目 次
I 序章―<パクリ>という現象。

 I-1I-2I-3I-4解説


II ポピュラー・ミュージックに
  おける「引用」。


 II-1II-2|解説


III ポピュラー・ミュージックに
   おける「パロディ」。


 III-1III-2III-3III-4|解説


IV ポピュラー・ミュージックに
  おける「剽窃」。

 IV-1IV-2IV-3IV-4|解説


V <パクリ>における「物語消費」
 と「データベース消費」。


 V-1V-2V-3V-4|解説


VI ポピュラー・ミュージックに
  おける「剽窃」〜渋谷系以降。


 VI-1VI-2VI-3VI-4VI-5
 VI-6VI-7|解説


VII 現在の「剽窃」未来の「剽窃」。

 
VII-1VII-2VII-3
 
VII-4解説


参考文献。参考URL。
参考音源。|添付資料。
ミュージシャン名索引。
後書き。(Web ver.)|表紙。












































































VII-4 <パクリ>の未来。
 <パクリ>とは今世界に溢れる音と、聴き手との相互作用である――これは大まかな定義である。しかし、この定義は録音というメディアの持つ潜在的な能力を端的に言い表わしているように思える。テープレコーダーに吹き込まれた音は、吹き込んだ「私」の声でも、またテープに吹き込まれた客観的な音でもない。それは私という主体と、テープレコーダーというメディア、客体との融合の結果生まれた音であることに注意しなければならない。テープレコーダーの音において「私」という主体とその音は無関係ではありえない。それはかつて私の耳を震わした私の声であり、同時に磁気データという形で刻み込まれた情報である。

 <パクリ>も同様である。参照元の音楽と、<パクリ>により成立した音楽は、<パクリ>という行為の文脈の中で解釈される場合に関しては互いの存在に対し無関係ではありえない。それは客体と主体との融合によって生まれる編集行為の結果である。それぞれの音は無関係ではありえない。それは確かに関連しているし、結びついている。松岡の言い方を借りれば、「情報はひとりでいられない」(*163) 。<パクリ>において参照先作品は参照元作品を含む、しかし一方で参照元作品も参照先作品を含むのだ。その間の差異が情報となって立ち現われるとき、聴き手は<パクリ>により成立した作品の解釈をはじめる。このとき、聴き手は参照元作品と参照先作品の「意味内容」を決定する存在として作品に含まれる。こうして聴き手は作品の風景の一部となる。

 振り返れば、「単純な引用」や「パロディ」は「楽譜的」な存在だった。「単純な引用」は引用元テクストに忠実であることを求め、そこにある「署名」を利用することで成立した。パロディも同様に、引用元作品の「署名」即ち「オリジナリティ」を強調する存在であった。そのような署名(所有の証明)を保証する制度として楽譜が成立したことを考えれば(*164) 、これらの引用行動における「引用」は全て作曲者の地位を保証する「楽譜」の存在をもとに行われていた。その地位を利用し、「単純な引用」は自己の文脈に他の文脈を融合させ、「パロディ」は強固な「二重テクスト性」を設定したのだ。言い換えれば次のように言える。楽譜とは「私が作曲する」ということを重視した主体的な存在であり、その主体を別の主体が借りることで新たな文脈を作り出すこと、それが「単純な引用」や「パロディ」の根底である。

 しかし、録音というメディアが本格的に普及するにつれ、更に文化の記号化が進むにつれ、音楽の参照行為のもつ新たな側面が明らかになった。それは参照元作品から「意味内容」を切り離し結果的に「音そのもの」へと聴き手を返していくことになる。サンプリング・マシーンの発明がその流れを決定的なものとする。結果的に<パクリ>を元にした作品は聴き手という存在を強調することになる。音楽の実践者は音を聴き、音を組み合わせ、聴き手は組み合された音を聴き、音から物語を作り出すという聴き手の連鎖が生まれる。結果的に音楽は「楽譜」を軸とした「主語的」な存在から「述語的な存在」へと変化する。述語的な音楽が強調するのは、その音そのものの持つ編集の可能性である。「創作」から「編集」へ――70年代後半から80年代後半へかけての<パクリ>の変遷はこのような言葉で括ることができる。

 <パクリ>が何処に行くのかという問いは、聴き手が何処に行くのかという問いと同義である。述語的な存在である<パクリ>は実践者のみを巻き込むのではない。その聴き手をも巻き込むのだ。<パクリ>に関する議論を行おうとするとき、先ずはそこからはじめなければいけない。聴き手は<パクリ>に関して無関係ではいられない。私がこの論文を通じて言いたかったことはそのたった一言に集約されるのかもしれない。従来の<パクリ>に関する議論が余りに貧弱だった理由は結局のところ「聴き手」の存在が無視されていたこと、作家論や著作権法に関する議論としてのみ<パクリ>を捉えようとしたことにある。<パクリ>は聴き手を「音そのもの」に返した。そしてこの論文は聴き手を議論の場へと至らしめる。録音がもたらす「音楽への集団参加」とは実践者にのみ限る話ではない。音楽の享受者も必然的にその議論へと巻き込まれることで、音楽へと参加するのだ。

 最後に<パクリ>はポスト・モダンなのか、という問いについて意見を述べておきたい。あえて文中では出来る限りポスト・モダンという単語を外してきた。それは結局のところ、その単語が廃れてきたとされる今、強調する意味はないという判断による結果ではなく、その1概念で<パクリ>という現象を括るのは余りにもったいないという判断によるものであった。見てきたように<パクリ>の変遷は、モダン、ポスト・モダン、ポスト・ポストモダン、そして更に先にあるものへと連なっている。逆に言うとその境界線は実に曖昧なものである。東のように明確にサンプリングのポスト・モダン性を強調すれば必ず議論に綻びがでる。実際、東の言うポスト・モダンは、本論によればポスト・ポストモダンとでも言うべき文化区分への前兆に過ぎなかった。それは確かにモダンという概念に疑問符を突き付ける現象であることには間違いないが、しかし結局のところモダンは――<パクリ>の法的問題の頻出によって強調されるように――生き続けていることに注意しなければいけない。

 <パクリ>は何を語るのか――そのような問いに対し、ここまで忠実に、時に議論を飛躍させながらも論をまとめてきた。結論らしい結論をむりやりに述べるとするならば、音楽は変化しつづけるものであり、<パクリ>はその事実を象徴する1つの現象である、ということであろう。音楽の実践者、聴き手、そして音――3者は常に形を変えながら交じり合う。そして新しい形を生み出していく。音楽はこれからも気ままなひとり旅を続けていくに違いない。そして聴き手はその音楽の発する声にならない声に注意深く耳を傾ける必要がある。その聴き取った声の断片を繋ぎ合わせたときに、また新しい音楽が生まれる。音から音楽へ、音楽から音へ。その絶え間ない連鎖こそが<パクリ>の示すものである。何処に行くかは解らない、しかし聴き手であり続ける限り聴衆は、その声に耳を傾け続けるだろう。音楽には現在しかないかもしれない、しかし現在は未来へとつながっていることを何処かで信じているからこそ、人は<パクリ>を止めないと主張したい。このようして<パクリ>は音楽の過去、現在を語ると同時に、未来をも雄弁に語るのだ。 (了)




(*163) 松岡(2001年)p. 38

(*164) 「[楽譜は] 利用者にとって外的な、固定された記憶であるため、記譜されたものはその構成を改変されたり、忘れられたりす ることはない。この意味で、スコアは決定版であり、すべてのスコアは完成されたものだ。スコアという形で、その版は流通し、保存される。これは所有物としての音楽の最初の形態である。」 カトラー(1996年)p. 43


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