あなたの鼻は間違っている。と彼女は言った。
検品作業の手を止め、僕はその初対面の彼女の突然の言葉を頭の中で繰り返した。
あなたの鼻は間違っている。
2度繰り返すと、その言葉の輪郭は、ますます不自然さを増した。不自然さは不快感を呼んだ。僕は彼女を無視して作業を続けた。どうして殆ど初対面の女性にそんなこと言われなくてはならないと言うのだ?
「これは忠告よ。それはあなたにとって重要なことなの。」
彼女は続けた。だからなんだって言うのだ。僕は頭の中で2度繰り返した。
だからなんだって言うのだ。

僕がそのスーパーマーケットで働き初めてまだ1週間経っていなかった。スーパーマーケットと言っても駅前にあるような立派なものではなく、個人商店に毛が生えた程度の規模だった。彼女はその店でレジを打っていた。僕がその店に出入りするようになった頃(1年と少し前、大学2年の春にこの町で僕は1人暮しをはじめたのだった)から、彼女は実にこなれた動作でレジを打っていた。年は27程度に見えた。彼女の歌うような声は狭い店内に実に心地よく響いた。

髪を結んだ時しか見ることができなかったが、彼女の耳は実に調和のとれた、自然な美しさをたたえていた。僕は店に来る用事がある度に、密かに、彼女の髪が結ばれていることを願っていた。

「なるほど、そうかもしれないですね。」僕は適当に相槌をうった。
彼女はいかにも退屈そうに、下ろしていた彼女の髪を掻き揚げた。
隙間から耳が見えた。実に調和のとれた、自然で美しい耳。
「あなたは、自分の鼻の形に疑問を抱いたことがないかしら?」
無視することの方が面倒になって、僕はつい彼女に僕の不快感をあらわにした視線を向けてしまった。向けてから、しまった、と思った。彼女は満足げな笑みを浮かべていた。僕は煙草を1本とりだし、火をつけた。

「思い出して」彼女は何かの呪文のように、はっきりと、呟いた。「あなた、生まれたときからこんな鼻は抱えていなかったはずよ。間違いというのは、そこに、ただあるものではなく、後から何らかの原因でもたらされる結果なのよ。」彼女の言葉は何語にも聞えなかった。3度頭の中で繰り返して、ようやくその言葉の意味を理解できた。「思い出して」彼女はもう1度、ろうそくを吹き消す子供のようにそっと、囁いた。

確かに僕の鼻はほんの少し、僕から見て左方向に曲がっていた。たまに知人に指摘されることもあったが、それくらいのものだった。別に曲がっていると言ったって、鏡で二十秒くらい自分の顔を見つめていてようやく気がつくくらいの些細な曲がり方だし、大して面白くも無い僕の顔を、正面から注意深く眺める人なんて殆どいやしないのだ。

しかし、彼女は鼻が『曲がっている』と言ったのではない。『間違っている』と言ったのだ。僕にはその言葉の真意が掴めなかった。曲がっていることが間違いなのか、間違っているから曲がっているのか、あるいは鼻はただ曲がっていて、そしてそのことと全く関係無く、ただ間違っているのか。彼女から僕に与えられたヒントは余りに少なかった。

とりあえず、僕は僕の曲がった鼻について考えてみることにした。
思い出して。彼女は言った。僕の鼻はいつから曲がっていたのだろう?考えたこともなかった。僕は『僕の鼻が曲がっている』という事実を『ただあるもの』として受け止めていたに過ぎないのだ。ただそこにある、彼女の美しい耳のように。

僕がふと灰皿に煙草を置くと、まるでそれを待ちうけていたかのように、彼女は黙って、僕の鼻の頭を左手の親指と人差し指で軽くつまんだ。その瞬間、何かが僕の中で動いた。その動きは確かな身体の内からの振動だった。思い出して。彼女の言葉をもう1度僕は黙って頭の中で繰り返した。ふと、見覚えのある風景が頭を過った。突然のことで、僕は振動の隙間から現われたその風景を捉えることができなかった。彼女の言葉を繰り返すように、僕はその映像を巻き戻し、再生しようと試みた。試みは思いの外上手く言った。2、3度繰り返して、僕はその風景の輪郭を取り戻した。彼女はまだ、僕の鼻をつまんでいた。

そこは、中学校の校舎とプールを結ぶ渡り廊下だった。6月の真中で、雨は当たり前のように降り、僕らは当たり前のようにその雨の中プールで泳いでいた。中学生のころ、僕は水泳部に所属していた。僕らは5月末、18度の水温の中泳ぐことをはじめて以来、天気に関係無く毎日泳ぐことを義務づけられた。梅雨どきのプールは不必要に温く、そのことが僕を少なからず憂鬱にさせた。まるで泳ぐことを嫌いになるために泳いでいるようなものだった。

隙を見て、僕はプールから上がり、更衣室で休憩した。梅雨どきの更衣室というのも余り居心地の良い場所ではなかったが、水の中よりずっとましだった。僕はタオルで体を拭き、深呼吸し、制服に着替えた。窓を覗くと、他の部員達は憂鬱そうに泳ぎつづけていたが、別に彼らに付き合って泳ぎつづける義理もないように思えた。床がぬれているうえに、上履きは下駄箱に入れたままであることに気付いた僕は、いったん履いた靴下を脱ぎ、たたんでカバンにいれ、渡り廊下を通って校舎へ向おうとした。渡り廊下は当然のようにぬれていた。できるだけ足の裏を濡らさないように、僕は小走りで昇降口へ向おうと試みた。しかし試みは失敗した。僕は足を滑らせ、バランスを崩し、濡れた廊下の表面に顔面を打ち付けた。

一瞬の痛みのあと、僕は顔を手でおさえながらすぐに立ちあがった。2、3歩校舎に近づいたところで、ふと手に感じる生温い感触に気がついた。後ろを振り返ると、渡り廊下には大量の赤が雨で濡れた表面で、淡く滲んでいた。そこでようやく、僕が鼻血を大量にだしていることに気がついた。僕は泣いていた。涙と血は顔を打つのと殆ど同じに、そこに存在するのが当然であるかのように流れ出してきた。しかし、今思い返すと、不思議なことに、そのとき僕は痛みというものをまったく感じなかった。痛みは最初の一瞬だけだった。あるいは、余りの痛みに僕は痛みを感じることをやめていたのかもしれない。

しかし、僕は血と涙を流している。その2つは梅雨の雨のように止む気配を見せなかった。ワイシャツは赤黒く染まりはじめていた。僕はただ立ち尽くしていた。何故自分が血と涙を流しているのだろう、と思った。痛みなんて何処にも無いのだ。血や涙を流す理由なんて何処にも見当たらなかった。いや、流すべきではない、と思ったのだ。そこには一切の感情や、感覚といったものが欠如していた。その事実に恐怖し、僕は必死に血を止めようとした。何かに逆らうように、僕は鼻を強く指で締めつけ、目を固く閉じた。口に大量の血液が流れ込んでくるのが分かった。構わず僕はそれを飲み込んだ。軽い吐き気がしたが、なんとかそれを押しとどめた。

気がついたら僕は職員室に運ばれていた。保健室は開いていなかったらしい。顧問の先生が何か言うのが聞えた。彼が言っていることは聞き取れなかったが、ニュアンスは理解できた。大丈夫です、と僕は答えた。涙は止まっていた。鼻血は止まっていなかったが、それでも出血が止みつつあるのが分かった。途端に、鼻に激しい痛みを感じた。ここでようやく僕が鼻を強く打ったことに気がついた。家に帰って一眠りすると痛みは嘘のようにひいていた。

気がついたら僕はそんな情景を、1つ1つ何かを紡ぎ出すように彼女に説明していた。説明すればするほど、曖昧な風景ははっきりしたものとなっていったが、そこに現実感というものは全く存在しなかった。僕は今の今までそんなことがあったことも忘れていたし、鼻が曲がっていることと、その『事件』との関係なんて今まで考えもしなかったのだ。鼻は生まれつき曲がっていたものだとずっと思っていた、ひょっとしたら本当にそうなのかもしれない。僕がそう言うと、彼女は軽く頷き、呟いた。

「言ったでしょう?間違いというのは、そこに、ただあるものではなく、後から何らかの原因でもたらされる結果なのよ。」まるで子供を諭すような言い方だったが、不思議と嫌味はなかった。
「あなたの鼻は確かに間違っている。私には分かるのよ。そして、その間違いは、断言するけどその『事件』と大きく関わっているの。間違い無く。あなたはそのとき、何かを失い、そして代わりに、ある種の歪みを顔に引きうけた。」
彼女はそこでようやく僕の鼻から指を離した。指が離れると僕は、何故か奇妙な不安感を感じた。彼女の指は、その鼻の頭に触れているべきなのだ、と思った。それは確信に近かった。彼女の指の無い僕の鼻は、虚無感に苛まれていた。あるいはそれは、何か決定的なものを欠いた、という欠落感と呼んでも良かった。歪み、と僕は繰り返した。それまで僕が受け入れてきた、あるいは受け入れたふりをしてきた歪みを僕はありありと感じることができた。
「身体…特に顔において一番顕著なんだけど…というのはある流れを持っているの。その流れは川が山から海へ向うとか、林檎が木から地面に落ちるとか、そういう次元の流れ。けどある拍子に、その流れが歪みによって阻害されることがある。私にはその歪みが分かるの。けど、これは当然のことだけど、歪みというのは歪みのあるべき場所にのみ存在するべきであって、そのような自然な場所に存在してはならないのよ。分かる?」
僕が軽く肯くと、彼女は微笑み相槌を打った。

しかし、僕の中には漠然とした煮え切らない感情があった。確かに彼女の言うことは正しいのかもしれない。歪みはあってはならない場所には存在するべきではない。その通りだと思う。けど、その言葉は僕に微妙なずれを感じさせた。最初、それは僕の気のせいだと思った。しかしそう片付けるにはその感情は余りに大きなずれだった。僕はその大きい何かの一部をすくいとろうとした。とりあえず、僕は反論を口にだすべきだと思った。そして、その反論は思いの外僕の感情を正確に形にした。言葉とは実に便利なものだ。1度形になれば、あとは思念として、僕の中に確固たるものとして、それは生き続けるのだ。

「けど」僕は言った。「僕は今まで10年間、その歪みとともに生きてきたんですよ。そして僕は、今の僕という存在がそれほど嫌いではないんです。僕は今の…例え間違っているにしても…今の僕を受け入れているし、受け入れるしかないし、或る一面で満ち足りていないにせよ、僕は或る意味、幸せなんです。それに、歪みてなんだろう?確かにあなたの指は僕の鼻のなんらかの欠落感を埋めた。それは確かだと思います。けど、他の何が僕の欠落感を埋めてくれるというんですか?僕は思うんです。欠落感を受け入れることの方が、間違いを正すことよりよほど自然なんじゃないか。てね。」

彼女は僕の言葉を受け入れるようにふるまっていたが、それが演技であることは分かりきっていた。彼女には最初から僕の言い分など聞く気は無いのだ。僕のその言葉は、彼女を苛立たせることすらなかった。最初から2人の価値観は全く別の次元にあるのだ。恐らく、彼女が僕の鼻に触れることができても、僕が彼女の耳に触れることはできない。それは、許されないことなのだ。そう考えれば考えるほど、僕は彼女の耳を意識しないわけにはいかなくなった。

彼女は無言で、左手で僕の鼻をまたつまんだ。彼女はあくまで無表情だった。また、僕の中の何かが震えた。その衝動は今度は、彼女の耳に手を伸ばすことを要求した。僕はかすかな意識の中で、感情と感覚を切り離した。欲望は何処にも行く先を見つけられなかった。けど、…僕は思った、けどこれが正しいことなんだ。彼女は灰皿の僕の吸いかけの煙草に右手を伸ばし、それを吸った。換気が悪い店の事務所で、彼女が吐き出した煙は行き先無くさ迷っていた。

その刹那、彼女は鼻から左手を離し、僕の前髪に触れ、それを上げ、僕の額を露わにした。彼女が微笑う。それは今までに無く狡猾な微笑みだった。そして、無言で彼女は僕の額に、右手に持った吸いかけの煙草を押しつけた。声もでなかった。いや、彼女の何らかの力が、僕の口をふさいだのを感じた。熱と痛みが一瞬で額を引き裂いた。彼女はさらに強く煙草を押しつけた。僕の目から涙があふれてきた。彼女はそれでも力を緩めなかった。僕は声もだせず、涙を流しながら、熱と痛みを受け入れていた。煙草の火はいくら彼女が力を加えても消えなかった。ふと何かを思いついたように彼女が煙草を自分の口に戻し、彼女は微笑むのを止めた。僕の額から左手を外すと、前髪がやけどに覆い被さった。彼女は灰皿で煙草の火を消すと、何もなかったようにレジへと戻って行った。

いくら冷やしても、やけどの受けた熱はひかなかった。下宿について一眠りして(実に浅い眠りだった)目が醒めても、熱はまだやけどの近辺にこもっていた。1週間ほどして、(その間僕は3回バイトへ行った。彼女には2回会ったが彼女は何事もなかったかのように、レジにいて僕に微笑み、挨拶をした。)ようやく熱が引くと、今度は待ち構えていたかのように、激しい頭痛と吐き気が僕を襲った。洗面所で鏡を見ると、苦痛で歪んだ表情の僕の顔に、鼻は曲がったまま存在していた。僕は、左手を伸ばし鼻をつまみ、右手で耳に触れた。
そのとき、僕は彼女が手を離したとき感じた欠落感が自分の中に存在していないことに気がついた。僕の鼻は、ただそこにあった。僕は深い溜め息をついて、布団の中へ戻っていった。浅い眠りがやってきて、気休め程度に僕の頭を落ち着かせた。

欠落感、と僕は呟いた。そう言えば、結局、僕は彼女の耳にまだ触れていないのだ。




as-K/2001