目 次
I 序章―<パクリ>という現象。

 I-1I-2I-3I-4解説


II ポピュラー・ミュージックに
  おける「引用」。


 II-1II-2|解説


III ポピュラー・ミュージックに
   おける「パロディ」。


 III-1III-2III-3III-4|解説


IV ポピュラー・ミュージックに
  おける「剽窃」。

 IV-1IV-2IV-3IV-4|解説


V <パクリ>における「物語消費」
 と「データベース消費」。

 V-1
V-2V-3V-4解説


VI ポピュラー・ミュージックに
  おける「剽窃」〜渋谷系以降。


 VI-1VI-2VI-3VI-4VI-5
 VI-6VI-7|解説


VII 現在の「剽窃」未来の「剽窃」。

 VII-1VII-2VII-3
 VII-4|解説


参考文献。参考URL。
参考音源。|添付資料。
ミュージシャン名索引。
後書き。(Web ver.)|表紙。





























































































































































































































V <パクリ>における「物語消費」と「データベース消費」。
V-1 物語消費論。
( i ) <パクリ>と文化の記号化。

 さて、<パクリ>について、特に「サンプリング」について考察するにつれて以下の重要な事実が明らかになったと言えるだろう。つまり、<パクリ>が繁栄した背景には、音楽文化全体の「平板化」や「記号化」があるという事実である。1970年代後半から80年代初頭にかけて、「諧謔」による<シャレ>の音楽から<シャレ>という意図を消去し、<オシャレ>な記号として消費するという意識が聴き手の中で出来あがっていった。結果として、「記号」を消費するという聴き手の意識は、「カッコよさ」や「等身大」という「コード」をまとうことで他のバンドやミュージシャンとの「差異化」を図る多くのロック・バンドの隆盛へと繋がっていった。

 そしてそのような「差異化」を「情報を持っている / 持っていない」というような、より最小限なものに変えていったのがサンプリングという方法論を選んだ「渋谷系」の音楽であった。そしてそもそもそのような方法論を確立したのが、出まわる音楽ソフトの数の増加、更にその増加が促した音楽ソフトの「カタログ化」(*99)であるという事実は「記号消費」という概念と<パクリ>との関係を自ずと明らかにしてくれる。

 以上のような理由から、文化の「記号化」は「剽窃」を導く上で重要な鍵となると考えられる。そして、そのような「記号消費」と<パクリ>の関係を解読するために重要な示唆を与えてくれるのが、コミック編集者である大塚英志が1989年に上梓した『物語消費論』である。「今日の消費社会において人は使用価値を持った物理的存在としての<物>ではなく、記号としての<モノ>を消費しているのだというボードリヤールの主張は、80年代末の日本を生きるぼくたちにとっては明らかな生活実感となっている。」(*100) という文章で、『物語消費論』ははじまる。大塚はこのような「実感」を説明するために<物語消費>という単語を用いる。「この消費社会においては無数の<物語>が消費可能なソフトとして消費者の手元に届けられている。情報のストックの技術、及びそれを流通させるチャンネルの数は近代を通じて加速度的に増加し、それは現在も変わらない。」(*101) そのような現代消費社会において彼は<物語消費>が<物語>を消費するための最終形態であると説明し、その意味を解こうと試みている。


( ii ) 物語消費。

 では<物語消費>(*102) とは何か。簡単に言うとそれは「物語」の受け手である「消費者」自身が自らの手によって新しい「物語」を作り自らの手で消費するという、高度消費社会において顕れた新しい現象である。例えば彼はこの理論を「同人誌」というメディアを用いて以下のように説明する。

 例えばわれわれが「物語ソフト」としてのマンガを「消費」する。週刊連載を軸にすることにより「物語」は基本的に複数の断片、エピソード(=<小さな物語>)から構成されることになる。マンガを消費する際にわれわれが先ず消費するのはこの断片的な<小さな物語>である。しかしこの断片を組み合せることでわれわれは相互の断片の関係性に気がつくことになる。多くの<小さな物語>を「消費」するうちに、その裏に隠れている物語の「設定」や数々の「伏線」を垣間見るのである。この垣間見えたものの正体がその物語の持つ<世界観>=<大きな物語>であると大塚は述べる。われわれは<小さな物語>という断片的な情報を手がかりにして<大きな物語>にアクセスしようと試みているのである。

 ところがこの<大きな物語>が仮に情報の受け手に渡った際に「新しい事態」が起こる。つまり物語の「送り手」即ち筆者の手から離れたところで、物語の「受け手」自体がその<大きな物語>にのっとって新しい<小さな物語>を作成することが可能になるのである。物語の「消費者」自身が「小さな物語」を作り上げ消費していく、これが「同人誌」という現象である。大塚は『キャプテン翼』という大ヒットマンガの「パロディ」作品が大量に「同人誌」という市場に出回り「消費者」によって描かれ「消費者」によって「消費」されていった事態を例にこう強調している。

 翼同人誌の作品は、『キャプテン翼』という<世界>を定め、これをそれぞれの女の子たちが自分たちの創意工夫にとんだ<趣向>をもって描いたものである。このような<世界>―<趣向>という軸の中で考えたとき、高橋陽一の本家『翼』を含めた無数の『翼』作品を判断する基準として、どれがオリジナルであるかはもはや無意味であり、ただ<趣向>の優劣のみが有効となってしまう。(*103)


(図1)

 大塚は作品の持つ<世界>=<大きな物語>を1つの枠として形を与えられるものと仮定し、上のような図でもって彼の理論を説明する。原作者の書いた「オリジナルの作品」は例えばその枠を横切る1つの線(断面)であると言える。この<世界>を切った断面が1つの<趣向A>=<小さな物語>となる。この<大きな物語>の枠、形を別の第3者が把握できた場合、その第3者は別の<趣向B>或いは<趣向C>を無限に作り出すことが可能になるのである。この場合、「オリジナル」と称される<趣向A>と「同人誌」とされる<趣向B>の間に本質的な違いは存在しえない。存在するのは<大きな物語>を解釈する側による「趣向」の違いだけである。


( iii ) 「大きな物語」と物語消費。

 大塚によれば、消費者は<小さな物語>を消費することで、実はその裏に隠れた<大きな物語>(物語の設定、世界観)を消費していることになる。消費者は、<大きな物語>への直接のアクセスは許されていない。その代わり、<小さな物語>という断片からそれを覗くことができる。<小さな物語>という個々の断片は、あくまで<大きな物語>へとアクセスするための入り口に過ぎない。それゆえに「物語消費」において重要なのは断片、1趣向としての<小さな物語>ではなく<大きな物語>自体だと大塚は主張している。

 また、評論家である東浩紀は大塚の理論を受けて「この指摘は実は、サブカルチャーの状況分析にとどまらず、ポストモダンの原理論としても示唆的である」(*104) とし、<大きな物語>をフランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールの言う<大きな物語> (*105) と重ね合わせ以下のように説明する。つまり、ポストモダンの到来の前、即ち「近代」において、私たちの意識に映る表層的世界=<小さな物語>があり、他方にその表層を規定している深層=<大きな物語>があるという「ツリー型」の構造があった。そのような表層世界の<小さな物語>を把握することで<大きな物語>へと近代の人々はアクセスし、その<大きな物語>が、<小さな物語>へとアクセスする受け手の「近代的自我」とでも言うべきものを規定していた。そして、そのような<大きな物語>にアクセスし、明らかにするのが、学問や芸術の役割だった、と東は説明する。(*106)


(図2)

 東の、「深層 / 表層」という概念で区切った「物語消費」の形態と、大塚の考える「物語消費」の図式を組み合わせると、おおよそ図2のようなものになる。(*107) つまり、<大きな物語>は「深層」に存在し、その「深層」に規定され、滲み出る「表層」として<小さな物語>は存在する。各々の<小さな物語>は<大きな物語>を様々な角度から切り取った、いわば1つの「断面」「断片」である。物語を消費する存在である「私」は、<小さな物語>たちを把握し、そして把握することで<大きな物語>へアクセスしようと試みる。<小さな物語>は<大きな物語>の断片であるから、<小さな物語>を通じて「私」は<大きな物語>の姿を垣間見ることになる。そして幾つかの<小さな物語>を組み合わせることにより、「私」は<大きな物語>の全貌に近づき、その結果として<大きな物語>によって「自我」を「決定される」のである。


( iv ) 「物語消費」と「パロディ」。

 このような「物語消費」という概念は「パロディ」という様式の解釈に大きな示唆を与えてくれる。例えば<大きな物語>を作品に大きな影響を及ぼす「意味内容」のようなもの、と解釈することができる。つまりある音楽作品とは<大きな物語>を切り取り表出する、1つの断片である解釈が可能となるのである。例えばクラシック音楽作品にとって、<大きな物語>とは「調性」という形式を中心とした「西洋音楽という制度」であり、その1解釈が1作品と考えることができる。そして<小さな物語>としての作品は「近代の聴衆」にアクセスされ、また、作品を通して「近代の聴衆」は<大きな物語>により自我を強化されるのである。

 そのような概念を「今日的なパロディ」に応用して、次のように考えることができる。つまり「パロディ」とは、ある<大きな物語>の1断片としての<小さな物語>である。そしてその場合、<大きな物語>とは「パロディ」が転倒を行う対象、即ち引用元である「音楽作品」の持つ「意味内容」や「価値」である、と。


(図3)

 図2にあてはめてみると、「パロディ」は上図のような二重構造を有していると考えられる。先ず、ある作品の意味内容や価値を決定する<大きな物語>が深層にある。その深層に規定され、滲み出た1つの形態として<小さな物語>である「作品A=オリジナル」がある。作品Aの「オリジナリティ」をもその深層である<大きな物語>は、決定することになる。

 そして、その意味内容を前提として現われたもう1つの<小さな物語>である「作品B」がある。「作品B」は<大きな物語>を「アイロニー」をこめた「趣向」で切り取ることで、「作品A」の持つ「価値」や「意味内容」を解釈する「パロディ作品」である。また、それゆえに作品Bは(逆説的に聞えるかもしれないが)<大きな物語>と緊密に繋がっている。同時に「作品B」は<大きな物語>を通じて「作品A」とも緊密に繋がっている。

 結果として「作品B」は「作品A」との「二重テクスト性」を有することになる。この場合重要なのは、聴き手にとって「作品A」が<大きな物語>へのアクセスをそれ単独で行える媒体であるのに対し、「作品B」は「作品A」との結びつきを前提として<大きな物語>へのアクセスへと誘う媒体である点である。つまり、「作品B」は「作品A」を前提として初めて存在しうるし、だからこそ「作品A」という「オリジナル」にある種の敬意を見出す。しかしその「見なし」は「作品A」が「意味的に」上位であることを示すのではなく、あくまで「立場的に」上位であることを示す。「作品B」は「作品A」に与えられた「意味内容」のまた別の観方を聴き手に提供するのであり、「作品B」を通じて聴き手は「作品A」が表出していた<大きな物語>という「意味内容」への距離を更に縮める。そしてその<大きな物語>は聴き手の「意識」をより強く規定するのである。そのような作用が、パロディの「御墨付きの侵犯」という特徴を結果的に導き出すのである。




(*99) 渡辺(1989年) p. 117

(*100) 大塚(2001年)  p. 7

(*101) 同上 p. 21

(*102) 同上 pp. 7-54 参照

(*103) 同上 p. 19

(*104) 東(2001年) p. 51

(*105) リオタール『ポストモダンの条件』1979年、東(2001年) p. 179(注19)参照

(*106) 東(2001年) p. 51

(*107) 東(2001年) p. 51、大塚(2001年) p. 17


参考文献一覧。

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