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影 何時もの帰り道で僕は影に出会った。 「やあ。」 と挨拶する彼に、僕が訝しげな表情で通りすぎようとすると、 彼は僕の腕を掴み、 「そう邪険にしないでくれよ。僕は君の影なんだから。」 深夜11時53分の小地方都市の暗い駅前で彼は言ったのだった。 僕は微笑った、 「おいおい、どうして僕の影が深夜の駅前で僕を待ち伏せしているんだ。」 「君を見失ってしまったからさ。君は何時も思いつきの行動しかしないだろう? 影はついていくのも大変なんだ。なんせ君は地上を歩けるけど、 僕らは地べたを這いずり回らないとならないんだぜ。 むりやり縫い付けても、はがれてしまうってものさ。」 「なるほど、僕はもっと影をいたわるべきだったね。」 そう言って旋回しようとすると、また彼は僕の腕を掴んだ。 先刻よりも力強かった。 「いや、君は気付いていない。影という労働の過酷さに。 所詮君の僕らに対する今の労わりの気持は、冬の刹那の南風さ。 次の瞬間、北風がまたやってくる。僕らは吹き飛ばされるんだ。 君はもっと僕らのことを知るべきなんだ。」 溜め息を軽くついて、僕は小さく首を振った。 「君にだって僕のことについて知る義務がある。悪いけど、 今僕はバイトの帰りで疲れているんだ。 とっとと冷えた飯を温めて胃に流し込んで、温い風呂を暖めなおしたいんだ。 後にしてくれないかな。」 「悪いけどそうはいかない。」 彼の確信に満ちた言葉は僕の醒めた熱意をさえぎった。 「あと数時間もすれば僕らはまた地面の中に戻って行かなければならない。 僕らが君の前でこうして話ができるのは、光の無い夜の冷えた駅前だけなんだ。」 はぁ、僕はわざと聞こえるように大きな溜め息をついた。 「影に何の話ができるというんだい?」 「冬の夜長は影の王国さ。王国には伝説がいくらでもある。」 「影の国家。面白いことを言うね。」 僕の嘲笑を彼はさりげに受け流し、 「だが、王国には伝説と同じ数だけの現実があるんだ。それが国家であるならね。 そうだろう?」 「悪いが僕にだって現実はある。ここは余りに寒すぎるし暗すぎる。 僕は影の国家にとどまっている訳にはいかないんだ。」 白い溜め息をつくと、(冬は溜め息の季節だ)僕は足早に歩き出した。しかし、また彼は僕の腕を掴んだ。 切りが無い。僕はあきらめて彼の話を聞くことにした。 「つまり」 彼は得意気に話を始めた。 「この場合の現実とは、僕らの影という労働に対する対価の問題だ。 君は1時間働いて800円貰う。それがシステムだからね。しかし、 僕らのシステムはそれよりも遥かに非合理だ。そうだろう?」 どうやら「そうだろう」というのが影のクチグセらしかった。 「僕らは太陽の昇る間、ずっと君にへばりつき、地べたの中をひきづられている。 ただそれだけだ。君がそこにいて、お天道様が向こうにいる、ただそれだけの理由で。 日中働き、休めるのはこの寒い息も凍る夜の街、それだけさ。その時間だけ僕らは 形を持つことができる。しかし何ができるというんだ?」 「夜の街で遊べば良いじゃないか。」 僕の冗句を彼は無視した。 「僕らは癒しが欲しいんじゃない。つまり、柱だ。生きていくための、 影が影として生きていけるくらいの十分な対価が欲しいんだ。 それが君と影との対等な関係というものじゃあないのか。」 「それは影の王様に聞いてくれ。」 「影の王は君自身だ。君はその自覚に欠けているらしいけど、 君にはもっと公平な、君と影との関係を築く義務があるんだ。そうだろう? 何より君は影を必要としているはずだ。必要ならそれなりの誠意を もってこたえるのがシステムというものだろう?」 彼の表情はいよいよ険しさを増していった。 徐々にではあるが、僕は影のことが気の毒になってきた。 確かに僕は余りに自分の影について考えてみたことがなかったかもしれない。 影の反乱。という単語をふと頭に思い描いた。 想像はできないが、奇妙な膨らみを持った恐ろしい単語である気がした。 僕はその奇妙な言葉にささやかな恐怖を感じた。そして1つ考える度に その恐怖は徐々に膨らみ、僕の猜疑心を駆逐していった。 北風がまた1つ。影が震えた。白い息。確かに過酷な労働を労わるには 影のおかれた環境はあまりに惨めだった。 「それで」 僕はついに切り出してしまった。 「君はどんな対価を望んでいるんだい?」 彼の表情が弱冠和らいだ。 「そう、先ずは夜の時間を計る君の右腕の時計が欲しい。 僕らは何時日が昇ってまた地面に帰っていく羽目になるのか何時も 怯えながら自由を過ごしているんだ。」 僕は肯き、右手の時計を外した。彼は、その時計を掴むと、 コートの右のポケットにそれをしまった。 「それから?」 「それから、夜の冷たいアスファルトから足を守る靴が欲しい。」 「靴はいているじゃないか。」 見ると、彼は時計はしていなかったが、真っ黒な革靴を履いていた。 「底がぬけているんだ。その点君のバスケットシューズは良い。 何せ丈夫そうだからね。」 肯くと、僕はバスケットシューズを脱いで、彼に渡した。 彼は革靴を脱ぎ、はきかえると、僕に脱いだ革靴を渡した。 僕はだまってそれを履いた。確かに底が薄くて、冷たい。 「それから…。」 「まだあるのかい?」 少々疲れた僕に、彼は遠慮無く彼の言い分をまくしたてた。 「君のそのバイクの鍵だ。何せ、僕らは昼間は地べたに歩くことしかできないんだ。 せめて夜くらい、自由に動き回りたいものだ。そうだろう?」 「ローンが終わってないんだ。」 「大丈夫。必要なのは夜だけなんだから。朝昼は君が使えば良いさ。」 なるほど。肯いて僕は彼に鍵を渡した。どうせ家にスペアはあるのだ。 「それから。」 彼はさらに続けようとした。 「ちょっと待ってくれよ。未だ何か足りないのかい? いいかい、分かっていると思うけど、その時計だって靴だって 安いものじゃない。バイクだって先先月買ったばかりで ローンもあと1年近く残っているんだ。それを」 僕の言葉を彼は低い声でさえぎった。 「駄目、駄目ですよ、影の王様。王様というのは常に自身が支配している側のことを 考えなければならないんです。自分自身のことは考えてはならない。 王様の欲望は、王様自身ではなく、王様が労わった民衆が叶えてくれるのです。 あなたは僕らに十分な対価を払い、僕らは日中あなたに奉仕する。 その循環によって、あなたの欲望は充足されるのです。影の幸福は、 あなたの幸福なのです。」 「僕の不幸は君の不幸じゃないのか?」 「それは然りです。しかしあなたは不幸ではありません。」 段々彼の態度が横柄になってきた気がした。普段の権力関係は 日中とは逆転したのかもしれない。底の厚い靴で、彼は僕を踏みにじろうとしていた。 「さて、これで最後です。それはあなたの後ろ右ポケット。茶色い革の財布です。」 「冗談を言わないでくれ。」 当たり前だ。この中には先月分の給料が全額入っているのだ。 僕だって僕の王様から貰った対価が大事なんだ。 でなきゃ、あんなやりたくもない単純労働なんてする価値がない。 しかし、口には出せなかった。 彼は表情を豹変させ、一歩一歩僕に近づいた。 一歩一歩離れる僕を、かれは闇の中へと追い詰めた。 闇は影の世界。僕が光ある方へ逃れようとすると、彼はまた腕を 掴んで止めた。いや、今度は止めたばかりでなく、地面へ投げ飛ばした。 影が影を強気にしていた。 地面にへたれこんだ僕の腕を、彼は『僕の』バスケットシューズで蹴った。 次は顔、眼鏡が凹んだ。地面に転がった。一面が闇だけになった。影は闇と同化した。 相手が見えない恐怖から、僕はポケットの財布を闇の中へ投げつけた。 物音だけがする。財布を拾う。舌打ちをする。そして僕の方へとつばを吐いた。 彼は財布の中の札を数え、満足気に僕のバイクにまたがり、去っていった。 ------ あれから3日たった。 眼鏡は修理にでたまま、僕の顔には弱冠の傷が残っている。 朝には帰ってくるはずだったバイクは、帰ってはこなかった。 僕は大学へ行く気分にもなれず、バイト先に休みの連絡を入れ、 底の磨り減った革靴で冬の昼間の駅前へと歩いた。 バイクだと5分だが、歩くと20分近くかかる。 自然と僕の足は交番へと向いた。 入り口を空けると顎に髭を生やした年配の警官が話しかけてきた。 「どうしましたぁ?」 言うべきことはあるはずだったが、僕の口は開かなかった。 どうやって僕は僕の影の、僕自身の犯罪を告発できるのだろうか。 結局、僕は行く目的のない教会の住所を聞いて交番を去った。 朝には曇っていた空も、徐々に日が差してきた。 連れて、足元の影が段々と明瞭な姿を顕してきた。 3日ぶりに、僕と彼の関係は逆転した。彼は僕に服従し、 地べたを這いずり回る運命にあるのだ。 僕は彼を踏みつけた。最初は軽く。そして段々と強く、強く。 線路沿いの教会の前で彼を蹴りつづけた。 僕は彼の顔を思い出そうとした。しかし、 思い出せるのは、ぼやけた闇、それだけだった。 as-K/2000 |