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霧雨 時計は8時を回っていた。僕は黙って珈琲を飲み、Rは黙って窓の外を眺めていた。雨降ってる? と僕が聞いたが、Rは全く僕の質問に興味を示さず、おざなりに首を傾けた。僕らはただ黙って、Rの注文が来るのを待っている。沈黙の隙間に微かに鼓膜をくすぐる音が聞こえる。フロアの隅に置いてある冷蔵庫の音かもしれない、と僕は思う。カチン、と音がしてその音はかき消された。Rが眼鏡をケースにしまった音だ。もう1度冷蔵庫の音を拾おうと努力してみたが、再び鼓膜がその微かな振動を捉えることはできなかった。そして完璧な沈黙が訪れた。"予感"がする。必ず沈黙が先ず訪れる。それもただの重い沈黙ではなく、かと言ってふとした拍子に現れる偶然の沈黙でもない。意味のある、計算された沈黙だ。 そろそろ来るタイミングだ、と思った瞬間に、失礼します、と二十歳くらいの女の子がRの分の注文を持ってきた。Rは夜に珈琲を飲まない。何時も注文は温かいミルクティだ。ふと、店員の胸についた名札が目に入った。Rも気付いたようだ。このテーブルには今、3人のササキがいることになる。よくあることではあるのだけど、どうしてか何時も僕は自分以外のササキを見ると妙な気分になる。僕にとってササキは僕以外の何者でもないのだ。だから僕は今目の前にいるこの相手をRと呼ぶ。目の前の相手は、僕にとってR以外の何者でもない。 Rは僕に向って悪戯ぽく微笑みかける。Rは今カップを丁寧に持ち上げて、テーブルの上に置いている彼女に対して、僕がそのような違和感を感じているのを知っている。そう言えば、Rは僕のことを何時も、ササキさんと呼んだ。Rが僕をそう呼ぶ度、不思議に思う。Rにとってのササキが僕だとしたら、R自身は自分を何者だと思っているのだろう? そんなことを考えている間に、Rは口を開いた。何時の間に店員はテーブルの周囲からいなくなっていた。Rの口が動いた瞬間、しまった、と思った。僕は空いたトレイを持って階段を降って行く彼女にすっかり気をとられていたのだ。視線の脇に彼女を捉え、心の中で舌を打ちながら、なに? と僕は平静を装いつつ応える。ねぇ、あなたにとって文章て何? とRは言った。 Rは僕に対してこれまでに322の質問を投げかけていた。僕はその質問と、僕の解答の全てを日記に書き残していたから、数え間違いが無ければ、恐らくこの数は正確である。最初は些細な質問だった。ほんの僅かの沈黙の後に、Rは口を開き、僕に聞く。犬と猫のどちらが好き? 一番最近に買ったCDは何? 等々。僕はその唐突な質問に驚き、なんでそんなこと聞くの、と苦笑いしながら、少し間をおいて考えて、丁寧に答えた。しかし、Rは僕に会う度に必ず質問をし、回数が重なる毎に、その質問はより突拍子の無いものになっていった。その上、Rはその質問に対する突拍子の無い解答を許さなかった。解答はより具体的で、経験的で、実感的でなければならなかった。更には無解答も許されなかった。何らかの理由で答えづらい質問だった場合には、気の利いたジョークで返すことをRは要求した。こうして、僕の日記は幾つかの奇妙な質問に対する奇妙な解答や、切り返すのに失敗した見返すのも恥ずかしくなるようなジョークに満たされることとなったのだ。 しかし、今日の質問はそれにもまして突拍子の無いものだ。ただでさえ混乱した頭で僕はその質問を繰り返す。文章て何? 僕はその質問の意味を量りかねていた。Rは表情こそ笑顔だったが、その目は何時にも増して真剣なものだった。答えは全くと言って良いほど浮かんでこなかった。だが僕はこの質問に答えない訳にはいかない。まがりなりにも僕は文章を生業にしている。それゆえに、その質問は唐突ではあるが、確かに僕にとって本質的なものでもあるのだ。恐らく、Rの狙いもそこにあった。回避できない質問。ここで質問をはぐらかすようなことを言えば、Rは心の底から僕を嘲るだろう。ねぇ、あなたの書いていることなんて、所詮紙の上だけの希薄なイメージに過ぎないんだよ、とRの目は語るだろう。そうじゃない、と僕は口には出さず一人ごちた。もっと具体的で、経験的で実感的なものなんだ。けど今、僕はそれを説明する術を見失っている。何かを口に出した瞬間、すべて嘘になりそうな気がした。 僕はRの右上に視線を移す。僕が考え事をするときの癖だ。しかし、何も浮かんでこなかった。電燈のおぼろげな光が目に入り、僕は軽く目を閉じる。やれやれ、と僕は心の中で溜め息を吐く。思考を追いかければ追いかけるほど答えは逃げていく。混乱しているんだ、と僕は心の中で呟く。Rはそんな僕の混乱を悪戯ぽい微笑で見守っていた。僕は珈琲を口に流し込む。こんなに苦かったけ? と僕は思う。カップを皿に置く。カチン、と音がする。Rは黙って僕の顔を覗き込む。その表情の裏にあるのが、純粋な好奇心なのか、巧みな計算なのか、僕は量りかねていた。 ササキさん、とRは言った。僕は驚いてRに視線を戻す。しかしRが呼んでいるのは僕ではなくて、斜め向いのテーブルで食器を片付けている、トレイを持った店員だった。はい? と彼女はRに答える。彼女は困惑した表情を浮かべていた。ササキさん、という名で呼ばれた彼女は、とても居心地が悪そうに僕等のテーブルに近づいた。この場所において、本来彼女は固有名詞を持たない1店員に過ぎないのだ。お砂糖をもう1つ下さい、とRは言った。かしこまりました、と彼女は―ササキさんは―答え、エプロンのポケットから砂糖を取り出しRに手渡した。ありがとう、とRは言う。彼女はやはり居心地が悪そうに微笑み、用心深くトレイを持ちなおし、階段の下へと消えていった。けど間違い無く、彼女よりも僕の方が居心地の悪さを感じていた。彼女は固有名詞を与えられたが、僕は逆にそれを剥奪されたのだ。 Rは視線を外したままの僕を余所に、紙の包装を破き、角砂糖をとり出し、僕の珈琲の中に放った。砂糖、2つだったよね、とRは言った。ああ、そうだ、だからあんなに珈琲が苦かったんだ。僕は黙って頷いて、珈琲をかき混ぜる。角砂糖は徐々に形を崩し、小さくなっていく。ふと、何かが視界を霞めた。僕は珈琲をかき混ぜる手を止める。Rがほんの少し首を傾けた。Rの髪がふわりと揺れるその隙間。僕は反射的に呟いていた。雨。え? とRが聞き返す。僕は答える。霧雨。Rは窓を見る。何時の間に水滴が透明な硝子の面を覆っていた。Rはミルクティに口をつける。きりさめ? とRは僕に聞く。そう、霧雨。と僕は答える。或いは、僕にとって、文章は霧雨みたいなものなのかもしれない。 目の前にイメージがよぎった。夢と言うには余りにリアルな、現実と呼ぶには余りに希薄な、微かな記憶だ。六車線の大通り。車一台、人一人通らない車道の真ん中を僕は歩いている。高く上った、雲の向こうの半月のおぼろげな光が僕に時間を告げる。空を見上げてから僕は目を軽く閉じる。霧雨が降っていて、僕は傘を差していない。鞄に折りたたみの傘があることを僕は知っている。雨音は微かに鼓膜をくすぐり、肌を細かい雨粒がくすぐる。僕は頬に手を当て、それから顔を細かな水滴で洗う。冷たい、と僕は呟いた。自分の声なのに、海の向こうの誰かからの言葉のように思えた。何かを確かめるようにもう一度雨水で顔を洗い、それから呟く。 冷たい。と僕はトイレの鏡の前で呟いていた。紙タオルを勢いよく三枚とり、顔全体に押しつけた。扉を開けると階段の手前でRが待っていた。Rは不可解さと寂しさが同居したような表情をしていた。ごめん、とRは言う。謝ることなんてない、と僕は言う。これは僕の問題で君が後ろめたさを感じる必要はない。Rは僕の言葉を聞いて今にも泣き出しそうな顔をする。これじゃあべこべだ、と心の中で僕は苦笑った。まったく人の感情なんて不可解なものだ。 店を先に出たのは僕だった。空は厚い雲に覆われていた。霧雨は未だ降っていたが、僕は傘を差さなかった。今朝出かけるときに鞄に折りたたみの傘を入れた記憶があったが、鞄を開けるつもりにはなれなかった。車のクラクションが鼓膜を激しく揺さぶり、細かな雨粒が肌を叩き付ける。 ふと、頬を指が触れた。Rは僕の頬を三本の指でなぞると、冷たい、と言った。何かを確かめるように、僕も呟いた。うん、冷たい。Rは指を頬から離すと、鞄から小さな折り畳み傘を取り出した。風邪ひくよササキさん、とRは言った。僕の左肩とRの右肩が霧雨に濡れ、右肩はRの左肩に触れた。或いは、と僕は思う。僕が霧雨を受けながら求めていたのはこの瞬間だったのかもしれない。今何考えてるの? とRが聞いた。僕の数え間違いがなければ、それがRからの324個目の質問だった。 as-K/2002 |