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X day またこの季節がやってきた。まったく人間の欲望など何時の時代にも尽きないもので、今年も私の元にたくさんの注文が届く。最近はIT革命だかEコマースだかのおかげで便利になったもので、ネットワークから入ってきた注文に機械が勝手に反応してくれ、集計、さらには注文、配達手配までおこなってくれる。以前は私を含むスタッフ一同が殆ど手作業でそれを行っていたのだからその恩恵は計り知れない。さらに以前はネットワークすら完備していなかった。今では私のために4つの人工衛星が浮かび、世界各地に計148の地下設備が完備している。中央アジアの山脈の洞窟の下にそれがあるとはよもやCIAだって知りはしないだろうし、米国の砂漠の真ん中にある空軍基地の真下にそれがあるとは、どこぞのUFO研究家だって信じやしないだろう。 全ては芸術的なまでに組織化されている。誰かが「これが欲しい」と望めば、即われわれのネットワーク網にひっかかることになっている。機械はネットワークの掴む限りの「欲望」を整理し、われわれと契約しているあらゆる業者、あるいは関係機関に自動的に「商品」の注文をかける。「商品」が確保されれば直属の運送業者にそれを回す。24日の深夜までには、その業者が秘密裏に「商品」の配送を間違いなく行う。先の大戦後、急速な速度で「組織」は完成されていった。全ては資本主義の恩恵だ。資本主義は世間の人間の「夢」とやらも合理的に扱ってくれる。こうして私は「夢を与える1個人」から「夢を与える1大ブランド」となりえたわけだ。 ところでこうして長年、不特定多数の人間のために「プレゼント」とやらを用意してみてふと思うことがある。つまり、理想の「プレゼント」の形というやつだ。世間の人間はこうした「プレゼント」につきまとう夢やら希望やらという幻想に酔いしれがちだ。別段、酔いたければ酔ってくれたって一向にかまいやしないのだが、それにしたってそんな「資本主義」の名の元に作られる「虚構」に酔いしれつづけるのも馬鹿げてると彼らは自覚できないのだろうか? 重要なのはそんな「虚構」ではなく、プレゼントという「コンテンツ」なんじゃないだろうか? まぁ、そんなことを愚痴ても仕様が無い。そもそも私が誰か「特定の人間」に「プレゼント」とやらを送ったことがないからそんな批判的なことが言えるのかもしれない。いや、送ったことがあったか? まぁ、仮にあったとしてそんなのは大昔のことだし忘れてしまった。最近物忘れも激しいのだ。年齢をとった証拠だ。 例えば、私は「夢」というものを「与える」という職業柄「貰う」ことも少なくは無い。つまり私はちょっとしたアイドルみたいなものなのだ。アイドルにはファンがいるし、ファンレターやら何やら頻繁に届く。「プレゼントのお礼」にちょっとしたものを「貰う」ことだって少なくない。もっとも私はこれを商売でやっているのであって「お礼」も何もあったものでもないのだが、送り返して「夢」を壊すのもなんなのでありがたく受け取ったかのように振舞う。 しかし、大体において私への贈り物なんてロクなものではないのだ。食べ物を寄越すやつがいる。例えばチョコレートとかなんとかそういうちょっとした菓子。確かに私は甘いものが好きなのだが、それにしても御歳暮や温泉帰りの土産じゃあるまいし「贈り物」に「食べ物」はどうかと思う。第一、私は有名人だ。私をねたむ人間はゴマンといる。ひょっとしたらその中に練り込んである白い粉は甘い砂糖ではなく甘い罠かもしれない。そんなものをクチにできる人間はそうそういやしない。かと言って客間に飾っておけるものでもない。そもそも甘い物を食べたければ自分で買って食べる。「食べ物」とは本来そういうものであり、そんなものに「夢」だのなんだのを盛り付け送りつけるのは重荷であるとしか思えない。 次。例えば、洋服だのアクセサリだのといった装飾品。私に送りつけられるこれらの9割9分は「失敗」していると言わざるをえない。先ずサイズが合わないだのなんだの、これらは論外だ。しかしこれで6割は淘汰されることになる。さぁ、残りは4割。ところが最終的に「身に着けられる」という結論までに達してくれるのはそこから東洋の端っこにあるどこぞの縦じまユニフォームの野球チームの今年の勝率を引いたくらいの割合だ。当たり前だ。何故会ったこともない赤の他人に自分の趣味がわかるというのだ? そう、「赤」で思い出した。私に送られてくるそういう類の「贈り物」の色の大半は「赤」だったりするのだ。彼らは何かカンチガイしているようだ。経緯を知ってる人間なら私の仕事着が私の趣味ではなく、某ドリンクメーカーとの契約に基づくカラーリングであることは承知しているはずなのだが、世間の人間のパブリックイメージとやらはそうは問屋に卸させやしないようだ。例えば赤い手袋を送りつける子供がいる。しかし私の事務所には契約している(3年の契約で、契約料は非公開)衣料メーカーから送りつけられてきた膨大な数の赤い手袋がある。他の競合メーカーが送りつけてきた「試供品」を含めるとその数は3倍に膨れ上がる。そんな「赤」にかこまれて私は仕事に明け暮れているわけで、プライベートな時間に赤い服やら手袋やら赤い縁のメガネやらをつける気力は最早残らない。(余談だが、労働組合がうるさい年になると私の「赤」アレルギーはさらに倍化することとなる。)もし、ある女の子から「赤い手袋が欲しい」なんて注文が来たなら、私は喜んで、「手袋」だけとは言わず足袋から股引までもセットにして、さらにそのセットを三親等以内の親族一同にまで送りつけたい衝動にかられるくらいなのだ。そうすれば注文の手間だってはぶけるし、経費だって浮かせることができる。(もっともそれはできない。メーカーとの契約の問題もあるが、一番問題なのは税務署から注がれる熱い視線なのだ。)そういえば、12月にもなると世間の商売人どもがこぞって赤い衣裳を着る傾向にあり、さらに私は苛立つことになる。先日は宅配ピッツァを注文したらバイトのあんちゃんの衣裳がまるで私の仕事着とペアルックなのだ。あんなのと同列にされても困るのだが、(職業柄イメージは大事にしないといけない)そのあんちゃんも、しぶしぶそんな衣裳を着て寒い中バイクで北風を突っ切り、30分以内にピッツァが届かなかいと怒った客にとろけるチーズを鼻っ柱に打ちつけられつつも年末の「夢」を手に入れるために頑張っているんだと思うと怒るに怒れなかった。これも資本主義なのだ。 と、それはさておき、そんな風に順番に考えてみると「プレゼント」なんてものに「コンテンツ」としての有用性を求めるのは無謀なのかもしれない。そんなことを考えながら先日機械が「処理不能」と判断した注文リストを眺めて見た。この「機械」の処理できない部分をどうにかしてやるのがマン・パワーというやつなのだ。ただし、こんな時期にまで押し迫ってそんな厄介な注文を出されても、遅配になるか、あるいは丁重な断りの返事を先方にいれることになるか、無視するかのいずれかである。(無視される大半は「彼氏/彼女」が欲しいというモノだが、こういう注文書は、踏んづけて破り捨ててトナカイの飼料に混ぜてしまうことにしている。トナカイの鼻紙に使う手もあるが、ただでさえ赤い鼻がさらに赤くなるのは忍びないので滅多にやらない。) しかし「無視」と「断り」と「遅配」のボーダーは実は結構曖昧だったりもする。それを届けてやるかやらないかを決めるのは最終的には私の気まぐれだったりもするのだ。「自社が入ってる高層ビルが良い加減老朽化してるので改築してほしい」という証券会社役員。「務めてる役所の建物の改修工事予算をふんだくりたい」という公務員。「一生に一度で良いから旅客機を運転してみたい」という複数のアラブ人。「正義の味方になりたい」という白い家に住む中年白人男性。余りの我が侭さに辟易しなくもないのだが、気まぐれにこの辺りを叶えてやることにした。たまには大きな願いも叶えさせてやりたくなるのが人情というものだ。それに大きい方がやりがいがある。幸い、一遍に叶えてやる手段を思いついた。大掛かりな仕事は一遍に片付いたほうが楽だし、成し終えたときの快感が大きい。しかし、これには準備のための時間が相当必要になってくる。配達は半年かそれ以上遅れるけど良いかな? と返事をしようか迷ったが、結局送らないことにした。予期せぬところからやってくるのが贈り物の正しいありかたなのだ。
こうして20世紀最後の仕事は着々と進行していく。全ての「夢」と「欲望」のために。
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