life


 彼がこの家にやってきたのはほんの1ヶ月前のことだった。最初は慣れなかったが、ササキさんは笑顔で彼を迎えたし、その笑顔を邪魔するわけにもいかなかったので、わたしは彼を歓迎することにした。もっとも彼がやって来てから3日ばかし、ほんの少し胸の中がもやもやして、ほんのちょっと食欲を落としたけれど――振り返ってみれば、このときわたしははじめて「嫉妬」という言葉の意味を知ったんだと思う。まぁよくよく考えてみれば、彼がやって来たところで、ササキさんとわたしの積み重ねた時間がたち消えるわけでもないのだ。そんなわけで、4日目にはササキさんに心配をかけまいと無理矢理胃に積め込んでいた食事も、すんなり収まるようになった。要するに、わたしは気分屋なのだ。

 彼と最初に話をしたのは3日目の朝だった。わたしはただでさえ他人に気楽に打ち解けられるタイプではなかったし、彼は聞きなれない言葉を喋ったので、なかなか会話というものが成り立たなかった。それでも彼は、こちらの胃の痛みが恥ずかしくなるくらいに素敵な笑顔で、わたしに会釈をしてきた。わたしは彼にぎこちなく笑顔を返した、最初はそんなだった。それでも、すれ違いが何度か続くうちに、ようやく彼の言わんとしていることが把握できるようになった。わたしもなれるにつれて、どういう言葉を発せば彼にその意味が伝わるかがなんとなく掴めるようになった。そうして話が通じるようになったのが3日目だったというわけだ。そしてそれからはすんなりと事が運び、4日目の朝にはわたしたちはすっかり打ち解けていた。元々彼のコミュニケーション能力は素晴らしかったし、それにつられてわたしの笑顔も段々素直になっていった。心がけ次第で、コミュニケーションてのはどうにでも変わっていくものだとつくづく思う。不思議なものだ。

 わたしたちはササキさんがいる前は勿論、ササキさんがいない間も仲良く時間を共有した。彼の価値観は恐ろしくわたしとは違うものだったけど、同時にスジの通ったものだった。わたしはそういう価値観に触れたことがなかったので、より深く彼に対し興味を抱いた。彼もまたわたしのいい加減さに興味を持ったし、それで人生なんとかなってるてのを不思議に思ってるようだった。まぁけど価値観の違いはあっても、わたしたちの相性の良さというのはそれに余りあるものだった。わたしには彼の人生は送れないだろうし、彼もまたわたしの人生は送れない。だけどわたしたちは何故だか相手の価値観に対して親近感や敬意のようなものを抱かずにはいられなかった。恐らく、自分と正反対の面を持っているからこそ、相手に親近感を抱いたんだと思う。よく似ているひとほど反発し合うものなんだよ、世の中て。ササキさんがそう言ってるのをわたしは聞いたことがある。つまりはそういうことなんだと思う。たぶん。

 彼が口をそっと開いたとき、わたしは炬燵で丸くなっていた。彼はそんなわたしにぴったりと身体を寄せていた。彼に身を寄せているとわたしは何故だかとても安心することができた。たぶん、彼もそうだったのかもしれない。彼が身を寄せてくるときは、何かしらの不安定さを彼から感じることがあった。だけど、身を寄せて、じっとしているとその不安定さは徐々に打ち解けていった。浅い眠りの彼方から、彼の深呼吸の音が聞こえる。わたしは何も言わず、何時ものように、彼の息の音を聞いた。

 お別れを言わなくちゃいけない、と彼は言った。最初は夢の中で誰かが唱えた呪文のように聞えたけど、もう1度声が聞こえたときには、それが彼の言った言葉だとはっきり理解した。わたしは目を開けて、彼に背中をくっつけたまま聞いた。何て言ったの? お別れしなくちゃいけないんだ。と彼はもう1度、はっきりと言った。お別れ? とわたしはねぼけた声で聞いた。そう。彼は身動きひとつせずにそう答えた。なんで? と私は黙っている彼に聞いた。だって、あなたササキさんとうまくやってるよ。ササキさんあなたが来てとても喜んでる。勿論わたしも、とは気恥ずかしくて言えなかった。彼は、うん、と答える代わりに、ほんの少し身体を揺らす。

 だけどね、それは避けられないんだよ、と彼は言った。僕はね、盲導犬なんだ。盲導犬? と私は呟いた。別に、ササキさん目なんか悪くないよ。ササキさんは純粋にいぬを飼いたいとずっと思ってて、あなたを連れて来たんだ。うん、とうなずいてから彼は言った。そう、ササキさんは目は悪くない。健康そのものだ。だけどね、僕が言ってるのは、別に職業的なことではないんだ。職業的? とわたしは聞いた。ねこには職業なんてものがないから、そういうことはわたしにはよく分からないのだ。つまりね、と彼は言った。気質の問題なんだ。気質? 

 そう、僕は盲導犬という仕事をもって生まれたわけじゃない。盲導犬を職業にするための訓練も受けていない。誰も僕のことを盲導犬だとは思わない。だけど、僕は生まれつき盲導犬的な気質というものを抱えているんだ。つまり、僕は主人を導くし、主人は知らず知らずに僕に導かれる。例えば、午後に大雨が降ると気がついたときには、僕は主人を傘の元へと導く、主人は僕に導かれたとも知らず傘を手に持つ、些細な例を挙げるとそういうことだね。そういう何処か運命的な匂いみたいなものを僕は見付けることができるし、そういう運命的なものから主人が逃れられるようにそっと誘導していくことが僕の使命なんだ。つまり、主人の目には見えない障害物を、僕は予め予感して取り除いていく、てことかな。僕の言ってること理解る? なんとなく理解る気がする。とわたしは答えた。だいろっかん、てやつだろ? そう、そういうようなものだね。と彼は微笑みながら答えた。君は頭が良い。あなたほどじゃないよ、とわたしは謙遜して言った。ねこだって謙遜くらいする。

 それで、とわたしは聞いた。ああ、そうだね、本題に入ろうか。と彼は言った。明日、主人は僕を連れて散歩にでかける。何時もの時間だ。暗くなる手前だね。16時半に家を出る。だけど主人は何箇所か大事な用事を済ませなくてはいけない。それで帰り道につく時間は何時もより遅くなる。道路の交通量も普段より多い。明日は週末だからね。そんなとき、主人は1台の車に出会うことになる。18時40分頃。出会う? とわたしは聞いた。つまりね……と、彼は恐ろしいことをさらりと言ってのけた。わたしは彼の顔を見ようと身体を曲げる。けど彼の顔は見えない。沈黙。それは避けるようにはできないの? とわたしはやっとの思いで聞いた。彼は黙っている。本当に、大事な用事なんだよ。と彼は呟いた。僕に止めることなんてできやしない。その瞬間、わたしは彼の言うお別れの意味をようやく理解した――理解してしまった。一瞬目の前が真っ暗になるような気がした。長い沈黙の後、だいじょうぶ? と彼は聞いた。わたしはそのときようやく自分の身体が震えていることに気がついた。

 理解らないよ、とわたしは言った。わからない。そこまで理解ってるならどうにかならないの?色々見てみたけどね、と彼は呟いた、他の方法はないんだ。それから彼は優しい声で言った。ねぇ、盲導犬ていうのはね、主人の目になるために自分を犠牲にするんだ。そうして得られる主人との信頼関係こそが、盲導犬にとって全てなんだよ。主人がいなくなることは、自分の全てがなくなるのと同じなんだ。だからね、僕は当たり前のことをしようとしている。そうしないと、結局何も残らない。残るのは後悔だけだと思うんだ。そんな人生生きながら死んでるようなものだよ。そんなの理解らないよ。とわたしは言った。彼はそっと肯いた。それから、わたしをなだめるように、優しくこう言った。それにね、きみのためにも、そうすべきなんだよ、僕は。と彼は言った。だってきみはひとりじゃ生きていけないから。そうだろう?

 わたしは、そっと呟いた。どうしてそんなこと平然と言えるの? どんなにみんなが哀しむと思ってるの? たったひとりでそんなこと抱え込むなんて、おかしいよ。自分を犠牲にしたら全て上手くいくと思ってるの? たったひとりで全部背負うだなんて、そんなのってないよ。なんのためにこの1ヶ月……言いかけて、わたしは声を詰まらせた。ごめんね、と彼は呟いた。ごめん。君には理解できないかもしれない。けど、僕は自分の人生観をまっとうしなくてはいけない。こうするより他に僕の生きる意味はないんだよ。わたしはまだ震えていた。なんでわたし震えているんだろう? 本当に震えたいのは、彼のはずなのに。そんなことを思いながら、ずるいよ、とわたしは言った。ひとりで勝手にさよなら決めるなんてずるいよ。彼はそんなわたしをそっと舐め、それからそっと、こう言った。きみにあえてよかった。彼はわたしの震えが止まるまでずっとわたしの頬を舐め続けた。震えが止まったときには、わたしは浅い眠りについていた。夢の中で彼の声をまた聞いた気がした。ありがとう、と言う声。


 ササキさんに引かれて家を出る前に、彼がそっとわたしに耳打ちした言葉を、わたしは今でもよく覚えている。ねぇ、僕は1回、きみみたいに生きてみたかったな。わたしは答えた。できっこないよ。そんなこと、あなたにはできっこないよ。彼は黙って首を縦に振ってから、満面の笑みを浮かべて言った。じゃぁね。バイバイ。そしてドアが閉まる音がした。時計は丁度16時半を指していた。



as-K/2003