東京


 東京の真ん中で、僕は彼女に出逢った。

 やがて僕らは、広い交差点に辿りつく。横断歩道の手前、目の前を走りすぎる車たちの前で、僕はケイタイを手にとる。1回、2回、3回、呼び出し音は、鳴り響く。



 もしもし、と彼女は言った。もう何年前かは思い出せない、だけどもそこまで昔ではない、それくらい過去の話。小さな街の、車の通らない交差点。もしもし、僕は横断歩道を挟んでケイタイを持つ彼女を遠いとも近いともつかない距離感で見つめながら答えた。微かな沈黙が鼓膜を擽った。彼女のことばを僕はただ待っていた。彼女が口を開いたのは、信号が青に変わる、その直前だった。



 青信号が点滅する早稲田通りの交差点の歩道で僕は彼女を見つけた。彼女は気付けば僕の正面の視界に飛び込み、ほんの20cm隣を、やわらかく通りすぎた。彼女はスーツに身を包み、めがねをかけ、髪を短く切った僕に、間違いなく全く気付いていなかったし、僕も危うく彼女を見落とすところだった。声をかけようと振り返ったときには、彼女は視界の端へと消えかかっていた。まるで何かから逃げるみたいに、彼女は早足で、交差点から遠ざかっていった。



 あの頃彼女は、とてもゆっくり歩いてて、普段は早足な僕は何度も隣に歩こうとする彼女を後ろに無意識に置き去りにしていた。ごめん、その度に僕は謝り、それから暫くは慎重にゆっくり歩くように心がけた。合わない歩調。彼女はスーツに身を包み、普段かけているめがねを外し、長く伸びた髪を後ろに束ねていた。ほんの少し昔の、だけど最近でもない、そんな時期。

 青信号が点滅する小さな交差点の歩道、渡ろう、とひとこと言って僕は車の通らない道を早足で渡った。だけど、僕を追う彼女の靴音はやがて止まり、信号は赤に変わった。彼女は横断歩道を挟んで向かいに、静かに立ち竦み、それから片手にケイタイを取り出した。 もしもし、彼女は青信号が変わる直前に口を開いた。もしもし、と僕は答える。彼女は僕の答えを待たずにひとこと、「ねぇ」と呟いた。



……あなたは、何から逃げようとしているんだろう?




 青信号が点滅する大きな交差点の歩道、彼女は黙々と歩速を上げて、数台の右折車両が待機する道を早足で渡る。だけど、僕が渡ろうとする前に信号は赤に変わり、車が足早に動き出した。車の隙間から、彼女の姿が見える。彼女は、僕に背中を向けたまま、じっと立ち竦んでいる。僕は黙って、ケイタイを手にとった。彼女の背中が僕にこう確信させた。彼女は、僕がここにいることに、気付いている。

 4回、5回、6回、広い交差点、横断歩道の手前、目の前を走りすぎる車たちの前で、僕はケイタイを手にとって、音をただ聞いている。7回、8回、9回。呼び出し音は、微かに鼓膜を擽り続ける。僕はここにいるし、彼女は背中を向けて、じっと何かを待つように、振り返ることなく前を見つめている。10回、11回、12回……車は僕と彼女の間を何台も何台も通り過ぎる。呼び出し音が途切れるように、祈りながら僕は、信号の色が変わるのを、じっと、ただじっと、待っている。



 やがて僕らは、と僕は思う。僕らはまた、小さな街の、車の通らない交差点に、辿りつけるだろうか?呼び出し音は、信号の色が変わっても、未だ鳴り続けている。もしもし、と横断歩道を挟んで声が聞こえたら、僕はこう呟くだろう。ねぇ、君は……  





ask/2004