1949/錯覚



 ふと、その大きな環状の建造物を見上げたのは、ただ、今の時間を確認したかったからだった。19時48分。と、その瞬間、48という数字は49に変わった。その大きなディジタル表示の移り変わりが、まるで僕に対して、時間が経過するということについて何かを誇示し、そしてそれを以って何かを諭そうとしているように見えた。勿論、錯覚だ。時間はただ流れているし、時計はただオートマティカルに時間を指し示すし、止まっているように見える観覧車は、一定の速度で、延々と回り続けている。そして僕はその真下で、ぼんやりと、オレンジの灯りと大量のネオンに照らし出された、そのモニュメントを見上げている。19時49分。もう時間を確認する必要はない。けど、一度目に留めたが最後、観覧車は僕を捉えたまま、離そうとはしなかった。ふぅ、と僕はため息をついた。隣を過ぎ去るカップルは、1人でそのモニュメントを見上げため息をつく僕を見て、ただでさえ少ない幸せが逃げていくぞ、とでも言いたげな視線で、通りを急ぎ足で歩いていった。勿論、錯覚だ。と思う。

 さて。と僕は思った。その数字が50になる前に。僕はたった1人でそうすることに多少躊躇しながらも、一歩一歩、確実にそのモニュメントへと近づいていった。そして、頭の中で呟きながら歩く速度を速めていく。50になる前に。早くしないと50になってしまう。そして、僕は観覧車へと飛び乗っていた。目の前に迎えると、確かにその物体が、それなりの速度で動いていることを実感する。係員に急かされ、籠の中に入ると、数字はもう何処にも見えなかった。ためしに、携帯電話を取り出した。遅れ気味の携帯の時計は、19:47と無邪気に時間を指し示していた。なるほど、僕の周囲だけ、時間の経過が遅れているのだ。まぁいいや、と思う。おかげで、50になるまでには、間に合ったのだ。

 観覧車はゆっくりと、だけども相応の速さで、徐々に高度を上げていった。僕は携帯電話の電源を切り、鞄の中にそれを突っ込んだ。じゃらん、と音が鳴った。キーホルダーとぶつかったのかもしれない。ふぅ。またひとつため息をつき、僕は幸せを逃がす。そして、鞄の中には目もくれず、じっと、正面を見つめる。籠が一定の速度で上昇していく。ひとりで乗る観覧車は、片方に傾いているように思える。錯覚かもしれないし、実際、重心が僕の座っている方に傾いているのかもしれない。けどよくよく考えると、以前、この観覧車に2人で乗ったときも、同じように傾いていたような気がしてきた。

 観覧車に乗ると、彼女のことを思い出す。というより、彼女のことを思い出すために観覧車に飛び乗ったのかもしれない。あれほど忘れよう、と頑なに思っていたにも関わらず、だ。

 まぁいいか、と僕はひとりごちた。どうせ乗ったからにはとことん、彼女のことを思い出そう。おそらく、この籠から出ることには数字は、14、とか、15とかその辺りを指し示している。それまでに、ひとつひとつ、彼女のことを思い出してやろう、と思った。そして、案外、このモニュメントを再び離れる頃には、何らかの啓示を得て、何もかもを忘れているかもしれない。たとえ、それが錯覚だとしても。

 彼女は、高い所が好きだった。高いところにいさえすれば、とにかくご機嫌だった。だけど、観覧車は、それとはまた別個な何かとして捉えているようだった。彼女が行く先々に観覧車を見つけて、乗らないということはなかった。彼女の整然とした部屋の中で唯一雑然とした空間、それが観覧車の半券だけが山のようにちりばめられた、3段目のデスクの引き出しだった。

 だけども、特に、この街にあるこの観覧車に関して言えば、彼女は、偏執的に乗ることを好んでいた。それは、彼女にとっては一種の儀式的行為だったのだ。彼女1人でもしょっちゅう乗りに出かけていたし、2人でもしょっちゅう連れて行かれたし、彼女が何となく不機嫌そうにしているとき、さりげなく僕からこの街へと彼女を誘ったこともあった。

 おかげで、僕らは、基本的にはただ、この観覧車に乗るためだけにこの街へとしばしば足を運んだ。幸い、辺りは面白い街だし、海も見えるし、ちょっと歩いて気の利いた店を見つければのんびりと美味しいものも食べられるので、そのこと自体を苦痛に感じることはなかった。けど、この観覧車で一緒に空間を共有していると、ある種の居心地の悪さを感じることがしばしばだった。彼女は観覧車に乗り込むと、まず切り取られた半券をポケットに突っ込み、必ず僕の向かいの席に座り、真っ直ぐ、僕の方を見つめていた。けど、その視線は決して、僕を見つめているのではなかった。僕の先にある、外の光景をじっと、見つめていた。恐らく、それは僕の錯覚ではない。

 視線の先には、彼女の実家があった。決して小さくはないマンションの中の、小さな灯りだ。彼女はただそれを見つめるために、観覧車に乗っていた。僕は、そのことは分かっていたのだけども、黙って、2人で時間と空間を共有するために観覧車に乗っている男と女の片方を演じていた。儀礼的無関心。それが、この観覧車に乗る上での、僕と彼女の間に敷かれた、暗黙のルールだった。

 僕は、彼女がもう実家には戻るつもりがないことを知っている。そこが、彼女にとって、切り離された空間であることを知っている。だけども、そこを完全に遠ざけることもできない、ということも知っている。観覧車の窓とそこから見える小さな窓と、小さな光。この距離が、彼女にとってぎりぎりの距離感だったのだ。それ以上近づけないし、それ以上遠ざけることもできない。

 彼女は、視線を真っ直ぐ僕に――僕の向こうに――向けたまま、時々とりとめのない冗談を言った。ねぇ、ササキくん。なに? と、僕は儀礼的に答えた。この観覧車にはね、ねこが棲んでいるの。へぇ、と僕は儀礼的に答え、儀礼的に相槌をうった。知らなかった。見たことない。私は見たよ、これくらいの大きさでね、不機嫌そうに短く鳴くの。にゃぁ、と僕は猫の鳴きまねをした。そう、そんな感じ、と彼女は微笑みながら、だけど視線は決して僕の向こうから離さず答えた。よく似てる、その拗ねた感じ。そう? と僕は短く答えた。彼女は可笑しそうに笑った。その先にある光を目に留めながら、笑った。この間の金曜ね、1人で観覧車乗ったの。そのときに見つけたのよ。私の足元で、ごそごそごそ、て動いて、何かと思ったら、いたの。寒そうにしてたから、抱き上げたら、やっぱり不機嫌そうに鳴くの。にゃぁ。と僕は短く儀礼的に答えた。彼女はまた笑う。

 それでね、と彼女は言った。乗る度に足元にいるようになったのよ。だから、この間、名前をつけたの。どんな?と僕は聞いてみる。教えない。彼女は短く笑いながら答えた。観覧車ががたん、と揺れた。どうやら頂上に着いたみたいだ。それを境に、彼女の口数は、徐々に少なくなった。ただ無言で、僕の方を見つめていた。決して目を離さず。ぽつり、ぽつりと、空想の猫の話をしながら、観覧車が下っているのを肌で感じていた。この間、その猫が寒さの余り、膝の上に自分から乗っかってきてくれたこと。撫でたらやっぱり拗ねたように鳴いたこと。本当に拗ねて、一度も口を聞いてくれなかったこと。日に日に、観覧車で彼女が猫について語る回数は増えていった。

 そして、あの日、それは、ぷっつりと途切れたのだ。彼女の、大粒の涙と共に。

 観覧車ががたん、と揺れた。どうやら頂上に着いたみたいだ。ふと思い立って、僕は何時も座っていた方とは逆の椅子に座ってみた。ほんの少し揺れた。なるほど、バランスが悪かったのは、やはり錯覚ではなかったらしい。そこには、彼女が僕を介して観ていた景色があった。その数多くの光の中から、僕が彼女の観ていた光を特定するのは不可能だったけど、光の群れをじっと眺めながら、それを探した。ひとつひとつの窓が映し出す、ひとつひとつの光。

 そうだ、と思った。文章を書こう、と僕はそのとき思ったのだ。何故かは分からないけど、そう思った。或いは、何らかの啓示を、僕は何かから受けたのかもしれない。そう、観覧車と、それに乗る1人の女性と、そこに棲むねこの話だ。彼女は、そこで、幸せそうに、本当に幸せそうに猫を抱き寄せ、冷たい頬を寄せ、拗ねた声で鳴くその小さな塊にとびきり幸福な名前をつけるのだ。そして寒いその空間を暖めるような会話を、その猫と繰返すのだ。儀礼も演技もない、視線も意識しない、あらゆるものが解き放たれた空間を描きたい。そう思った。それが結局は、何も出来なかった僕が彼女にできる、せめてもの償いだと思った。そう、僕は知っていたんだ。僕と君が観覧車に乗る度に、僕は君を傷つけていた、ということ。僕と君が全くの他人だ、ということを、強く意識させ、涙させてた、ということを。

 ふと、足元で何かが動いた気がした。何かの気配がする。にゃぁ、と僕は試しに短く拗ねた声で鳴いてみた。何かが聞こえたような気がしたよ。そう言ったら、君はあの頃みたいに笑ってくれるだろうか? 僕は1人で、そっと笑う。そう、もう一度君に笑って欲しい。例えそれが、互いの演技の作り出した、ささやかな僕の錯覚なんだとしても。











ask/2005










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