II. 美的印象
(2)機能的側面に即して――感情移入
しかしながら、美的印象は、完全な形で意識に提示された何ものかであると考えることはできない。美の体験は精神の中に起こり、生れる。それは心理的事件であり、精神的活動ないしは機能の全体である。
快感そのものは、すでに意識の単なる内容であるばかりでなく、能動的に反応する、活動的器官に植え付けられたものでもある。美の体験は生命行動であり、あらゆる心理的なもの同様に、経過であり、運動であり、生成である――少なくとも、機能心理学によればそうなる。51
さらに美的印象は感覚や連想の単なるモザイクであるばかりではなく、感情と興奮、情緒と活動の流れでもある。美的印象は、数え切れないほどくり返し、生命そのものの高揚と強化として語られてきた。美は、我々の内なる生命をいろんな形で励まし、そのごくありふれた刺激をいち早く意識することによって、我々の嗜好を目覚めさせる“活動”である。52
美的印象は“調和的生命機能”であり、“自分自身の内面に基づく精神の訓練”である。53 美学は表象(想像力)と何らかの関係を持っているが、しかし、その客観的性質を観察するのではなく、その主観的側面、つまり“その表象に対して、意識全体が、どう反応するか”を観察してきたと言われている。54
実際、美学の大半がその問題に取り組んできた。自動的(機械的)模倣、自動的(機械的)興奮、共感的再現、等々の理論における、美的快感の能動的要因等々が、極端なまでに強調されることになる。55
したがって、この三点セット(自発的模倣、自発的興奮、共感的再生)の中に、美的印象の機能的ないしは積極的性格は、単に、平凡な感情的、あるいは機械的な刺激的性格からだけ起因するものではない。それらの性格は自発的、美的受容そのものに奉仕する機能である。
かくして、G.M.ストラットンは以下のようなことを指摘した。つまり、単純な空間的形式の美的認識には、“注目と観察行為、理解と共感の作用、有機的感情の流れ」を発見する、次なる重要な経過が感覚に起こる必要がある。
「美的印象は、官能的対象によって、完全な、十分準備された形で与えられるものではなく、むしろ精神的作品である」56
「美的対象はシンテーザ(綜合化作用)によってはじめて発生(実現)する。たとえ、それを前提しているとはいえ感覚的受容と、完全一体となって初めて表れるわけではない。」57
「新しい種類の体験が、必然的に、受け入れられなくてはならない。その内容は普遍的で形式的統一体である、つまり、組織的綜合である。」58
この総合(化)活動が美的受容の第三の機能要因である。
だが、そこで、美的嗜好は、そもそも何に結びついているのかという問題が出てくる。行動か、それとも内容か。(意識の)活動か、それとも意識の内容にか。機能そのものにか、それとも、対象にか。それらのものに機能が関係する。それでは美的歓びは内面(精神)活動の経験から生まれてくるのか、それとも表象との関係で、純粋に、思索的な受容の現象との関係か、純粋に思索的に受け取られた現象に対する関係するかどうかである。ここでは完全に異なる意見が支配的となる。
キュープレは判定する、美的嗜好は、その単なる性質に即して表象された単なる内容に関係する。官能的気分とは異なり、刺激が我々にたいしてどのように(形で)現れるかによっているのではなく、それが感覚器官に植えつける、その方法に依存しているのである。59
同じく、ヴィターセクによれば、「美的行動は、感情を内容とする表象によって提示された意識の具体的状態である」60 ところが機能的感情は美の範疇外の(超美的な)ものである。美的感情は、現象は現象に由来しており、現象は美的に本質的である。61
エッビングハウスによれば、美の感情は「表象的感情」であり、「単純な現象から受ける純粋な快さである」62
ウティッツによれば「美的行動の核は表象的価値世界の感情的理解である。」63
機能的感情は、対象を通して興奮から受ける至福の体験を持っている一方で、精神的行為から来た喜び、心の充実から来た喜び、自分の生命の向上から来た喜びは、超美的である。全くその反対に、他の人たちは、美的感情を徹底して機能的だと言う。
リップスによれば、「美の感情は積極的な生命機能である。その機能を通して、私は対象を観照する。」64 美の感情の基盤は“開けっぴろげの”享受、“快楽それ自体”である。65
グルーズによれば、美的歓びとは精神的遊びから受ける快感であり、“途轍もない魂の動揺”だという。66
「美的なるものとは」とデーリングは語る。「嗜好が、ひたすら精神機能の準備にたいして影響を及ぼすが、その際、機能は具体的活動としては現れず、興奮という状態で現れる。」67
「すべての人間の機能や行為は、」ミューラー−フライエンファイスによれば、「外的目的に奉仕しない限り、美的消費の対象になりうる」。68
「いかなる美的嗜好も、適切な生命活動に適用されるならば、生理学的価値となる。」69
「印象の美的性格は」とシュタインは言う。「我々の精神活動が、十分に刺激され、強い快感を呼び覚まされたら、意識の中に入って来る。」70
最後に、デスワールによれば、「美的受容の中で、魂はその作業過程の間じゅう、快適さを味わっている。」71
この二つの対立的理論は、確実な記録(データ)に基づいているように思われる。
1. 美的受容の中で、実際に意識が向けられるのは、表象と、観照対象である。
2. しかし、好き嫌いが、精神の機能的段階で増大するということは、少なからず正しい。したがって、矛盾が、これらの事実の解釈においてはじめて起こってくる。72
それにもかかわらず、これらのすべての対立は人工的である。精神の機能的参加は観照された対象への関与なしには在りえない。とりわけ、それは直接表象へ向けられた、そして、その把握に奉仕する活動である。それは注目、理解(把握)、集中、そして精神(魂)の“綜合化作業”である。(しかも)それは対象への方向転換であり、本当の美的機能である。
その反対に、捉えられた表象が生み出す興奮というものもある。その興奮は、表象によって呼び覚まされた感情であり、表象から排除された衝撃であるから、したがって、情緒であり、気分であり、そして、自由行動であった。これらの機能は、その方向にある所与の表象から他の対象にいたる、意識を支配し、自律的、かつ究極的に支配する。
「美的快感の中においては、対象への積極的な働きかけが中断されるということが起こるが、逆に、私が楽しまれることによって、より活発な、良心的な性格を得るというようなこと起こることになる。」73
しかし、さらに、この行動の起点である、対象への回帰が起こる。(つまり、もともと出発してきた対象への逆戻りである。)「これは美しい」という告白の中で、感情的反応が進行し、発展する。それは宣言であり、興奮の引き延ばし、そして、興奮の、早々の鎮静化も、それは対象からの流れである。
しかし、同時に、それは表象への帰還でもあるかのようだ。この告白によって、興奮している対象が意識されており、告白する意識の関心z?etelと意図は表象へ移行している。実証するにせよ、意識するにせよ、いずれにしても同じことだが、それは気分的(ムード的)で、膨大である、等々。そして、このすべてを、我々は、所与の表象に結びつける。
したがって、確かに、表象に端を発している興奮があるとはいえ、その興奮は表象に反映している、ないしは、意識によって反転させられている。興奮は、また、その一体的な根源に関連づけられているか、お気に入りの対象について予告されている。そのお気に入りの対象について、いわば、その機能的充実と確実さへ発展させるのに効果的なものとして、“考え”、指摘し、性格づける。
しかし、このような事態は明らかに、興奮した(美的)表象、または、対象に対する意識の変更、または、対象にたいする関心の特別の変更をベース(の土台の上で)にして起こる。しかも、この特殊な転換、または視点は、我々がお気に入りの対象について語っているときに、それ(対象)から数式を構成しようとしているとき、それについて瞑想しているとき明晰な意識に取り込もうとしているときに、要するに、まさに経験した興奮の対象として定着させているときに起こる。
美的印象において体験された興奮に即して、第一に、所与の表象から我々を解放して、消す(興奮を冷ます)か、他のもののところ(表象)へ移し替えるかする。その結果、我々を美的印象から、さらなる一連の受容へ転送し、美的瞬間を個人的人生の関連性の中に織り込んでいく。
しかし、第二に、意識の特殊な方向性より、所与の表象に惹かれるということもありうる。その結果、その表象の質的性質となる。それによって、その主観的関連性から切り取られ、我々にたいして、対象自体の機能的側面として提示される。それにもかわらず、至る所で、絶え間なく、本来我々の中に、そして我々の生命の核心にのみある生命機能の嗜好の対象に対して好き嫌いの判定をくだす。それは、よく知られ、広く行き渡っている感情移入の理論である。
基本的、かつ、疑いのない事実は、美的印象のなかで、気分、努力や偽装、意欲や、その他、幾千もの感情を振り当てる(呼び出す)ことができるということではあるが、問題はこれらの全く主観的な興奮を、どうすれば所与の対象に、その対象固有の属性として、うまく付与(インプット)できるかということである。なぜなら、我々は自分の感情を体験しているから、自分の(対象固有の属性を付与しようとした)努力だけはわかっている。しかし、その(我々の)感情を呼び覚ますものは、我々が対象物に付与した属性なのである。
我々は、少々、悲しくても、悲しい詩について語る。自分の体力(ダイナミズム)のことしか知らないのに、建築のダイナミズムについて語る。我々には線が直立しているとか、緊張しているように見える。線に運動、力、傾向性が現れたかのようにも見える。とくにその生命力と活動力だ。74 しかし、同時に、それは我々の傾向性と力であり、我々の活動力と生命力である。我々はそれを、線を知覚する際に体験する。
したがって、美的統覚において、我々は自分の生命、自分の精神によって線に息を吹き込み、魂を与える。我々はそれを再生されたもの、機能しているものとして体験する。しかし、それは、同時に、我々が体験している我々の機能であり、それは我々自身の能動的に知覚している“我”なのである。
だから、あらゆる美的知覚と咀嚼の場合に言えることである。この至る所で対象の表現として、その対象の生命の告白として自分の感情を体験する。私は自分の“我”を対象の中に体験し、対象に自らを投影する。対象と結合し、一体化し、自らの瞑想の時を経て対象となる。75
大事なのは以下の点である。感情移入は調節的な体験である。それは特別の独立した心理的現象である。76 全自我の対象内での、自己体験の中での、自我と対象との完全な統一における体験である。77 ――感情移入の理論に反して、多くの概念的、具体的反論を提示することはできるだろう。78
我々の視点からすれば、問題になるのは以下の点である。
1.“対象”に自分を“投影”させるということは、純粋に心理学的立場からは言えい。美の体験は心理学にとって、心理学的手続きにとっては心理学的要因と排他的に対立している抗争の相手である。したがって、それらの心理学的要因は、良心的に考えても“対象”などといったものではなく、非心理学的なもの(現象)だ。そうではなく、むしろ、気持ち、表象、総合(形成性)、等々、である。
したがって、さらに、自我が“感情移入する”とか“投影する” とかいうことや、自分の内面生活を自分自身の感情や表象の内容を、“借用するということには意味がない。心理学は、美的印象の中には一定の感情や感覚の間の結びつきがあるということを発見できるだけである。(P.スターンStern 79 によれば、“連想との類似”)それとも、むしろ、ヴントの好む言い方によれば、興奮と、気持や表象との融合となる80。
2.直接的美的意識の記述は、“我”と“対象”との関係はきわめて多様でありうる。81 しかし、決して実際的な融合の関係ではない。なぜなら、常に、意識の中に、明白に、完全に分離可能なものとして残っているからである。だから、とくに、快感そのもの、嗜好そのものである。美的嗜好は対象の中で体験されるものではなく、“我”の中であることは間違いない。82
だから、“我”と “対象”は通常は融合できないものである。“我”とは何か。それは“対象”にはなりえないものである。なぜなら、意識は魔法をかけて騙せないからだ。
“我”と“対象”との融合は、魂(心底から)の無限の展開にたいするロマンチックな願望のように思われる。83 “線、リズム、音響、風、岩になるということ”84、それは、自然になりたいという文化的願望の反響である。
3.結局のところ、“感情移入”という術語はきわめて多種多様な性質に密接な関係があるように思われる。それは、何よりも、美的体験の特有の曖昧さと主観性である。
対象を主観的(受容)経過から厳しく分離する理論的関心とは逆に、まさに主客・分離不可性こそが、美的受容にとって強調すべき点なのである。同時に、内面からくるあらゆる(精神的)圧力は否定され、受容者は提示されたもの(対象)に没入する。そして、その意味で自分自身から解放されるのである。85
第二に、それは、まったく確かな、きわめて頻繁に起こる感情citであるということ。つまり、快感の対象が自分に特別の関係にあるということ、詩または音楽が私の感情に語り掛けるということ、小説や戯曲の中に自分自身の個人的人生を発見するといった、そんな感情である。
しかし、第三に、自分が体験した興奮や感動の対象に、適切で、その特徴として付与することは、事実である。要するに、それは所与の対象を、美的に正確で有効な方法である。
この第三の型が最多である。“感情移入”は、この場合、本質的に評価に基づいている。そのことはより一層、状況により説明できる。a) 現実の感情は主観の状態であるのに対して、感情移入の感情は対象物の性質である。たまに、私は自分の我の性質としての直接的感受を疎かにすることがある。もし、憂うつな性質、陽気な性質、その他を、(自分の内面に)書き込むとしたら、それで、もう、自分自身についての判定をしていることになる。
美的受容において、感情は、私の内面精神の状態として、真っ先に、私に与えられたものであることは疑うまでもない。それ(内面精神の状態?)への“感情移入”によって、対象の本質ないし属性としたというのは、どんな経緯によるのだろう?
もちろん、疑いもなく、それは断定という行為によって、特定するという行為によって、判定によって起こる。なぜなら、何かの性質としての感情を受容することは、感情の質 と対立するからである。――ここから、心理学的美学の矛盾した問題への新しい展望が見えてくる。
ヴィターセクによると、感情移入された感情は表象(想像)されたもので、決して現実のものではない。それに対して、感情の規範などというものは意味がない。そうではなく、大事なのは表象(想像)の規範だ。86
したがって、感情移入のメカニズムは、表象(想像)のメカニズムである。この視点は、表象(想像)された感情は全く存在しない。なぜなら、感情は表象(想像)することができないからであり、できるのは、ただ、新しい現実として自分の内面に蘇生させることだけである。――87
ハルトマンによれば、感情移入された感情は、一見、そう見えるだけのものであり)、『リアルな感情は、感情移入された感情を内面に抱えるリアルな主観と、事実上、不可分離な関係にある。したがって美的幻覚(幻想)には投影されえない。なぜなら、それ以外には、リアルな感情は自分とともにレアルな主観を(非レアルな)美的幻想の中に移し変えなければならなくなるだろうからだ。88
――我々の視点からすれば、“提示された”か“幻影的な”感情は、評価された(属性化された)感情である。(それらの感情は)性格となることによって、表象の役割を強め、表象として完全に出現する。それらは、我々にたいして、美的対象を性格づける。 今、現在の(現在意識されている)感情 ?現実的感情”は(精神)内面の状態としての感情であり、性質としての感情ではない。そうではなく、むしろ、表象の役を演じる感情である。“性質”としての感情は提示される感情ではない。我々は現在意識されている感情を表象された感情と見なすことにしよう。我々はそれ(その感情)のや、その他のものの再現と特徴づけのために利用する。しかし、この感情の変容は“感情移入”によって可能なのではなく、それ(変容)は、これまた、ただの主観的感情になるが、ここでは役割が異なる。つまり、品定め(命名)をすることになる。
b) もし、“感情移入”が主観と対象との直接的、実際の統一に基づいているのならば、どういうふうにして、対象に感情と持続の努力を、統一が過ぎ去った後までも結びつけることができるのか? 逆に、“生命の吹込み”が、なぜ、喜びの間だけしか続かないのか。たとえば、なぜ、ある悲しげなメロディーが鳴っている間に、我々はそれが同一の悲しさだと判断するのだろう? もし“生命の吹込み”が特別の感情であるなら、他のいろんな感情と同じように、通過して行ってしまう(過去になってしまう)。しかし、我々の中の唯一のものが、内容に、不変の(論理的)持続を付与するのだが、それが判定である。判断を下されたもの以外に、我々にとって、同一性を維持できるものはない。
ゆえに、感情移入の基盤となるものは判定(鑑定)である。
c) デスワールとマーティーは、いわゆる感情移入は多くの場合、対象についての告白(証言)の際にはじめて起こる89 と警告する。キュールペは、感情移入は比較的長めの印象の後にやっと到達することを発見した。(5秒ほど経って、だそうだ)90 同様のことを、エマ・v.リトオーコヴァーとデスワールも確認している。91
これらの発見が正しければ、“感情移入”は、初めて本来的な美的印象に到達するものだということを証明している――何か第二幕というようなものとして。したがって、“感情移入”は意識の興奮した(刺激された)対象へ、織り込まれた判定への第二の転回と言うことも可能である。または、感情移入とは印象の対象への反射(反映)だとも言える。
概して言えば、“感情移入”は、あまり良い(ハッピー)名称とは言えないが、いろいろな直接体験の呼称であるか、それとも、ほとんどの場合、体験された興奮や感情の、興奮した対象の、刺激的対象への付与、心理的内容の、その客観的土台への配布(分類)、または、一言で言えば、美的対象の機能的側面からの記述ということになる。
一方で、この査定は、我々が対象に(注意を)集中した時、受容そのものの中で起こる。その後、対象について我々が証言し、そうすることによって、その対象を判定の圏内に移行させるときにも起こる。
もし、この査定を、我々がまったく未熟に(素朴に)行ったら、対象の直接的、諸元的受容と評価される。こうして、より発展した段階において、この判定の理論的性格がより強まる。それは、その機能的十全さと性格付けの中にある美的対象を適切な意識に近づけようとする時だ。
我々が、ある興奮の性質; を付与するとき、我々は幼稚な判定をしたことになる。しかし、機能的記述を、対象の本当の分解に即して分類するや否や、素朴な視点を、我々は断固として放棄する。ここでは早くも反映では不十分ではなく、段階的な思考作業、その使命は美的に能動的な対象の全面的な決定、明確化、と定着である。