|
クイ 白衣の老人は僕をちらりと見てから、座って、と小さな声で言った。僕が椅子に座るのを確認すると、彼は灰皿に置いてあった煙草の火をもみ消した。それから灰皿の隣に置いてあった眼鏡を手にとり、ゆっくりとかける。動作の何もかもがゆっくりしていた。或いは、僕のようにここに来るひとの気を落ち付かせるためにそうしているのかもしれない。けど、彼の仕草は余りに自然で、気負った雰囲気は何処にもない。元来彼は、そのようにゆったりと動くのだろう。 「さて」と彼は思い出したように口を開いた。「どんな状況?」僕は暫く考えた後で、理解らない、とひとこと答える。まぁね、と彼は静かに言った。「何が起きてるかは理解ってるんだけどね。つまり、あなたがここにいるてことは、かなり状況は悪い、或いは状況が悪いことに気付かない位に何もかもが混乱してる。」僕は黙って、首を縦に振った。たぶん、老人の言う通りなんだろう。少なくとも、状況が最善ではないことは容易に把握していたし、僕は確かに混乱していた。 ほんの少しで良い、と彼は言った。「息を止めて、目を閉じて。」ゆっくりとした声に合わせて、僕は息を止める。瞼を閉じる。老人は僕が実際そうしていることを確認した後で、そっと僕の服の隙間に手を入れ、胸に触れた。何十秒という時間が流れる。不思議と息苦しくはなかった。胸に触れる手は熱くなり、やがて段々冷たくなり、それからまた熱くなった。そして用心深く手を、ほんの数センチずつずらしていく。熱くなり、冷たくなる。やがて手が止まる。どうやらポイントを探り当てたようだ。熱くなり、冷たくなる。彼はそのようにして、何かを見ようとしている。僕は見られている。そんな実感が身体中を駆け巡る。 もう良いよ。彼の言葉を聴いて、僕は目を開け、用心深く呼吸を再開した。手は何時の間にペンを握っていて、カードにすらすらと何かを書いているところだった。時々何かを考えるように筆を止め、暫く天井を見つめた後、再びペンを動かす。波の音が聞こえる。波?と僕は思う。何処に海があるのだろう?少なくとも僕は、海へ行くつもりじゃなかった。 ペンを止め、椅子を回転させ、僕の方を老人は向いた。「あなたね」ペンで頭を掻き、静かに言う。「こいつは想像以上に、ひどいよ。あなたの中に、しっかりとクイが刺さってる。しかもとびきり深くて鋭いやつだ。」言われてみるとそんな気もする、と僕は言う。老人はやれやれと首を振る。「もっと早く抜いてれば、少なくともここまでひどくはならなかったんだけどね。」と彼は言った。「まぁ、ここまでひどい人間でないと、僕のとこには来ない。」 それで、抜くんですか?と僕は訊いた。彼は緩やかに首を振る。「まぁね、もっと若い連中は抜きたがるだろう。けど、僕くらいの年齢になると理解るんだけど、つまり、クイを抜くてのは単純なことじゃない。小さいクイなら良いけど、これぐらいとびきりのやつはそうはいかない。下手に抜くと、ただ巨大な穴が残る。あなたの中は空っぽになって、何もかも残らなくなる。基本的にクイてのはね、そうならないためにあるんだ。」何となく理解る気がします、と僕は答えた。まぁね、彼はそっと言う。あなたの若さで本来、そういうことは理解っちゃいけないんだけどな、本当は。僕は曖昧に笑った。そうですね。そうなんでしょうね。 改めてクイの存在を知らされると、ふと身体の奥の痛みが増しているような気がした。痛む?と彼は聞く。少し、と僕は答える。それくらいの気持があれば、治療もやりやすい。と彼は言う。治療?と僕は訊く。だって、抜かないんでしょう?どうするんですか?老人はそっと微笑った。「簡単なことだよ」彼は火のついてない煙草に向かって言う。クイと共に生きてもらうんだよ。 クイはただそこにある、と彼は言った。クイはただそこにある。そのことを受け入れてもらう。僕は穴をふさぎ、クイを固定し、あなたを外に放り出す。クイは時に疼き、痛み、苦しめるだろう。思い通りには決してならないし、ますますあなたは混乱することだろう。けどあなたはそれを抜き取ることはできない。あなたはクイと共に生きる。それと巧くやっていく術を覚えるんだ。僕は黙って、老人の見つめている煙草を見る。ねぇ、それはあなたが選んだことなんだよ、と彼は言った。「そうするより他無いんだ。あなたはクイを抜かないことを選んだ。だからここへ来た。何もかもが手遅れだ。だったら今受け入れるしかない。そうだろう?」そうかもしれない、と僕は答える。しかし頭の中は相変わらず混乱している。クイと共に生きる? 僕の混乱を見透かしたように、彼は言う。ひとびとはクイがあるから穴が空く、クイが穴を造ると思っている。そうですね、と僕は同意する。けど実際はそうじゃないんだ。と彼は言う。実際は逆だ。穴があるから、クイは生まれるんだ。穴がクイを造るんだ。そうじゃないか?僕はほんの少し前のことを思い出す。確かにそうかもしれない。気がつけば、クイはそこに佇んでいたのだ。受け入れられるかな?と彼は聞く。僕は答える。努力します。巧くやってく自信はないけど、どうにかしたいと思う。オーケー、と老人は言った。何とかなるさ、あなたが造り上げたものだ、あなたが認めてやれなくて、誰が認めてくれる?彼はそう言いながら、窓の方へと歩き、引きだしを開ける。そして1本のナイフを取り出した。痛みはないよ、と彼は言った。「こんなもの、クイの刺さる痛みに比べたら微々たるものだ。」 治療を終え、建物を出ると、何処かで見覚えのある道がそこにあった。後ろでは波の音が聞こえる。だけど僕はそこには辿り付けないことを知っている。後ろ向きに歩いていく訳にはいかないのだ。クイは確かに僕の中にあった。それは以前よりも緊密に僕と結び付いていた。僕は老人の言葉を思い出す。「また穴が開きかけたら」彼はナイフを研ぎながら言った。「自分が何かを失ったと思わないようにすることだ。」クイがそっと痛み始める。けど、その痛みが以前に比べて、親密なものになっていることに僕は気付いている。それから、僕は一歩一歩、前に進んで行く。道は暗く、狭い。けど前方を見れば、遠くに光が差しこんでいるのが見える。波の音が遠ざかる。振り向かず、僕は前へ前へ、歩き続ける。
こうして僕は、20年間、クイと共に、生きつづけている。
|