、このte(遊具の楽しさ騎士、房飾り、照明、動き、音楽もこの美的情況全体の小さからぬ重要な要因である。
 したがって、美的価値を対象の上にだけ、または主観の上にだけ設定しようというのは意味がない。美は全体として理解すべき事件udalostである。だから上記の主観もその対象も否定する必要はない。なぜなら両者は「状況の高み」に位置しているからである。これによって言われているのは、美は「規範」によって、また威厳という先験的パテントによって保証される必要はないということである。美は唯一のものであり自らの価値を自分自身の中に持っている、みずからの時間において。それは現実の、けっして観念的ではなく、完全に個人的な、そして決して普遍的でもない。このようなものは経験的現実にあり、現実はイデアリズムの究極のノルマ(規範)であるはずだ。



(4) NAROK NA OBECNOU PLATNOST 

4.普遍的有効性への要求

だが、我々が自らの美的判断において普遍的認識に対する要求を提示し、美のより高い価値を提示しつつ、同時に、より高い、超個人的美の有効性を提示するからといって、規範的美学の主要な論拠を傷つけるものではない。端的に言えば、普遍的有効性は、美的判断の本質的要求である。しかしながら、普遍的有効性に対する要求は、それが事実上、美に関する我々の判断の中にある限りにおいて、心理学的に我々の主観的必要性の中か、物自体の上に、具体的に提示される。
1.我々は美に関する判断を触れ回りながら、その判断に同意するよう働きかける。事実、我々は自分の美的意見に賛同を聞きたがるが、反対意見は好まない。そこからはその意見の超個人的有効性に関するもの(回答)は何も出てこない。美的判断は感情的である。どんな美的判断もそれなりに告白であり、宣言であり、個人的意志表示である。その不承認は我々それ自体の否定である。その評価(美的評価)の失敗zneuznaniは我々の歓びの取り損ないであり、我々自身の過小評価でもある。このような判断の有効性に対する要求は、したがって、自己管理と自己適応への要求である。判断の有効性を口実に、我々は自分自身の有効性を欲する。
2.だが、例の判断の有効性に対する要求は、主観的欲求(必要性)pot?eb?から出たばかりでなく、美的判断そのものの性質にも基づいているということもありうる。たぶん、判断それ自体が美的な判断と考えられるためには、例の転嫁された普遍性が不可欠となる。先験的観念論者によれば、美的判断において美の規範が認識されるから、美的判断は真実であるか、または間違いであり、それは、嗜好の論理的定言命令である。125
 この論理的側面では、したがって、普遍性への要求が、美的判断に依存している。――では、“普遍的有効性”とは何か? 学問における普遍的に有効な判断とはあらゆる人々から普遍的に認識されるか、認識されるべきであるようなものであるばかりでなく、性質に関して、たとえそれを誰が携帯prona?etしようと、いかなる状況下であろうと同一的であるものでもあるものである。数学的文章の性質においては、数学家が語ろうと、学生が語ろうと絶対的に同一であるというところが大事である。物理的法則は、たとえ学者によって事実の中に捉えられようと、生徒によって教科書から書き写されようと、不変である。
 それに対して、美的判断は、もしそれが完璧に美学的であるとしたら、それは独創的でなければならない。各人はそれ(美的判断)を完全な独創性をもって想像しなければならない。純粋な美的判断は反復不可能でなければならない。もし、誰かが他人に倣って、自分の知らないか、美を感じないある物の美について繰り返すとしたら、それは真実でもなければ美的でもない判断である。
 しかし、大勢の人が一斉に一つの対象を評価するとしたら、それは多くの人の口になる、唯一、同一の判断ではなく、多くの肯定的判断であり、ただ一つの判断に導けるものではない。したがって、普遍的唯一的有効性に対する美的判断に対する要求はあまり適切な要求ではないのかも知れない。 
3.そうなると唯一の可能性が残るのみである。この要求によって求められるのは、真の普遍的有効性ではなく、まったく個別的同意である。しかし、それは我々との同意のみならず、いわゆる問題の対象となる物との同意であり、価値との同意である。それ(価値)は不同意によって失われるか脅かされる価値であり、この価値の維持のためのあらゆる物(要因)協力である。これは目的論的根拠づけである。
 私が、どこかで美を探すとするなら、それを失わないようにすることが私には重要となる。そこに、その美の認識に対する要求が由来する。ジョナス・コーン は規範的有効性を、“我々の人生と我々の文化のある一定の領域は、それらの認識に依存している”という認識に基づいている。
そこで、たとえば、美は規範的評価なしにも純粋な快適性と同一化されるだろう。そしてこの結果がナンセンスに思われる者にとっては、基本的に美の不可避的性格と認めなければならない。
美の価値にかんする生命的文化的意識の条件について思い出す必要がある。美の超個人的性格について、美の中に単なる会館より多くのものを観る者は誰でも認識しなければならない。そして芸術の第一級の文化的価値を確信するのである。126
この論議は究極的な重要性をもつ。芸術が重い意味をもつ人間は誰もが自分の中に、いい芸術と悪い芸術との間の有効な差が存在するという確証を自らの中に確立しなければならない。それにまた、より高い評価と低い評価との間に、一面にお。いてより深い美的判断と美的に不適格な、第二に、不純な、皮相なものとの間の有効な相違の存在の確信である。
この差異を払拭することは芸術ばかりでなく、同時に、それと共に美それ自体をも平準化することになるだろう。したがってより高度な芸術が存在するなら、むしろそれは、当然、別の物として認知さるべきであろうし、この高いところに位置づけられる判断は、前もって他の人々との同意の対象ともなるべきである。それは目的論的要求され、それによって十分に、このような、より高度な判断は芸術の維持にとって重要でもある芸術の維持が大事なすべての人たちと共有されるべきことが強調される。
 したがって、美的文化の理念ないしは目的は、判断の完璧な内面的同意? それとも価値表の唯一の合意的信念? 生きた文化の中には反対派、抵抗の精神、画一化、自由の要求が絶えず活動し、発生する。反復と単一形式によって仮面や慣習の中で、平板な普遍性と安心な一致に、想定された文化は硬直化する。
 芸術それ自体は、このような普遍化に対する創造的抵抗である。しかし批判的判断も存在する。それは獲得された規範を破壊し、それに対して自分の新鮮なオリジナリティーを定立する。そしてこの判断は、軽視されるには、目的論的にあまりにも重要であるように思われる。真の価値は拡散されることによって、低められるように思われる。最高の価値は排他的であり、非社交的であり、個別的である。
 しかし価値の意味は、価値が獲得され、生産されるというところにあり、端的に我々に提供されるということではなく、価値の実現に対する我々のオリジンルな行動を必要とするというところに根差している。真の価値は常に新しく、個人の内面から絶えず再生される何ものかである。したがって、価値は、我々の内面的利益にとっていかに僅かであるか、人間にとって、どれほど在り来たりか、慣れきった認識かの度合いによって低められる。
 それゆえに、価値の低下とは反対の経過が提示される。価値の上昇化である。しかし、それは過剰価値化でもなければ、過大評価でもない。むしろ、古い価値観に基づく上昇評価p?ehodnocovani、価値変更、新しい価値の成長であり、古い価値の勘定に基づく新しい価値の高騰である。r?st novych hodnot na ??et starychである。それは恒常的な、引きとどめられない生命と、その生命を保持する価値の変動である。美的異見の意義はまさに、美の永遠の新しさと生命を維持するということにある。*30−1proto neni teleogicky///
 だから、美の問題に関する不賛成nesouhlasを拒否することは目的論的に正当化できない。むしろ、美的評価における皮相性、慣れzvykovoxt、それに内面的欺瞞性は否定することができる。悪しき評価は存在する。それは美の規範を裏切るからではなく、むしろ、それが悪しき、無価値な状況situacekら生じているからである。
それに反して深く根差した美的判断は、美的有効性に対する要求が、たとえ全く個人的であり、単純なものであったとしても、絶対的absolutniだからである。 



V−(5)美的判断の客観性   

 美的判断の普遍的有効性に関する論争の全体は、これまで我々にとって、美的判断の結果から美に関する学の可能性が左右されるということに意味があった。もし美的判断が単なる個人の意見であるなら、主観的体験以外の実例がないとしたら、要するに、(美的判断が)普遍的に有効でないなら、美についてのすべての意見mluveniや、美の認識の努力が、空しく、無駄だということになる。
 しかし、このすべての美の認識に対する問題、美的判断の普遍的有効性は間違った定期をされている可能性もある。基本的美的判断は主観についても、客観についても語っているのではなく、むしろ美的情況について語っているのである。その美的状況とはその内面に美的に関連する要因としての対象をも包含している。
「これは美しい」という判断の中には、内面的高揚感も響いており、その(言葉の)中には感情や主観そのものも表現されている。しかし同時に、その言葉によって対象も表現され、言及されているのである。その言葉によって表現されているのは、決してその言葉の中に捉えられてはいない。それは、その言葉にたいして指示されている者のことであり、いわゆる外面的な判断の対象ではあるが、決して内面的な対象ではない。
 それを判断の内面的対象とすることは、それを全面的判断によって決定づけることであり、(判断の)側面と要因のすべての面において、美的情況の中で適切と思われるかぎり、
それを発展させるか、判断それ自体において、それ(判断)を意識させることである。
“言及された対象”が全面的に決定された対象に進化するというようなことが起こったら、美の属性は対象の決定要因の中にはないということになる。なぜなら、は美の属性に対する一定の配慮のもとに定立される。それというのも、すべての状況にたいして、したがってまた情況的美にたいしても適切だからである。
 したがって「これは美しい」という最初の判断においては、美は告白されているが、対象はただ言及されるだけであり、それに対して判断(ないしは、判断の格付け)対象のさらに高い段階における判断においては、対象は証明され、美は、“私が導入する対象の美的に重要な要因として、私が(主観的に)提示する所与の美に依存している”というような意味で、簡単に触れられるだけである。
 だから、たとえば、記念碑性、厳格さ、拘束性は、所与の建築物の美の属性であasるが、更にまた、その記念碑性に属するものが、重量感であり、土台であり、リズムであり、属和音であり、群であり、集合体、その他である。このすべては、また、形式や機能や構造の次の決定において、またもや発展する。しかし、このすべてに対して美が“言及”される。――対象“それ”は「それは美しい」という判断において、最初は体験に関連づけられる限りにおいて、何か明確なもの、所与の意見、明白な嗜好の対象である。判断の自分なりの文脈の中で、まさしく明確に、そして現前化されるべきはずのものがまったく曖昧になる。
 これによって美的判断は経験への依存から解放され、自立する。対象の特定化の継続によって、すべての“言及された”現実を自分の中に取り込む。これは勿論、すでに、初原的印象の広範な書き換えを意味する。それでも初原的美的体験の直接の継続である。
「芸術に関する、評価(判断)、批評、及び学問美的体験は、美的体験それ自体の中に表示される傾向の中で引き継がれていく」127 
 しかし同時に、この美的判断の基本的物差し(尺度)が照らし出される。美的対象を本質的にその対象に適切であるものによってのみ決定するということ、それによって、また、このような判断の正当性の規範もまた与えられる。
1.美的対象にたいして、そお対象に実質的に無関係な要因が書き加えられるということが起こりうる。ここでは間違いが問題となる。2.判断において対象に関して二次的な要因が強調され、注目さるべき(要因)看過されるという間違いが問題となる。このようなケースにおいては、無理解と言われるべきだろう。
 最後は、第三の規範である。ある対象にたいして貧しいとか、空疎だと判定する、または門切り型、軽薄だ、等々と判定をくだすとしたら(ここでは表現力の薄弱さ云々の問題ではないとしても)、まさしく美的判断の皮相性を問題とすることになるだろう。
美的対象に関する判断が無理解に基づいた、間違ったもの、また皮相的なものだということが証明されたとしても、それによって対象そのものが美的であり得ないとは証明できない。
しかし、もし、美的対象が理解をもって正当に、十分有意義に評価されるとしたら、その(対象の)美がひっくり返され、否定されるような理論的手段は存在しない。しかし、だからといって対象の美的判断が完全に保証されるわけではない。
美的対象の諸性格の中には(対象の)感情的効果も含まれる。対象にはいかなる効果が普遍的かつ必然的に属しているかを決定することは、完全な確信をもってできることではない。しかしながらav?ak、その中のいくつかは、他のいかなる物にたいしてよりも、はるかに明確な性質として、事物の客観的特徴として植えつけることができる。
さらに、対象のどの美的要因が主要で、どれが副次的であるかの区別は相当に重要な見解であり、我々の視点に即して様々な現れ方をする。だが、それでもなお疑いなく言えることは、要因の唯一の体系のみが、事実上、対象の実際的な性格に結び付くのである。
結局、美的判断の評価も、軽薄さ、または重々しさに関するかぎり、たんなる主観的見解に過ぎないということになりうる。それにもかかわらず、芸術作品に相応した判定は十分であり、正確であり、重みがあることを要求される。このような状況にもかかわらず、一つの美的対象を判定する大勢の人たちの判断は非常に多様化する(別々になる)。場合によって、人々の判定の中の多様な要因は相互に補完し合う関係において捉えられているものもある。しかし、さらに頻繁に起こりうるのは、共通の美的対象にたいして様々な判断が、共通の問題に対する様々な仮説である。
したがって、対象判定の見解の相違が証明するのは、もはや主観的判断ではなく、対象の問題性である。我々は対象の適切な判定を前提とするとしても、しかし、我々の美的体験は個人的に限られ、不完全で不適切、不適切であること、そして、対象の、適切な要因のすべてを汲み尽していないことを知っている。
 ここで、対象が我々の問題、課題、なんらかの“X”、それに関して我々が繰り返し繰り返し観察することによって、管理という手段によって、比較と批評によって、その他のできるだけはっきりとした目印と定義を観察することのできる問題となる。
 しかし、それはすでに、芸術作品の専門的段階である。その個々の原体験はとっくの昔に経験済みのことである。無限の新発見の段階、それでも決して、適切で詳細な評価の確信にまでは行きつかない段階である。
 しかし、その必要はない。もし、美的対象が本当に我々の美的対象となるならば、それによって、十分なガイドラインと認識作業の内面的基盤が与えられる。そして完全な認識は正に限界概念であり、決してこの認識の基準値ではない。
 したがって対象を美と見なす単純な美的判断は、個人的かつ主観的である。しかし、それは美的対象を意識にもたらす、この理論的作業のすべてを開始し、蓄積するという意味において認識的である。それはまた認識行程の具体的出発点として認識的である。
 しかしここでおそらく、これらの認識はすでに美的判断ではなく、対象の美とも関係なく、むしろ対象それ自体だという反論も出てくるだろう。対象の認識がその(対象の)性質を決定づける一方で、美的判断によって対象にある一定の価値が付与される。したがって価値は対象の性質ではなく、むしろ、客観と内面と一致である。
 したがって純粋に客観的な価値認識は不可能である。客観的判断は対象を理解することができるが、しかし我々にとっての(対象の)価値ではなく、したがって、また、対象そのものの)美的性質ではない。